第五章
夕刻、西日も沈みかかった時間帯に夜鷹と彩音はファミレスの席に向かい合って座っていた。いつもの店のいつもの席、しかしいつもと違う空気が重く圧し掛かっていた。
「……昼のうちに警察に確認をとってきました。確かに昨日の依頼人、鈴本さんは亡くなっています。死因は……今のところ不明です」
報告する彩音に対して、夜鷹はソファにもたれかかり天井を見上げていた。彩音は一度反応のない夜鷹を見上げ、すぐに目線を下ろした。
「……亡くなっていたのは自室で、家族の方が見つけられたそうです。断定はできませんが……、恐らく『暗がりの男』による霊障が原因と思われます」
「………………」
夜鷹は終始黙って天井を見続けていた。店内のBGMや他の席の談笑が沈黙を一層際立たせた。居たたまれない空気の中、しかし立ち去るわけにもいかず彩音は身を縮こまらせた。
もしあの時、夜鷹の言う通りにしていたら結果は違っていたのだろうか。邪魔をせずに追いかけさせていたら、夜鷹は見失わずに彼女に追いついたのだろうか。考えても仕方ない思考がつらつらと流れた。
「…………お前さ、幽霊にとり憑かれたこと、あるか?」
数分の無言を挟んで、夜鷹はおもむろに口を開いた。どんな罵声を浴びせられるかと身構えていた彩音は、不意の問いかけに戸惑った。
「幽霊にとり憑かれるのがどんな感じか、お前知ってるか?」
堅く低い声で、夜鷹は問いを重ねた。疑問の形をなしているが、答えを求めているわけではないように思えた。どう答えたものか彩音が思案していると、夜鷹はゆっくりと顔を下ろし彩音を正面に見据えた。その目にあるのは怒りではなかった。深い悲しみの色が冷たく湛えられていた。
「とり憑かれるのはな、怖いんだよ。幽霊ってのは怖くて怖くてしょうがねえもんなんだよ」
霊にまみれた生活を平然と送り、向かってくる悪霊を平気で叩きのめす。しかし夜鷹がその段階に至ったのは、ほんの数年前のことだった。それまでは取り巻く霊害に怯え、ただ隠れ逃げる毎日だった。霊媒士の師匠に出会えなければ、冴崎に拾われなければ、今でも同じようにみじめな人生を歩んでいたのだろう。
「誰も頼りにできねえし、どこにも逃げ場なんてない。その怖さを俺はよく知ってる。うんざりするほど、味わってきたから。だから俺は、今の仕事を始めたんだよ」
夜鷹の霊媒体質は確かに日常生活に支障をきたすほど高い。しかしこなそうと思えば、アルバイトなど他にいくらでもあったのだ。一般的に厳しいとされる職種でも、もめごとの多い祓い屋に比べればよっぽど楽で面倒もない。それでも夜鷹が今の仕事を選んだのは、何より自分と同じ境遇の人間を救いたいからだった。たとえ詐欺だと罵られても、ただ働きになっても、不精者の性分を押し殺してでも。かつて自分がそうして救われたように、一人でも多くの人を助けたいと思ったからだった。
怪しい協会の話に乗ったのも、少しでも仕事の足しになることを考えてのことだった。正直新手の詐欺ではないかと疑ってもいたが、自分が騙されるリスクよりも、多くの人に手を伸ばせるかもしれない可能性に夜鷹はかけた。
「協会の理念は霊害被害者の救済だったよな。それがただの体裁だったとしても、外向けの建前だったとしても、俺は感動してたんだよ。本当に共感して、だからお前らの仲間になることを決めたんだ」
今までの仕事の中でも厄介事はしょっちゅう起こったし、ただの徒労で終わることもあった。そんな中でも一人も見放すことなく、最後まで仕事を通し続けてきたことは少なからず夜鷹の誇りだった。霊害にあっている人間を見捨てたのは今回が初めてのことだった。そして、その初めては最悪の結果を招いて終わった。
「お前の言葉の何が嘘であっても、そこだけは本当であってほしかったよ」
呟くようにそう言って、夜鷹は立ちあがった。もう彩音に視線を向けることはなかった。変わらない足取りで通路を進み、そのまま店の外へと出て行った。
彩音は動くことができなかった。口にするべき言葉もなく、ただ夜鷹が座っていた席を見つめ続けていた。あれは決別の言葉なのだとわかった。もうこうして会うつもりはないのだと理解した。不意に沸いた喪失感に彩音は目を伏せた。こぼれた吐息が、誰か別の他人のもののように聞こえた。それがひどく耳触りで、彩音は口を結び、息を止めた。
ファミレスを離れると夜鷹の足は途端に重くなった。真っすぐ家に帰る気にもなれず、周辺をとぼとぼと歩きまわった。胸に渦巻くもやもやをどう落ち着けたらいいのかわからない。喚き散らしたいようでも、動かずにじっと座り込みたいようでもあった。自分の気持ちが判然とせず、それがまたむしゃくしゃした。
きつい言い方をしたが、彩音に対して怒りを抱いているわけではなかった。彩音が何を言おうと、そんなものは無視することができた。邪魔をしようと、さっさと押しのけていけばよかった。結局依頼人を助けること事が出来なかったのは自分のせいだと夜鷹は思っていた。言ってしまえばさっきの問責はただの八つ当たりだった。
「……我ながらなっさけねえなあ」
助けると決めていた相手も守れず、無抵抗の相手で憂さを晴らす。自分のみっともなさが自責の念に輪をかけた。何とはなしに通りがかった橋の上から水面を覗き込んだ。流れる川には夜鷹の気持ちにあつらえたような曇り空が映っていた。
自分に送られた視線に気付いたのは、そうして欄干にもたれて川を眺めていたときだった。つかず離れず、適度に離れた距離から気配を感じる。経験的にそれは霊のものではないとわかった。まず彩音がついてきたのかと思いついたが、すぐに考え直した。いくら厚顔無恥な彩音とはいえ、さっきの今でのこのことやってくることはないだろう。何よりこのまとわりつく感覚にはひどく覚えがあった。
「…………来島か」
「おお、やっぱりわかっちゃうんだ。すごいすごい」
疲れ果てた顔の夜鷹とは真逆に、明るく笑いながら瑞希が物陰から姿を現した。夜鷹は露骨に顔を背け拒絶をアピールしたが、瑞希はまるで構わなかった。嬉しそうに微笑みながら歩み寄り、夜鷹のすぐ横に並んで川を覗き込んだ。
「でもいつもならもっと早く気付くよね。調子が悪いのかな? ずいぶんくたびれた顔しちゃってるよ。そのまま飛び込んじゃうんじゃないかと思っちゃった」
冗談を言いながら、瑞希は夜鷹の顔を横から覗き込んだ。夕闇の中、街燈に照らされた瑞希のほほ笑みは幻想的な美しさを湛えていた。しかしそんな笑顔を見せられても夜鷹の気は晴れず、むしろ深く沈みこんでいった。
「…………他に言うことがあるんじゃねえのかよ」
「ん? んー……、あ! もしかしてカンナちゃんのこと? そうそう死んじゃったんだってね、あの子」
何でもないことのように瑞希は言った。いや、ようにではなく本当に何でもないと思っていることを夜鷹は知っていた。そうだろうと予想して心構えをしていた。それでもこみ上げる感情を抑えることはできなかった。
「お前の友達じゃあなかったのかよ。友達が死んで、何普通に話してんだ。しかも、そいつが死んだのは俺のせいだろうが。何でそんな、当たり前のように話しかけてんだよ!」
夜鷹は強く声を叩きつけた。自分にその資格がないのはわかっていた。むしろ怒鳴られる側は夜鷹の方だ。いっそ思う様罵ってほしいとさえ思った。誰かに責められている間だけは、自分で責めることをしなくても済むから。しかし夜鷹の切望に反して、瑞希は困ったように苦笑しただけだった。
「うーん、まあ、確かに友達ではあったけどね。数いる内の一人だし、そんなショックでもないかな。それとメールで聞いたけど、最初料金に文句言ったのはカンナちゃんの方なんでしょ? だったら自業自得って奴じゃないかな。普段散々浪費してるのに、変なとこでケチなんだから」
ねえ、と首を傾いで同意を求める。瑞希はどこまでも普通だった。友人を霊害で失うという異常事態を日常のほんの一幕のように話す様は何よりも異様な光景だった。
「だから、夜鷹くんも気にしなくていいよ。って言ったところで責任感じちゃうんだろうけどね。何だかんだ言って、夜鷹くんは面倒くさがりな割りに面倒見がいいから」
彩音は欄干から身を離し、夜鷹の後ろに回った。夜鷹の背中に自分の背を合わせ、体重を預ける。たおやかな重みと人肌の温もりが背中を通して伝わってきた。確かに感じられる温かさと感触はひどく心地良く、夜鷹を柔らかく包み込んだ。そのまま瑞希は頭を夜鷹の肩に乗せ、吐息で横髪をくすぐりながら耳元で優しく囁いた。
「ねえ、助けてあげようか?」
それはとても甘い言葉だった。魅惑的で、蟲惑的で、とろけるように生ぬるい。その言葉はささくれ立った夜鷹の胸中に抵抗もなく深くしみ込んだ。甘美な魅力に夜鷹の心は揺れた。恥も意地も投げ捨てて、身を任せてしまいたい衝動を必死に堪えた。
「い、らねえよ」
絞り出すような声で拒否を示す。鼓動が速まっていくのがわかった。今すぐここから逃げ出してしまいたい。けれど背にかかる重みがそれを許さなかった。軽くのせられた背中は少しずつしなだれかかり、徐々に圧力を増していた。
「そう言わずにさあ。自分が許せなくて辛いんでしょ? 苦しいんでしょ? だったら私が慰めてあげる。甘やかしてあげる。夜鷹くんは悪くないんだって、保証してあげる。悪くてもいいんだって、許してあげる。今ならサービスで顔を胸に埋めさせてあげてもいいよ。ほら、恥ずかしがらずに。助けてって、そう言ってくれればいいの」
真綿で首を絞めるように、木の根が土にはびこるように、生温かい誘惑が絡み付く。夜鷹の鼓動がドクンと、高鳴った。全身に寒気が走った。既に重みは呪縛となって全身に覆いかぶさり、温もりは冷たさとなって体温を奪っていった。
「いらねえっつってんだろ。俺はお前に、借りも貸しも作らねえ」
「遠慮しないでよ、水臭いなあ。私と夜鷹くんの仲じゃない。それに貸し借りだなんて、知ってるでしょ。私はそんなの気にしてないってこと。夜鷹くんの力になることが私の一番の望みなんだから」
どんなに拒まれても、瑞希は揺るがなかった。嬉しそうに顔を綻ばせ、夜鷹を見やる。爛々と輝くその瞳には、確かな愉悦が蠢いていた。
「……ああ、知ってるよ。知ってるから言ってんだ」
夜鷹は知っていた。来島瑞希は見返りを求めないことを。困っている人がいたら誰かれ構わず手を伸ばし、助けを求められれば一も二もなく駆けつけることを。そしてそれが、慈愛の精神から来るものではないことを。
何のことはない、誰かを助けるという行為そのものが瑞希にとって何物にも代えがたい悦楽なのだ。自らに縋りつき助けを請う弱者を見て、瑞希は言いようのない優越感で心を満たす。誰かの力になれる自分の優秀さに酔いしれ、悦に入る。それは誰かに損をさせるわけでもなく、誰かに害を与えるわけでもない。ただ心の中で見下し嘲笑う、正真正銘の偽善者。それがみんなの頼れる委員長、来島瑞希の本性だった。
「ふふ、嫌われたものだね。どうしてそんなに嫌がるのかな。私はちょっと独りよがりなだけじゃない。私の真意が何であれ、誰も困ってないし、どころかみんな喜んでるよ。ほら、やらない善よりやる偽善、とも言うでしょ?」
「別にお前の人助けをどうこう言うつもりはねえよ。お前の言う通り、それでみんな助かってんだからな。だからお前は今まで通りそいつらと仲良くしてろ。俺に関わるな。勘違いしてんじゃねえぞ。俺はお前が嫌いなんじゃない。俺はお前が、怖いんだ」
からからに渇いた喉で、夜鷹は声を吐きだした。高鳴る心臓は早鐘のように鳴り続け、全身にはじっとりと嫌な汗が噴き出していた。
霊に怯える幼少期を乗り越え、ついに夜鷹は霊害の恐怖を克服した。そうして今、夜鷹はただの人間である瑞希を何よりも恐れていた。幾百幾千の霊に触れてきた夜鷹は、彼らの持つ想いの強さを何度も体感していた。死してなお魂を縛る、心の力を体験していた。それ故に決してぶれることのない瑞希の絶対的な性根の深さは、夜鷹にとって恐怖の対象でしかなかった。他に迎合せず、染まらず、自らの欲望を貫き通す圧倒的な個。一度飲み込まれてしまえば、二度と抜けだすことはかなわないその大きさに恐れをなした。助けを請えば、瑞希は喜んで手を差し出すだろう。けれどその手をとってしまえば、もう瑞希なしでは生きられなくなってしまう。他の取り巻きたち同様、瑞希の顔色を窺い、瑞希の機嫌を取り、瑞希のために奔走するだろう。それがわかっていたからこそ、夜鷹は決して瑞希に弱みを見せなかった。いかなる時も警戒し、絶えず避け続けていた。
しかし皮肉なことに、そうして自分を厭う夜鷹に瑞希は興味を持った。自分を囲う愚衆とは違う気色に心ひかれ、以来夜鷹にかまうようになった。恐れて逃げる夜鷹に、逃げるから追う瑞希。二人の関係はそうやって出来上がった。
「怖い、かぁ。カンナちゃんもきっと怖かったんだろうね」
「っ!」
「聞いた話だとね、カンナちゃんって部屋の隅っこでうずくまるように死んでたんだって。携帯を握りしめて、ものすごい形相だったらしいよ。最後に誰に連絡しようとしたんだろうね。私かな、彼氏がいたって言うから、その人かな。ねえ、どう思う?」
そんな二人の距離に初めてひびが入った。鉄壁の守りを敷いていた夜鷹の見せた隙を、瑞希は決して見逃さなかった。夜鷹の首に腕をまわし、掌で夜鷹の顔を包んだ。指先が頬に触れると夜鷹はびくりと身を引きつらせ、それがまた瑞希の心を昂らせた。
「可哀そうなカンナちゃん。一体全体、誰が悪いんだろうね。料金を渋ったカンナちゃん? さっさと見切りをつけちゃった三倉さん? それとも何もできなかった――」
執拗な瑞希の追及を止めたのは携帯の着信音だった。くぐもった音と振動が、夜鷹のポケットの中で鳴り続けていた。
「電話、出たら?」
興を削がれ、瑞希は夜鷹から身を剥がした。解放された途端、軽くなった身体にどっと疲れが押し寄せる。手にかいた汗をズボンで拭いて、夜鷹はポケットから携帯を取り出した。ここで切られてしまえば、また瑞希と二人きりになってしまう。できるだけ長引くことを願って携帯を開いた。画面には見知った番号が表示され、それだけで夜鷹の心は安らいだ。
「もしもし。はい。…………は? いや、でも…………はい。はい」
電話先の相手は夜鷹が出るなり有無を言わせず用件を伝えた。話しを聞くうちに夜鷹の眉が引き絞られ、淀んでいた目に光が宿った。
「わかりました。すぐ行きます」
数分にも満たない通話を終えて、夜鷹は携帯をしまった。立てかけておいた木刀の入った袋を拾い肩に担いだ。身を包んでいた倦怠感はいつの間にか消え失せていた。湧き上がる気力を振るい、少し距離を空けて立つ瑞希と向かい合った。
「悪いな来島、急用ができた。お前との戯れはまた来世にでもやろうぜ」
「あーあ、精悍な顔つきに戻っちゃったね。ようやく力になってあげられると思ったのに」
残念そうに瑞希は息をついた。しかしその表情は同時に少し嬉しそうでもあった。
「まあ、いいかな。夜鷹くんはやっぱりそっちの方が格好いいし、元気になったのなら何よりだよ。けど忘れないでね。心が折れたら、いつでも頼ってくれていいんだよ。泣きじゃくりながら跪く君を抱きしめてあげるのが、私の夢なんだから」
「俺にとっては悪夢以外の何物でもねえよ」
忌々しそうに吐き捨てて、夜鷹は瑞希の横を通り過ぎた。歩みはすぐにかけ足へと加速していった。それは天敵からの逃亡ではなく、確かな目的への走駆だった。
『なるほどねー。いやー、やっちゃったねー』
「……誠に申し訳ございません」
電話口の軽い調子に、彩音は携帯を握る手に力を込めた。夜鷹の去った後、自宅へ帰る途中に現状を直属の上司に報告した結果が先の一言だった。共感をしているように見えるが、その実、他人事としか考えていない。この無責任な男が上司であることは自分にとってマイナスでしかないと思っていたが、失態を犯した今となってはその軽さも役に立っていた。厳格な人物なら大きな処分を下したろう事態でも、この上司なら大した問題にはしないだろう。部下を思ってのことではなく、自分に火の粉がかかるのを嫌って。しかし安心すると同時に、無能と見ていた相手に助けられるという事実は彩音のプライドをひどく傷つけた。
『いやまあ、やっちゃったものはしょうがないけどねー。確かに規定は大切だけどさー。やっぱりそこは臨機応変にさ、やってかないと。マニュアルどおりじゃなくてケースバイケースで実践することは三倉くんの経験にも繋がるしさー。もちろんそれは好き勝手やっていいってわけじゃないけどねー。あくまで基本は押さえつつってこと。それでわからないことがあったら、すぐに相談してよ』
結局何が言いたいのか要領を得ない言い回しに、気のないフォローの言葉が付け加えられた。もし本当に困ったことがあったとしても、この上司に相談することはないだろう。無益な人間に自分の失態を晒すことほど愚かなことはない。
『それで、そのカタシロくんだっけ? 彼はどんな感じなの? もう辞めちゃいそう?』
「いえ、そこは説得してみせます。最悪担当が変わることはあるかもしれませんが、離脱だけは引き留めますので」
夜鷹の言葉は決別の意味だとはわかった。もう会う気がないのも気付いていた。かといっておめおめと引き下がる程、彩音は打たれ弱い人間ではなかった。既にポイントを失っている今、これ以上の失点は何としても防がなければならない。
「彼と懇意にしている方に間に入ってもらう予定です。取り持ってもらえれば、交渉の余地はあるものと思います」
頭に浮かんだ作戦は冴崎を利用するものだった。恐らく夜鷹と違って、彼女は霊害の被害者に対して思い入れがない。どころか話が大きくなることを望んでいるような節さえあった。夜鷹にも気付かれないよう部室に仕掛けた盗聴器。彩音のタブレットに送信され、録音されていた音声がそれを如実に物語っていた。冴崎なら自分の味方に引き入れることができる。そうすればどういうわけか彼女を信望している夜鷹は折れざるを得ないはずだ。
『なるほどねー。うん、じゃあ、そっちは任せるよ。まあ、意気込みは認めるけど、落ち着いてやってこうよ。妹さんのことがあるのもわかるけどね。一つ一つの仕事をきっちりこなしていくのが大事だからねー」
「……ご忠告、痛み入ります。今後は注意徹底していきますので」
精一杯の声色を使って、彩音は平静を装った。これが電話でなければ危なかったかもしれない。ぎりぎりと握りしめられた拳を近くの電柱に叩きつけた。しびれるような痛みが伝わり、寸の間頭を冷やすことができた。同情を引くためとはいえ、この男に身の上話をしたのは失敗だったか。しかしそうでもしなければ霊感も持たない自分が協会に入り込むことなどできなかったのも間違いない。ままならない現状に彩音は歯がみした。
「それでは経過はまた追ってご報告いたしますので。はい、失礼します」
通話を終えて携帯をしまう。降りかかる疲労感にへたり込みそうになった。路上の塀に寄り掛かり、空を仰いだ。鈍重にかぶさった雲が彩音の気分をさらに重くした。
「…………何やってんですかね、私」
彩音の口から自問するような呟きが漏れた。目を閉じると、嫌でも過去の思い出が浮かんできた。耳に残る声が何度も何度も頭の中で反響する。それは決して忘れることのできない、今はもういない妹の声だった。
三倉彩音には一人の妹がいた。年は二つ違いで、名前は三倉綾香と言った。幼いころから中のいい姉妹で、いつでも二人揃って行動していた。優秀で何でもそつなくこなす姉を妹は慕っていたし、自分になつく妹を姉は可愛がっていた。
そんな関係が変わったのは彩音が中学に進学したころだった。公立の小学校から私立の進学校に進み、彩音を取り巻く環境は大きく変わった。生活習慣から付き合う友人、話を合わせるために趣味や趣向も変わっていった。自然と妹とはすれ違うことが多くなり、やがて家にいてもあまり話さなくなっていった。
そのころから妹は姉の気を引こうと躍起になるようになった。無理に背伸びをして話題に入ってきたり、無茶をして心配を煽ったり、迷惑をかけて叱られたがったり。始めは相手をしていた彩音だが、次第に妹のことを煩わしいと思うようになっていった。最終的には妹が何かしてきても適当に流すようになった。
そんなある日、妹が霊が見えると騒ぎ出した。気がつけば隙間から自分を見ている目がいると。彩音はいつもの戯言だと思った。構うのも面倒くさく、いつものように軽くあしらって終わらせた。しかしいつもとは違い、今度の妹はしつこくまとわりついてきた。
ほら、そこにいる。
今こっちを見ていた。
毎日のように聞かされる妄言に彩音はとうとうきつく妹を突き放した。
「気持ち悪いよ、あんた」
それが彩音が妹に向けた最後の言葉だった。
その日の夜、隣の部屋から鳴る物音に彩音は文句を言いに行った。大方ひどく言った意趣返しのつもりだろうとドアを開けて、彩音は目を見張った。
見慣れた妹の部屋。
備え付けのクローゼット。
そこから伸びる何本もの青白い腕、腕、腕。
そしてその無数の腕が、妹の体をつかみ宙に吊り下げていた。
呆然と立ち尽く彩音に気付いた妹はゆっくりと首を動かし涙のたまった目を向けた。そして震える声で絞り出すように語りかけた。
「お姉ちゃん、これで信じてくれる?」
その言葉を残して、妹はクローゼットの中に引き込まれていった。パタンと閉まる戸の音が空虚に響いた。一人残された彩音は言葉を出すこともできず、その場に座り込んだ。その耳には、妹の最後の言葉がいつまでもこびりついていた。
以来3年間、未だに妹の消息は知れていない。もともと不仲だった両親は、妹の失踪から喧嘩が絶えなくなり、ほどなく離婚した。母親に引き取られた彩音は、オカルトに傾倒するようになった。友達は離れ、母親からも気味悪がられたが、目に焼きついた光景と耳にまとわりついた言葉が彩音を突き動かした。手がかりになりそうなことはどんな些細なことでも調べ、数多の文献に目を通した。
そして協会の発足を知ると、就職するために高校進学を取りやめた。元来なら素人など相手にもされないところに手練手管を用いて無理矢理入り込んだ。もともと霊感のない彩音は人の倍以上訓練を繰り返し、他で補うように話術や知識を身につけていった。
協会の中で、まだ彩音は与えられた仕事をこなすだけの駒に過ぎない。しかし点数を稼ぎ、出世していけば自由に捜査する権限が与えられる。そうすれば過去の未解決案件にも手を出せるようになる。今なお資料室に眠るあの事件を終わらせるために、彩音は何を利用してでものし上がっていかなければならなかった。
にもかかわらず、ここにきて彩音はまた同じ過ちを繰り返してしまった。あくまでマニュアル通りに対応した結果起こったものと報告したが、それが嘘だということは誰よりも自分がわかっていた。彩音は私情を挟み、依頼の話を打ち切ったのである。危機が迫っているのに霊を信じず、頑なに人の話を聞かない依頼者を、妹を見捨てたかつての自分に重ねてしまった。それが間違いだった。被害者である鈴本は、重ねるならば妹に重ねなければいけなかったのだ。しかしそのことに気付いたのは、全てが手遅れになった後のことだった。
「まだまだ覚悟が足りなかった証拠ですね。あんな奴だろうと、点数稼ぎに使ってやればよかったんですよ」
すっかり日の暮れた帰路を歩きながら、彩音は声に出して自分に言い聞かせた。今回の件について後悔はあった。しかしそれは死なせてしまった鈴本に対してではなく、自分の評価を下げたことに対してだった。鈴本には申し訳なさどころか、迷惑をかけられていることに理不尽な怒りさえ抱いていた。死者へ向ける同情も罪悪感も持っていない。たとえ薄情だと軽蔑されようが、それすらも彩音にとっては瑣末なことだった。彩音の頭にあるのは、あの事件を解決することだけ。あの悪夢を終わらせて、そうして初めて自分は過去の鎖から自由になれる。それ以外のことに取り合っている余裕など、持ち合わせていなかった。
(まずはこの失点を取り返さないと。夜鷹さんは冴崎さんに頼んで繋ぎとめるとして、『暗がりの男』の方は、例の対処法の噂をマニュアル化して、企画提案すれば……)
既に気を取り直し今後の対策を練り始めていた彩音は突然の暗転に足を止めた。今しがた通り過ぎた電柱を仰ぎ見ると、さっきまで点いていた電灯が切れていた。数メートル先の電燈が点いているところを見ると停電ではないようだ。しかし普通電灯が切れるなら点滅するなり、照度が下がるなり前兆があるものだ。明々と灯っていたものがあんな急に切れるだろうか。
(配線が切れたんですかね……?)
どこか納得できないが、今はそんなことにかまっている暇はない。適当な理由を見繕い、彩音は視線を下ろした。つい先ほどまで歩いてきた道のりが目に映る。その視界の隅、暗く影を落とした電柱の裏に、男の顔が浮かんでいた。
「え……?」
それを知覚すると同時に、彩音の思考は白く染まり停止した。遅れて怖気が走り全身が総毛だった。喉から声は出ず、代わりに浅い息がひゅうと漏れた。忘れるはずがない。その顔は何度も写真で確認し、つい三日前には直接見たばかりだ。夜鷹に叩きのめされて消えていくさまも記憶に新しい。『暗がりの男』がわずか10数センチの距離を隔てて、暗い眼光を覗かせていた。
呆けていたのは数瞬だが、彩音には小一時間にも感じられた。その間目をそらすこともできず、彩音は至近距離で男と見つめあい続けた。
何故、どうして。頭が動き始めると同時にいくつもの疑問が湧いてきた。彩音は咄嗟に浮かんだ疑問に思考を切り替え正気を保った。パニックになりそうな脳内を無理矢理考え事で整えた。
まず、何故『暗がりの男』がここにいるのか。それは恐らく自分が一件に関わりすぎたからだろう。霊に対して強い想いを抱くことは夜鷹が言うところの縁を結ぶことに繋がる。そしてそれは霊に興味を持ったり、調べたりすることでも起こりうるらしい。事件解決のため、情報を集め意識を向けていた彩音は縁を結ぶ条件を満たしていた。
そして今現れたということも恐らく偶然ではない。冴崎が言っていたように、霊障は精神的に参っていると強く感応してしまう。失態を犯し、沈んでいた彩音は霊にとってつけこみやす状態だった。
「ガム、持っておけばよかったですね……」
冴崎の広めていた対処法の噂を思い出すが、仮にここでガムを噛んだとしても望みは薄い。冴崎自身、まだ広めている途中と言っていたし、どの噂が定着するかはまだわからない。結局この場において一番有効な対処法は逃げることだった。
目の前の気配に注意を払いながら、彩音は自分の後ろに目を向けた。数メートルおきに立つ街燈、そしてその100メートルほど先には駅前の大通りが見えた。あそこまで行けば店の照明や車のヘッドライトが満ちている。そこから助けを呼べば、逃げ切ることができるはずだ。
彩音は覚悟を決めて、暗闇の顔を睨みつけた。最初よりも若干、電柱から覗かせている部分が広がっていた。もとより躊躇している時間はないらしい。彩音は悟られないように体重を移動させ、走り出す準備をした。呼吸を整え、カウントダウンを開始する。
(3……、2……、いっ)
しかし、いざ身を翻そうとした瞬間、彩音の携帯がけたたましく音を立てた。絶妙すぎるタイミングに、彩音は態勢を崩しそうになったが、寸でのところで踏み堪えた。意識を離したことに慌てて『暗がりの男』を確認するが、男は変わらずそこにいた。動きがないことに安堵するが、動きの読めないことが不気味でもあった。
その間、彩音の携帯はずっと鳴り続けていた。空気を読まない着信に腹も立ったが、一人で心細かったのも事実だった。彩音は手探りで携帯を取り出すと、画面も見ずに通話状態にして耳に当てた。
「はい、もしも――」
『そっちに逃げちゃダメだよ』
彩音が言いきるよりも早く、電話口の相手は一方的にそう告げた。声は若い男のものだが、聞き覚えはない。得体の知れない相手からの出し抜けの通告に、彩音は面食らい聞き返した。
「な、何ですって? 今、何て?」
『明るい大通りの方に逃げようとしてるでしょ。けどそっちはダメだよ。そっちに行ったら捕まってしまうんだ』
その口ぶりはまさしく彩音の現状を言い当てていた。何も考えずに出てみたが、だんだんと不安が募ってきた。この相手は一体何者なのか。携帯の画面を見ると表示されている電話番号は0が11桁並ぶというありえないものだった。
「あ、あなた、一体誰ですか? 何でこんな電話を」
『僕が誰かなんて説明している暇はないよ。言ったところで、信じてはもらえないだろうしね。それよりも逃げるなら逆方向だよ。怖いかもしれないけど、そいつの横を抜けて、学校の方に逃げるんだ』
電話口の声はだんだんと焦りを滲ませ、早口になって行った。それに呼応するかのように声にノイズが混じり、聞きとりづらくなっていく。
『お願いだか、ら、信じ……て……。じゃないと……鷹くん、夜鷹くんに……』
そのままついには雑音にかき消されるように通話は途切れてしまった。後には無機質な不通音が続くだけだった。
携帯を握りしめ、彩音は逡巡した。基本的に彩音は他人を信用していない。普段ならこんな誰ともわからない相手の忠告を聞いたりはしないだろう。けれど途絶える直前に聞こえた名前が彩音を思いとどまらせた。
「……夜鷹、さん」
その名を聞いて彩音は不思議と心が落ち着いていくのを感じた。現状は変わらず、危機的であるにもかかわらず、何故だか何とかなるような気さえしてきた。
「はっ、お笑い草ですね」
今更誰かを頼りにしているなど、間違っても思いはしない。彩音にとって他者とは踏み台以上の意味を持たないからだ。
だからこれは信頼じゃない。ただ、どうせ乗るなら踏み心地がいい方を選ぶだけだ。
意を決して彩音は一歩踏み出した。心を決めた以上、遠回りなどしない。最短距離で突き進み、電柱の横を通り抜けた。自分の動きに合わせて男の視線がついてくるのがわかる。恐怖と緊張で足が震え、歩幅は乱れた。根っこの定まらない歯を食いしばり、最後は目も閉じてひたすら突き進んだ。
どれほど歩いたろうか。気付いた時には、追いすがる視線はなくなっていた。恐る恐る目を空けると、自分の足元にくっきりとした影が伸びていた。振り返れば、さっきまで消えていた電灯が再び青い明かりを灯していた。その下に男の姿はなかった。
「助かっ、た……?」
終わってみるとそのあっけなさに実感が湧かず、言葉も疑問形になっていた。念のため周囲にも気を配るが、おかしなものは見受けられなかった。とりあえず急場は脱したらしい。思わず息をつき、胸を撫で下ろした。するとまた見計らったように彩音の携帯が着信を伝えた。
「……はい、もしもし」
『やあ、お疲れ様。怖かったろうに、よく頑張ったね』
表示された0の連番を確認して出ると、やはり相手は先ほどの少年だった。声色から本当に心配しているのがわかった。真っすぐな好意は欺瞞と疑心の世界で生きる彩音にとって気恥かしく、何とももどかしい気分になった。
『鷹くんが話してたと思うけど、死者と生者では距離感が違うんだよ。もっというと高さとか方向とかもね。さっき君にはあいつがすぐそばにいたように見えたろうけど、実際はそれほど近くにいなかったんだ。むしろああやって姿を見せて、君を自分の方に誘導しようとしていたんだよ』
「それで大通りの方には行くなと」
『うん、あっちに行ってたら多分もう捕まってるね。けど今も安全ってわけじゃないよ。ちょっとだけ距離は稼いだけど、向こうは完全に君に狙いをつけてきてる。その場もすぐに……離れたほ、がいい』
再び受信口からは雑音が聞こえ出し、少年の声はかすれ始めた。背後の電燈も点滅し、不安定な明るさが路上を照らす。電気製品の不具合は代表的な霊障の一つだ。少年の言う通り、『暗がりの男』はまだ諦めていないらしい。誘導は無理と悟ったか、向こうから近付いてきているようだ。
「もしもし! あの、私はこれからどうすれば!?」
『高、校に、斑坂高校に……向かって、……なら、何とか……」
ブツリと音を立てて、通話が切れた。ほぼ同時に彩音は駆け出した。もはや電話先の相手を疑っている場合ではない。夜になり様子を変えた風景を昼の記憶と照らし合わせながら道を選ぶ。再び背後の明かりが消え、前に並ぶ電灯も明滅し始めた。迫る暗闇に捕まらないよう、彩音は必死で足を動かした。