第二章
「大体、何で俺の電話番号やらメアドやらを知ってるんだよ、お前は」
「調べましたから」
悪びれもせず言いきる彩音に、夜鷹は閉口した。これはもう下手に抵抗するより、いっそ懐柔されたほうが楽なのではないかと気持ちが揺らぐ。ただ、そこを許してしまえば、以降ずるずると流され続けてしまうような気もした。
「初めに送ったメールにも書いたと思いますけど、夜鷹さんの協会認定が正式に決まりました。はい、おめでとうございます。パチパチパチ。つきましては協会のルールやサポート制度の説明を聞いておいてもらいたいんですけど、この後のご予定は?」
「……家帰って、飯食って寝る」
「はいはいはいはい、要するに何もないんですね。あ、ご自宅まではどのくらいかかります?」
「……歩いて15分」
「なるほどなるほど。では、歩きながら説明していきますね。特にメモの必要はないですから、そのまま聞いていてください」
「……おう」
当人の想いとは裏腹に、夜鷹は充分流されていた。ちょろいな、こいつと彩音は内心ほくそ笑んだ。丸めこまれている自覚があるのかないのか、夜鷹は腑に落ちない顔をしながら首を傾げていた。
胸の内の嘲笑などおくびにも出さず、彩音は機嫌よさげに微笑みながらまたタブレットを起動して説明を始めた。基本的に紙媒体は持ち歩かないのが彩音のスタイルだった。
「まず仕事の依頼についてです。先日も言いましたが今後依頼を受けた際は必ず私に報告してください。できる限り現場には立ち会いますし、料金交渉や説明も基本的に私が行うことになりますから。それに協会への報告書類なども私が作りますので。ねー、ほら、面倒がなくていいでしょう?」
「お前が関わってくることが一番面倒くさいんだよ」
「もし勝手に引き受けたりしたら年度の認定更新の際にマイナス査定が入りますからね。それから仕事に関しては、協会の方から斡旋してくることもあります。本部で取りまとめている依頼を能力や地域に応じて振り分けていくわけです。この協会依頼の仕事は強制ではないですが、あまり断り続けるとこれも認定更新時にマイナスです。何より担当である私の評価が下がるのでやめてください」
「最後の一文が全部だろ、お前」
「料金設定については夜鷹さんの場合、元が酷いくらいに低かったので、ほとんど上がる形になりますね。ただ相談については無料で受けることになります。間口を広げて、実際のお祓い等で稼いでいこうという形です。直に現場に向かい霊視を行う場合は五千円、お祓いは霊害の度合いによってニ万円から増えていきます」
横やりも全スルーで、彩音は見やすいようにタブレットを提示した。タブレット上の液晶には霊害の等級が表示されていた。霊自体に害意があるかどうか、身体および精神に直接影響を及ぼすかどうか、早急に対応する必要があるかどうかなど細かく分類されている。
「一人で手に負えないような霊障の場合、他の協会登録メンバーと協力して仕事に当たることもあります。基本的に近場の、同じエリア内でのことですけどね。夜鷹さんにもフォローをお願いすることがあると思いますので、その時はよろしくお願いします」
「どうせそれも断ったら査定に響くんだろ」
「その通りです。いいですね、わかってきたじゃないですか」
彩音は嬉しそうに笑い、パチパチと茶化すように手を叩いた。
「都合の悪い言葉は全部無視のくせに、よくできた耳だな」
「ええ、私の隠れチャームポイントですので」
愛想よく笑う彩音を、夜鷹は割と本気で殴ろうかと思った。次辺りはツッコミと称して小突いてみようか、と算段を立てる。気付かれないように木刀を利き手に持ち直した。
「あとは、任意の制度なんですけど弟子入りサポートっていうのもあります。協会内のメンバーに志願して一時的に弟子入りすることができるというものです。後継者不足に悩む先達にも、スキルアップを望む若手にも嬉しい企画ですね。業界全体で見ても、失われていく技術が受け継がれていくというメリットがあります。トリプルウィンってやつですよ。どうですか、こういうの」
「……あー、いや今更誰かに弟子入りする気はねえな。前の先生もあんまりいい思い出ないし」
昔、というほどでもない過去の記憶を思い返した。夜鷹が霊能者に弟子入りしたのは、中学1年生2学期の3ヶ月間だけだった。ふらりと町にやってきた流れの霊能者に、偶然助けられた夜鷹は、その力にほれ込み弟子入りを願い出たのだ。今にして思えば無茶なことをしたものだと自分でも思う。
「そうですか。まあこれは利用したからって私の評価が上がるわけではないので、正直どうでもいいです。というか余計なことはせずに、仕事に専念してほしいですね」
「せい」
営業スマイルを浮かべる彩音の脳天に袋に包まれたままの木刀を落とした。ぽこん、と軽い音がした。
「いったっ! な、何で叩くんですか! ていうか何暴力振るってんですか!」
「ツッコミだ」
「何に対してのですか!?」
さすがに叩かれたら怒るのか。涙目でうるさく騒ぎ立てる彩音を眺めながら、ぼんやりとそんなことを思った。
「それはさておき、そろそろ俺んち着くんだが、まだ話はあるのか?」
「えー、人の頭を西瓜よろしく叩いておいてその言いざまですか。逆にすごいですよ。罪悪感とかそういうの、一切ないんですか」
「お前は叩いてもいい奴だ」
「色々問題ありすぎですよ、その発言」
「?」
彩音の抗議に夜鷹は首を傾げた。どうやら本当に理解していないらしい。もうこれは自分とは別種の人間なんだと、彩音は思うことにした。気持ちを落ち着かせ、取り落とした仮面を再度かぶり直した。
「業務関係の連絡事項は以上ですよ。認可状やらはそのうち郵送で届きます。中には押印が必要な書類とかも入ってますから、捨てないでくださいね」
「あー、はいはい。わかったわかった。それじゃあな」
夜鷹はひらひらと手を振って投げやりにあしらった。そのまま一瞥もせず帰ろうとする夜鷹の前を塞ぐように彩音が歩み入った。
「待ってください。まだ終わりじゃありません。今日は業務連絡とは別に、個人的な相談があるんです」
「断る」
一瞬の躊躇いもなく断った。話しを聞く気すらなかった。瞳の中に断固たる拒否の色を見て、ずいぶん嫌われたものですね、と口には出さず彩音は苦笑した。コミュニケーション能力も高く、物怖じしない性格の彩音は基本的に人受けがいい。同僚たちや上司にも気に入られているし、仕事で知り合った相手にもすぐに打ち解けることができる。それでも何人か、夜鷹のように妙に自分を毛嫌いする連中はいた。それはどれも自分の上っ面に気付いている勘のいい人間か、自分同様に周囲を偽りながら生きている同類だということも理解していた。夜鷹は間違いなく前者だろう。大して頭もよくない癖に、勘だけがいいというのだから始末に負えない。
最も、だからといって引き下がる程、彩音は可愛らしい性格ではなかった。
「決断力があるのは素晴らしいことですが、もう少し歩み寄る余裕を持ちましょうよ。そんな態度でこられると、こちらも服を乱して大声を出すと言った対応を取らざるを得なくなります」
痴漢裁判で男性側の勝率っていくつかご存知ですか、と彩音は服に手をかけた。穏やかな笑みの底に、揺るぎない迫力があった。
「お前は本当にうっとおしいな……」
笑顔の脅迫に、夜鷹は屈した。どうせならさっき、もっと強く叩いておくのだったと自分の甘さを悔やんだ。
夜鷹の住まいは学校からほど近い住宅街にあった。昨年建ったばかりの賃貸マンション。そこの2階、東側の角部屋が夜鷹の部屋だった。路上で話を終わらせたかった夜鷹に対し、彩音が笑顔で押し切り、場所を変えることになった。唯一最後の砦にまで上がり込まれ、夜鷹は少し泣きたい気分だった。異性を部屋に連れ込むという状況にも全く心が躍らない。用件を済ませてさっさと帰ってほしいくらいだった。
「へー、割といいところに住んでますね」
「ものに触るんじゃねえぞ」
同世代男子の部屋に上がり込むのは彩音にとっても初めてのことだった。物珍しさからきょろきょろと室内を見渡す。広さは十畳と言ったところか。あまり片付いてはいないが、ものの少なさのためか、汚いとは感じなかった。システムキッチンに、エアコン完備、風呂トイレ別、収納もしっかり付いている。道中、近くにコンビニがあるのも見えた。学生の一人住まいとしては上等過ぎるくらいだ。
「これ、家賃いくらするんですか? 結構馬鹿にならないでしょう」
「2万」
「へぇ、これで2万ですか。それはそれは」
そんなものかと聞き流し、頭の中で反芻し、瞬間振りかえる。
「2万!? これで!? 嘘でしょ!?」
彩音が住んでいる部屋はここよりも狭い。新築で駅近くということもあるが、それでも家賃は月6万の物件である。いくらなんでも安すぎる。一体どんなからくりがあるのか。不動産屋が身内だったとしても、ここまで格安にはならないだろう。
ただの軽口の類かと懐疑の目を向けて、しかし思い至る。夜鷹の能力と、不動産にはツキモノの話。この二つが合わされば導き出される答えは一つだ。彩音はもう一度、今度はそろそろと部屋を見回した。
「……ここって、俗に言ういわくつき物件ってやつですか?」
「いや、ここはそういうんじゃねえよ」
木刀を壁に立てかけながら、夜鷹が答えた。彩音の前で着替える気はないらしく、学生服のまま座布団に腰を下ろす。
「ただ、そういうところをいくつか祓ってやったんだよ。3件くらいだったか。その見返りとして安くしてもらってるんだ」
ただでさえそこら中に霊が見える夜鷹にとって、憑物物件などうるさくて住めたものではない。霊によっては夜鷹でも祓うのが難しい場合があるし、祓えたとしても長いこと霊の憑いた部屋は他の霊が寄り付きやすくなる。夜鷹が部屋を選ぶ条件として、必ず第一に挙げるのは「何もいない」ということだった。
「なるほど。そういうやり方がありましたか」
彩音には珍しく、素直に感心していた。夜鷹は簡単に言ったが、口で言うほど単純な交渉ではないとわかったからだ。お祓いが成功したかどうかなど、一般の人間には証明も説明も難しい。特に夜鷹のような学生がそんな話を持ちかけたとしても、ほとんどの人間がとりあいもしないだろう。
霊能力者というのは社会不適合者の集まりと思っていたが、案外たくましくしたたかなのかもしれない。アドバンテージ以上にハンデになる能力を抱えて生きるとということはそれだけの苦労があるということか。彩音は偏見じみていた自分の認識を少し改めた。
「それはそうと、何か飲み物の一つでもでないんですか、この家は」
「勝手に上がり込んだくせに、ずうずうしい奴だな」
半眼で睨みつつも、夜鷹は腰を上げキッチンに向かった。一人暮らし用の小さな冷蔵庫を開けて、中を物色した。今入っている物というと、
「ポン酢でいいか?」
「いいわけないでしょう。何が悲しくてストレートでポン酢を喉に通さなきゃいけないんですか。何が潤うんですか、それを飲んで」
「水割りも出来るぞ」
「飲み方の問題じゃありません」
「じゃあラー油はどうだ」
「食べるラー油はあっても、飲むラー油なんて聞いた事もありませんよ」
「他にはマヨネーズくらいしかないな」
「もはや液体ですらないじゃないですか!」
仕方なく夜鷹は買いだめしているスポーツドリンクを取り出した。お気に入りだが一駅隣の業務用スーパーにしかない商品なのであまり振舞いたくはなかった。せめてもの抵抗として氷を多めに入れてかさ上げをすることにした。
「そんなに氷要りませんよ。大して暑くもないんですから」
ごそごそと手間をかけている夜鷹を不審に思い、彩音はキッチンを覗き込んだ。先ほど脈絡なく殴られたこともあり、行動の読めない夜鷹を警戒してのことだ。こっそりポン酢でも混ぜられてはたまらない。
カウンターの上に余計なものが載っていないことを確認して、ふと冷蔵庫の影に妙なものがあることに気付いた。もともと冷蔵庫置き場として作られたスペースに一人用の冷蔵庫は小さく、壁との間に余らせた隙間を作っていた。
その隙間に女の子が座っていた。
「よ、よよよ夜鷹さん? あの、そこ、それ、……何です?」
「あー? あ。ああ」
咄嗟に言葉が出ず絞り出した質問に夜鷹は母音だけで答えた。確認、発見、納得。不精にも程がある。
「珍しいな。お守り様が人前に出てくるなんて」
「お、お守り様? っていうんですか、この子」
夜鷹に身を隠しながら、彩音はお守り様と呼ばれる少女を窺った。人並みの霊感しか持っていない彩音だが、それが生きた人間ではないことは即座に理解できた。年は7、8歳くらいの外見で、白いワンピースを着ている。髪も肌も目の色も色褪せたように薄い。存在自体が幻想的な程に希薄で、日常の風景の中やけに不釣り合いに感じられた。
しかし違和感があるのは外観だけではなかった。彩音が認識してから数十秒、少女はまったく動かないのである。身じろぎ一つ、どころか瞬きも呼吸もしている様子がない。生命を感じさせない瞳は中空の一点から揺らぎもしなかった。
まるで人形のようだと感じた矢先、文字通り微動だにしなかった少女が不意に彩音に目を向けた。いや、いつの間にか目を向けていた。目を離したつもりはなかったが、振り向く動作などは見ていない。コマが飛ばされたように、気が付いたらこちらに虚ろな視線が投げられていた。
「あ、あの、これはどうしたら……?」
「あー、お前、古いお守りとか持ってないか?」
言われて、仕事用の携帯につけたストラップを思い出した。確か協会に入るとき、気休めにはなるだろうと家にあったものをつけておいたものだった。
「こ、これですか?」
「またずいぶん古いな。買ったのいつだよ」
「3、4年前ですかね。多分」
「年一で変えろ。お守りってのはそういうもんだ」
夜鷹はお守りを渡すように手を差し出した。状況が飲み込めない彩音は従うより他にない。促されるまま携帯からお守りを外し、夜鷹に手渡した。夜鷹はもらったお守りをそのままお守り様の口元に近付けた。するとお守り様は口を開き、お守りをその小さな舌の上に載せた。唖然とする彩音の前で、お守り様はもぐもぐと口を動かしお守りを咀嚼し始めた。
ゴキッ。ボリッ。メキメキ。
お守りを噛むにしてはおかしい、骨を砕くような固い音が微かに聞こえた。そしてほどなくしてこくんと喉を鳴らして飲み下すと、「けぷ」と可愛らしくげっぷをした。一通り食事を終えると、再び光を宿さない目を彩音に向けた。
「まだお守り持ってるか?」
「い、いえ。一個だけですけど」
「お守り様、もうないってよ」
夜鷹が声をかけると、お守り様は興味を失くしたように視線を床に落とした。にじにじと身をよじり、隙間の奥に身を沈めていく。そうしてそのまま壁にめり込み消えてしまった。
「……何だったんですか。今のは」
「だからお守り様だよ。お守り食うから、お守り様。わかりやすいだろ。敬称は何となくつけてるんだが」
「そうじゃなくて、ここはそういうのがいない部屋だったんじゃないんですか?」
「ああ、あれは部屋じゃなくて俺に憑いてる奴だからな」
何でもないように夜鷹は言った。
一年ほど前、霊能者の小遣い稼ぎを始めたころに祓うよう頼まれたのがお守り様だった。しかし当時の夜鷹が知る限りの手を尽くしても、お守り様を祓うことはできなかった。泣きつく依頼人に押し切られ、仕方なく一旦自分にとり憑かせてその場は凌ぐことにした。
「で、今に至る」
「何でですか! おかしいでしょう、色々と!」
「いや、その後も何度か試してみたんだけど、全然祓える気配がないんだよ。けど特に害もないし、余所にやるよりかは心配ないかと思って」
さも自己犠牲の精神のように語るが、実際は途中で面倒くさくなっただけだった。
なお古いお守りを食べることは、過ごしているうちに偶然気がついた。基本的にお守りを与えていれば、ただ座っているだけで大人しくしている。簡単なものなら自分で作れるし、仕事でお守りの処分を引き受けている夜鷹にとっては大した負担でもなかった。ちなみにお守りを与えずに放置しておいても、もらえるまで延々こちらを見続けてくるだけで特に何をするというわけでもない。
「そうは言いますが、いくら夜鷹さんでも幽霊に憑かれて平気なはずないでしょう」
霊障というものは霊の強弱、害意のあるなしに関わらず起こる。たとえわずかなものでも霊はいるだけで生者に影響を与えてしまうからである。夜鷹は霊障に対して強い抵抗力を持っているが、それでも完全になくすことはできない。微弱なものでも長期間憑かれ続ければ、やがて蓄積した影響が表れるはずだった。
それゆえに幾ばくかの心配も含めて提言するも、夜鷹はあっけらかんとしたものだった。
「それが、どうも幽霊じゃないみたいなんだよな、お守り様って」
「幽霊じゃない……? ってことは、妖怪、とかですか?」
人が生活を送る上で遭遇する怪現象は霊が原因であることがほとんどだ。ただ稀にそれ以外のものが由来の現象も存在する、と彩音は協会の研修内容を思い出した。それは妖怪であったり、精霊であったり、あるいは神と呼ばれるものだと。一部ではそれらを霊と分けない考えもあるが、そういったものは別枠として見るのが主流とも教わった。霊とは出自の異なるそれらの怪異は対処法もまるで異なり、往々にして手に負えないことがあるからだそうだ。協会のマニュアルでも、霊害の原因がそういった怪異と判明した場合は速やかに本部に報告し、専門家の協力を要請するように記してあったのを覚えている。
「何か、思い当たるものがないんですけど。あれですか、座敷童的な?」
「さあ?」
「さあって……」
「霊じゃなさそうだし、妖怪とも微妙に違う。精霊のようで精霊じゃないし、神のような気がしないでもないが、決め手に欠ける。正直よくわからん」
「……要するに、夜鷹さんは何なのか見当もつかない存在と、害はなさそうだからという憶測の元で生活しているということですね」
「まあ、そうなるな」
「頭おかしいんじゃないですか?」
あまりの危機感のなさに彩音は苛立ちを通り越して呆れ果てた。やはり霊に関わる人間はどこか考え方がおかしい。倫理観というか危機感というか、そういったものがいくつか欠如しているに違いない。つい先ほど改めた認識は再度マイナス方向に改め直すことにした。
「まあ、言ったところで不毛なことなのでこれ以上はやめておきましょうか。それよりも本題に入りましょう。相談したいことがあるといいましたよね」
「何か俺、一方的に罵られただけなんだが」
「相談というのは他でもありません。手近なところで霊害を一つ、解決しておきたいんですよ」
夜鷹の用意した氷ばかりのスポーツドリンクを持って、彩音はリビングのテーブル横に腰を下ろした。夜鷹のぼやきは満面の笑みで無視された。仕方なく夜鷹も彩音と対面するように胡坐をかいて座った。一つしかない座布団は彩音が使っているので、直に座ることになった。
「霊害を解決って、そりゃ依頼があればの話だろうが。今のとこ、俺が抱えてる仕事はねえぞ。さっき言ってた本部からの斡旋ってやつか?」
「いえ、そうではありません。こちらで自主的に霊害を探して、解決したいんです」
そう言って彩音はスポーツドリンクに口を付け「薄っ」と呟いた。
「そりゃあ、霊害なんて探せばいくらでもあるけどよ」
幽霊というのは何も心霊スポットばかりにいるものではない。夜鷹の目には、何でもない風景の中でも常に一体二体は霊の姿が映っている。それはつまり気付かれていないだけで、その数だけ霊害も起こっていることを意味する。例えば同じ場所でやたらと躓くとか、物をよく取り落とすとか、少しだけ肌寒く感じるとか、逆に妙に暑く感じるとか。細かいものを拾っていけばこの世は霊害だらけになってしまう。命に関わるような祟りだとか、呪いだとかはほんの一部の話なのである。
「もちろんそこいらの低級霊を相手にするつもりはありません。できるだけ大きなもの、何人か犠牲者が出ているようなものがベターですね」
「不謹慎な奴だな。つーか、何だってわざわざそんなことしなくちゃいけないんだよ。面倒くさい」
「いやいやいやいや、実はですね。ここだけの話、今すごい暇なんですよ、私」
本来なら今の時期、彩音たち協会の職員は日本中の霊能力者たちに声をかけ、審査し、協会に勧誘しているはずだった。しかし彩音は夜鷹を最後に自分のエリア内での勧誘を全て終えてしまっていた。他の職員に比べ小さなエリアを任されたこともあるが、同僚が軒並み半分も進んでいない現在において圧倒的な早さだと言えた。
「まあまあまあま、これもひとえに私の優秀さゆえなんですけどね」
「帰り口は向こうだぜ」
「わかってますよ、さっき入ってきたばっかりなんですから。いいじゃないですか、成果を出してるんだから、ちょっとくらい調子に乗っても。度量のない男性はモテませんよ」
「いらねえよ。ただでさえ、俺の周りにはまともな女がいないってのに」
言ってみて夜鷹は日々の生活の中で会う異性の顔を思い浮かべてみた。
「正直この中ではお守り様が一番ましだな。面倒がなくていい」
「嫌ですね、夜鷹さん。私のこと忘れてますよ?」
「お前は真っ先に思い浮かんでるよ。筆頭だ、筆頭」
小首を傾げてアピールする様にいらっときた。狙い澄ました動きがいちいち癪に障る。
「まあ、そんなことはどうでもいいんですけどね。つまるところ私は自分の仕事が終わっちゃってるんです。手持ち無沙汰で困ってるんですよ」
「じゃあのんびりするなり、他を手伝うなりしてりゃいいだろうが」
「空いた時間で何ができるかで、その人の評価が大きく変わるんです。夜鷹さんもゆくゆくは社会に出るわけですから、そういうの覚えておいた方がいいですよ。あと同僚に今のうちに恩を売っておく、というのも確かに一つの手ではありますが、まだ他の人の能力を把握してませんからね。正直使えない方に貸しを作っても割に合いません。やはりここは先んじて成果を上げるのが一番でしょう」
「どこまで打算的なんだ、お前は」
あまりの徹底ぶりにいっそ清々しささえ感じられた。これはこれで大した奴なのかも知れないと、思わず感心してしまった。
「けどな、それはそれとして依頼もなしに仕事したって一銭にもなりはしないだろ。お前は株が上がって万々歳だろうが、俺に何の得があるんだ」
「いえ公的に害があると認められれば、依頼者がいなくても協会から報酬が出ます。ですからさっきも言ったとおり、ある程度被害が出ているような霊害が望ましいわけです」
「何で俺なんだよ。俺以外にも受け持ってる霊能力者がいるんだろ。そいつらを使えばいいじゃないか」
「そこなんですよ、夜鷹さん」
何とか面倒事を回避しようと粘る夜鷹に、彩音は嬉しそうに詰め寄った。夜鷹はのけぞり距離を置く。うざさ半分、気恥かしさ半分だった。
「な、何がそこなんだよ」
「最初の方で言ったと思いますが、私は夜鷹さんや他の方々の仕事ぶりを事前に調べています。その結果、とても気になることがありまして」
「何だよ?」
「依頼を受ける頻度ですよ。確か、先月の依頼数は5件でしたよね」
「そんなもんだったかな。つっても確かうち2件は勘違いだったんだが」
「それでもはっきり言って多すぎます。専業としているわけでもない、社会的には学生で、大々的に広告も打てない、その上人づきあいも下手くそな夜鷹さんにどうしてそれほどの依頼が舞い込むのか。と、考えてみましてね。思いついちゃったんですよ」
「……何にだよ」
「夜鷹さん、あなたには仕事を紹介してくれる方がいますね?」
「っ!」
彩音の指摘に夜鷹は顔をしかめた。したり顔が不愉快だったわけではない。その推理がそのものズバリ、図星だったからである。夜鷹の反応に彩音は自分の読みを確信した。
確かに夜鷹には心霊相談を紹介してくるつてがある。しかも一人ではなく、分野を別にする二人の人間からそれぞれ依頼を請け負っていた。片方に至ってはただ受けるだけでなく、入用のときにこちらから頼んで仕事の世話をしてもらってさえいた。
「やっぱり、いらっしゃるんですね。そういうコネが」
「……お前には紹介したくない、って言ったらどうする?」
「構いませんよ、自分で探しますから。最近夜鷹さんが受けた仕事の詳細は調査済みです。依頼人に会えば仲介者がどなたなのかはすぐにわかります。ですが夜鷹さんとしてもご自分目の届く範囲で知り合った方が安心でしょう。だから意地悪しないでご紹介いただけませんかね? 私としてはその方がとても助かります」
面倒がありませんからね、と彩音は揶揄するように夜鷹の口癖で締めた。夜鷹はからかいには取り合わず、しばし目をつむり黙り込んだ。二人の仲介者の内、紹介するとしたら相手は片方に絞られる。普段から世話になっている、夜鷹にとって恩人とも言える人物だった。
会わせたくないというのが本心ではあったが、そう思っているのは自分だけだろう。向こうは会いたがっている。それだけは考えるまでもなくわかっていた。自分が紹介を拒んだと知られれば、きっと気分を害すことになる。ほんの些細なことであっても、その人に嫌われたくはなかった。
「……今日は用事があるっつってたから無理だ。明日の放課後、学校にこい」
最終的に夜鷹は仏頂面でそれだけ吐きだした。
そして翌日、西日が差す廊下を夜鷹と彩音は連れ立って歩いていた。グラウンドの方では運動部の掛け声が上がり、それをかき消すほどの音量で吹奏楽の練習が響いていた。教室内に残った生徒たちは思い思いに談笑している。金曜の放課後。次の日が休日という期待を帯びた独特の空気が校内に満ちていた。
「はーはーはーはー、こんな感じなんですね、高校って。私は最終学歴が中卒なんで、初めて入りましたよ」
彩音は興味深そうに校内を見渡しながら歩いていた。演技じみたものではなく、純粋に楽しんでいるようだった。いつもの気取った風態ではなく無邪気にはしゃぐ様子は年相応の可愛らしさを感じさせた。
確か協会は今年に発足されたものだったはずだ。ということは、彩音はこの4月に中学を卒業した後、進学せずに就職したということになる。前から気になっていたが、やはり同い年くらいなのか、と夜鷹は頭の中で計算していた。
「あ、今私の年齢やら何やらよからぬ妄想をしていましたね。いけませんよ、夜鷹さん。いくら制服姿の私があまりに愛らしいからといって、勝手に脳内であられもない姿にしないでください」
「被害妄想も大概にしろ。つうか、どこで手に入れたんだよ、それ」
腰に手をあてポーズを決める彩音はいつものスーツではなく、高校の制服に身を包んでいた。直に調べたわけではないが、本物の斑坂高校の標準女子用制服のようだ。悔しいが、確かに似合ってはいる。現に何度か他の生徒や教員とすれ違ったが、誰も部外者が入り込んでいることには気付いていなかった。
「買いました。ネットで」
「そうか。最近は制服もネットで買えるのか」
世も末だ、と誰に向けるでもなく呟いた。その頃合いでちょうど目的地に到着し、夜鷹は足を止めた。部室棟3階の西側最奥、本来なら倉庫として使われているはずの部屋には一枚の貼り紙がされていた。白いコピー用紙には簡素なフォントで「オカルト研究部」という文字が綴られていた。
「……本当にあるものなんですね、こういうの。フィクションの中だけのものだと思っていました」
「……まあ、俺も高校に入るまではそう思ってたよ」
もしかしたら自分が知らないだけで、案外普通にあるものなのかもしれない。ということは、やたらと権力を持った生徒会とか、規律第一主義の風紀委員とかもどこかに実在しているのだろうか。そうだとしたら、その学校の生徒はひどく不憫だ。あるかどうかも知らない学校の生徒に夜鷹は同情した。
「さあさあさあさあ、それじゃあそろそろご対面と行きましょうか。よろしくお願いしますよ、夜鷹さん」
「……ここまできてダメだとは言わねえが。いいか? さっきも言ったが、これから合わせる人には本当に世話になってるんだ。くれぐれも失礼なことすんじゃねえぞ」
今にも部屋に飛び込みそうな彩音を制し、夜鷹は低い声で念押しした。これで本日三度目の警告だった。
「わかってますよ。何回言えば気が済むんですか、それ。大丈夫ですって。私、初対面の人にもすぐ打ち解けられることに定評があるんです」
「俺はお前と打ち解けた覚えがないぞ」
「何事にも例外はつきものです。正常な感性の方なら、問題ありませんよ」
遠回しに異常者呼ばわりされた。表面上は礼儀正しいが、一皮めくれば相手を見下した本性が垣間見える。こういうところが気に障らないか、それだけが夜鷹の心配だった。
それでもこのまま廊下で立ち呆けているわけにもいかない。夜鷹はもう一度彩音に睨みをきかせ、ドアノブに手をかけた。普段から入るのにノックをしたことはない。
「ちぃーっす」
「失礼しまー……す……」
夜鷹に続いて歩み入った彩音は挨拶も尻切れに息を呑んだ。ここは本当に校内の一室か、と目を疑うほどの場景が飛び込んできた。
窓は全て分厚いカーテンで完全に遮光され、一切の光を遮っていた。蛍光灯は取り外され、必要最低限の光量を放つランプが吊るされていた。調度品の類は暗い色調のアンティークで統一されており、古い洋館の一室を思わせた。本棚には怪しいタイトルの本が並び、室内の至る所に古今東西の呪具や不気味なオブジェが飾られている。ご丁寧に絨毯には魔方陣まで描かれていた。
「いらっしゃいませ。ようこそ、斑坂高校オカルト研究部へ」
室内の空気に圧倒されていた彩音に、部屋の奥から緩やかな声がかけられた。中央に鎮座するテーブルとソファの向こう、ひときわ高価そうな机に一人の女生徒が向かっていた。カラスの濡れ羽色の髪が周囲の薄闇に溶け込んでいた。その身も部屋の一部と思わせるほど、場の雰囲気に馴染んでいる。彼女こそがこの部屋の主なのだと、説明されずとも理解できた。
「どうも、作業中でしたか」
「いいえ、ちょっとブログを更新していただけよ。もう終わったわ」
慣れた様子で夜鷹が話しかけると、部屋の装飾にはそぐわないノートPCを閉じ、女生徒は席を立った。ウェーブがかった長い黒髪を揺らし、ランプの下に歩み出る。一つ一つの動作が丁寧で緩慢にさえ思えたが、思わず見入ってしまうような色香があった。制服を着ているということはここの生徒なのだろうが、とても十代とは思えない妖艶さを放っていた。
「この人が冴崎先輩だ。先輩、こいつが例のアレです」
間に立つ夜鷹が本当に最低限の紹介をした。彩音にいたっては全く紹介になっていないが、それ以上取り持つつもりはないらしい。早々にソファに座りこむと、テーブルの上の飴に手を伸ばし始めた。もともと役には立たないだろうと踏んでいた彩音は、さっさと夜鷹に見切りをつけて冴崎に向き直った。夜鷹のとき同様、慣れた手つきで名刺を差し出す。
「どうもどうもどうも。ご紹介にあずかりました、『例のアレ』こと、全日本心霊統合協会立見崎支部期待のホープ、三倉彩音です。本日は急なお願いにお付き合いいただきまして、誠にありがとうございます」
「斑坂高校2年生、オカルト研究部副部長の冴崎玲と申します。お会いできて光栄です。今後ともお見知りおき下さい」
名刺を両手で受け取り、冴崎はゆるゆると頭を下げた。夜鷹の紹介とは思えないほど丁重な態度に彩音は感動すら覚えた。こういう上等な人間こそ、自分にはふさわしいのだとしみじみと思う。
「先輩、そんなかしこまる必要ないっすよ。そいつ猫かぶってますから」
ああいう下等な輩は本来相手にするべくもないのだ。
「ダメよ、夜鷹くん。ごめんなさい、根はいい子なんですが、少しぶっきらぼうなところがありまして……」
「いえいえいえいえ、もう慣れましたから、気になさらないでください。それと敬語も不要です。冴崎さんの方が年上なんですから、どうか気を使われずに」
「そう? それじゃあ、お言葉に甘えさせてもらおうかしら。ああ、そうだ。飲み物は紅茶で構わない?」
「ああ、どうぞお構いなく」
楚々として微笑んで、冴崎は彩音にソファを勧めた。自分はそのまま棚からティーカップを取り出して紅茶の準備を始める。夜な夜な髪を伸ばしてそうな日本人形の横で、電気ケトルが蒸気を吹き出しているのはなかなかシュールな光景だった。始めは雰囲気に呑まれて気付かなかったが、よく見れば部屋のあちこちに日用品が混ざっていた。慣れてしまえば、住み心地の良さそうな部屋だ。
「いやいやいやいや、夜鷹さんの知り合いって言うからどんな方が飛び出てくるかと思いましたが、えらく上品な方じゃあないですか。ちょっとダークな雰囲気がありますけど、大人の魅力ってやつですね」
「ああ? ……ああ、まあ、そうだな。そんな感じだ」
冴崎が背を向けている隙に彩音はこしょこしょと小声で囁きかけた。対して夜鷹は曖昧な言葉で口を濁した。煮え切らない反応が気にかかったものの、問いただす前に冴崎が紅茶を持ってやってきた。自分もソファに着き、それぞれの前にカップを置く。全員に配り終えたのを見計らって、夜鷹が冴崎に話しかけた。
「ああ、ところで先輩、ちょっといいっすか」
「ん、何かしら?」
ヒュゴッ。
夜鷹の方を向いた冴崎の顔面、その数センチ横を夜鷹の木刀が貫いた。遅れてきた風圧に長く黒い髪がなびく。数本千切れた髪の毛がパラパラとソファの上に落ちた。
「心霊スポット巡るのはいいっすけど、その度に変なもん連れてこないでくださいよ。俺の手に負えない奴だって、そこらにいるんすからね」
「ああ、もう祓ってしまったの……。私の可愛い背後霊……」
「ぶくぶくに膨れた水死体なんて可愛くもねえっすよ」
「……あら、そんな子だったの」
冴崎の霊感は霊の姿を見るほど強くない。精々気配を感じる程度のものだった。そのくせ暇さえあれば心霊スポットを巡り歩き、自分に憑いた霊を愛でるという妙な趣味を持っていた。大抵は夜鷹が祓って終わるのだが、あるときなどは完全に清めるのに3日かかった霊もいた。
「これさえなければ、本当に文句なしなんだけどな。毎度毎度、面倒くさいったらねえよ」
「ははは……」
夜鷹の愚痴に何と答えたものかわからず、彩音は笑ってごまかした。自分のまわりにはまともな女性がいないとは夜鷹の弁だが、なるほど納得だった。やはり心霊事に関わる連中はどこかおかしいのだと、彩音は再認識した。その中に何故か自分が入っているのは甚だ心外だが。
ついでに夜鷹の女性に対する評価基準はもしかして「面倒かどうか」だけなんじゃないだろうか、と少し気になった。
「えー、っと、そうそう! 冴崎さんはこちらの副部長を務められていらっしゃるそうですけど、部長さんはどちらでしょうか? よろしければ、ご挨拶をしたいのですが」
すっかり乱されたペースを整えるため、彩音は一度別の話題を振った。これからの話を思うように進めていくために、自分主導の流れを確保しなければならない。
「部長なら、そこだ」
「え、いらっしゃるんですか?」
彩音の質問には冴崎ではなく夜鷹が答えた。不躾に木刀を部屋の隅に向けている。彩音は指された方向に慌てて振りかえった。他に人がいたとは全く気がつかなかった。咄嗟に名刺を構え、挨拶の準備を整える。が、
「……部長さんって、これ……、ですか?」
「これとか言うな。確かに古ぼけたなりだが、部長はこの高校が開校して以来ずっといる生き字引だぞ。生きてねえけど」
彩音が名刺を差し出そうとした先には一体のこけしが置かれていた。夜鷹の言う通り、かなり年季が入っている。おずおずと様子を探るが、夜鷹も冴崎もふざけてはいないようだった。これが部長だというのは嘘ではないらしい。マスコット的な扱いなのだろうか。仕方なく、二人に合わせ彩音はこけしに名刺を差し出し、自己紹介をした。何だ、この茶番は。
「部長は永久欠番だから、必然的に部員は副部長以下なのよ。もっとも今は私一人しかいないんだけどね」
「あれ? 夜鷹さんは違うんですか?」
「俺は剣道部だ。うちは兼部禁止なんだよ」
夜鷹は脇に立てかけた木刀を指差した。霊撃退用に普段から木刀を持ち歩いているため、口実として夜鷹は剣道部に籍だけ置いていた。ちなみに剣道に対する興味は毛ほどもなく、練習参加どころか部室にも近づいたことはない。霊能者のくせに幽霊部員というのもおかしな話だ。
ただそうなると、オカルト研究部は実質副部長だけで構成されていることになる。仮にこけしを頭数に入れても同好会としてすら認められないだろう。つまりこの部屋は冴崎一人のためにあるわけだが、そんな贅沢が一生徒に許されるとは思えない。何かしら裏があるはずだと、彩音は勘繰った。
(いいですね。俄然興味が湧いてきました。どれほどのものかお手並み拝見といきましょうか)
他人に興味を持つのはいつ以来だろうか。好奇心から来る高ぶりを笑顔で隠し、彩音は紅茶を一口飲み下した。適度に間を空けて、いよいよ話を切り込んだ。
「さてさてさてさて、それじゃあ商会も終わったことですし本題に移らせていただきましょうか。既にご存知かもしれませんが、私達全日本心霊統合協会は霊害に悩む方々の救済を目的に作られた組織です。夜鷹さんの話で冴崎さんはそういった方面の話に明るいとお聞きしています。そこでよろしければ事案の一つでもご紹介頂きたいと思いまして」
「もちろん、全霊会については私も聞き及んでいるわ。新しい法律ができた時は時代がオカルトに追いついたのだと、歓喜したものよ。私でお役にたてるのなら、喜んで協力させてもらうわ」
冴崎は民俗学から近代フォークロアにも通じ、専門誌に寄稿文を載せたこともあるほどの生粋のオカルトマニアだった。オカルト界隈でも一目置かれ、独自のネットワークを持つ冴崎は彩音にとって非常に有用な人間だった。協会内でも情報網を広げてはいるが、あくまで霊能関係者の間だけ。一般人の目も入れた冴崎のものほど網は細かくない。そして得てしてそういった一般の人間から発祥することが多い怪談話を相手にする場合、冴崎はうってつけの人材だった。
同時に冴崎からしても彩音は押さえておきたい相手だった。重度のオカルト愛好家である冴崎にとって、公式機関とも言える協会の人間と付き合うことはステータス以外の何物でもない。うまくすれば他では入手できないような貴重な情報や裏話を手にすることができるかもしれない。両者それぞれの利害は一致していた。
「法律制定とか、知ってたんすか先輩」
「あら、話さなかったかしら。当然知っているわ。全霊会の発足についても仲間内で大いに盛り上がったものだもの」
夜鷹は記憶を探るが、そんな話には覚えがなかった。ただこれは冴崎の記憶違いではなく、夜鷹の方が完全に忘れていただけだった。放っておいても勝手に霊から寄ってくる夜鷹にとって、冴崎のオカルト話は聞くまでもないことばかりだ。部室を訪ねると毎回、怪談話や都市伝説を聞かされるが、基本的にテキトーに相槌を打つ程度で流してしまっていた。
「……じゃあ、本当だったんだな。お前の話は」
「今だに疑っていたんですか。そっちのほうにびっくりですよ、私は」
見かけによらず夜鷹は疑り深かった。彩音と平気で話をしている裏で、本当に協会なんてものがあるのかずっと半信半疑だったのだ。
それでも冴崎が言うなら信じるということを彩音は見落とさなかった。手がかかると愚痴ってはいたが、夜鷹は冴崎に大きな信頼を置いているらしい。彩音は即座に脳内で人物相関図を作り上げた。後々困ったときは使うことにしようと、自分の手札に加え込む。夜鷹はカードを奪われたことに気付きもしなかった。
「もう、いいから夜鷹さんは黙っていてください。話が進まないじゃないですか。それで、どうですか? 今近隣で起きている怪奇現象とかありませんかね」
「ええ、あるわ」
そう言ってから冴崎はゆっくりとした手つきで紅茶を口に運んだ。静かにカップを下ろすと、一度姿勢を正して彩音に向き直る。焦らすように数秒空けてから、静かに怪談を語り始めた。
「『暗がりの男』と呼ばれている話よ」
『暗がりの男』
A子は友人たちとのカラオケを終えた後、夜の帰り道をひた歩いていた。時刻は既に11時過ぎ。コンビニ以外の店は閉まっており、町全体が暗い闇を抱え込んでいた。
もう少し早く帰るべきだったとA子は後悔していた。もともと先日あった嫌な思い出を忘れるために開いた集まりだったが、一人寂しく夜道を歩いているとついつい考えがそちらに向いてしまう。できるだけ楽しいことを考えるようにしながらA子は少し足を速めた。
その足が止まったのは家まであと500メートルほどに近づいた時のことだった。いつもと何かが違う。歩き慣れた道にひっかかりを感じたA子は違和感の正体が気になり、周囲を見渡した。
探してみると原因はすぐに見つかった。いつもなら点灯している街燈が一本切れていたのだ。それだけのことに過敏に反応していた自分に苦笑した。早く帰って寝てしまおう。A子は再び足を進めた。
切れた街燈の横を通り過ぎ、何となくA子は振り返った。何故振り返ったのかはわからない。本当に何となく、全く意図せず、視線を向けてみただけだった。
そこには一人の男がいた。
暗がりに溶け込んで全身の姿はよく見えない。ただぼうっと顔だけが浮かんで見えた。年は30程だろうか。生気のない顔つきからもっと年老いても見えた。A子に向けられた目は虚ろで、まるで意志を感じさせなかった。
A子の頭にはすぐに不審者の文字がよぎった。こんな夜更けに街燈の影に隠れているなんて普通では考えられない。慌てて視線を外し、足を速めた。走りださなかったのは、刺激することを恐れたからだ。視線は戻さず、しかし全神経を背後に集中させる。足音や気配がついてきている様子はない。次の街燈までが酷く遠くに感じられた。
明りの下について、ほんの少しだけA子は安らぎを覚えた。恐る恐るひとつ前の街燈の下を確認する。そこに男はいなかった。切れた街燈からA子のいる場所までは一本道で、隠れるような場所もない。どこかに行ってしまったのだと、A子は安堵した。
念のため携帯を取り出し、いつでも連絡が取れるようにしながらA子はふとおかしなことに気付いた。さっきの男は切れた街燈の下にいた。なのにどうして、はっきりと顔をみることができたのだろうか。他の部分は暗闇にまぎれて見えなかったというのに。
そして、あの顔。すぐに目を逸らしたためよく見ていなかったが、あの顔には覚えがあった。三日前に「見つけた」、あの男の顔によく似ていた気がする。
A子はもう一度街燈の下を振り返った。そこに男の姿はなく、ただ静かに闇が広がっているだけだった。
それからA子は時折暗がりの中に男の顔を見るようになった。時刻は夜に限らず、朝や昼に遭遇することもあった。現れる場所もでたらめだった。共通することは男がいるのは暗がりの中だということ。そして暗がりの中、顔だけがはっきり見えるということだった。
もう既にあの男が生きている人間ではないことはわかっていた。何度となく見た顔はとうに頭に焼き付いている。間違いようがない、あれはA子が見つけた死体の顔だった。
どうして、私に。
A子は振りかかる理不尽さを呪った。自分はたまたま、見つけただけなのだ。登校途中の用水路に、顔だけを浮かべて空を仰ぐ男の死体を。
安全靴を履いていたため、体は沈み顔だけが水面に出たのだと警察は言っていた。それでも死体の顔面が上を向くということがあるだろうか。普通なら、真っすぐ前を向いたまま浮かぶのではないか。A子の頭の中にぐるぐると疑問が巡った。
もしかしたらあれは探していたのかもしれない。死後取り憑くべき相手を、呪いを向ける矛先を。それに自分はひっかかってしまったのか。
A子は自室の電気をつけた。テレビも、デスクライトも、パソコンも、光源となりうるものは全てつけていく。家族にも友人達にも相談したが、まともに取り合ってはもらえなかった。ショッキングな体験をしたから、それが記憶に残っているだけだと言われた。それだけの話なら、どれほどよかったろうか。毎日のように現れる男は、日々少しずつ、自分に近づいてきているのだ。あの顔が最後まで近づいたとき自分はどうなるのか、考えたくもなかった。
A子にとって精一杯の抵抗は身の回りの明かりを増やすことだった。今日も帰りに電気屋で電気スタンドを買ってきていた。既に4つ目になるスタンドのコンセントをつなげ、スイッチを入れた。
その瞬間、バチン、と音がして全ての明かりが消えた。あまりに電気をつけすぎたためにブレーカーが落ちてしまったのだ。
A子は慌てて携帯を探した。ブレーカーを直すよりも、光がないことが不安でならなかった。明るさに慣れた目は降って湧いた暗闇では役に立たない。手探りで机の上を探り、どうにか携帯を手にしたとき、A子は部屋の中にいるもう一人の存在に気付いた。
今までこんなことはなかった。現れてもただこちらを見てくるだけで、決して自己を主張しなかった男の気配が、確かに感じられた。がくがくと震えながら、A子は後ろを振り返った。見てはいけないとわかっていても、自分のものではないように体が勝手に動いていく。
果たして、そこには男がいた。息がかかる程の間近に、いつものように顔だけが浮かんでいた。ただ、いつもと違うのは男の表情だった。ずっと無表情だったはずの顔は歓喜か、狂気か、得体のしれない感情に歪んでいた。ゆっくりと男が動く。見ることはできないが、その腕が自分に伸びていることがわかった。
そうしてA子は自分の結末を悟った。
「よくある話っすね」
静かに語り終えた冴崎の怪談を夜鷹が一言で締めた。
「いやいやいやいや、身も蓋もありませんよ、夜鷹さん」
「つっても、実際この手の怪談はよく聞く類のもんだろ。少しずつ近づいてくる系の。現代怪談だと、メリーさんあたりが代表格だな」
「言われてみると、確かにこういうじわじわくるのって日本的な怖さですよね。外国だと引き付けてわって感じで。でも何でわざわざ時間かけてくるんですかね。さっさとやっちゃえばいいのに。うわーって」
「……死者と生者だと距離感ってのが違うんだよ。こっちからすぐ近くに見えても向こうからは離れてるってことがよくある。もちろんその逆もな。簡単に近づくことはできねえけど、同じように近づかれたら引き離すのは難しいもんなんだ」
よっぽど身も蓋もない彩音には呆れたが、夜鷹は解説を入れた。さすがにここいらの話だと一家言がある。彩音もひねくれたことは言わず教わっておくことにした。
「んで、一応聞きますけど、これただの怪談話ってわけじゃないっすよね。今日は何も先輩とオカルト談議に花咲かしにきたわけじゃねえんすから」
「夜鷹くんが私のオカルト話に一度でも相槌以上のものをくれたことがあったかしら。心配しなくても、これは三週間前、川一つ向こうの西中で起きた話よ。小さいけれど、新聞にも載ったわね。女子中学生変死って」
冴崎は淡々としたものだった。どころか少し楽しそうですらある。霊害の犠牲者に関しては特に思うこともないらしい。
「ちなみに、この話はどちらから?」
「A子さん、ああ、本名は工藤楓さんというのだけれどね。この子が相談した友人の友人から聞いたの。ふふ、友人の友人なんて、まさしくフォークロアよね」
「どこまでが聞いた話で、どこからが脚色っすか? 最後の掴るとことかは先輩が作ったんでしょうけど、その前の死体を見つけた云々ってのは?」
「もちろん、本当よ。これも小さくニュースになった話だけどね。霊に憑かれる数日前、彼女は登校途中に死体を見つけているの。自分に憑いたのも、その男に違いないと周囲に漏らしていたらしいわ」
ちょっと待って、と一言断ってから冴崎は緩やかに立ち上がった。奥の机からノートPCを持って戻ると、夜鷹と彩音の前で休止状態から再開させた。ネットには繋げず、フォルダの中にある画像を開いた。新聞の切り抜きを読み込んだ2枚の画像。一つは女子中学生が自室で変死していたことを短く綴り、もう一つは中年男性の死体が用水路で見つかったことを記していた。白黒だが小さな顔写真も一緒に載っていた。
「長臣雄介、28歳。成人してるから名前も出てるわね」
「死体を見つけた少女が、その死体の霊にとり憑かれた、ってことですね。どうですか? 夜鷹さんとしての見解は」
「見解っつーほど大仰なもんはねえよ。それに言ったろ、よくある話だって。死ぬところ見るとか、死体を見つけたりすると縁ができやすくなるからな」
「縁、ですか。それがあると憑かれる可能性が高くなるってことですか?」
「もう半分憑かれてるようなもんだよ。よく言うだろ。道端で動物の死体とか見つけても手を合わせちゃいけないって。下手な同情はお互いのためにならねえっていう、いい訓戒だ」
「なるほどなるほど。何の感情も抱かず、踏みつけていけばいいということですね」
「お前は一度呪われろ。そうじゃなくて無視して通り過ぎりゃいいんだよ。それかちゃんとした手順で供養してやるかだな」
面倒くさそうにソファに身を沈め、夜鷹は霊感というものを周波数に例えて説明した。年齢や体質によって聞こえなくなるモスキート音を想像すれば理解しやすい。通常の人間には認識できない周波数を、霊感の強い人間は受け取ることができるのだという。そして霊感の弱い人間でも、ふとしたことがきっかけでそのチャンネルが合ってしまうことがあるのだと。それは特に霊に対して関心を持ったり、何か感情を抱いたりすると起こりやすく、そのことを指して夜鷹は「縁を結ぶ」という言葉を使っていた。
「大方、死体を見つけた時にでも同情しちまったんじゃねえの。それで波長が合って霊が寄り付いたんだろうぜ。暗がりに浮かぶ顔ってのも、最初に見た死体のイメージの反映だな」
実体を持たない、曖昧な存在である霊体は人々の持つ想いの影響をダイレクトに受ける。造形や特性に至るまで、人の認識によって変わってしまう。こと霊害において、ラベリング理論の正当性は広く認知されていた。
「不良だ不良だと思われていると本当にぐれてしまうっていう理論でしたっけ。それじゃあ夜鷹さんもそのうち本物の不良になっちゃいますね」
「霊と一緒にすんな」
菓子受けの飴玉を指で弾き、彩音の眉間に命中させた。思いの外いい音がして、彩音の顔が跳ね上がる。涙目で睨まれた。結構痛かったらしい。
「……本当にこの人は、女性に対する気遣いがまるでなっていませんね」
「さもお前が女性のような言い方だな」
「社会的に殺しますよ?」
氷のように冷たい笑顔を向けられた。険のない表情だが、目の奥が全く笑っていない。それ以上踏み込むのは危険だと察して、夜鷹は大人しく口を閉じた。益はなしと判断したのか、彩音もそれ以上追及はしてこなかった。代わりにこほん、と咳払いをして話を切り替えた。
「とりあえずこの怪談の筋が通っているのはわかりました。ただ、そうなると少し困ったことになりましたね」
「困ったこと、っつうと?」
「話が終わっちゃってるじゃないですか。A子さんが死体を見つけて、霊がとり憑いて、とり殺されて。私達の介入する余地がありませんよ」
彩音の求めていたのは、交通事故の絶えない交差点とか、近づいた者は呪われる廃屋とか、現在進行形で問題を起こしている霊害だった。確かに犠牲者は出ているものの、この件はここからどうすることもできない。正直なところ、彩音にとってハズレの扱いだった。
「あら、誰がこれでおしまいなんて言ったかしら」
ここにきて、今まで二人のやり取りを見守っていた冴崎が口を開いた。妖しげな微笑みを浮かべて彩音を見つめる。その艶やかさには同性ながら引き込まれるものがあった。
「ど、ういうことですか」
「まだ怪異は去っていない、ということよ。被害者の工藤楓さん、彼女は自分の友人達に相談したと言ったでしょう。そうするとね、出たらしいのよ。彼女が変死した後、話を聞いた友人の一人の前に。『暗がりの男』が」
「……ちっ、連鎖型かよ」
うっとおしそうに夜鷹は舌打ちをした。怪談の中にはその話を聞いた人間の元にも同様の怪異が起こるという類のものがある。もともとは聞き手を恐怖の当事者に巻き込む演出だが、先述のとおり霊は認識の影響を受ける。連鎖すると信じられた怪異は実際に連鎖するようになってしまうのである。場合によっては無尽蔵に被害が広がり手に負えなくなる、もっとも厄介な種類の霊害だった。
「そうね。ただ連鎖型は普通聞いた人全員に現れるものだけど、この話はどうしてかそのうちの一人だけなのよ。まあ、それでももう大変なことになっているけれど」
「大変って、今どうなっているんですか。その話を聞いたご友人というのは……?」
嫌な予感を抱えながらも、彩音は質問した。鼓動の高鳴りは不安だろうか、それとも期待だろうか。自分でも得体のしれない興奮を見抜いているように冴崎は薄く笑い平然と告げた。
「もう死んでるわ。二人目から話を聞いた、三人目もね。今頃は四人目に憑いてる頃じゃないかしら?」
その声色はどこか嬉しそうですらあった。