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紅い約束と契約の楽園  作者: 綾野柚月
第1幕 桜花の月7日 ラウファレナ
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海辺

 ラウファレナは砂浜をゆっくりとした足取りで歩いていた。白金の長い髪が緩やかな潮風に煽られ、大きな瞳は澄んだ紺碧の海の色を溶かしこんでいる。そして南国の民にあっては珍しい白い肌を持つ華奢な彼女は、誰もが見惚れる程の美少女だった。一度微笑みを受ければ、その美貌の虜になるだろうほどの。しかし、彼女の表情は硬く、影がさしたかのように暗く沈んでいた。


 海に来るのは本当に久しぶりのことだった。

 ラウファレナはこの海が大好きだった。全てを優しく包み込んでくれるような蒼が、大好きだった。そして空と海の蒼の溶け合う境界線をいつだったか、この世で一番美しい景色なのだと、彼女は得意げに恋人に自慢したこともあった。


 その海に、いつもは王宮の自分の部屋の窓から眺めているだけの海に、今日は女官や衛兵の目を盗みこっそりと王宮を抜け出してやってきた。いつもならばこうもあっさり抜け出すことはできなかっただろう。彼女はそれを許される身分ではなかったからだ。しかし今は事情が事情だけに四六時中彼女の動向を監視する者はいなかった。何故なら今、彼女の国は建国以来の大危機に晒されていたからだ。


 ラウファレナは普段は、独断でこのような勝手な振る舞いをする娘ではない。しかし今はどうしても一人になりたかった。恐らく現在王宮では彼女を探して大騒ぎになっていることだろう。こんな時に、と罪の意識を感じないわけではなかったが、気持ちを押さえこむことはできなかった。


 建国以来の危機とは、エルドーラ王である彼女の父が長患いの末に崩御した直後、隣国で建国以来の同盟国であるディスルが突然兵を率いて侵略を開始したことを指す。それに伴って、まだ父王の喪が明けないため即位出来ずにいた王太子ヴィルシリードとその弟王子のユージスカは正規軍の大半を連れて迎撃に出た。王妃はラウファレナを生んだ直後に亡くなり、二人の姉王女も既に降嫁して王籍を離れた今、王都ハサイアにいる直系の王族はラウファレナただ一人だった。


 迎撃に出た王子二人は恐らく帰還できないだろうと思われていた。何故ならエルドーラが半島の先端に位置する農業国であるのに対し、ディスルは半島の付根に位置する軍事国である。ディスルは領土の位置の関係から、何時大陸の強大国の争いに巻き込まれるかわからず、常に各地に軍を配置し、常時臨戦態勢を整えていた。その環境の差が今回の勢力差に繋がったのだろう。


 ラウファレナは王宮を出てから真っ直ぐにこの海へとやってきた。そして、白い浜辺を歩きながらこれまでの経緯を思い返していた。


 あまりに突然の裏切りだった。『約束』は永遠のものでなければならなかったはずだ。

 なのに、どうして、こんなことに―――――。


「やっぱりここにいらしたのね、ラウファレナ。貴女の姿が忽然と消えたから、王宮では大騒動よ。王女殿下がいなくなったって」

「……セリス……」


 優しい声に振りかえると、そこにはラウファレナのよく知る優しい笑みがあった。セリスは栗色の巻き毛を靡びかせる潮風から守るように片手で押えて、静かな海に視線を移す。セリスの目には穏やかな海が映っていたが、彼女自身の瞳の色は穏やかな海の様子とは程遠いものだった。


「すぐに見つかっちゃったわね」


 ラウファレナが苦笑して口を尖らせると、セリスは何でもないことのように平然と言い切った。


「私を甘く見ないでくださいませ、王女殿下。一体何年貴女との付き合いがあると思っているの? 貴女が幼少時に静養のため私の祖国ロドニアへいらしてからだから……もう10年以上にもなるのよ。私は貴女のことならここの誰よりもよく知っているつもりだわ。何しろ私は貴女の幼馴染の親友であり、今は側付きの女官もやってるのよ」

「そうね、セリスはロドニアでもここでも良くしてくれているわ。……それで、王宮ではそんなに大変なの?」


 不安げにラウファレナが訊くと、セリスは難しい顔をして頷いた。


「明日にでもディスルの本軍と接触するんじゃないかって報告があって、王宮ではその話で大混乱よ。貴族や裕福な市民は荷物を纏めて船の手配――はっきり言えば亡命の準備をしてるわ。今日の朝にも何隻か港を発ったから今後その動きが強まるのは必至ね。厄介なのはそれではなくて、亡命したくてもできない下層市民たちが暴動を起こし始めているの。今は小規模だけど、すぐにでもそれは別の暴動を誘発して大規模化するのは火を見るより明らかだわ。――皆、もっとしっかりした軍を備えていなかった王家の怠慢だって……」


 セリスの報告したことは、今回のディスルの進行が明るみに出た瞬間から予想していたことだった。だが予想していたこととはいえ、いざ起きると落胆は禁じえない。


 エルドーラはこれまで戦らしい戦もなく、外敵に対する備えよりも内政を重視してきた。歴代の王は善政を布き、国民からの支持も高かったが、それは半島における『約束』が絶対のものであると信じられたからだ。『約束』がなければ剣を持たないエルドーラは敵の侵攻に対して為す術がない。それでも、最近大陸の情勢がきな臭く何時大規模な戦争が勃発するかわからない状況なので、国交のある内陸のシャザール騎士団より将軍を招いて軍の再構成を図ったりしていたが、それも今後の盾を磨くためであり、剣を磨いでいたわけではない。


 民にとって国は自らを守ってくれるものである。民を守る力のない王など、民は必要とはしていない。いくら善政を布いていても、それは別の問題だ。それが判って、ラウファレナの絶望は深くなる。民のためにと日々心を砕き尽くしてきた亡き父王や死地に向かった兄王子たちが報われない。


「その大事な時に頼みの王女が忽然と姿を消したとあれば、王宮の混乱は予想できるでしょう。……でも、貴女の気持ちは痛いくらいにわかっているわ。独りになりたかったラウファレナの気持ちを……」


 潮風に煽られて海の彼方へ消えてしまいそうなほど儚く見えるラウファレナの細い躰を背中から包み込むように抱きしめて、セリスは声を詰まらせながら囁いた。


「ねえ、セリスあの話は本当なの? グラナートが、ディスルの軍を率いてエルドーラに攻め入って来たなんて……!」


 

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