約束(前)
「では何を望まれる? エルドーラのラウファレナ王女。俺が憎いならその剣で好きにするといい――抵抗などしないから」
グラナートはラウファレナに対して努めて穏やかな眼差しを注ぎながら、彼女の前で無防備に身を晒した。
「国が元通りになり兄様たちが帰ってこられるのなら、私はそうすることに何の躊躇いもなかったことでしょう……。けれど今更貴方を討ったところで、私にどのような利があるというのですか?」
グラナートの隙だらけの姿を冷めた目で見やって、ラウファレナは抑揚のない声で告げた。
「今ここではっきりと言えることは、もう私たちは昔には戻れないということだけ。私はエルドーラの王女、貴方はディスルの王子。それだけで辿るべき道は、二つに別れてしまった……そして、もう、永遠に交わることは……―――」
ラウファレナの声が次第に掠れ、途切れがちになったかと思った瞬間、彼女の体が均衡を失ってぐらりと揺れた。グラナートは反射的に腕を伸ばして、咄嗟にその華奢な体を抱きとめる。
「ラウファレナ、まさか君は!」
腕の中の少女の体温が、急速に失われていく様が触れた肌から直接感じられる。その先を予見して、グラナートはかつてないほどの恐慌状態に陥った。その様子を見つめるラウファレナの瞳に、もはやかつての輝きを見つけることがどうしてもできなかった。
「姉様に、もらったの。………楽に逝ける、って」
ラウファレナは窓際に置かれた机を指差す。机の上には小さな小瓶があり、その小瓶の中には琥珀色の液体が半分ほど残っていた。
「ほんと……に、未練ね。初めは短剣で喉を突くつもりだったのに。でも、これなら……遅行性らしいから、覚悟を決めたあとも少し時間が、あると、思って。そうしたら貴方に、一目でも会えるかも……恨みごとの一つでも言えるかもしれないって……」
グラナートの胸に小さな頭を預けて、ラウファレナはゆっくりと重い息を吐いた。
「解毒剤はないのか?! ないなら今すぐ毒を吐きだせ、ラウファレナっ!!」
「無茶を言わないで……もう、手遅れよ。毒はもう全身に回って……その証拠に、視界がこんなに霞んで、貴方の顔もよく見え…な……」
そっと伸ばされた冷たい手を震える手できつく、握り返す。
「嫌だ、こんなこと許さない! こんなこと、俺は君を救うためだけにここに来たんだ。君を護るために、自分を殺して、ここに来たのに……!!」
「……敵の将が何を言っているの? 私が死ねば、貴方の仕事は終わる。やっと、楽になれるじゃない? ……酷い顔色だわ、まるで貴方の方が今にも死んでしまいそう……」
「君が死んだら、俺はもう生きる意味を失ってしまう。君の死は、俺の死も同然――」
グラナートは子供のように大きく首を振った。今にも消えゆく命を懸命に引き留めようとするかのように。けれど一方でラウファレナは突き離すように、冷たい声で囁いた。
「冗談じゃないわ。私当分……できればもう永遠に貴方の顔なんて、見たくないのよ。だから、馬鹿な真似はしないで……」
一向に届かない想いがどうしようもなくもどかしく感じられる。何故解かってくれないのだろう、と。グラナートはただ、ラウファレナの幸せを願い、そして共に在ることだけを望んでいたというのに。彼の中で行き場を失った想いが堪え切れず、悲鳴を上げた。
「君は一体、俺に何を望んでいるんだ? どうすればいい? 頼む、教えてくれないか…?」
「……だから、私はここにいるわ。この大地に、永遠に。ねえ、約束、守ってほしいの」
「……約束……?」
グラナートは混乱する頭の中から縺れた記憶の糸を懸命に手繰り寄せた。
――――どんなことがあっても、必ず君を護るよ……
少年の舌足らずな声が、彼の脳裏に鮮明に蘇り、清水に落ちた滴の波紋のように静かに彼の心に広がって、溶け込んだ。
「……そう、約束。グラナート……私、ここにずっと……おねが……―――」
ラウファレナの眼差しが、哀願するような眼差しが真っ直ぐにグラナートの心を射抜いた。握った手に、微かに縋るように力が加わったような感覚――しかし、それも一瞬のことで、彼の胸に頭を預けて、ラウファレナは小さく息を零すとゆっくりと瞼を落とした。
「ラウファレナ?」
震える手を、ラウファレナの頬に伸ばす。一筋の涙が、彼女の頬を滑り落ち、グラナートの手を濡らした。
「……嫌だ」
グラナートはラウファレナの体温を失い冷たくなった頬を何度も撫でる。
「嫌だ、嫌だ、嫌だっ!!」
目の前の事実をどうしても受け入れることが出来なくて、グラナートは万感の想いを込めてラウファレナを抱きしめた。どうして、何故、疑問符が嵐のように脳裏に吹き荒れて、このまま狂ってしまえたらと思う。けれど、それは彼女の本意でない。
(君は酷い人だ)
――こんな自分を独り、置き去りにして。
(いや、酷いのは俺のほうだ……)
――君から全てを奪った。祖国も、家族も、その命でさえも。命じたのは父王。けれどここに来たのは自分の意思だ。あの時、やはり父王の命などに従わず、いっそのこと奴を討ってしまえばよかった。君を失うくらいなら、君の他に大切なものなど何もありはしないのに。
(約束を、と君は言った。自ら命を絶った者は、魂に翼を授かれない――天に、還れない。その魂は永遠に大地に、このエルドーラの地に縛られ、眠るのだろう。それなら……)
グラナートはラウファレナの亡骸を抱き上げて、そっと側の長椅子に横たえた。
その顔は決して安らかではない。彼女が言っていたように、毒薬の苦しみはなかったかもしれない。けれど、ラウファレナを縛る王女という名の鎖が彼女を傷つけ、苦しめていたことは想像に難くない。だがそれ以上に、何よりこの自分の存在が彼女を苦しめたはず。その贖罪はこの先の未来で必ず果たさなければならない。
「ラウファレナ」
グラナートは永眠る王女の側に跪く。
「ラウファレナ」
――もう、迷わないから。誓うから、その気高い御霊に。
グラナートは目を閉じて、最愛の王女に最後の口付けを落とした。