未来
とうとう一睡することもできないまま朝を迎えた時、ラウファレナの左目は永久に光を失った。というよりも、もっと前から既に失明していたかもしれないが、昨日の彼女はそれにすら気付かないほどに憔悴しきっており、明け方、朝日の柔らかさによって漸く落ち着きを取り戻した頃、やっと失明したことに気付いたのだった。
隻眼になってしまったという事実はラウファレナに特に大きな衝撃を与えるには至らなかった。どうせ永くないのだから、今更部品に欠陥ができたとしても大した問題には思えなかったからだ。
カーテンを勢いよく開け、朝日を全身に浴びる。そのあまりの眩しさに、彼女は思わず顔を背けた。一方でカーテンの端を強く握りしめて、ややもすればずるずると地の底まで埋没しそうな気持ちをどうにか落ち着かせようとした。
「―――――っ」
部屋の外から、複数の声がする。その声の中に意外なものを聞き分けて、ラウファレナは思わず扉を開いて廊下を窺った。
「ああ、ラウファレナっ!」
その瞬間を狙ったかのように、ラウファレナにあと数年歳を重ねたような容姿の美貌の貴婦人が両手を伸ばして抱きついてきた。華やかで甘い花の香りに、ラウファレナは知らず安堵している自分を感じた。
「シェリル姉様……、どうしてここに?」
既に降嫁して、臣籍に下ったとは言え血の繋がった姉の姿は、ラウファレナの想像以上に温かなものを彼女に与えた。7歳上のこの長姉はラウファレナの母代わりでもあった。作法には厳しい姉であったが、いつもラウファレナの弱い心を側で支えてくれる、大切な存在だった。そのシェリルはラウファレナの顔を見るなり顔色を変えた。
「その顔はどうしたの? ああ、何てこと。わたくしの大切な貴女の花の顔に、何てことなの!」
シェリルは震える指先で、ラウファレナの顔半分を覆う包帯にそっと触れた。その手に自分の手を重ねて、ラウファレナは当初からの疑問を繰り返した。
「それよりシェリル姉様、何故ここに?」
見上げてくる妹を抱きしめ直して、シェリルはとても熱の籠った声で答えた。
「勿論貴女を助けに来たのよ。今すぐわたくしと一緒に王都を発ちましょう。安心なさい、わたくしがきっと貴女をお守りするわ。卑劣なディスルの蛮族なんかに貴女の髪一房たりとも触れさせません」
シェリルはもう離さないとでもいうかのように、ラウファレナを抱きしめる腕を強めた。
「姉様、お義兄様――クジャイルド公爵はどうなさったの?ディスルに駐在されていたのでしょう? 今はどうしていらっしゃるの?」
ラウファレナは身を捩らせて姉の抱擁から逃れると、驚いて瞬きをしている姉を真っ直ぐに見つめて訊いた。
「公爵は港でわたくしたちが揃って来るのを待って下さっているわ。こちらで船も用意したのよ。それで公爵の御友人のいらっしゃる南方のイズミラ皇国へ落ち延びましょう。貴女は昨日民に言ったそうね、生なければ何も生み出さないと。わたくしも貴女に同じことを言って差し上げます。ここにいても何もならないわ。わたくしたちは貴女の未来も守りたいのよ」
姉の言葉にラウファレナは微笑んで、それでも毅然と首を横に振った。
「お気持ちは心から感謝します。けれど私はここを離れるつもりは全くないのです。自分で決めたのです。だから姉様がどれだけ説得さなっても、私はここに残ります」
「無駄死によ、命を無駄にするつもりなの?」
ラウファレナの明確な決意を知らされても、シェリルは頑なに首を振り続ける。
「どうして死に急ぐの?! それでは自殺ではないの!! 神の与えた命を自ら絶った者は死に翼を賜れないのよ? 翼がなければ魂は天に還れない、天に還れなければ新たな生を得られないのよ!」
「魂は駄目でも、想いはきっと姉様のところへ還って来るわ。そう……」
ラウファレナは屈んでシェリルの腹部に手を当て、悪戯っぽく囁いた。
「……ここから生まれ変わるわ。必ず姉様に会いに行きます。そう遠くない未来に、きっと。約束するから……」
「馬鹿だわ、貴女」
シェリルは零れ落ちる涙を拭おうともせず、妹の顔をじっと凝視する。どれだけ気持ちを込めて見つめても、ラウファレナの決意が揺るがないことを察して、俯いた。そして諦めたように溜息をついて、控えていた自分の侍女から小さな瓶を受け取り、そのままラウファレナの手に握らせる。彼女が手の中のものを確認しようとするより早く、シェリルは蓋をするようにもう片方の手を重ねた。
「もうこれ以上わたくしが心を尽くしてお話をしても気持ちはお変わりにならないのね。……本当は初めから貴女の気持ちが変わらないことは分かっていました。貴女は誇り高いエルドーラの王家の血を真っ直ぐに継ぐ王女。もし私が貴女の立場なら同じことをしたかのかもしれないわね。……これは本当は貴女に渡したくなかったけれど、でも」
シェリルが手を離したのでラウファレナは手の中にあるものを見た。それは小さな小瓶だった。瓶の中には毒々しいまでに鮮やかな琥珀色の液体が入っており、中で水面がどろりと揺れた。
「これなら、さほどの苦痛はないって……。ごめんなさい、即効性ではないのよ。でもこの瓶の半分ほどの量で充分に……っ」
シェリルは涙を拭って姉らしい、毅然とした態度を取ろうと試みたようだが、やはり堪えられなかったらしい。再びラウファレナの躰を強く抱きしめた。
「来て下さって本当にありがとうございます、姉様。最後にお会いできてとても嬉しかった――大好きよ、姉様」
ラウファレナは姉を帰すために扉のもとまで導いて、ゆっくりと自ら扉を開けた。
「ラウファレナ、貴女の思うようにすればいいのよ。もう、王女の立場を捨てたって構わないわ。だから、『ラウファレナ』として生きなさい。それくらい、誰も……神だって咎めないわ」
シェリルはラウファレナの両手を握りしめてそう囁くと、ここへ来た時と同じように騎士たちに連れられて長い廊下の向こうへ去って行った。