激情
―――――!!
視界で何かが閃いた、そう思った瞬間、灼けるような激しい熱が彼女を襲った。
「ラウファレナ様!! おいっ! その女を捕えろっ、早く取り押さえるんだ!!」
騎士たちが暴れる若い女を取り押さえている様子を、ラウファレナはぼんやりと他人事のように見つめていた。
「―――――?!」
左の視界が何故か妙にぼやけている。ラウファレナは不審に思って首を傾げた。どうやら熱いと思っていたのは左目を中心に額から頬にかけてだった。何気なく左目に手を伸ばす。触れた指先にぬるりとした嫌な感触がした。驚いて手に視線を落とすと、それは真っ赤な液体に濡れていた。
「――王女殿下っ!!」
騎士のひとりが駆け寄ってきて、その手を取る。顔を上げたラウファレナの顔を覗き込んで、彼は絶句した。王女の美しい貌には深く無残な傷痕が刻まれていた――額から頬にかけて、左目を縦断するように、紅く醜い軌跡が描かれていた。
「今更、そんなことしたって、今頃こんなことしてくれたってあの人はもう帰ってこないのよ。誰のせいだと思う?! あんな北の蛮族を信じたあんたたちのせいじゃないか! それに私は残るだって、恰好つけて。私は、皆も知ってるんだよ。あんたと、あのディスルの王子がイイ仲だってことくらい。あんたがここに残るのだって、恋人に逢いたいからなんでしょう?! いい子ぶって、所詮は只の小娘じゃないの、今更偽善者ぶったって――」
「――黙れ、女!!」
騎士が女の口を塞ぐ。
それを冷めた目で見つめながら、ラウファレナは心の中で何度も女の言葉を否定した。
(私は、違う。ここに残るのは、私が王女だから。そう決めたのは、私が最後の王族だから……)
左目から流れるのは、血なのか、紅い涙なのか。いずれにしても止まる気配のないそれを押さえる手が、急に震え出して止まらなくなった。一方で傷は不思議と痛みは感じなかった。全く痛みがないと言っても過言ではなかった。けれどその代わり、刺すような恐怖が高波のように押し寄せてきて、油断すれば意識を奪われそうになった。
「王女のお気持ちも何も知らないで!」
騎士の怒鳴る声がどこか遠くから聞こえてきて、同時に女の唸るような声も聞こえてくる。感情的になっている騎士に対して、ラウファレナは至って無感動だった。
「彼女を離しておやりなさい」
ラウファレナが静かにそう告げた時、騎士は耳を疑ったのか目を大きく見開いて振りかえり、眉を顰めてみせた。
「ラウファレナ様?」
「彼女を解放しておやりなさい。彼女を捕える理由が今の私にはありません」
「理由がないって……貴女を傷つけた、これ以上の理由が他にあると?」
「もはや私の存在はこの国の未来に何の変化ももたらさないでしょう。もう、私は今の私は貴方に護ってもらう価値のない人間なのです」
張り合いのないラウファレナの言葉は、必死になって王女を護ろうとした騎士の気を悪くさせたようだ。彼はしばらく無言で女を睨みつけていたが、他でもない主君の命である。彼は渋々ながら女を解放した。
「いい子ぶって、あんたなんかディスルの奴らにめちゃくちゃにされれて野たれ死ねばいいんだ。あたしの大事なあの人みたいに! 弔ってももらえず戦場でぼろ屑のように討ち捨てられた、あたしの愛しいあの人みたいに!!」
女はラウファレナの左目を傷つけたナイフを投げ捨てて、勢いよく逃げ出した。
それを無言で見逃して、ラウファレナは重い吐息を漏らした。
「傷を見せてください、ラウファレナ様。……眼球を傷つけていなければいいのですが」
年若い騎士が、近くの水道で湿らせていた手布で彼女の傷の周りの血を丁寧に拭き取って、慎重に傷の応急処置を行う。
「民を護る力のない王族など、この小石ほどの価値もない……そういうことです」
小さく呟いたラウファレナの言葉に、彼は納得いかないといった風に首を振った。
「そんな風に御自身を卑下されるのはおやめ下さい。王女は精一杯、民のことを考えて行動なさっているではありませんか。俺はこんなにか弱い王女が懸命になっている様を見ているのに何もできない自分が情けなくて悔しいのです。王女、何もかもをお一人で抱え込まれる必要はありません。微力でしょうが、支え手はここにもあるのです」
まだあどけなさの残る素直な笑みにつられて、ラウファレナも精一杯の笑みを返した。
「―――ありがとう」
しかし、内心はとても笑えるような状態ではなかった。今の女の取った行動は、他の誰かがもっと複数で取ってもおかしくない行動だったからだ。彼女の行動は爆発寸前だった民の想いを代表していたに過ぎない。むしろ左目程度で済んだことは幸運だったのかもしれない。民にあんな行動を取らせた原因は間違いなく施政者の失策が原因なのだ。
何百年か前に交わされた『約束』を過信し過ぎてしまった故に起こってしまった悲劇。
しかし、ラウファレナには直接関係ないと言ってしまうこともできたかもしれない。実際彼女はこのような事態になるまでは、王族とはいえ大臣たちよりも政治からは遠い場所に居たからだ。けれど、それでも敢えて最後の王族として憎しみの矢面に立つ覚悟を決めたからには、最後まで全うすべきだと思っていた。だがこうして実際民の前に立つことが、こんなにも辛いことであるとは思っていなかった。
ラウファレナはきり、と唇を噛んだ。
悔しいけれど、自分はあまりにも無力であるということを改めて痛感させられてしまった。
(皆、苦しんでいる。でも、私だって苦しい。皆は私に当たればいいけれど、私はこの胸の痛みのやり場を、どうやり過ごせばいいの)
思うまいと念じつつも、ついこぼしてしまいたくなる。その考え自体が、ラウファレナが王族たるに相応しくないと知っていても。
(だめよ、私はエルドーラの最後の王女。無念のうちに命を落とした兄様たちの分も、私がやり遂げなければ。貴女は誰なの? しっかりしなさい!)
自分自身を叱咤しながら、どうしようもなく制御の出来ない感情をどうにかして抑え込んで堪える。
「王女、王宮へ戻りましょう。此処では十分な手当てが出来ません。手遅れにならないうちに、どうか」
ラウファレナの傷の手当てをしてくれていた若い騎士がそっと促す。差し出された手を取り、再び馬の背に乗って王宮への帰路を急いだ。
ラウファレナは馬上から一度だけ、街を振り返った。
人のいなくなった、時間が止まったかのような静寂の街を。もうすぐ息絶える瀕死の街を、その最期の姿をしっかりとその目に焼き付けるために。
出航の合図が港に響いたのは、その日の深夜のことだった。
王宮のテラスから慌ただしく出航していく船の群を、彼女は独り見送った。残留を強固に希望する者の他は、船と共にこの海の果てへと逃げ延びる。
もはや彼ら個々の幸せを願う心の余裕はラウファレナにはなかった。それを望むことは酷なことだろう。彼女とて、自身の弱さに心を蝕まれ正気を保つことが精一杯だったからだ。
それを責めるものなど何人であってもできないはずだ。例え誰であっても。