覚悟
馬の背に乗せられて王宮前広場に着いた時、一瞬その場の空気が凍りついた。唯らなぬ空気に、ラウファレナは嵐の前兆を予感して身震いし、思わず外套の合わせをかき寄せた。
空はどんよりと曇り、今にも雨が降りだしそうに暗い。まだ本格的な春には至っていないが、ここの温度は集まった民たちの熱気で他よりも高いのだろう。しかし、ラウファレナにとっては人々の熱気が、北風のように鋭く、冷たく肌を刺すように感じられた。
ここに集まった民のほとんどが貧しい貧民階級の者だ。侵略の足音を間近に聞いても、逃げるあてもなく、絶望を怒りに代えて叫ぶことしかできない人々。貴族や富裕層が我先に逃げていく様を見送りながら、そうすることのできない自身の無力さに嘆くばかりの人々だ。
「今日は皆さんに大切な話があって参りました。どうか私の話を聞いてください」
ラウファレナが馬から降りて声を張り上げる。その瞬間、王女直々の登場に沈黙していた民たちが一斉に、込み上げてきたものを一気にぶつけるように叫び声を上げた。
「この税金泥棒め! お前たち王族を信用しきっていたらこのザマだ。こんな事態になってどう責任を取ってくれるんだ!!」
中年の男の低い罵声が、市民たちの感情の引き金をさらに引いた。
これまでは民の生活を大事に、無理な税も取らず、内政に尽くしてきた王を慕っていたはずの民の掌を返したような態度に、ラウファレナは遣る瀬ない感情を持て余しかけた。しかし、彼らの言うように、その領土が直接内陸の脅威に晒されない位置にあったため、『約束』を過信しすぎて、自らを護る剣を磨いでおかなかった王家にも非は多大にある。
「どうしてくれるんだ!! 俺たちの生活を、未来を返せ!」
ラウファレナを取り囲むように居並ぶ民の中の一人が、罵声を上げながら今度は足元に転がっていた小石を拾い上げてはラウファレナへと投げつけた。幸い、その石はラウファレナに当たることはなかったが、周囲に居た者たちが一斉にそれに倣い、同じようにラウファレナに向かって石を投げつけ始めた。
彼らとて、本当に憎むべきなのは今目の前に立っている小さな王女ではなく、背後から迫り来る隣国の猛威であることは分かっていた。本来なら、国の臣民として共に敵に立ち向かわなければならないことを。しかし、国軍は敗れ、国を護るはずの貴族たちは国を捨て、自分たちを置き去りにして逃げた。その憎悪を吐け口を、この王女にぶつけるしか術はなかったのだ。
そのことは、ラウファレナも理解していた。
国を思う者は迎撃に出て戻らず、国に忠の薄いものは我が身かわいさに我先に逃亡した。
僅かに残る王都防衛の騎士たちも、圧倒的なディスル軍の前にはあまりにも無力だ。
もはや国を護るものは何もなくなってしまった。
「ラウファレナ王女、危険ですからどうかわたしの後ろへ下がって下さい」
「いいえ、構いません。このままで」
ラウファレナは小さく首を振って護衛騎士の申し出を退けた。
ついに民の投げた小石がラウファレナの右肩に命中したが、彼女は僅かに眉を顰めただけで、さらに投げつけられる罵声や投石に怯むことなく前へ進み出て、ここへ赴いた目的を果たしに掛かった。すなわち、民たちにこの国のありのままの現状を包み隠さず説明し、ファシリスへの亡命を勧めるのだ。
はじめ、もはやエルドーラは国としての機能を果たす事はもはや不可能であること、国境から敗戦が続き、敵軍は王都間近まで迫っていること、二人の兄王子の戦死などを告げている間、民たちは口汚く罵り続けていた。だが、ラウファレナがファシリス王との遣り取りの結果、ファシリス王が民の亡命受け入れを快諾したことを告げると、急に静かになった。いつの間にか彼らはラウファレナの声に静かに耳を傾け始める。
「――ですから、この王都を出て生き延びてください。積める限りの財を船に乗せさせました。ファシリス王へ献上した後のものは、貴方がたの今後の生活のためにお好きにして頂いて結構です。今までと環境が変わり、御苦労されることも多いことでしょう。しかし、生きていさえすれば、いつかきっといいことがあると私は信じたいのです。懸命に生きようとする民には神は必ずや慈悲を与えてくださる。我ら契約の民の未来を、神はきっと祝福してくださいます。この王都への愛着は分かります。でも命がなければ未来をも失ってしまう。ですから、用意した船に乗って今すぐここから逃げ延びて下さい」
ラウファレナは懸命に訴えた。彼らの本当の望みは、今までの生活の継続であることは分かっている。けれどその望みはもはや神でなければ叶えられない。だから、これが王女として彼女が出来る精一杯のことだった。
だからどうかこの想いを理解して、受け入れてほしい。
「それで王女様は俺たちを一緒に連れて行ってくれるというのかい?」
彼女を囲む民の中から、そんな声が静かに投げかけられた。年若い、まだ少年のようだ。少年は表情を変えずに、正面から真っ直ぐにラウファレナを見据えた。その声には皮肉がたっぷりと染み込まれている。
「――いいえ」
ラウファレナは小さく微笑んだ。
ひどく綺麗な微笑みだった。とても高貴で凛とした。しかしその反面、硝子細工のように儚い微笑みにも見えた。
「私はファシリスへは参りません。エルドーラに、ここに残ります。ここには私を生み出してくれた全てがあります。いわば私の親、私自身。それを置いて他にいくことなどどうして出来ましょう。私は最後の王族として、この国の最期を看取る義務があると思っています」
ラウファレナの揺るぎのない口調に、その場にいた誰もが何も口を挟むことができなかった。
やがて、その静寂を王女の説得に応じたものと理解した騎士たちが、広場に集まった民衆の誘導を始める。そして人影も疎らになってきたころ、側に付いていた護衛騎士のひとりがラウファレナに優しく声をかけた。
「御立派でしたよ、ラウファレナ王女。わたしは貴女のような方にこうしてお仕えすることが出来たことを、この先一生誇りに思うことでしょう」
崇拝するような、熱の籠った囁きに、ラウファレナは応えることもできず俯いた。
(違う、皆誤解している。私は………)
「――お優しい、御立派な王女様……」
突然背後から掛けられた若い女の声に、ラウファレナは思わず反射的に振り返ってしまった。