王族
天窓から差し込む光はこんな時にでも、いつもと変わりなく優しかった。
誰もいない大聖堂。どんな時でもこの場所は神聖な空気に満ちている。
しかし、神聖さとこの全てが凍てついたような静寂は、かえって彼女が懸命になって抑えつけている恐怖心や不安をどうしようもなく掻き立てた。
「神よ……どうか……」
今や縋りつくことのできるのは、もはや神のみ。
神に祈りを捧げることで、奇跡が起きて全ての悪夢から醒めかつての平穏を取り戻すことができるなどと、非現実的で楽観的な夢想を抱いているわけではない。
それでも何かに縋り、祈らなければ自分を保つことはできそうになかったのだ。
ラウファレナは両手を合わせ、ただただ一心に神に祈りを捧げ続けていた。
けれど祈りの言葉は尽きた。一体何をどう祈ればいいのか、分からなくなってしまった。
(私は、この国の全ての幸せを心から望んでいる、はず……なのに……)
ふと脳裏に浮かぶのは愛しい横顔。
優しい、琥珀色の瞳。名を囁く、テノール。
グラナートは今、どこで何をしているのだろう。怪我をしていないだろうか。体調はどうだろう。いつも自分のことは後回しにして、周囲に気を遣り、無理をしすぎる傾向にあった彼のことだ。最後に交わした手紙の内容から推察すると、遠征から戻って来たばかりだったはず。疲労も相当なものだろうに。
(私は、王族に相応しくない。自国の心配よりも、今自国に剣を向けている敵将の心配ばかりしてしまう)
即位こそしていないものの、今やラウファレナは事実上このエルドーラの女王だ。このような国家最大の危機にあって、他に考えることなどあっていいはずがない。
(なのに私は……――)
ラウファレナは自分が自分で理解できなくなった。
思わず天井を仰ぐと、美しいステンドグラスの天窓から、息を飲むほどに美しい光が彼女の顔を照らし、その眩しさに目を伏せる。
もうどうにかなってしまいそうだった。
独りでは到底抱えきれない重圧を、何の準備もなく背負わざるを得なくなり、ラウファレナは今、その対処に困って途方に暮れる。
所詮、自分は非凡な一八歳の娘に過ぎないのか。
この大聖堂の外、王宮を囲む市街では亡命することも叶わなかった貧しい市民たちがやり場のない怒りをぶつけている――暴動が、小さなそれを巻き込みながらやがて巨大なものに成長して、その牙は今は真っ直ぐに彼女に向けられている。
(ディスルの軍に討たれるよりも早く、私はエルドーラの民に討たれるのかもしれない…)
市民の敵意をひしひしと感じる度に、ラウファレナはどうしようもない思いを抱えて大聖堂の礼拝堂に籠るのだ。いわば此処は逃げ場だった。しかし、逃げている場合ではないことは、彼女とて重々承知している。王族として、この状況をどうにかしなければならない。自分の果たすべきことは、できることは何かあるはずだと、出来る限りの手は打っている。
「ラウファレナ王女殿下」
声に振りかえると、見事な鷹を肩に乗せた騎士が礼拝堂の入口で跪いていた。
「ファシリスから鷹が帰ってきました。こうしてファシリス王の親書を携えて」
そう言って彼は肩に乗るデュランの翼にそっと触れる。デュランは大きな翼を広げ、さしのばされたラウファレナの腕にとまった。彼女がデュランの足に付けられた親書を解くと、彼は一度羽ばたいてラウファレナの肩に移動した。
「…………」
略式の親書の上にさっと視線を走らせて、内容を確認する。読後、ラウファレナは思わず大きく息をついた。
「商戦を装ったファシリスの船群は既に港から見える位置まで来ております」
騎士の報告にラウファレナは無言で頷いた。
ユージスカの死後直ぐ、ラウファレナは大陸西部の友好国・ファシリスの王に宛てて親書を送った。ファシリス王はラウファレナの母の弟であり、叔父にあたる。何度か面識があり、早くに亡くした姉の面影あると、とても可愛がってもらった記憶があった。そのファシリス王へ、最初で最後のお願いをしたためた。どうか、エルドーラの民を助けてほしい、民の亡命を受け入れてほしい、と。そしてその返答は「是」であった。それだけでなく彼は、民の為の船まで用意してくれた。さらにはラウファレナ自身の亡命も受け入れるとあったが、これについてはラウファレナには思うところがあったので辞退するつもりだ。
「ラウファレナ様、このこと、市民にはどう伝達なさいますか?」
いつもならこういった伝達行為を担当してきた国務大臣が既にどこかへ亡命してしまったので、どうすればよいのか要領を得ない騎士は恐縮してラウファレナに訊いた。
「私が、いたします。民へのお詫びも兼ね、このことを直接彼らに伝えましょう」
「ですがラウファレナ様、今の状態では――」
身の安全を保証致しかねます、騎士はその言葉を寸でのところで飲み込んだ。それは今、言ってはいけない言葉だと思ったからだ。そんなことを王女は十二分に理解して、自らの身を顧みず、行うと言っているのだから。
「民の怒りを受け止め、結果にそれで我が身に受けるものであれば何であれ、私の王族としての務めとして受け入れましょう」
穏やかに、少なくとも表面上はそう見えるように精一杯の演技をして、彼女は告げた。
「我々に何かお手伝いできることはございませんか? 勿論ラウファレナ様の護衛は致します。それ以外のことがございましたら如何様にもお命じください」
「では、宝物殿を開けて、中のものを出来る限り船に積んで下さい。ああ、母の遺品は必ず乗せて下さいね。ファシリス王が以前から少しなりとも譲り受けたいとおっしゃっておられたから……。でも、財よりも民を優先するように配慮くださいね、一刻も早く、お願いできますか?」
この国で最も貴い王女にこんなふうに頼まれて、断れる者などいないだろうと騎士は思った。同時にまだ花開くまでの蕾のような王女が、今のような絶望的な境遇にいることに、彼は神の無慈悲を恨まずにはいられなかった。
「畏まりました」
彼は深々と作法に則った騎士の礼を取ると、ラウファレナの命を叶えるため礼拝堂を後にした。
そしてラウファレナ自身もその後すぐに迎えに来た他の騎士たちと共に、市民たちが暴動を起こしている王宮前の広場へと急いだ。