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贖罪

 わたしの右目は、しっかりと斜陽の赤光を溶かしこんだ海を捉えていた。

 海はあの日と同じく鮮血のような深紅に染まり、その営みは悲しいほどに静かで、どこまでも果てしなく穏やかだった。


 ここにわたしが佇み始めて、もうどれほどの時間が経ったのだろう。

 あの薬が全身に回りきるまでには、まだもう少し時間がある。そう思ってこの思い出深い、懐かしい蒼い海を目指したのはまだ、紅い太陽が眩い黄金の輝きに包まれていた頃だったか。

 この海に着くまでに通り抜けたかつての都の街並みは、この海岸に面した、今わたしの背後にある悲しい景色は、わたしの知るかつての姿とは全く別のものと化していたが、この海だけはそのままの姿で、ここに存在していた。訪れるものが少ない分だけ、怖いほどに静かで、波の音が重く切なげな余韻を引き摺りながら、ただゆっくりと単調な営みを繰り返しているだけで。


 海に面した絶壁の上に、わたしは無言で佇んでいた。

 そして、わたしはわたし自身の『巨大な墓標』を背にして、自身の罪と正面から真っ直ぐに対峙していた。


 罪の証は、この失われた左の眼窩。あの日(・・・)に光を失ったそれは、わたしの老いて深い皺が刻まれた貌に、今でも大きくはっきりとした傷痕を残している。

 わたしは静かに瞳を閉じた。

 ほんの少し想いを馳せれば何時でも鮮明に蘇る、あの罪の記憶。

 ゆっくりと、震える手を伸ばして、私は『罪』に触れた。ひやりとした冷たい指先が、他人のもののようで、正直ゾッとした。



 ――神は時の王と契約した

  大地に注がれる(いのち)を糧に、死の大地を蘇らせ、

  尽きぬ豊穣を永久に与え続けることを

  繰り返される戦禍は全て神の御意

  止めてはならぬ、全ては運命

  止めてはならぬ、これは神との神聖な契約

  永遠の楽園を希うのであれば……――


 わたしはふと古い伝承の一節を思い出した。確か「大陸神記」の一篇だったか。契約の楽園とかいう主題の逸話で、何だか残酷な話だと幼心に思った記憶がある。誰が伝えたかは知らないが、この残酷な伝承は絶えることのない戦禍の代償に散る命を『神への供物』として、民の目から逸らし正当化するために紡ぎあげた暗幕ではなかろうか。人々の目から真実(ひかり)を隠すための……。

 悠久の時の中で何時までも風化されずに留まれるものなど何もなく、形なきものも、いつかは消えて失われる。所詮、自分でない誰かと永遠を望むこと自体が甘い幻想なのかもしれない。けれど、人は愚かにも楽園への憧憬を失うことができなくて約束を交わし、裏切りもする。そしてその代償に多くの血が大地に流れ、命は天に還る。そして命はまた天より大地に舞い降りる。

 全ては、神の手の中で繰り返されることなのだ。


 突然、背後から大聖堂の鐘の音が重く圧し掛かるように低く響き渡り、わたしは否応なしに現実に引き戻される。いつの間にか、海はその色彩を変えていた。深紅から、紫紺へ、そして漆黒へと。

 気付くと右目の映す世界が霞み始めていた。同時に体の端々から全身へからめ捕るような痺れが走り、激しい嘔吐感がわたしを襲った。


 (……薬が、効いてきたのか……?)


 わたしは深い皺の刻まれた顔に、さらに小さなそれを新たに口元に刻んだ。

 やっと終わらせることが出来る、そのことへのささやかな安堵と、深い罪悪感に。

 徐々にわたしの世界が闇に浸食され始める。夜の訪れか――それとも……?


 わたしは一歩前に歩を進める――直後、わたしの体は激しい落下感を覚えた。しかし、『わたし自身』は清浄な大気に包まれてその場に留まっていた。


 『わたし』がゆっくりと波にのまれていく様を見下ろして、わたしは微かな笑みを浮かべた。悲しいくらいに、自然に笑みがこぼれた。こんなに綺麗に微笑めたのは一体何時ぶりのことだろう。


 わたしは空を仰ぎ一呼吸すると、大地にひれ伏すように跪いた。躰がゆっくりと大地へと吸い込まれていく感触がする。自ら命を絶った者は天に還ることを許されない。大地の一部となり、この世の終わりまで永遠に大地に留まり続けるのだ。

 だからわたしは永遠にこの地にあって、あなたと共に,あなたの愛した大地を永遠に守り続けるのだ。


 やがて、『わたし』の姿が波に抱かれて見えなくなる。『わたし』をのみ込んだ海は、何事もなかったかのように、その営みを続行する。



 ただ、波の音がいつもより哀しげに響いたような気がしたのは――泣いているように聞こえたのは、誰の想いに呼応してのことなのだろうか……?




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