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五 微かな芽生え

「へえ、そんなことまでわかんのか」


 文を並べ、感心するのはたける皇子である。

 先日、音橘おとたちばな女手かな文字の文を男が書いたものと当てたことから、いろいろな人物が書いた書や文を持ってきては、どんな人物が書いたのか聞いてくるのだ。

 何かの遊戯とでも思っているらしい。


(これくらいは誰でもわかるのに)


 文からどんな人物が書いたのか想像をするのは、貴族として皆がやっていることである。夜這まで相手がどんな顔をしているのかわからないでやり取りをする、そんな時代だ。音橘ほどの観察眼はなくとも、多くのものはそれがどんな人物が書いたのかおおよその想像くらいできよう。


 まあ、健皇子が以前音橘に送った文を見れば、あまりそのようなことが好きでないことがわかるが。

 恰好といい、あまりに規格外すぎる皇子である。


 健皇子は、今日は珍しく早い時間に帰ってきた。何やら香ばしいいい匂いのするものを持って帰ってきたので、腹の虫が人一倍正直な音橘は、ぐぅ、という音で土産物を催促した。


 真っ赤になる音橘を笑いながら見る健皇子は、筍の皮に包まれたそれを見せた。


 そこには、やんごとなき屋敷にあるまじきものがあった。


(じ、獣肉!)


 仏の道に反するものである。庶民ならともかく、貴族や皇族が口にするものではない。貴族や皇族の食事は細かく儀礼が決まっており、その食材もいろいろな制約を受ける。

なのに、この皇子ときたら、あんぐりと大口を開けて串焼きを食べている。


 さすがばさら者だ、常識というものからかけ離れている。


 もしかして、毎日屋敷に帰るとみそぎをするのは、外で食べてきた獣肉の匂いを消すためなのかもしれない。


「うまいぞ、ちょっと味が薄いからこれつけてくれや」


 そうやって差し出すのは塩だ。庶民には塩は高級品なので、味付けが薄いのだろう。


(そ、そんなこと)


 できるわけない、と言いたいところだが、食べ盛りかつ恵まれない境遇に育まれた食い意地は、腹音として意思表示するのだった。


 角切りにされた肉が串に刺さり、てらりと油で輝いている。ほんのりついた焦げ目、香ばしい匂いが鼻腔をくすぐる。


 その結果。


「なあ、うまいだろ?」


 音橘は泣きながら串焼きを食べていた。

 それは大層うまかった。残ったすべてを平らげてしまった。

 まだ若い獣であろうか、肉は柔らかく奥歯を噛みしめるとあふれる肉汁、なにより焼かれてからさほど時間が経っておらず温かかった。

 何事も儀式的に扱う生活のため、食事は冷えている場合が多かった。


(お父さま、お母さま、もう私はそちらにはいけません)

 

 音橘は仏の道を反してしまった。極楽浄土には行けまい。

 口に頬張ったそれは、確かに美味だった。音橘が誘惑に負けるのも無理はなかった。


 そんな回想はさておき、健皇子はまた新しく書を持ってきた。今度は二つ、一つは手紙でもう一つは書類のようである。


「なあ、この文の主とこの書類の署名サイン。同じ人物が書いたと思うか?」


 試すような口ぶりに音橘はぞくりとした。

 そう、先ほどまでのべた褒めは前振りであり、本題はこちらであろう。


 笑いながらも目は真剣な健皇子。そんな皇子に音橘は逆らえるわけもない。


音橘はじっと書面を見比べると、砂箱に指を滑らせる。


『四半時お待ちください』


 と。






 署名を見る。そこには、実名とともに花押かおうが併記されていた。花押とは、実名二字から図案化したもので、実名の代わりに書かれるものである。


(花押と併記ねえ)


 音橘は一度、それは脇に置いて、実名と文の字を見比べる。実名に使われている字は、文には使われていないが、同じ部首を探してそれを見比べる。また、文字の流れを見る。


(よく似ているけど)


 なんだか違う。

 文字の勢いというのだろうか、文は走り抜けるような爽快感があるのに対し、署名のほうは恐る恐るという感じだ。それらは、文字のはねの勢いや筆圧にわずかながら変化をもたらしている。


(代書屋の仕事だろうな)


 本業としてやってきたからわかることだ。素人目では、気づくことはまずないだろう。


 それなのに、健皇子はわざわざ音橘を試す真似をして調べさせた。

 つまり、それを疑うようなことがあったということだろう。


 仲介屋がよくそんな仕事を持ってきていたが、良く考えると悪い片棒を担がされていたのかもしれない。当時は、明日のご飯のためだけに、がむしゃらに仕事をしていたのだが。


(もし、代書屋の仕事がばれたら)


 ぞくり、と背中から嫌な汗が流れる。

 きりきりと腹が痛み、癪を起こしそうになる。


 背後では、にこにこと笑う健皇子。


 間違っても今更わかりませんとはいえる雰囲気でない。


 音橘は思考を切り替える。音橘が代書屋をやっていることを知るのは、乳母めのと千草ちぐさと仲介屋の女くらいだ。千草が音橘の不利になるようなことは言わないだろうし、仲介屋はこの屋敷にいる限り現れない。たとえ、元の屋敷に戻っても、健皇子のはからいで新しく使用人を雇えば、仲介屋がやってくることもないだろう。

 仲介屋とて、危ない橋を渡っているのだ。


(大丈夫、ばれやしない)


 そのように心を落ち着ける。


 改めて音橘は署名を見る。名前を見る限り、貴族の名であるが。

 実名と花押の併記は貴族がやるものではない。庶民なら、そんな併記を行うところだが。


(代書屋が知らずに書いた?)


 庶民の代書屋ならありうるかもしれない。しかし、それを頼む側が見落とす可能性を考えると。


武士もののふの輩かな?)


 武士も平民と同様、実名と花押を併記して書くことがある。

 そして、健皇子の所属が検非違使けびいしとなれば、その構成の多くは武士である。


 つまり、音橘の見解では、貴族の署名を武士が民間の代書屋に頼んで書いてもらったということになる。

 あくまで、今ある中で考えられる想像であり、絶対は言いきれない。


 その前置きを健皇子に伝えると、


「問題ないから教えてくれ」


 と、言われた。

 音橘は、より細かく伝えるために、もったいないが紙に書いて渡した。


「ふうん」


 健皇子は、全文を読み終わるとびりびり破いて屑籠に捨てる。


(も、もったいない)


 文字を潰せばまだ紙屑屋に売れるというのに。

 いまだ貧乏性がなおらない音橘は、名残惜しそうに屑籠を眺める。


「これは面白いことになりそうだ」


 健皇子は犬歯をきらりと輝かせて笑う。その獲物を狩る獣のような笑いに、音橘はびくりと肩を震わせる。


(何が楽しいの?)


 何事も楽しく感じる前向きさを理解できない一方で、うらやましく思う。

 諦めと言う言葉が根付いた音橘にとってそれは、自分に足りないものであることに違いない。

 もし、それが自分にあれば、父母の死後、めそめそと泣き続け、挙句、財産をほとんど奪われることもなかったのかもしれない。


 同じ秘密を持ちながら、まったく違う環境で育った皇子。

 性格もまったく違う、考え方も違う。


 音橘は思う、このような皇子と本当に夫婦めおととなれるのだろうか、と。


 そして、皇子は一体、何を考えているのか、と。


(まったくわからない)


 音橘には未知の領域だ。

 本来段階を踏むべき、恋というものを排除した結婚は、音橘に混乱しか呼びこまない。

 何をすればよいか、どう動けばよいか、わからないのだ。


 精神的なそれがまったく発展していないその状態で、肉体的なそれに進むことは不可能だった。音橘はそれを行うにはあまりに初心うぶすぎるのである。


 いきいきとした健皇子を見て音橘はそんなことを感じていた。


 健皇子は、ぶつぶつと顎を撫でながら考え事をしている。自分の思考にふけり、音橘の存在を忘れているようにさえ見えた。

 それが少しさみしく思え、同時に自分がここにいると主張したかったが、そんなことはできるわけがない。


(私はどうすればいい?)


 何をすればいいのかわからない。

 でも、少しだけ思ったことがある。


(今、皇子は喜んでいる)


 自分の存在が必要だと言ってくれた人、その人が自分の考えを聞いて喜んでいる。

 それは、ほんの些細なことであるようだが、音橘には重要なことだった。


 いらない存在だったのに、それを必要としてもらえること、そんなことが。


(もし、もっと私が皇子の役に立つことをすれば)


 もっと自分を見てくれるだろうか、と。


 浮かんでしまった己の欲に気が付くと、音橘はほんのりと顔を染めてしまった。


「おっ、どうかしたか?」


 音橘の変化に気づき、健皇子が視線をやる。


(なんでもありません)


 音橘は、扇でそっと顔を隠すと、指先でそう書いて見せた。


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