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四 恋文

「いいですか、姫さま」


 音橘おとたちばなは、正座をし、千草ちぐさのお説教を受けていた。

 千草のその手には、人形が二つあり、重ね合わせるようにくっつけている。


「子とは、神仏に祈ればできるものではありません。やることやらねば、できないのです」


 乳母めのとたるこの女は、三人の子持ちである。病弱な音橘の母に代わり、音橘に乳を飲ませるために、出産時期を調整したほどの乳母たる乳母である。


 そんな乳母は、言うまでもなく昨晩、壁に耳をそばだてていたようだ。


 千草の言葉の意味はわからなくもない。しかし、人形をつかいあからさまにねやの状況を表して見せたり、どこから手に入れたのかおそくずの絵、つまり男女同衾の絵を持ってきたり。

 音橘は白い頬を真っ赤に染め、まつげを伏せてしまう。


 昨晩もそうであったが、子ができるようなことはしなかった。

 伴侶たるたける皇子は、何もすることなく、あかつきの時刻には起き出て行ってしまう。


 健皇子は検非違使けびいしを束ねる立場にあるという。検非違使といえば、治安を守るという大切な仕事でありながら、血の流れにつながる職であるため貴族から嫌われる傾向にある。おそらく、やっていることはほとんど机仕事デスクワークなのだろうが、それでも今上みかどの第二子がつく職ではない気がする。


(やはり、帝はご存じなのだろうか?)


 何を、といえば、健皇子の秘密の件である。であれば、納得いかないこともないが、それは同時に、音橘の秘密も知られている可能性もあるということだ。


(それは怖い)


 ぶるりと身を震わせる音橘に、


「聞いているのですか? 姫」


 教育乳母と化した千草が、半眼で音橘を見ていた。

 





「手入れが楽でいいわね」


 そんな言葉が聞こえてくる。

 声の主は、女房の一人だ。洗濯係である下人の女に話しかけているようだ。

 わざわざ音橘の部屋の近くで呼び止めて話しかけるところがみそである。


 何が楽かといえば、褥のことだろう。睦言むつごとがあるのとないのとでは、前者のほうが汚れているものである。

 つまりは、「あらやだ、御手付きもなしに正妻ぶってんじゃないわよ、あんたを主とか認めないんだからね」とでも言いたいのだろう。


 普通、夫の家に妻が呼ばれるのは、妻の家に夫がしばらく通ってからである。その期間はまちまちであり、数か月から数年という。そのあいだに相手との相性などを見て、正妻にするかしないか決めるのだろう。


 女房は多くの場合、貴族出身者からなる。屋敷の中でもちゃんと部屋を与えられる。

 あわよくば主人の妾になることもある女房であるが、ふってわいたような健皇子と音橘の結婚に対して快く思うまい。


 女房たちのまるで狐狸が鼠を狙うような目つきは、健皇子に向けられていた。

 例え冷遇されていても帝の第二子である。健皇子の兄である東宮は、幼い頃より身体が弱くまだ子もなしていない。

 情勢次第では、国母となれる可能性も無きにしも非ず。


(それは勘弁していただきたい)


 音橘としては、子は作らねばならないが、その子どもが帝となるようなことになってはならないと考えている。


 一通りの嫌味を聞き終えたところで、昼になろうとしていた。

 貴族の出仕は、大体午前中で終わる。


 午後からどこかにぶらりと出かけて行っているのだろうか、健皇子が帰ってくるのは暮前である。


 妹背が何をしているのかもわからない、何を考えているかもわからない。

 それが音橘の現状である。






「ちぃと風呂に入ってくるわ」


 帰るなり健皇子はそういって湯殿に向かった。健皇子の言う風呂というのは、蒸し風呂ではなく湯浴みである。貴族でも蒸し風呂を数日に一度しか入らないのに、毎日湯殿につかる健皇子はある種の変わり者と言える。


「一緒に入るか?」


 と、悪戯っぽく笑う健皇子に、音橘は真っ赤になりながら首を横に振る。


 その様子を見て、千草がぎろりとにらむ。


(そんなの無理だから)


 湯殿でのぼせて倒れたりしたら一大事である。

 ふと、音橘は、以前見せられた健皇子のもろ肌を思いだし、真っ赤になった顔を両手で隠した。思い出したものを打ち消すように、頭を振る。


「あら? これは何かしら」


 千草が、健皇子が脱ぎ捨てた毛皮を拾う。その下になにやら手紙が落ちていた。


 千草はそれを確認するなり、表情を強張らせて音橘に近づいた。


「姫さま、これは……」


 それは、まぎれもなく恋文であった。






(ああ、何ということだろう)


 音橘は罪悪感にさいなまれていた。


 あろうことか、伴侶の貰った恋文を読むだなんて。


 最初はやめようと訴えたが、気の強い乳母の勢いに負けてしまった。微かに香が残る手紙を開いてしまった。

 上等の紙にかな文字で書かれた文。

 まだ残っている香と文中に使われている季語から察するに、貰ってそんなに時間は経っていないだろう。


 乳母が目を逆三角にして怒っている横で、音橘はまじまじとそれを観察してしまった。


 職業柄というのだろうか、代筆屋で培った音橘の目と鼻はその恋文の不可解な点を見逃さなかった。


 まず、感じたのは香。女が送る恋文となれば、甘い匂いを好みそうなのだが、残った香はどこか苦い気がした。


 次に、紙と墨である。紙も墨も上等なのに、それぞれが合っていない。文とて衣と同じだ。色や素材に合わせ方というものがある。


 そして、何より書いてあるかな文字であろう。どこかたどたどしく、少し癖が目立つ。なにより気になったのは、女手かなに混じった男手かんじである。


(こ、これは……)


 たらりと背筋から汗が流れた。


 見方によっては、あまりセンスの良くない女の送った手紙ともいえる。

 だが、そうでないことは音橘には判別できた。


 音橘は何人もの貴族たちから求婚を受け、文を貰っていた。几帳面な音橘はそれらすべてに目を通していた。音沙汰無しの音無姫であるが、けして無視していたわけでない。

 まあ、代筆の仕事を行うに当たり、いろんな字を研究する手前もあったが。


 その中で、印象に残るのは上手い字というより、癖のある変わった字であった。

 

 今、まさに気になった文字はその中でも印象に残っていたものである。


 名までは覚えていないが、ただ一つ言えるのは、これを送った相手は男だということだ。ならば、香や紙や墨の組み合わせにも納得がいく。


(男からの文だなんて)


 音橘は、額をおさえ、よよ、と倒れ込む。


「ひ、姫様!」


 千草が駆け寄って介抱する。


「なにやってんだ?」


 髪を濡らしたまま、部屋着に着替えた健皇子が立っていた。


 音橘のその手には、恋文が握られたままだった。



〇●〇



「いやあ、すまなかった。つい混じってしまったようだ」


 そう言いながら、恋文を取りに来たのは少納言どのである。なぜに、こんなところに紛れ込むのかわからないがにやにやと健を見ている。


 こいつだったのか、と健はにやりと笑いそうになる自分を制した。


 母方の高祖父が帝であったことから、自分も皇族だと思っているようで、健皇子に対して気軽い口を叩く数少ない人物である。

 まあ、それは悪い意味での気軽さであり、相手が健でなければ不敬と取られても仕方ない。

 

 面白いものが大好きな健としては見ていて楽しいが、乳兄弟の風彦かざひこは不愉快だと細い目をさらに細めている。


 少納言どのといえば、聞きもしないのに、手紙の主に関してののろけ話をしている。相手はどんな美人であるか、とか、歌も音楽も最高だとか。どうだ、うらやましいだろう、と。


 残念なことに手紙が自作自演だと、健は知っていたが。


 昨日、手紙を盗み見ていた音橘姫を問い詰めた。

 別に、見られたのは保管をきちんとしていなかった自分が悪いと思っているし、生憎、自分も同罪である。


 だが、真っ青な顔をして何かを隠しているような音橘を変に思って問い詰めてみた。

 問い詰め方は簡単だ、音橘にのしかかり、「口吸いするぞ」と脅したのである。乳母の邪魔が入るかと思ったが、なぜか旗を振られて応援された。


 音橘は真っ青な顔色を真っ赤に変えると、畳に指でなにやら書いていた。たとえ、互いの秘密を知る立場でありながら、音橘は声をだそうとしなかった。


 しかたなく意思疎通用の砂箱を用意してやると、


『殿方からの文です』


 と、書かれた。

 それにしても、こうも嫌がられると傷つくものである。今宵あたり、自分から仕掛けてみようかと考えたが、やめておこうと思った。


 健は噴出しそうになるのをこらえて顔を伏せる。


 少納言は以前、さるやんごとなき姫君に懸想していると聞いていたが、それは音橘姫であったようだ。


 音橘姫に振られ、その姫は健の元にいると知れば、普段から敵愾心てきがいしんの強いこの男が仮想の姫を作ってでも張り合おうと思ったのだろう。

 元は悪くないのだが、どうにも趣味や行動意欲がずれている。まあ、実際他の姫から貰った文を見せびらかす真似をしないだけ、ましなのかもしれない。


 そんなところが、どこか憎めないと健は思う。


「して、皇子殿も新婚と聞きますが、どのようですかな」

「別に普通だけど」


 笑いを精いっぱいこらえているため、自然と不機嫌な声に聞こえた。

 それを自分の勝利と感じた少納言は、軽い足取りで部屋を出て行った。


 風彦はどこか同情の目で少納言を見送ると、開いた扉をきっちりと閉めた。


 腹をよじりながら笑う健は、つい文机を蹴倒してしまい墨が床にこぼれてしまった。




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