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三 新婚

 普通、貴族の結婚というものは通い婚を示す。文通から始まり、夜這をかけ、三晩褥をともにすれば結婚となる。

 女の元に通うということは、夫の出費は妻が持つということになる。


 まあ、そのことを考えると、音橘おとたちばなは一見変則的な夫婦生活をしていることになる。

 夫婦生活、そう、音橘は結婚した。お相手はばさら者の皇子、たけるである。


 そう、互いの利害が一致した結果だ。

 音橘は、健皇子の邸宅に移り住んでいた。


「まったくもう、あの女房はなんなの?」


 乳母めのとの千草が、鼻息を荒くする。主たる音橘が、健皇子の伴侶となってから、彼女もまた移り住んでいた。今まで住んでいた屋敷は、あまりに傷んでいるからと健皇子のはからいで修繕中である。今後、きれいに修繕されたあと、音橘は元の屋敷に戻り、健皇子が通う形となる。


 最初は、難癖を示した千草であるが、数少ない音橘の秘密を知る者だ、これ以上ない好条件の結婚に、「姫様がよければ」と、首を縦に振ってくれた。


 そんな千草であるが、健皇子の屋敷の女房に腹を立てている。本来、皇子というものは、宮中にいるものと思うが、このばさら皇子は、都の端の邸宅に住んでいた。理由は、気軽だから、それだけである。


 女房のやったことは、それはそれはくだらないことであった。つまりは、健皇子の伴侶たる音橘をやっかんだ、それだけである。食事に鰯を上げたのだ。鰯、その匂いから下賤なものとして取り扱われる。高貴なかたに食べさせるようなものではない。


(おいしいんだけどな)


 音橘としては、身体の栄養となればなんだっていいのだが、千草は腹が立って仕方ないようだ。落ちぶれても、やんごとなき姫に仕えることに、千草は誇りを持っている。どこまでも忠義深い女である。


(この間まで、干し魚一つで感動してたくらいなのに)


 それを考えると少しおかしかった。への字に曲げることに慣れていた唇が、微かに弧を描く。久しぶりの笑いだった。


 多少、やり方は強引であるが、音橘は健皇子に感謝していた。少なくとも、明日の御飯おまんまに困ることも、腐りかけた柱をみて天井が落ちないか心配することもなくなった。


 だが、一方でその交換条件となる結婚に対していささか疑問が残っていた。


 特別な理由がある音橘ならいざ知らず、なぜ、健皇子ともあろう者が、音橘と同じ秘密を持っていたのだろうか、と。

 それがなければ、めでたき身分であり後ろ盾もしっかりした健皇子には、音橘でなくともいくらでも妹背ふうふとなる者が現れように。


(深く追及するものではないか)


 音橘はそのように思考を切り替えると、千草がよけた皿を見る。下賤なる魚が手をつけないまま置いてある。

 音橘は左右を見回し、千草や他の女房たちがいないことを確認する。そっと箸を手に取ると、それをぱくりと口の中に入れた。


 氏より育ち、音橘の不遇の五年間は、食い意地というものを大きく養うに十分な年月であった。


「あっ、そうだ姫さま」


 いきなり、千草が戻ってきたので、音橘は喉に魚を詰まらせる。


「今宵こそは、ちゃんとしてくださいね」


 にやりと笑う千草が去ったのを確認すると、胸を叩きながら水を求めた。






「では、ごゆっくり」


 そそ、と女房が退室する。


 部屋には高燈台の灯りが二つの影をゆらめかせている。

 一つは音橘、もう一つは健皇子である。二人は御帳台ベッドの上で向かいあっていた。健皇子は胡坐をかき、音橘は正座をしている。

 互いにうつむいて口を聞こうとはしない。


 夫婦にはなった。だが、実質ではない。


 最初の三晩も、それからの夜もこうして二人は微妙な空気を作っていた。


 これはゆゆしき問題である。そういうことがあるのが前提で夫婦となるものである。健皇子も、それくらいわかっているはずなのに。


(何で何もしないの?)


 不思議でたまらない。いや、別に、それを期待しているというわけではない、決してないのだが、ただ、覚悟を決めていただけに拍子抜けだった。


 今宵も薬湯を沸かせた蒸し風呂に入り、糠湯で髪を濡らして櫛を入れた。乾かした髪にはたっぷりと香を焚きしめている。

 結婚が決まった以上、千草の張り切りかたは音橘が引くくらいだった。子ができれば、安泰、そのように思っているのだろうか。


 今宵も、「先にあがります」と言っていたが、部屋の壁に耳をそばだてているのかもしれない。


 たとえ、周りに観客ギャラリーがいたとしても、あの強引な皇子であれば、さっさと既成事実を作るのにためらいはなかろうと思ったのに。


 言うまでもなく、音橘から申し出るなどありえなかった。今もなお、心の臓をばくばくとさせ、うつむきながらもたまにちらりと健皇子を見る。

 健皇子もまた、同じように居心地悪そうに時折、目線をこちらにやる。


 しばらくその体勢が続き、いつも根を上げるのは健皇子のほうであった。足がしびれたのか、足を投げ出すと、


「そろそろ寝るか?」


 と、言った。

 音橘は、こくりと首を下げ、肯定する。


 広い褥に二人で横になる。仰向けになって見える明かり障子には、健皇子の趣味であろうか、絵物語が描かれている。

 

 寝るというのは、そのままの意味を示す。肌を合わせるどころか触れることなく眠る。勿論、音橘とて多少の知識はある。ほとんど人と接することなく暮らしてきたが、代書屋の仕事の他に、絵巻物の写しもやっていた。一見いっけんはなくとも、百聞ひゃくぶんの知識はある。


(どうしよう)


 少し手を伸ばせば、そこには伴侶がいるわけであるが、触れることすらできない。

 多少食い意地がはったところはあるが、基本、誰よりもたおやかで慎ましやかであるのが音橘である。求婚者が絶えなかったのは、その血筋だけによるものではない。


 昼間の千草の言葉を思い出す。


『ちゃんとしてくださいね』


 何をするかは言わずもがな。


 結婚した以上、作るものは作る、それが貴族の結婚である。恋をしたければ、あちらこちらに文を渡し、色よい答えの元へ出向けばよい。時に、薔薇の花すら咲かせるほど、この時代の恋は奔放である。


(がんばらないと)


 例え共通の秘密を持った者同士でも、音橘と健皇子の境遇は違う。いつ捨てられるかわかったものではない。

 だからこそ、千草は言いたいのだろう。食らいついたら二度と放すな、と。


(がんばらないと)


 もう一度、心に決めて手を伸ばすが、音橘の勇気は一寸手前で立ち消える。このままでは、心の臓が壊れてしまうほどに心拍数が上がっていた。


 そういうわけで、今宵も何事もなく終えたのだった。



〇●〇



「なあ、風彦かざひこ

「なんですか? 皇子」


 健は、乳兄弟でありお目付け役である男にたずねる。狐面のその男は、健が書き終えた書類を集め、次の部署に回していた。


「やっぱ、伊邪那美いざなみから仕掛けるのは、駄目だよな」

「はあ? 国産みの話ですか?」


 さすが、男女の機微もわからない男である。言葉の真意を理解していない。

 健皇子はやりたくもない机仕事デスクワークを片付けながら、


「うん、おまえ、一生筆おろしすんなや」


 と、笑いながら言ってやった。


「なっ、なんですか! いきなり!」


 動揺を隠しきれない顔を見ると、やはりこの男、まだのようである。


「それにしても終わんねえなあ」

「仕方ありません。最近、物騒ですから」


 健は検非違使けびいしである。治安を守るのが仕事であるが、帝の第二子である健にそんな物騒な仕事は回ってくるわけなく、このような安全な仕事を与えられるのだ。もっとも、それを不服としても、周りが許さないのだから仕方ない。


 誰も表だって騒がないが、他の検非違使の連中は健のことを良く思っていないだろう。検非違使とはいわば精鋭部隊エリートであり、その中にやんごとなき血筋だという理由でまだ青い健が上司として赴任すれば、気持ち良いものでない。


 仕方ないけどな、と健は思う。


 その奇妙な出で立ちと立ち振る舞いでばさら者と言われる健だが、中身は周りが思うほどぶれた性格ではない。

 もっとも、自分の秘密を守るためにも、変わり者として他人を近づけないようにはしているが。


「次はこれです」

「あいよ、わかったよ」


 ぶつくさ言いながらも仕事はちゃんとやる。

 新たに持ってこられた書類に手を伸ばす。


「ん?」

「どうしたんですか?」


 のぞきこむ風彦に、健は気になったものを見せる。

 書類の中で異彩を放つ、それはいわゆる恋文だった。微かに香が残っている。


「どこのおまぬけさんかねえ、こんなものを落としちゃうなんて」

「趣味悪いですよ。返してやらないと」

「んなこと言ってもよ、宛名もないんだぞ」

「それは……」


 いい案は浮かばず風彦が押し黙る。


 仕方なく、健は恋文をよけると、次の仕事を終わらせる。


 恋文の処分は、あとで考えよう、と落ち着いた。


 


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