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二 ばさら皇子

「姫様、今日はちょっと豪華ですよ」


 千草は掛盤に汁粥と香の物、汁椀の他に、一品多くのせている。魚の干物が一枚、欠けた皿の上にのっている。


 音橘の目が潤みだす。魚など一体、いつ以来だろうか。


 その様子を見て、千草が眉を寄せる。


「大げさですよ、姫。たかだか、干物一枚ですよ」


 そう言いながら、千草の目も潤んでいた。

 主従揃ってしみったれた根性が根付いてしまっている。


(どうしたの、一体? お魚なんて)


 以心伝心の乳母めのとは、音橘の心を読み取って、目の端をぬぐいながら、


「手伝いに行っている屋敷で貰いました。枚数が多かったらしく、腐るからって。この季節は、干物でも油断できませんから」


 じめじめした湿気と暑さが、食べ物をすぐ傷ませる。紙もすぐ湿気を含んで、書きづらい季節だ。

 心優しい乳母は、貰った魚をそのまま音橘の元に持ってきたに違いない。主人の喜ぶ顔を見るために。


(一緒に食べよう)


 目で訴えると、千草は首を横に振る。


「ちゃんと私の分もあります。隣で食べますから、気になさらないでください」


 と、几帳カーテンの向こうに行く。


(うそつき)


 隙間から見えた折敷おしきには、器は三つしかのっていなかった。魚の欠片も見られなかった。千草の思いやりにほろりときながら、音橘は箸を手にする。その時だった。


 まるで獣が近づいてくるかのように、渡殿わたりろうかから激しい足音が聞こえてくる。傷んだ床板が抜けそうな音だ。足音はだんだん近づき、ちょうど音橘の部屋の前で止まった。御簾越しに人影が見える。


 何事かと、千草が几帳から出てきて、音橘の前に立つ。


「音橘姫はいるか」


 少年とも少女ともつかない声が聞こえる。


 あまりに不作法な振る舞いに、千草が目をいからせる。音橘は、千草の背に隠れた。


「何者ですか。そちらこそ、まず名を名乗りなさい」


 千草は凛とした声を張り上げる。音橘は震えながら、破れかけた扇子で顔を隠す。


「なるほど、それもそうだ」


 口調と影から男だろうか。烏帽子を被っているので、声は幼いが元服しているのだろう。


「俺はたける皇子。先日、文を送ったはずなんだが」


 返事が来ないので、やってきた、とあっけらかんと言い切った。


(健皇子……)


 さるやんごとなき殿方である。単なるからかいと思っていたのに、わざわざやってくるとは。


 音橘はしゃくを起こしそうになる。腹のうちがきりきりと痛い。


「姫様、大丈夫ですか?」


 かろうじて意識を取り留める。

 千草は目をさらに吊り上げ、御簾の向こう側の人物を睨み付ける。よく見ると、御簾の向こう側の人物が増えているようだ。


「ああ、もう皇子。いくらなんでも不作法ですよ」

「そうか? 単刀直入でいいと思ったんだが」


 内緒話のつもりだろうが筒抜けた。もう一人の声は、先日文を届けた狐男のものだった。


「だーかーらー、こういうことはもっと繊細デリケートに進めたほうが」

「夜這も筆おろしもまだのくせに、口が回るな。風彦かざひこ

「な、何言ってるんですか!」


 主人の言葉に従者が慌てているのが、御簾越しでもわかる。下品な内容に、音橘は頬を赤らめる。


「まどろっこしいのは嫌いなんだ」


 健皇子は、御簾を分けて入ってきた。狩衣かりぎぬを着た幼さの残る若者だった。歳の頃は音橘と変わらない。年若いせいか、顔立ちも中性的で、柔らかい輪郭をしている。なぜか指貫さしぬきの上に毛皮をぶら下げ、首には管玉の飾り、耳に玻璃ガラスの飾りをつけている。古い時代ならともかく、今の時代、耳飾りピアス首飾りネックレスをつけることはない。

 どうみても装飾過多だ。


(ばさらものだ)


 にやりと歯を見せて笑う健皇子に、音橘はさらに怯える。千草が音橘の頭を抱えるように庇う。


「ちょいと、そこな女房。ぬばたま麗しき姫の顔が見えないんですけど」

「知りません。姫は怯えています。今日はお帰りください」

「今日は、ってことは、明日ならいいの?」


 からかうように言ってのける健皇子。千草は見せてなるものか、とさらに強く音橘の頭を抱える。


(く、くるしい)


 押さえこまれて苦しいが、それ以上にばさら皇子と目を合わせるのが怖い。乳母に身を任せ、追い返してもらうことを願う。乳母もまた、それに奮闘するが、そこにあるのは身分差というもので、帝直系の皇子に睨まれて千草も怖くないわけない。震えが、衣越しに伝わってくる。


「なんか拍子抜けしちまうな。俺としちゃあ、尊き血筋にありながら不遇の身の上の姫君を助けに来たつもりなんだけど」

「それは、姫を見下しているのですか?」

「んなことない。俺には姫が必要な存在なんだ」


(必要?)


 飾り付けることのない言葉をかけてくる。雅から遠く離れた人物だ。


 音橘は扇子の隙間から、皇子をのぞき見る。


 その皇子といえば、音橘の貧相な食事に目をやっている。そして、あろうことか手づかみで干物をつかみ、大口を開けて食べた。


(あああああああああ)


 音橘は咀嚼音を聞きながら、視界がぼやけていくのを感じた。顔を隠すのも忘れて、健皇子の顔を見る。


「もちっと塩が濃くていいな」


 と、残った半分を一口で食べる。


「……」


 音橘は口を開けたまま、じっと健皇子が食べるのを見ていた。咀嚼が終わり、皇子の喉が揺れた。

 皇子に他意はない。ただ、そこにあったからつまんでみた、ただそれだけであろう。それが、音橘にとってどんなものかも知らずに。


「皇子、品がありませんよ」

「悪い、悪い。おっ、ようやく顔見せてくれたな」


 健皇子は腰を落とすと、その顔を音橘に近づける。手を伸ばし、音橘の頬に触れようとしたとき、


「お、おい?」


 音橘の肩を激しく揺り動かす。千草も、風彦と呼ばれた狐顔ものぞきこんでくるが、意識があるのはそれまでだった。


 音橘は気を失った。






 百歩香が香ってくる。


(久しぶりのにおい)


 ここ数年、衣に香を焚きしめるなどしていない。そんな余裕はなかった。


(懐かしい)


 母が焚きしめていた香と似ている。母は自分で香を合わせていた。


(なんで置いて行ったのですか?)


 父と母と一緒に出掛けていればよかった。ともに、極楽へと向かえばよかった。


 閉じた目蓋をさらに深く閉じる。目の端から、白玉の粒が零れ落ちる。

 この五年間でどれだけ涙を零しただろうか。どれだけ周りが変わっていっただろうか。使用人が一人いなくなるごとに調度品が消えて行った。調度品がなくなると、扇子や香、はては池の鯉までいなくなった。


 使用人たちにも生活があるのはわかる。賃金が払えぬ以上、自分は主人ではない。ただ、なにも言わず、貴重品とともに消えていく使用たちがただただ悲しかった。鞠で遊んでくれた下女は、着物とともに、いつもにこにこしていた御者は牛車とともに消えた。


(私はいらないものなんだ)


 父母を追って入水しなかったのは、ただ死ぬのが怖かったのだ。臆病な自分に嫌気がさす。


(私はいらないもの)


 そんなことありません、と情の厚い乳母が言ってくれるが、彼女もまた、自分がいなければ自由になれるのではないか、そう考えるとただただ悲しかった。


『姫が必要な存在なんだ』


 先ほど、言われた飾り気のない言葉が浮かび、音橘は目蓋を見開いた。


(……ここはどこ?)


 見慣れない天井、いやこれは御帳台ベッドだろうか。三方を几帳カーテンで仕切られている。横になっているしとねは、良質の筵に絹を重ねたもので、その下には藺草いぐさ香る畳が敷かれている。


 音橘はゆっくり身を起こす。


(……服装はそのまま)


 着の身着のままの擦り切れた着物を着ていた。それに、安心して大きく息を吐く。


 御帳台から這い出て周りを見渡す。寝台と同じく、豪奢な造りの部屋だった。壁際に衣架が置いてあり、美しい衣がかけられている。

 その下に、袴と単衣の入った箱が置いてある。


(いいにおい)


 香りの元はこの着物からのようだ。音橘は、ふと手を伸ばしかけたが、後ろに気配を感じ振り返る。


「気がついたか」


 烏帽子を脱いで蓬髪となった健皇子がいた。腕を組み、にやにやと音橘を見ている。 


「遠慮するな。お前のために仕立てたものだ」


 美しい絹の光沢がさらりと涼しげである。音橘の着ている衣とは雲泥の差だ。 


 皇子が音橘に近づいてくる。音橘は、びくりと肩を震わせ、衣の陰に隠れる。


(何をやっているの、私は)


 むしろ、壁際に寄ったことで逃げ道を無くしていた。健皇子は楽しそうに、音橘の前に来る。


「顔くらい見せてもらいたいな」


 と、あろうことか音橘の顎をつかみ、目を合わせる。


 非常識極まりない行動だ。普通は御簾の隙間から垣間見ることからはじめるべきことなのに。


 音橘は、心臓が早鐘を打ちすぎて、息が苦しくなってきた。頭に血が上り、今、この状況をどう打破すべきか、考えようとしても耳の穴から抜けていく気がした。


 その様子をなぜだか楽しそうに見る皇子。余裕綽々の態度に、音橘は唇を噛んで顔を真っ赤にする。


(なにがおかしいの)


 恥ずかしさで泣きたい気持ちになる音橘とは反対に、健皇子はにこにこ笑いながら手を顎から喉へと滑らせていく。


(駄目!)


 音橘は力を振り絞って健皇子から離れようとするが、壁に追いやられているため動けない。


「ふーん。そんなにおのこいやってわけね。まあ。俺には関係ないけど」


 にやにやと笑う健皇子。


「噂になってるぞ。翌日の食事もままならない生活を送る姫宮がいると」


 先の帝の孫娘でありながら、何の後ろ盾も持たず、ただ寂れた屋敷で不遇の生活を送る。下級貴族の娘のほうがまだ華やかな暮らしをしていると。


「そんな姫が、数々の求婚を断る、まあ、身分に見合わないと傲慢なことを言って。だが、俺ほどの位なら、いくらなんでも妥協していいんじゃないか? それとも、なんだ? 東宮妃でも狙っているってやつか」


 そんなわけない。音橘は、幾度となく帝の後宮が恐ろしいところだと、父に言われ続けていた。東宮妃となれば、いずれはそこに入ることになる。冗談ではない。


 しかし、それでなくとも、音橘には東宮妃などなれない理由があった。


「音無しの姫には、何かしら、欠陥があるのではなかろうか。そんな噂も回ってるぜ」


 健皇子の言葉に、音橘はびくりと肩を震わせる。それを見逃す皇子ではなかった。


「へえ、やっぱりなんかあるんだ?」


 音無しの姫には、到底誰とも結婚できない理由がある。その理由とは、と。


 面白そうに顔をさらに近づけてくる。音橘は両手で自分の身をかき抱くが、その手を床にはり付けられる。栄養不足で紙のように細い身体は、未成熟な健皇子に押し倒されていた。


(うわあ!)


 じたばたと手足を動かすが、全体重を胴体の上にのせられているため動きようがない。

皇子は両足で、音橘の両手を押さえこむ。


「どんな隠し事があんのかな?」


 羽をもがれた蝶のように、音橘はもがくしかなかった。そんな音橘に、健皇子は手を伸ばし、あろうことか着物の合わせに手をかけた。

 無理やり開かれたそこには、発育の悪い胸板があった。痩せてあばらの浮いた身体、そこには音橘が隠し通すべき秘密があった。


(もう終わりだ)


 音橘は、顔を真っ青にし目に涙を浮かべていた。知られてはならないことを知られてしまった。これはもう、父母の元へと向かうため入水しなければならなかった。頭の中で、古い記憶、主に両親が健在だったころを思い出していると、


「やっぱりか」


 健皇子のどこかほっとした声が聞こえた。音橘は、ふと皇子のほうへと視線をうつす。


「お前は、俺と同じなんだな」


 と、皇子は自分の衣の襟をゆるめると、勢いよく開いた。


(!?)


 音橘は目の前に広がるそれを食い入るように見た。そこには、初めて見る同年代の異性の肉体があった。そう、音橘と同じ秘密を持つ身体だった。


「俺と同じだ。これなら、文句はないだろう?」


 皇子は少し恥ずかしそうに、音橘に笑いかける。


 音橘は、驚きで口をぽかんと間抜けに開いていた。それほどの衝撃だった。


「あんまりじろじろ見るなよ。こっちも恥ずかしいんだから」


 健皇子は、音橘の秘密を確かめるなり、襟を正してやっていた。

 音橘は、自分が異性の裸をじろじろ眺めていることに気が付くと青白かった顔が赤くなっていった。そして、赤が最高潮に達すると、鼻から一筋血が垂れてきた。


「おっ、おい!」


 ぼんやりする視界の中で、音橘はまた気を失った。

 深窓の君たる音橘にとって、異性の肉体というのはそれだけ刺激が強かったのだった。


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