十八 浅葱
食事になにか仕込んだものがいる。それは、天狗ことさんぜるまんの登場で衝撃は拡散されたものの、それでも驚くべきできごとだった。
「おめーがこのあいだ、変だったのもそのためみたいだな」
健皇子が膝を立てて何事もなかったように言った。本当に何事もなかったかのように。
音橘は思い出すだけで顔から火を噴くというのに、この皇子は。
そして、含まれていた薬の内容について細かく聞かされてまた衝撃を受けることとなった。
「イッケン、ビヤクのようデスけど、ホッサをおこす場合もありますねー」
簡単に言ってのけたが、それだけ強い薬だったらしい。食べ過ぎると、心の臓が驚いてそのまま動きを止めるという。
その食事を作ったものはすでに屋敷から出て行ってもらった。出て行ってもらったとだけ言われ、それ以上は言われなかった。音橘にそれを聞き返す勇気もない。
他にも数名、屋敷から使用人がいなくなり、ただでさえ少ない屋敷の人数はさらに寂しくなった。
しかし、そのほうが健皇子にとって都合がよかったようで。
「さんぜるまんを呼びやすくなったからよかったわ」
などと、気楽に言っている。
「もう、どうするんですか? いくら、前の屋敷より狭いとはいえ、下人の数が少なすぎますよ」
真っ当なことを言うのは、風彦だが、その点は意外と問題ではなかった。
「いえ、これだけいれば、最低限の家の維持はできますわ。よろしければ、私が信頼におけるものを雇い入れたいのですが、それは駄目でしょうか」
千草が健皇子に言う。健皇子の代わりに風彦が答える。
「一応、どんな人物かだけ確認させてもらうぞ」
千草は一応、健皇子に対しては敬意を示しているが、その従者まで偉そうな口を言われたくないらしく、喧嘩ごしの目線をおくる。
(信頼に足る人物?)
音橘は、はて、と首を傾けた。千草はかなり用心深い性格だ。昔、音橘の家にいた使用人たちを除外するとして、どんな知り合いがいるのだろうと思った。
それは数日後わかることになる。
「お久しぶりです」
凛々しい声が御簾の向こう側から聞こえた。隙間の影から、直垂を着た若者がいることがわかった。
「何年ぶりかしらね。まだ、そんな恰好を続けているの?」
「ええ。常に身に付けておくほうが、動きやすいんですよ。邪道だと、言うものもいますが」
千草が珍しくくだけた口調で御簾の向こうの人物に話しかける。
音橘は扇で顔を隠したまま、御簾の隙間を見た。
そこには、声と同じく凛々しい若者がいた。髪を烏帽子に入れ、端正な輪郭がはっきりと見える。切れ長の目とさらりとした肌は、中性的な美しさをたたえていた。
(あっ!)
音橘は、ゆっくりと御簾を上げ、手招きをした。
「ようやく思い出してくれたようですね」
御簾のうちに殿方を入れる行為は、契りを結ぶのとほぼ同義のことである。健皇子という伴侶がいる以上、身内以外であればやるべきでないことだが、今回は特別だ。
御簾をくぐって入るもの、その姿はどこかしら傍に仕える女房に似ている。
「挨拶なさい、浅葱」
千草が自分によく似た姿の若者の頭をつかむ。その背丈は千草より二寸ばかり大きい。
「お久しぶりです、音橘姫」
たおやかな笑みは、直垂姿の若者にしてはずいぶんたおやかなものであった。音橘は知っている。この若者は、普段、白い直垂に赤い袴をはいて舞を舞っているものであると。
白拍子、それが浅葱というものの職である。本来、浅葱には他に仕事があったはずだが、本人たっての希望でそのような職についている。かわりものとしかいえない。
「お久しぶりです、母上」
同時に、千草の娘でもあった。
音橘は懐かしさから、浅葱の傍に寄ろうとして、着物の裾に足を引っかける。そのまま、転んで倒れかけようとしているところを、浅葱に助けてもらう。
「姫はあいかわらずですねえ。美しい御髪もおかわりなく」
指先で髪の表面を撫でられる。千草の娘ということは、音橘にとって乳兄弟に当たる。齢は五つはなれているが、小さいころから面倒を見てもらっていたので、人見知りの音橘にとって数少ない心許せるものだ。
久しぶりに会えた喜びで、音橘は珍しく頬をゆるめて笑った。
だが、それは悪い時機だった。
「へえ。客人部屋にいれた挙句、そういう顔すんのか」
不機嫌な声が聞こえた。御簾の隙間から、半眼の健皇子の顔が見える。
「皇子さま、先日、言っていたものですが」
「ああ、わかった。うん、そんなところだろうね。あとは、風彦にまかせるわ。俺、ちょっと寝るから」
ずいぶんとだるそうなうえ、顔色が悪い。
音橘は、あわあわとなりながら、抱き着いていた浅葱から離れる。そして、今、ここであったことの弁明をしようと砂箱を探すが見つからず、慌ててまたこけてしまった。
「というわけだ。皇子の承諾を得ずに勝手に部屋に入れるな。いくら、使用人が少ないとはいえ、どこに目や耳があるかわからないんだぞ」
だるそうな健皇子がいったあとで風彦がかわりに説教する。浅葱の前に立ち、細い目をできるだけ見開き威圧しようとしているのがわかった。
(あっ、これは……)
音橘は、風彦が浅葱に対してなにやら間違った認識をしているようだ。たしかに、音橘といった事情を知るもの以外には、今の浅葱は凛々しい若者にしか見えない。
音橘はなんとか伝えようとして砂箱を探すが見つからない。千草は、あまり風彦とそりが合わないらしく説明する気はないようだ。そそくさと、浅葱の好きな水菓子を準備している。仕方ないので、勿体ないが紙に書いて伝えようとして、文箱を落としてしまう。
そんな風に音橘が慌てふためいている間に、何を思ったのか浅葱が風彦の前に立つ。背の高い浅葱は風彦とほとんど背丈が変わらない。
「貴方が皇子さまの乳兄弟というかたですか? 母から手紙で事情はあらかた聞いております」
「そうか」
母という言葉を聞いて、風彦は一瞬驚いたようだった。千草はまだ若々しく、浅葱のような大きな子を持っているとは思えないだろう。だが、千草が補足するように、「至らぬ子ですがよろしくお願いします」としぶしぶ頭を下げて納得した。
「音橘姫とは幼き頃より仕えてきました。あらかたのことはわかるつもりですが、至らぬ点があれば、ご指導お願いします」
至って丁寧な物言いに、風彦は少し気をよくしたのだろうか。かっと見開いた目を、元の糸のような目に戻していた。
「ならば、まずいくつか質問がある。ここでは問題なので、場所をうつそうか」
「わかりました」
そんなやり取りに対して、千草がなんとも言い難い表情で見ている。どうしたというのだろうか。
「それにしても」
浅葱の表情がきらりと輝く。赤い舌が唇を一周した。浅葱の手がゆっくりとある方向へと向かう。
「よく鍛えられていますね」
ぎゅっと浅葱の手が風彦の臀部をなでた。いや、掴んだ、もしくは握ったといったほうが正しいだろうか。
風彦の顔が一瞬でひきつる。真っ青に血の気が失せて、だらだらと冷や汗が浮かんでいる。
「そこのところ、もっと知りたいですねえ」
「……」
なんというのだろうか。
風彦の名前はまさにそのとおりだった。風のように駆け抜け、そして消えた。
一瞬の出来事で、音橘も千草も唖然とするしかなく、浅葱に至ってはまだ触れたりないのか、さきほどまで感触を楽しんでいた手の平を名残惜しそうに見ていた。
「趣味が悪いのはあいかわらずだけど、仕事はちゃんとしなさいね」
千草が言うと、浅葱ははんなりと笑う。
「楽しくなりそうです、母上」
とっておきの素敵な笑顔だった。
(……)
音橘は改めて思い出した。
浅葱は変わり者だ、好んで白拍子、すなわち遊女の道に進む者である。
すなわち。
好き者である。
そして、風彦といえば。
健皇子の言が正しければ、まだ、その手の経験のないものであり、かつ今浅葱をどう誤解しているだろうか。
音橘は風彦に悪いと思いつつ、自分の誤解も解かなくては、とこぼした文箱から紙と筆をとった。