十七 利害の一致
「……から、いきなりすぎます!」
頭の上で千草の声が聞こえる。ぼんやりとした頭に耳が痛い。きんきんとした癇癪めいた声だ。
「ったってしゃあねえし。早いほうがいいだろ」
健皇子の声も聞こえる。こっちは相変わらずどんと構えた声である。
「ねつきのよいおジョウさんデスねー」
聞きなれぬ声が聞こえる。ひどく変な訛りがある。
「おまえは黙ってろ」
風彦の声、あいかわらず疲れた声をしている。誰に言っているかといえば、聞きなれぬ声に主だろうか。
(誰がいるのだろう?)
音橘は、ゆっくり目蓋を開ける。
なんだか頭がはっきしりなくて、それでいて自分は横になっている。大体、こういう場合、なにが起こったのか、経験上、音橘にはよくわかっていた。音橘の心の臓は繊細だ。多少のことで驚き、そのたびに気を失っている。
頭を抱え、首を振る。一体、何が原因で倒れてしまっただろう。
「姫さま!」
千草が横になった音橘に飛びつくように近づいた。
頭がなんだかがんがんする。もしかしたら、倒れた際、頭を打ったのかもしれない。後頭部を押さえながら音橘は顔を上げる。
場所は離れの部屋の中。畳敷きの上に布団が敷かれてそこに音橘は寝かされていた。
「おお。やっとおきましたねー」
訛りのある声が聞こえた。布団の周りをくるりと囲む御簾の正面から聞こえる。千草がためらうように、御簾を少し上げて紐で縛る。
音橘は声の主を見ると、口をあんぐりと開けてそのまま再び倒れ込みそうになる。今度はすかさず、千草が褥を掴んで音橘をしっかり捕まえる。ぽふっと布団に沈み込む音がしただけで、倒れることはなかった。
音橘は動転している。
目の前に見たこともないものがいた。
赤い鬼灯のような髪をした大男。その鼻はやたら大きく、顎はしゃくれている。肌の色は元は白かったのだろうか、少し日に焼けて赤くなっている。
見たこともない、いやあるとすれば絵巻物の中だろうか。
これに大きな葉の団扇を持って、下駄を履けばそのまま天狗の出来上がりである。そんな男が目の前に座っていた。
「姫さま、落ち着いてください」
落ち着けと言われて落ち着けるわけがない。心の臓が早鐘を打ち、今にも壊れそうだ。
千草に支えられ、なんとか気を失わずにいることで精いっぱいだ。
そんな人物を前に、健皇子といえば、胡坐をかいて菱の実をかじっていた。甘葛で味付てあるのだろうか、とろりと透明な汁が指先に滴っており、健皇子がぺろりと舐めている。
(菱の実……)
栗のような味のする実だ。甘く味付けしてあれば、と考えるとじゅるっとよだれがあふれ出てくる。
一瞬、音橘の視線はそちらに釘付けになってしまった。
(いかん、いかん)
思わず食べ物で状況を忘れてしまうのが、音橘の悪い癖である。今、大切なことは、なぜ、この場に天狗がいることであろうか。
音橘は不可思議な目の色をした天狗に怖気づきながらも、後ろからぎゅっと抱きしめて落ち着かせようとする千草を見る。
千草は音橘の言いたいことを読み取り、音橘に代わり、健皇子を見た。
「私にもどういうことかまだわかりません。ご説明いただけますか。皇子さま」
「うーん。うまく説明できるかわかんねえんだけどなあ」
健皇子は、面倒くさそうながら状況を説明してくれた。
「というわけだが」
音橘は話を一通り聞いて首を傾げるしかなかった。なにがわけがわからないといえば、健皇子の行動についてである。
漂着した異国人を匿うなど、一皇子がやるべき行動ではないだろうに。
この赤毛の男はさんぜるまんというらしい。乗っていた交易船が難破し、漂着した異国人とのことだ。
「皇子さま、天狗はそこらにいる小動物と同じように拾って飼うものではありません」
「テングではありませんねー」
天狗ことさんぜるまんが言った。音橘は、この異国から来たというものが、自分の通じる言葉を使っていることに驚きを隠せない。異国人は、異国の言葉を使うものであると聞いたことがあったからだ。
不思議と同じ言葉を使っていると、天狗という未知のいきものというより、より人に近いものだと感じられる。
だが怖いものは怖い。
「天狗どのには聞いておりません」
「おう。きれいなおじょうさんはキがつよい」
音橘がおどおどしているのに対し、千草ははきはきとしている。三人の子どもを産んだ母だけあって肝がすわっている。さんぜるまんにたいしても、怖気づくことはない。
「別にこまけーことはいいから、今後、こちらのはなれに住んでもらうことにしたから」
健皇子は決定事項だけを口にする。これには、音橘だけでなく千草も口をあんぐりさせる。
あまりにいきなりすぎる。
「それはどういうことですか!」
千草は拳をつくり、床を思い切りたたいた。じーんと見ているだけで痛くなってくるが、怒りで頭に血がのぼった千草はそんな手の痛みなど気にしていない。
拳の痛みもそうだが、この行動はあまりに皇子に対して失礼だ。音橘は千草にすがりつき、目で訴える。しかし、千草はそんな音橘の訴えが目に入っていない。
健皇子は菱の実を食べ終え、指先を舐っている。
「どうもこうもねえよ、そうせざるを得ないからやるんじゃねえか」
さんぜるまんが住んでいたのは、都と修行僧の住む山の間に位置する場所らしい。ずっと天狗の噂をたててはごまかして生活してきたようだが、最近は陰陽寮の輩が顔を出すようになってきたらしいので、引っ越しを考えていたらしい。
どうやら、音橘の屋敷の修復にもそれを考慮に入れて考えられていたようだ。
「おまえは、あけー髪してどでかい図体してるからって、むざむざ首を斬らせに行く真似をさせたいか?」
健皇子曰く、最近陰陽寮のものたちの中には、化け物退治だといわんばかりに狐狸の類を狩っては「調伏した」とのたまう愉快な輩が増えているらしい。最近、武士の力が大きくなってきたため、なにかにつけて自分を目立たせようとしているのだという。そんな中、天狗を捕まえたとなればどんな騒ぎになるだろうか。
(わからなくもないけど)
音橘には、そこでかくまうという行動が頭に浮かばない。怖くて、そんな気持ちになれないからだ。
「それに、こういうこともあるからな」
その声はいつも通りの口調のようで、少し苛立ちが混じっているようでもあった。音橘は背筋が冷える思いで、健皇子と千草を見比べたが、少し雰囲気が違うと気が付いた。
千草の苛立ちは健皇子に向けられているが、健皇子の苛立ちはもっと別の方向にあるような気がしてならなかった。
「なんのために、この屋敷を改装してまで移動してきたか。そのために、わざわざ使用人を厳選してやってきたのに。こういう冗談もあるんだよ」
健皇子が顎で風彦を呼ぶ。風彦は膳を持ってやってきた。先ほど、千草がもってきたものと同じ食事だった。
「これに、変な薬がまじってたって言ったらどうする?」
皆が一様に動きを止める。
「このナカにスウシュルイ、クスリがまじってたんデスね」
さんぜるまんは皿を手に取ると、煮物の中身を指先でつまむ。
「ほんのショウリョウですが、レンゾクしてとるべきでないヤクブツです」
さんぜるまんはつかんだ芋を皿に戻した。
「そういうことだ、こいつに食事を見てもらう。異国の知識はたいしたもんだ」
健皇子の言葉に皆、一度静まり、しばしして千草が口を開く。
「皇子さま、ひとつ質問があります」
「なんだ? 言ってみろ」
千草は健皇子のゆるしをえて口にする。
「その異国人は、信頼に値する人物なのでしょうか? たしかに、この男は皇子さまにかくまってもらうことで得をするかもしれませんが、それだけで全面的に信じる気にはなれません」
喧嘩を売るように、さんぜるまんを見る千草。
健皇子は腕を組んで「なるほど」と首を振った。大事な役目を担うものが裏切り者であれば、元も子もない。
「その点は大丈夫だよ」
健皇子は自信たっぷりに言った。
「その根拠がどこから来るのでしょうか」
千草は納得できる答えを求める。
「俺の存在だ」
「はあ?」
(はあ?)
音橘も言い返したかったが、口にすることはない。
健皇子は茶目っ気たっぷりの顔をする。
「こいつは俺と同類だ。損得勘定より、おもしれーもんの味方になる。なんで言い切れるかといえば、同類だからだ。俺という素敵な存在が目の前にいる限り、あきやしねーだろ、なあ」
「そうデスねー。ミコはおもしろい」
『……』
健皇子とさんぜるまん以外は黙るよりほかない。
なんといえばいいのか。さんぜるまんは、健皇子の言葉に「うんうん」頷いている。
「リガイのイッチです」
「ああ、利害の一致だ」
いや、わからない、と音橘は口にだしそうになって止める。
「んでもって」
健皇子は付け加える。
「俺よりおもしれーもんはいるわけないしな」
自信たっぷりでいうのを見て、千草が不安そうな顔で頭を抱えた。風彦は心ここにあらずの顔をしている。
音橘といえば、呆れると同時に、健皇子をうらやましく思った。