十六 干柿
音橘は現在、千草の部屋に引きこもっていた。褥にくるまり、周りを行李で壁をつくり、部屋の隅に丸くなっていた。
(私はどうしてあんな真似を……)
抱き着いて眠る前の所業を思い出すと、今でも顔から火がでてしまう。おかしかった、それしか言えない。
あのまま、健皇子が起きなければ、一体何をしようとしていたのだろうか。
膝を抱えたまま、うつむいて歯をかちかち鳴らす。ぬばたまの髪を持つ姫君、それが音橘である。なのに、あのとき感じたそれは、姫の心とはまったくそぐわない飢えだった。
姫ではない自分の一面に驚きを隠せない。
そんなものが音橘の中にあるとは、自分でも思わなかったのだから。
ぎゅっと肩を抱え、身を縮める。その肩幅は以前より広くなった。食生活が安定したのもあるが、音橘にも押さえられない成長がはじまっている。これからもっと音橘の身体は大きくなるだろう。それは、抑えられないものだ。
それが自然なことなのだから。
音橘は自分の喉に触れる。もう声を出さなくなって何年になるだろう。一生、秘するべきものを己の中に抱え生きてきた。それが、役目だと思っていた。
誰にも見つかることなく、誰にも邪魔にされることなく、ただ、路傍の石のように生きていく、それが音橘の生きるべき道だというのに。
音橘のその決意を、部屋の主たる千草は不満に思っている。彼女は、音橘に本来あるべき姿で生きるべきだと言ったこともあった。しかし、それはできぬことだ。生まれた時より、父によって偽られたものに今更本来あるべき道など進めるわけがない。
なので、千草が健皇子への輿入れに対して積極的なのはこのためだ。
たとえどんな形であろうと、本来あるべき道に近づく方法を千草はとろうとしている。乳母として、母の乳兄弟として、彼女は音橘のことを誰よりも考えてくれるのだから。
だが、音橘はその点について思うことが一つある。
(私は血を残していいのだろうか)
それは、いらぬ争いを生む原因としか思えなかった。
健皇子には兄がいる。同母の、だが東宮たる兄君だ。
そして、東宮には現在、子がいない。
健皇子が音橘を身内へと引き入れた理由、それはそこにあるとしか思えなかった。
「姫さま。さすがにお部屋にお戻りください」
もう何度目のお願いだろうか、千草は額にしわを寄せている。意地悪にもお膳は部屋の入口の御簾のところに置いている。これでは、行李の向こう側にでないと食事をとれない。音橘は唇を尖らせる。
「夫婦たるもの同衾は当たり前ではないですか。むしろ、もう子ができてもおかしくない時期なのに、いまだちんたらおままごとをやっていることのほうが、おかしいのですよ」
その目は少し音橘を非難するようにも思える。以前から、健皇子と実質夫婦になるようにと言い聞かせてきた乳母である。今回の件で、少しは進歩したと思ったら、音橘がこのような行動にでたので面白くないのだろう。
「さっさとことを成してしまえば、いちいちこんなことで悩まなくなります。むしろ、今から健皇子の元へと行きましょう。昼間からだと気にする必要はありません。よし行きましょう、今すぐ行きましょう」
音橘の褥を引っ張り出そうとする千草に、音橘は柱にすがり付き必至で食いしばる。しばし、引っ張られては食いしばるというやりとりを繰り返して、千草が息を切らして諦めた。
「姫さまは妙なところで頑固すぎます」
呆れた声でいいながらも、御簾の下に置いていた食事を持ってきてくれた。
「お腹すきましたでしょう。お食べください」
お膳を壁と化した行李の前に置く。
(ごはん……)
音橘は空腹に耐えきれず、手を伸ばす。膳の上に干し柿が見えた。じゅるりと口の中に唾液がたまる。
それがいけなかった。
がっちりと伸ばされた手はつかまれていた。
「ふふ、甘いですわ。姫さま」
にやりと笑う千草に、そのまま抱え込まれ、音橘は連行された。
連れて行かれた先は、屋敷のはなれだった。
昔、父が生きていたころに、庭の梅がよく見えるという理由で作られた場所で、普段はあまり使わず、屋敷に手が回らなくなったころ、一番最初に荒れたところだった。
今は、腐りかけた柱はかえられ、萱もきれいにふきなおされている。
「連れてきましたわ」
音橘を横抱きにして、息を切らしながら千草が言った。
「おう、ご苦労さん」
声を聞くだけで、音橘の心臓は大きくはねた。健皇子が離れの縁に座り、干し柿を食べていた。
「ええ。苦労しましたわ」
ゆっくりと千草は音橘の身体を下ろしたが、逃がす気はないようで、しっかり音橘の着物を掴んでいた。
もがく音橘の前に、千草が干し柿を一つぶら下げた。反射的に口に食んだ自分が憎い。甘い弾力ある実を口の中で存分に堪能している自分が悲しいと音橘は思った。
その様子を見てだろうか、健は大笑いして、持っていた干し柿を千草へと投げる。千草はしぶしぶといった表情で、音橘の口へと持っていく。音橘は二個目の干し柿の味を楽しむ。
「どうしても会わせたい奴がいてな」
健皇子が離れの奥を指さす。御簾の向こうになにかの影が見える。傍に控えている風彦の顔色が芳しくない。不機嫌そうな表情をしている。それは、音橘にではなく、御簾の奥にいる人物に向けているようだった。
(……だれ?)
大きな影だ。とても大きい。胡坐をかいて座っているが、それでも音橘が今まで見た中で一番大きいものではなかろうか。男であることは影だけ見てもわかった。
(なんだか赤い?)
髪の色が明るい。誰もがぬばたまのような黒い髪を持っているわけではないが、その髪色はずいぶん明るかった。まるで今食んでいる干し柿のような色である。
音橘は目をこらした、そして後悔することとなる。
風彦が周りを見渡すと、少しだけ御簾を上げる。赤毛の大男の手が見える。ずいぶん毛深く、そして不思議な肌色をしていた。なんだか全体的に色味が薄いのだ。だからといっておしろいを振っているようではない。
もう少し御簾を上げてもらうとその顔の輪郭があらわになり、音橘は、食んでいた干し柿を床に落としてしまった。
その鼻は高く、あごが少ししゃくれていた。
(これは……)
そこにいたのは天狗だった。