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十四 薬

「やはりいいですねえ」

 

 千草がしみじみと言った。きれいに作り直されたとはいえ、昔の面影の残る家は、音橘だけでなく千草にも懐かしいものであった。

 

 千草は母の乳兄弟だ。幼いころからずっと音橘の母に仕え、母が父のもとへいったあとも女房としてついてきてくれた


(ええ、落ち着くわ)


 音橘はゆっくりと頭を垂れて千草に同意する。健皇子の屋敷では、女房の数が多すぎて落ち着こうにも落ち着けない日々が続いた。

 ここでは、最低限の女房と下男下女しかつれてきていない。静かなぶん、自分でやることも増えたが、音橘にとっては好都合だった。健皇子に求婚されるまで、もっと働き通しでやっていたのだから。


 文机に紙を置き、さらさらと書をうつす。写経ではなく、写しているのは絵物語だ。情景を頭に浮かべつつ、絵がないかわりに表現豊かに字で表現する。

 出来上がった章を音橘は眺める。


(これは、なかなか)


 自分でも自画自賛してしまう。乾くのを待ち、文箱に入れる。文箱の中には、すでに写し終えた物語が入れられている。これを、巻き物にすれば、いくらかの銭になることを音橘は知っている。こうしてひそかにためたものが何枚になるだろうか。


 自然と銭の算段をしている自分が卑怯だと音橘は思っている。それは、つまたる健皇子を信じていないことと同じだ。つまつま、二人で夫婦となるものなのに。でも、そうせざるをえない音橘がいる。

 健皇子は、音橘によくしてくれる。破天荒すぎるばさら者だが、こうして屋敷を立て替えてくれた。音橘がすごしやすいようにと、工夫してくれる。

 

 だが、音橘にはそれにたいして返すものがない。本来、健皇子が音橘を妹背いもせにした意味を考えれば、何をなすべきがわかるのに。

 それをいまだなせないでいる。


 それに興味がないというわけではない。

 でも、それ以上に怖いのだ。

 

 人と触れ合うのが怖い。


 近づくのが怖い。


 音橘は怖かった。

 裏切られ、捨てられるのではないのか。


 近づけば近づくほど、そのときに至ったときの気持ちが恐ろしい。


 いつか裏切られるかもしれない。

 昔つかえていた使用人たちのように。


 それならまだいい。

 

 それよりも怖いのは。


 皇子は、東宮の同母の兄弟。たとえ同じ胎から生まれようと、相手をどう思っているのかなんてわからない。


 そして。


 音橘が健皇子の望みを叶えるとすれば、かの東宮を陥れることにもつながるのだった。


 音橘が悶々としているところ、千草は食事を用意してきた。女房が少ないため、食事は千草が持ってくる。


 並べられる膳を見て、音橘の腹が盛大に鳴る。


「粥のおかわりは一杯までですよ」


(わかっています)


 音橘はさじをとると、粥をすくって口に入れる。


(あれ?)


 妙に薬湯の匂いがすると、音橘は思う。でも、味はいつも通り美味しかったので平らげ、未練がましくのこった粥の釜を持っていく千草を見送った。







「疲れたー」


 健皇子が帰ってきたのはとうに日が沈んだあとだった。暗い夜道を歩くのは危ないが、かの皇子は話を聞くことはない。


 褥に倒れ込む健皇子に怯える音橘。疲れたといいながら、着替えはおえている。髪が濡れていることから湯浴みもすませているのだろう。香とはまた違った薬湯の匂いがする。


 倒れ込んだ健皇子はうつ伏せから、音橘へと視線をうつす。


「先に寝てまってりゃいいのに」


(そういうわけには)

 

 思わず目をそらしてしまう音橘。一応、健皇子が腹を空かせたときのために、唐菓子を準備しておいたが口にする元気もないようだ。そのまま、健皇子の目はつぶれ、寝息が聞こえてくる。


(風邪をひく)

 

 濡れ髪のまま寝てしまうのはどうだろう。

 だいぶ涼しくなりはじめたこの頃、上掛けが一枚足されているというのに。音橘は、皇子の下敷きになった上掛けを少しずつずらして引っ張り出そうとしたがうまくいかない。思わず力を入れて引っ張ると、健皇子の身体がいきおい余って仰向けになった。


(うわっ、うわっ!)


 音橘は思わず壁まですり下がったが、健皇子の寝息に変化はない。上掛けをぎゅっと掴んだまま、ゆっくり近づく。皇子が眠ったままなのはよかった。しかし、それ以上問題のある状況に陥っていた。


(……これは)


 音橘は思わず、目をそらす。そこには幸せそうな顔でよだれを垂らした無防備な皇子の姿があった。まだ、部屋に戻ってきて四半時も経っていないというのにこの熟睡ぶりだ。その上。

 

 薬湯の匂いが先ほどより濃く漂ってきた。ひっくり返ったため、健皇子の襟は大きく乱れていた。湯上りのため暑かったのか、寝間着一枚でもろ肌がのぞいている。肌は湯から冷めておらず、ほんのり紅潮していた。


 音橘の頭がぐわんと殴られたような気分になった。顔に血が上り、耳朶が真っ赤になる。

 普段なら、この後、鼻から血を流して終わるところだ。

 しかし、今日は違った。


 心の臓が大きく高鳴りながらも、己の手が健皇子へとのびていく。自分の身体が誰かに乗っ取られたかのようだった。

 

(なにしているの?)


 怖い、怖い。


 やめよう、こんなこと。


 頭で警鐘が鳴る。


 一方で。


『ここお役目をすませちまえばいいだろ』


 ひどく低い声が頭に響いた。

 

 急に音橘の喉が渇いた。ごくんと唾液を飲みこみあたりを見回す。麦湯をおいていたはずだが、音橘の視線は健皇子のもろ肌へと釘づけになった。


 火照った肌は甘い水菓子を思い起こさせた。


 気が付けば、音橘は健皇子の顔をのぞきこむようにしていた。その柔らかさの残る輪郭に指先を伸ばしていた。


(柔らかそう)


 口が半開きになり、唇の端から唾液が流れた。その肌に舌を這わせたら、甘い蜜の味がするのではないかと。

 指先が頬を伝い、半開きの口へと至った。柔らかい下唇を撫ぜる。


(なにこれ……)


 おかしい、自分がおかしい。


 音橘はそれでも身体が動くのが止められなかった。その身体はゆっくりと覆いかぶさるように、健皇子の上にのっていた。


(なにをしようとしている!?)


 別に夫婦の間では珍しくもないこと。

 なのになんでだろう、この気持ちは。


(違う、違う)


 これとは違う。


 でも、ゆっくりと音橘の指先は健皇子の唇から顎、そして首へと滑っていく。その動きが、襟の中まで進もうとしたとき、小さな喘ぎが聞こえた。くすぐったいようなくぐもった声とともに、柔らかな身体の主は目を開く。


「……」

「……」


 互いに無言になった。

 なんと説明すればいいのか。音橘の顔色は一気に変わる。健皇子と同様に赤く火照っていた身体は真っ青になり、がくんと身体の力が抜けた。


 健皇子は最初、何が起こったのか理解できなかったようだが、はだけた自分の姿と上に跨る音橘を見て、ありえないくらいの物わかりの良さを見せた。


「ははは、俺にのしかかろうなんて最高じゃねえか」


 にやりと獣のような牙を見せつける健皇子。赤い唇が下唇を舐っている。

 

 音橘はそのまま恐怖で気絶した。


○●○


 健は気絶した音橘姫を見て頭をかいた。


「どうしたものかね」


 その頬は紅潮している。もう湯ののぼせはとれたはずなのに。

 指先を頬から唇、そして首へとたどっていく。先ほど受けた感触を反芻するように。


「こっちがびっくりするわ」


 健は、真っ青な顔のままうなされる姫に上掛けをのせて、部屋の隅に置いてある膳を見た。中には、小麦を練って作った唐菓子が置いてある。夜食としておいてあるものには滋養強壮の意味もあるのだが。


 健はその一つを口に含む。そして、ぺっと床に吐き出した。


「千草あたりの仕業だといいんだけど」


 女房や下男下女には気を使っていたつもりなのに、こうも簡単にこういうことがおこるとすれば。


 健は首の裏をかくと、あくびをした。

 考え事は明日に持ち越そうと褥にもぐりこむ。いろいろあって湯冷めしたな、と上掛けを羽織る。

 女房たちはご丁寧に厚めの上掛けは一枚しか用意していない。


 健は、このままでは風邪をひくだろう姫の体を抱え込むと、同じ上掛けの中で丸くなった。


 仕返しだよ、とほくそ笑みながら。


 翌朝、慌てふためく音橘姫を想像するとそれだけで楽しくなった。



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