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十三 懐かしき屋敷


 それは、突然だった。

 音橘が碁を打っていると、大きな足音が聞こえてきた。そして、御簾を乱暴に開けたと思うと、案の定、ばさら者の皇子がいた。


「よし、でかけるぞ」


 いきなり市女笠を投げられた。音橘はびっくりして、思わず気を失いそうになるが、そんなことお構いなしの皇子である。にやりと唇を歪め、出ろ、と部屋の外を指した。


 姫と呼ばれる身分のものにとって、屋敷の外どころか部屋の外にでることも滅多にない。それなのに、健皇子はいい天気だぞ、とのん気に御簾を揺らしながら言った。


「いい日和だ」


 健のにいっと歪めた口から歯がきらりと光る。逆光が眩しくて、音橘は健皇子を凝視できない。市女笠をぎゅっと掴む。


 この皇子のことだ、一度決めたことを撤回する真似はしない。いくら音橘が首を振ろうが関係ないだろう。そして、音橘には首を振るだけの勇気はない。


 音橘に逆らう術はなかった。






 牛車に揺られること四半時ほど、音橘は陰鬱な気持ちで車の中で小さくなっていた。ゆっくりだが揺れる車内、外には追従して千草が歩いている。御簾の隙間からのぞくたび、「大丈夫ですか」と声をかけてくれる。しかし、心配した言葉と違い、その声は妙に浮ついている気がした。


 音橘は怪訝に思いながらも、肯定の意を、首を縦に振って伝える。


(一体、どこへいくの?)


 一般的なのが寺参りだが、そんな普通のことをこのばさら皇子がするとは思えない。むしろ、鷹狩でもやるのではないかと思う。


(鷹狩だったら)


 音橘は、獣を狩るところを見て失神するかもしれない。昔、生前の父が鷹狩の戦利品を幼い音橘に見せてくれたことがあった。音橘は、最初可愛らしい兎がいると思って近づいた。しかし、それは鷹の爪が食い込み、目を血走らせた屍だった。音橘は、そのまま立ったまま気絶し、三日間寝込んでしまった。

 千草の話であれば、その後、父は母に叱られ、今後鷹狩には行かない約束をさせられた。


 仏の教えから肉食も狩猟も禁じられた。狩も公にできないはずだが、父はたまにやっていたらしい。貴族は血の流れを嫌うが、武士の間ではひそかに行われていたようで、混ぜてもらっていたらしい。獲た獣は使用人に無理を言ってさばいてもらっていたという。


(……)

 

 改めて思い出してみて、音橘はそこはかとなく血の流れを感じた。そうだ、音橘の父は健皇子にとって大叔父にあたるのである。


 音橘はぶるぶると震えながら手を合わせて念仏を唱え始めたが、その一方で口の中に唾液がたまっていった。

 別に、兎の肉はどんな味なのだろう、というものではない。炭で焼いて串に刺したものを想像したわけでもない。


 そんなことを考えているうちに、牛車の歩みがさらにゆっくりになり、そして止まった。まだ、都を出る距離ではなかろう。狩をするなら、もっと遠くに行かねばならないのに、と音橘は思った。


「姫さま」


 声が聞こえる。御簾の隙間から、千草が満面の笑みを浮かべている。


(どうしたの?)


 音橘の顔色で、何が言いたいのかわかっている千草だが、にまにまと笑うばかりで教えてくれようとしない。音橘がくやしそうに眉を寄せると、千草はゆっくりと御簾を開いた。


(!?)


 御簾の外には、もう見ることはないはずのものがあった。

 萱がふきかえられ、きれいに手入れされた真新しい屋敷だった。音橘の中に、真新しさ以上に懐かしさがあふれ出す。


 牛車の中で四つん這いになり、ゆっくりと手を伸ばした。思わず這い出し過ぎて、車から落ちそうになる。咄嗟に千草が音橘を支えて車の中に戻す。


「姫さま、せめてこれをかぶってください」


 千草が差し出すのは、市女笠だ。笠の周りには薄布がはられ、これなら顔が見られずにすむ。音橘は笠をかぶると、また落ちそうになりながら車から降りた。


 屋敷だ、昔のままとは言わない、でも、あの荒れ果てた物悲しい家ではない。父と母がいたころのような、そのときの鮮やかな色彩が戻っていた。履物をはき、ゆっくり一歩ずつ近づいていく。門を見る。柱は腐っていない、鼠にかじられたあとはない。庭木は植えなおされ、池には鯉が悠々と泳いでいた。もう食べるものがなく、手づかみでつかまえて竈で煮ることもないだろう。


 音橘の後ろでは、千草が笑いながら笠をきれいにかぶせなおしている。


「私もびっくりしました。ここまで、見事に再現なされるんですもの」


(ええ)


 庭木の配置、調度の趣味、それが懐かしくて、音橘は自然と涙が出た。白梅の香りもする。この季節に香るはずのない香は、音橘の母が好きだった香りだ。「季節外れだけど」と、言いながらもよく香を合わせていた。


「ひひ、悪くねえだろ」


 砂利を踏む音が聞こえる。振り返ると、不敵な笑みを浮かべた健皇子がいた。いつもの悪戯っ気たっぷりの笑みであるが、今日は不思議と照れ隠しの笑いに見えたのは気のせいであろうか。


「けっこうがんばったんだけど、やっぱ時間経っちまってるから、全部戻すのは無理だったわ。似せたやつでだいぶ補ったんだけど」

「はい、それは仕方ないことです」

 

 千草が同意するところを見ると、千草も健皇子に加担していたのだろう。


 音橘はあふれる涙がこぼれぬように目を見開いていたがやはり我慢ができなかった。ぽろぽろと落ちる涙を隠すように俯いて手を合わせた。


「俺は皇子だが、仏じゃねえぞ」


 健皇子の呆れた声が聞こえるが、顔を上げることができない。こういう場合どうすれば、いいのだろうか。感謝の意を伝えようにも、音橘は声を発することができない。


 ひたすら手を擦り合わせた。


「皇子、こちらの荷物どうするんですか! 陣頭指揮とるっていうのなら、責任を持ってください!」


 気苦労が絶えなさそうな従者の声が聞こえた。それとともに、複数の車の音が聞こえる。


「わあってるよ。へいへい、お引越しがんばりますか」


 健皇子が軽い足取りで風彦のほうへ向かっていく。音橘は、何もできずただ立っているだけだった。


「意外にやりますわね、あの皇子は」


 千草が他人をほめるなど珍しい。千草は屋敷の出来に満足しているらしく、うれしそうに柱を撫でている。


「これで、隠し通しやすくなりますもの」


 千草の言葉に、音橘は一瞬心の臓がはねあがった。


 音橘と健皇子の秘密は知られてはならぬもの。そのため、今まで住んでいた屋敷は、少々不都合が多かった。仮にも皇子が住まう屋敷としてかなりの大きさを有していた。音橘の屋敷はそれに比べるといささか小さく、簡素だ。なにより、音橘と千草以外はここ数年住んでいたことがないため、女房などを選出してこちらに連れてくることができる。うわさ好きな短慮なものを切り捨て、思慮深く深入りしないものを選び出すことだろう。なにより、屋敷に手を入れたのは健皇子だが、持ち主は音橘である。千草以外の女房達が幅を利かせることはできにくいだろう。


(あっ、そういうことか)


 音橘は、健皇子の本意に気づいて、なぜかがっかりしてしまった自分に気がついた。


 どうしてそのように感じてしまったのだろう。


(それでも)


 音橘は、千草と同じく門の柱に触れる。


 涙の粒が頬を伝い、柱の礎を黒く濡らした。


 父と母との思い出がこうして戻ってきたのがうれしくてたまらなかった。

 


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