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十一 嫉み妬く


 音橘は早速後悔していた。

 たいへん後悔していた。

 すこぶる後悔していた。


「それはそれは、面白いお姫さんだな」


 手遊びで耳飾りをいじる健皇子の顔は、好奇心をあらわにしている。耳たぶに穴をあけるという恐ろしい行為をこのばさら皇子はやってのけている。そこから悪い気が入り込んだらどうする気だろうと思うが、当の本人は風邪ひとつひくことはない。


(やっぱ話さなきゃよかった)


 話さなければどうなっただろうか。


(やっぱ無理だ)


 顔を俯かせ、畳を見る。黙っていたところで健皇子は音橘を追及する。その際、なにをされるかわからない、それが健皇子である。


「大納言家かあ」


 くくくっ、と笑う健皇子に音橘はため息をつくしかなかった。






 それから数日、特に変わったこともなく日常が過ぎ去っていった。音橘は、美味しいごはんを千草に半分しか与えられず、ちくちくと女房たちに嫌味を言われながらも、それなりに平穏な日々が過ぎ去っていった。平穏とは、すなわち暇ともいう。やんごとなき子女の生活は退屈との戦いといってもいい。しかし、それが平和なるものだ。


 そして、それは肉体の平穏であり、精神の平穏とは異なるものであった。

 

 音橘は、写経によって時間を潰している。いつもなら、歌本を読んだり、それを元に歌を作ることのほうが多いが、先日の騒ぎのせいかあまり歌を作る気になれなかった。


 さらりさらりと筆を滑らせる。その一音一音に御仏へと祈りをこめて書いていく。父や母が常世へと旅立ったのち、ひたすら音橘は写経を書いた。涙と鼻水で紙を濡らしながら書いた。いつしか、その経が三途の川へと流れ、父母のもとに届くのだと信じていた。いつしか自分を迎えに来てくれる、もしくは自分にこちらへと来るように誘ってくれるのではないかと思っていた。


 しかし、写経を書く半紙が無くなったところで音橘はようやく気付いたのだった。屋敷に誰もおらず、きらびやかな調度はあらかたなくなっていたことに。

 現実とはそんなものだった。


 現実を見れば、自分はなにもできないただの童で、血筋を残すこともできない立場であることを思い知らされた。

 なにをすれば食事にありつけることもわからない籠の中の存在だ。あまりの飢えに、とうとう籠を飛び出したところでなにができよう、壱師の花の根を食らい、腹を下して死にかけた。


 神も仏もない、そんな言葉を口に出そうとしたとき、仏とは暗闇に一筋の小さな光をともしてくれるものである。


「これ、あんたが書いたのかい?」


 痩せこけた目付の悪い女が音橘の枕元にいた。簡素だが粗末でない着物を着た女は、音橘がひたすら書いた写経を見ていた。


「へえ。これなら、このくらいなら出せるよ」


 そう言って放り投げられた鐚銭びたせんが初めて自分で稼いだものだった。


「せっかく、書くのでしたら紙は、黄檗きはだで染めたものを用意しますわ」


 千草が言った。黄檗で染めた紙は、虫を防ぐ作用があり、写経を長く保つために使う。

 音橘は首を横に振る。


「せっかくですので、装飾経に仕立てないと勿体ないですよ。それだけ美しい字ですから」


 装飾経とは、写経の中でも女性に流行っているものだ。紺に染めた料紙に、金泥で経を写す。たとえ経とはいえ、美麗な装飾を施す、貴族らしい写経と言える。


 音橘はまた首を振る。

 そんなつもりで書いたつもりはない。

 むしろ。


(こんな不埒な気持ちで写経をしているなんて)


 御仏の罰があたるのではないかと考えてしまう。


 音橘は深くため息をつく。


 歌を見るのが嫌なのも、経を写して心を落ち着かせようとしているのも原因はひとつだ。


 音橘の心の泉が波打つ理由は。


「ありえないわ。それ本当?」

「ええ、本当よ。それがすっごく下手で、掃除のとき笑っちゃった」


 廊下を通り過ぎる女房たち。主が健皇子だけに、仕える女房たちは、けっこう蓮っ葉なものが多い。聞いた話によると、女房たちの中には、白拍子なる遊女出身のものや町民もいるという。貴族の中には、白拍子を妾にするものも皆無ではないためおかしいことはない。ただ、健皇子が本当に白拍子を妾にしているとは考えられず、やはりばさら者らしい奔放な民間起用といえる。もちろん、表向きは貴族の娘として扱われているようで、白拍子だとか町民の子だとかいうのは、女房たちの話を盗み聞いたものである。どこまで真実かわからないが。


(たぶん、そうなんだろうな)


 と、いうわけのわからない確信があった。「おもしろいから」という理由があれば、必ずやってしまうのが健皇子である。

 そして、今現在進行中で、その「おもしろい」ことに健皇子は夢中である。


 これが、ここ数日、音橘の生活が平穏である理由だった。


「まさか。どこぞの姫君に文を書くなんて」


 どこの世に、妹背が自分以外の者に懸想している話を聞いて平穏でいられるものがいるだろうか。


(それはありえないはず)


 ありえないと信じ込みたい、というのが普通の話であろう。しかし、音橘はありえない理由が確信たるものであった。思い込みなるものではないとわかっている、でも。


(あの皇子ならば、ありうるかもしれない)


 「おもしろ」ければ何でもいい。たとえ、それが歪な結婚の形であっても。恋であっても。相手が音橘であろうとも、輝夜の君であろうとも、おもしろければそれでいいのだ。


 いつの間にか下唇が痛いことに気が付いた。音橘はそっと指先を唇に当てる。紅とは違った赤いものが指先についた。


(血……)


 音橘はじっとそれを眺める。普段なら、穢れとして忌み嫌うものを凝視したりしないはずなのに。


 自分の中にある感じたこともない情に戸惑いを覚えていた。


(血、穢れ、みそぎをしなきゃ)


 ふらふらと沐浴をすべく湯殿へと向かう。

 音橘は実に混乱していた。


 ゆえに、その後待ち受ける展開に対応できるわけもなかった。






「よお。おまえも墨でもこぼしたか?」


 湯帷子も着用せず、手ぬぐい一枚肩にかけた健皇子に出くわした。


 よって、唇の血など気にならぬほど鼻から出血し、濡れた湯殿の床に滑って転んでしまった。


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