十 竹取翁
(調べろ、と言われましても)
上質の紙と上品な文。これだけのものが書ける才女となれば限られる。噂になるような人物であれば、両手の指の数に満たないだろう。
しかし、それをそのまま皇子の申し上げたとしても、あの皇子はどう反応するだろうか。女房の間で噂になるような人物くらい皇子はすでに選別しているだろう。
(また試されているのかな)
きゅっと音橘は胸の前で拳を強く握る。そうなるとありきたりな返事であれば、落胆させてしまうことになろう。
(自分の価値がなくなる)
それだけは避けたかった。
渡されたままの文をもう一度、目に通す。
音橘が健皇子に試されているように、健皇子もまた文の主に試されているようだと思えてしまう。
気になる点をもう一度確認してみる。
紙は陸奥紙、高級品だ。手紙として使われることもあるが、手触りのいいそれは陸奥紙の中でも特に高級品といえる。
字はかな文字、これだけ美しい女手を書けるのであれば、相手は女性であると信じたい。時に、男もかなを使って日記を書くこともあるがそれは例外だ。それに、文章を見る限り男性らしき特徴は見られない。代筆屋を雇った可能性もまったくないわけではないが、なんとなくそのような気がしなかった。
(まるで挑戦しているもの)
手紙の送り主は、文才に優れているが、かなり気位が高い性格ではないかと考える。でも、ごく一般的にある貴族の気位とは少し違う。あえていうなら、光る皇子の物語を書いた式部のような、自分の才をゆるぎないものとしたい、そんな矜持を感じた。
その一方で、ところどころ手がかりらしきものを残している。それは詰の甘さではなく、もっと別の何かを感じた。
添えられた花は一師の花、これは皇子に対する挑発という意味でとらえていいだろうか。
そして、歌は……。
(若子髪に、長雨禁……)
万の歌を記した歌集、その昔、落ちぶれる前の屋敷になったものを思い出す。音橘は歌集が好きで、女房にたのんでずっとそれらばかり読んでいた。膨大な数のそれは、今でも音橘の記憶に残っている。字が美しいだけでは、代筆屋は務まらない。その点で、その記憶は音橘の持つ数少ない財産といえた。
その中の一つに使われる言葉が文の端々で見られた。
(あれだけの恋歌の元がこれだなんて)
元となった歌は、むしろ枯れた歌といってもいい。作者は、竹取翁である。子どもでもその名はわかるだろう。月に帰った姫を育てた翁である。
わざわざ恋歌の元に、竹取翁のものを使うなどなにかしら意図があるとしか思えない。
(……竹取翁、……竹取物語、……赫夜姫?)
ここ最近、聞き覚えのある単語を聞いた気がした。
健皇子が珍しく歌会に行くとのことで、屋敷の女房たちが噂をしていた。歌会を開催した大納言の娘の話だ。一の姫はすでに入内している。
大納言の二の姫は、それは美しき才女であると。
輝かんばかりの才と、幾人もの公達たちが求婚を断ることから、竹取の姫にたとえられているという。
音橘はもう一度、歌を見直してみる。
歌で気になるもう一点、季節がずれていること。今は、一師の花が咲く季節、仲秋である。
使われている季語は主に早春のものであった。
(早春)
音橘は、手紙を顔に近づける。鼻をくんと鳴らし、微かに残った香を嗅ぎ取る。
最初は優しい匂いだと感じたが、よく嗅ぐと凛とした甘酸っぱい香りであった。
早春によく似合う香だ。
大納言の二の姫、そして早春。この二つによって導かれるのは、やはり先日の歌会だ。
曲水の宴を真似たそれを二の姫は見ていたのだろうか。そして、あることに気が付いたのだろう。
健皇子が、わざわざ季節の色合いの衣でなく、季節外れのものを着て行ったことに。
(あー)
音橘はへなへなと、畳の上で倒れ込むように崩れた。そばに千草がいれば、大騒ぎしていたことだろう。生憎、彼女は食事を取りにいっている。
今まさに危機ではないだろうか。今をときめく大納言の娘、姉が帝の後宮に入内となれば、その妹はそれに準ずるところへと嫁そうものである。その中に現帝の子が候補に入っていないわけがない。
普通に考えれば、健皇子ではなくそのうえの東宮に話がやってきそうなものだけれど。実際、大納言はそのように働きかけていると、噂で耳にする。
(これは危ない)
たとえ、皇子にその気はなくとも相手の姫から恋文が届けば周りはどのように見るだろうか。たとえ、どんな意図があれ、それを理解することはないだろう。
そして、なにかが間違って、大納言が東宮から健皇子に乗り換えようと考えたら。
(うわああ)
音橘は畳の上でじたばたした。じたばたといっても音橘のじたばたなので、実に上品なものであったが、千草など近しいものが見ればどれだけ混乱しているかわかるであろう。
(あんなこと言いださなきゃよかった)
あの日、健皇子はまさにばさら皇子らしき格好をして出かけようとしていた。それはあんまりだと、風彦、千草、そして音橘まで止めたのだ。
髪を髪油で逆立て、耳と首には飾り玉をつけ、獣の毛皮を羽織って歌会にでかける皇子などどこにいようか。あまりにひどすぎた。
渋る健皇子を説得するために、音橘がだした妥協案だった。
せっかくなので、曲水の宴らしい格好はいかが、かと。
皇子は、妥協案にのってくれた。
ばさら者、うつけ者の皇子がそんな恰好をしたところで、誰も気にするものはいない、むしろまともな恰好をしてきたと、感心するくらいではないだろうか、と音橘は考えていた。
ところが、感心ではなく関心を抱くものが現れるとは。
しかも、相手は相手だけに厄介である。
音橘は、腹が急にきりきりと痛み始めたが、聞きなれた足音が廊下から聞こえてくると、身を正して何事もなかったかのようにつとめた。
腹が痛いとなれば、せっかく用意された食事を下げられてしまう。ただでさえ、最近、千草に粥のおかわりを禁じられているのだ。
どんなに腹が痛くても、音橘は目の前の食事を逃す真似はしたくなかった。