一 音無姫
「快い返事を待っております」
御簾の隙間から見えた狐の面を被ったかのような男は、さるやんごとなき皇子の従者と言った。花の枝もつけず、香も焚かず、ただ簡潔に必要事項のみを記した文を持ってきた。
『嫁に来い』
そんなぶしつけな文を持ってきた。書きなぐった文字に優美さの欠片もない。
御簾の裏側で、青白い顔をして今にもひきつけをおこしそうなのは、文を貰った張本人だ。長い射干玉の髪は美人たる証で、幼さの残る顔は眉を八の字にしている。
齢十五、娘なら適齢期にあたる。
名を音橘という。
よよ、と倒れこみそうになるのを支えるのは、長年仕える乳母の千草だ。
「どうしましょうか。姫」
三十路をいくつかこえてなお、美しさの衰えない千草は、主人たる音橘の衣を直す。
(どうしようといわれても)
音橘はどうすればよいかわからなかった。断る理由が見つからないのだ。
今までは身分差を盾に、いくつもの妻問を断ってきた。音橘の周りにやってくる男など、たかが知れている。成金が血筋を金で買うために、音橘に求婚するのだ。
たとえ、先の帝の孫であろうと、父母を亡くし、後ろ盾のないものには用はない。それが現実である。
貧しいくせに気位が高く、求婚者に声ひとつかけることがない。後ろ盾もないくせに、理想だけは一人前、そう蔑まされていることも知っている。
音橘は、揶揄も含めて、音無姫と呼ばれていた。
今まで、身分差を理由に断り続けてきた求婚である。それなのに、何を間違ったのか、身分にあったやんごとなき血筋の皇子が妻問すると誰が思おう。
もっと金と権力のあるところへ妻問すればよいのに。
(きっと、気まぐれに決まっている)
でなければ、あんな地味な文を出すわけない。なにより、従者をよこして本人が来ないとはどういうことだ。
(きっと、からかってるんだ)
音橘は、文の存在をなかったことにした。さっさと漆の剥げた文箱に入れる。文箱を毛羽の目立つ行李の中にしまう。
漆を塗りなおすか、新しい文箱を買いたいがそんな贅沢はできない。行李もまだまだ使える。
とてもやんごとなき血筋とは思えない貧乏性だ。いや、事実貧乏である。
(ああ、今日はもうご飯食べて寝よう)
薄い粥に申しわけ程度の香の物、それに菜っ葉の浮いた汁物、それが音橘の楽しみだった。とうに給金も払いきれなくなった乳母がなんとか用意してくれるものだ、とてもありがたく思っている。一方でいつまでも頼っていられないとも思う。
音橘は机を見る。書きかけの文が広がっている。名を隠して、代筆の仕事を請け負っている。
(仕事、増やしてもらおう)
屋敷の手入れをしたかった。先立つものが欲しい。
(はやく自立できるようにならないと)
誰かに養われるのではなく、自分で生きていく道を選ぶ。
音橘には、それだけ契りを避ける理由があった。
(無駄に広い屋敷)
渡り廊下を歩きながら、いつも思う。昔は下女だけで何十人もいた。
父と母がいたころは、手入れが行き届き、華やかなものであったというのに。
(よりみじめだ)
屋根の萱はもう何年もかえていない。使わない部屋は風通しがなく、すぐに傷んでいく。庭の池には、鯉どころか蛙もいない。藻が生え、緑色に濁っている。
腐りそうな柱くらいは補強するが、音橘の手持ちでは手一杯である。
手を差し伸べるものがいない、忘れられた姫にはお似合いの屋敷だ。
音橘の父は先帝の末子だった。老いた祖父が慰みに触れた更衣の子である。異母兄姉とは歳が離れ、甥姪よりも若かった。
かつて賢帝と謳われた祖父も、年齢には勝てず、早く帝の位を渡すように息子たちに突かれていた。そんな中で思いもよらず生まれた父を祖父は可愛がった。祖母は一更衣という後ろ盾のない立場であり、他の妃のように舅が口を出さなかったのも、好ましかったのだろう。
それが間違いだと気づかないほど、祖父は疲れていた。
爺が耄碌したと、息子たちはあざ笑っていたらしいが、内心は穏やかでなかったという。幾度となく、幼い父の命が狙われた。祖母は怯え、心の病を持つようになった。
まるで絵物語の如く、父は祖父に愛されるがゆえに、捨て宮として扱われるようになった。
父の口癖を思い出す。
「私が姫なれば、母を苦しめなかったものを」
そんな父は、母とともに死んだ。牛車の車輪が外れ、車ごと川に落ちた。音橘が十のときである。
すでに祖父は身まかられ、音橘に手を貸すものなど現れなかった。使用人も次々辞めていき、それと同時に屋敷の調度も消えていった。千草を残した最後の一人が辞めていった頃には、屋敷に金目のものはなくなっていた。
ゆえに、代筆の仕事と千草の持ってくるわずかばかりの食料で今まで生きてきたわけである。
たとえ、姫と呼ばれようと、明日の飯にも困る日々、世知辛い世の中だ。
いっそ屋敷を処分してしまえば生活は楽になるのだろうが、それもできない。情けないことに、父母の思い出は捨てられないのだ。
ぼろぼろの御簾をくぐり、自室に戻ると文机の前に座る。色に狂った歌を見て音橘は、げんなりする。これから、その歌を清書せねばならない。歌とは恐ろしいもので、それにのせるとどんなにあからさまな色の誘いも、不思議と素敵に受け入れられてしまうものである。
顔を薄ら赤くしながら、音橘は筆に墨を含ませる。
(はかなげでたおやかな文字で)
一人は寂しい、熱い夜を過ごしたい、と歌いながら、はかなげな文字で書けというのか。
贅沢は言っていられない。大事な飯の種である、矛盾など気にしない。
さらさらと筆を滑らせ、あたかもはかなげな美女が目の前に現れる文章を書き記す。
(これでいいかな?)
我ながらいい出来、と自画自賛しながら宛名を書こうとしたが、宛名に見覚えがあった。先日、中納言の娘に頼まれた文と宛先が同じだった。
つまり、同時に二人の女性から訪問を催促する文が送られる相手だ。二股である。
ここで問題なのは、二股をした男ではなく、あたかも自分が書いたかのように代筆を送る女たちだ。貴族の手紙は、他人に見せること前提で書く必要がある。違う相手から同じ筆跡の文が送られたら問題だ。
そういえば、中納言の娘も同じように『はかなげでたおやかな』文字を指定してきたことを思い出した。そういう女が好みなのだろう、この宛名の色男は。
音橘はせっかく書いた紙に墨を含ませて文字を潰し、脇に置く。あとで紙屑屋に売るのだから、中身を見られては困る。
雇い主から余分に紙を預かっているが、できれば節約して残りは売りたいのだ。白紙は高く売れる。反古は作りたくなかった。
音橘は新しい紙に、はかなげでたおやかな文字を書く。だが、筆跡はまったく違う。
(これなら大丈夫)
代筆の依頼を持ってくる仲介屋に罵られながら、玄人意識を叩きこまれていた。まがりなりにも皇族だが、贅沢は言えない。よりお腹を満たす食事を得るためだけに、音橘は精進した。
後ろ盾のない音橘は、慎ましやかに逞しく生きていた。
「はいよ、今回もいい出来だね」
御簾越しに年増の声が聞こえる。仲介屋は、書き終えた文を受け取ると、銭を御簾の下に置いた。
音橘は、砂の入った箱を取り出すと、指で文字を書く。音無姫はこうして意思疎通を行う。
「ああん? 米か布にしろってか」
不機嫌な仲介屋の声に、音橘は身を縮ませる。
貨幣はすぐ価値が変わってしまう。明日の飯にも困る側としては、価値が安定している米か布のほうがよいのだが。
「残念だが、それは無理。向こうから貰ったのが、銭だったから、そこから仲介料引いた額なんだよ」
威圧するような口調に、音橘は身をさらに縮める。本当は、その仲介料がいくらなのか聞きたいのだが、以前聞いたら、
「あんたの他にも、代筆屋はあんだよ」
と、言われた。
確かに、音橘のもとにやってきてくれる仲介屋は、この女しかいないだろうし、仕事がなくなればすぐ飢えてしまう。足元見られようが仕方なかった。
「ほれ、わかったら次の仕事だ。仕事は増やしてやっから、量をこなして稼ぎな」
文箱を三つ置くと、仲介屋は足音をたてながら廊下を歩いて行った。
音橘はわずかばかりの銭をつぎの入った布袋に入れると、文箱の中身を確認し始めた。
言われた通りにやるしかない、それが今の音橘にできる精いっぱいのことだった。
みじめたらしく腹音を鳴らしながら、音橘は仕事をはじめた。