7―(7)「一騎当千②」
走る。
奔る。
疾走る。
おびただしいほど沸き上がる波動を天剣に叩き込み、細い体躯に刀と共に無数の斬撃を滑り込ませていく。加速をもってなお加速する剣速は、俺にでさえ刀身がいくつもに分かれているように錯覚させた。
志乃は手刀で応戦する。武器か素手かの違いはあるが、それが戦いを左右することはまずありえない。なにせお互いに最も得意とする得物を使っているのだ。それで敗北するようなことがあれば、単に実力が足らなかっただけのことだ。
しかし魔王と戦ったダメージは完全に蓄積されているおかげで、体の節々どころか波脈からなにからなにまで限界を越えてしまっている。かつてここまで消耗したことはなかった。気を抜けば己の意思に関係なく意識を失うだろう。
ただそれは志乃も同じだ。自分と同格である超越者と超能力者のトップの二人と死闘を繰り広げ、さらに『門』を閉じることまでやってのけたのだ。条件的には俺よりも厳しいといえる。
そんななかで対等な攻防を苦もなくやる志乃には感服するしかない。
しかし自明の理だろう。俺はたった五年しか経験がないのに対し、志乃は五百年の歳月を重ねている。質では劣らないはずだが、量が圧倒的に劣っている。それに形勢の不利さを覆す術も俺よりも長けている。現に攻めているのは俺のはずなのに追い詰められてきているのも俺だ。
攻撃の繋ぎ目はどうあっても存在するわけで、志乃はそこを的確に突いてくる。速度が上回っていても防御に手数を欠かされてしまえば必然、俺が後手に回らなければならない。それでは前回の二の舞だ。
上回る。凌駕する。俺は――俺を越える。
「――っ!?」
志乃の顔に驚きが映る。その結果、退くという言葉を知らない、愚直なまでの攻めに徹していた彼女が距離を開けたのだ。
やったのはそこまで難しいことではない。攻撃と防御を同時に行い、余計な行程を省き、さらに剣速を上げただけ。攻撃そのものには手を加えていない、というよりそこまでの余裕はなかったの方が正しいか。
志乃が大袈裟な反応を示したのは、俺の進化にではなくおそらくこの刀にだろう。
この刀には不死殺しの効力が秘められている。後ろから飛んできて条件反射で掴んだのだが、こんな業物がなぜ飛んできたのか。
いいや、と頭を振って思考を無理やり押し込み、改めて間合いを図る。
「どうやら変わったのは身を包む衣だけではないようだのう。この数刻にいったいなにがあったのかな?」
「……さあ、どうだろうな」
出鼻を挫かれ、攻めに転じる機会を逃してしまったためか、その間を埋めるかのようにあっさりを口火を切っていた。
しかし間を埋めるためだけではない。どうにも志乃は話しやすいのだ。
志乃は殺気どころか敵意すら俺に向けていない。悪意もなにもなく、剣を交えて彼女から読み取れる感情は、どうにも戦場には注がれていないように思えた。虚無感や憔悴感ばかりが渦巻いている。
これまで戦ったきたやつらとの違いはそこだ。戦い自体に結果を求めていないわけではないが、しかし求めているものに違和感がある。
その正体を看破するには至らない。戦いを通じてわかると思っていたけれど、それでわかるなら苦労はないということだ。
「ああ、妾は嬉しいぞ。そちを巡りあったことを感謝せねばなるまいて」
言葉を聞く限り、ただ戦いが好きという感じではなさそうだ。もともと志乃から受けていた印章はその通りだったこともあり、だとすればなにをそこまで求めているのだろうか。
「ようやくこの輪廻の輪から脱け出せる。ああ――なんと心地よいことか」
穏やかな表情で呟いた志乃から、一瞬だけありとあらゆるものが消えた。思わず戦闘体勢を解きかねないほど、たったいまの志乃は無防備だった。
しかしなんだ。輪廻の輪から脱け出せる? それはどういうことだ。この惨状を引き起こしたこととなにか関係があるとでも言うのだろうか?
そもそも志乃のやることには不可解なところが多すぎる。全体を見ればさして気にならないが、細部だけに注視すれば、なぜそうしなければならなかったのかと疑問に思うところが多々あったのだ。
もしかしたら俺はなにかを見落としているのかもしれない。彼女の本来の目的とは能力者を全滅させることではないのか。
下げていた両腕を持ち上げ――構える。
「そう急ぐでないぞ。妾は逃げも隠れもせぬし、ましてや戦いを放棄するつもりもない。ここですべてを終わらせるつもりだ」
「どういう意味だ? 俺なんか敵じゃないってか?」
まあ実際、俺は志乃にやられているわけだから、そんなふうに思われていても仕方のないことだ。それで油断してくれたらどれだけ戦いやすかったか。むしろ手の内を知ったからこそ志乃は決して油断しない。
おどけて見せたものの、俺がやれることが別になったわけでないのだ。同じようにやればおのずと結果は同じとなる。
大きく息を吸い込み、吐き出す。
――大丈夫だ。なんのために『勇者』に身を委ねたと思ってるんだ。
もう二度と『勇者』にはならないと思っていた。なりたいとも思わなかった。それに頼りきりになって、新たな一歩を踏み出せないと直感していたからだ。
だからこれが最後。『勇者』として戦うのは、これで最後だ。
「いいや――最高の手向けだよ!」
「そりゃ結構なことで!」
再び衝撃が交錯する。剣を介して伝わってきた反動を全身の関節を連動させて体外へ追いやり、志乃よりも早く次の一手を繰り出す。
さっきまでの攻防は前座に過ぎない。本番はここからなのだ。なにせお互いに異能を出し惜しみし、出方を伺っていたのである。
第一戦ではある程度どんな戦い方を好み、どのタイミングでどこに攻撃を打ち込んでくるのかは把握している。反射的に対応しているだけでは防御はできても、攻撃に移ることは難しい。だからこれらの熟知は最短でなおかつ正確であることが必要だ。相手がどう出るか予測ができれば、戦いも有利になる。
だがそれをお互いが完了した場合、予測のほかにも裏の読み合いが命運を左右することになる。常に相手を出し抜くことを意識しなければならないのだ。
ただし、前回とは使っている武器が違う。とはいえ志乃はリーチが短くなり、小回りが利くようになっただけだ。二刀流になった俺のほうが志乃が情報を取得するまで時間がかかるだろう――そこが狙い目だ。
志乃に武器の心得はない。二刀流を使ったとはいえ、そこまで理解が及んでいるとは思えないが、油断は禁物だ。
衝撃で怯んだ志乃に刀を捩じ込む。体勢を崩しながらも刀を弾き、さらに隙だらけになった腹部に爪先を突き立てる。不死殺しの効力を持つ刀に自身が思っていた以上に意識し過ぎていたのだろう。回避の遅れた志乃がくぐもった呻き声を漏らした。
弾かれた刀の反動をいったん柄を離すことで緩和させ、すかさず逆手に持ち直す。
剣と刀は似て非なるものだ。形もそうだが、用途が圧倒的に違う。
どうも俺は刀の扱いが上手くないらしい。こうやって握っていても反発する感触が拭いきれないが、しかし志乃は刀にばかり意識を向けている。なら刀を主軸に戦わない手はない。
「――氷姫よ、天焦がす地獄の花束を!」
超近距離から放たれた氷花を志乃は獄炎をぶつけることで相殺する。発生した水蒸気が肌を焦がしていくが、そんなのはお構いなしに突っ込んでいく。水蒸気を目眩ましに刀を握っていた左手を振り下ろす。
たかが水蒸気で志乃を欺けるとは思っていない。案の定、刀身は手刀によって外側に弾き出される。そのまま回転し、遠心力を乗せた一閃を反対側から刷り込む。風系統の加速と弾かれた反動も相まって腕の速度は、さらに刀身の煌めきは宙に軌跡を残さずに志乃の頭部があった場所を通過した。
パラパラと眼前を舞う白い糸。とっさに身を引いたようだが、切っ先が志乃の長髪をかすったのだろう。
素早く腕を引き戻してさらに追い打ちをかけようとしたところで、水蒸気を掻き分けて陶磁器のよりも薄い、病的なまでに白い五指が喉元に伸びてきた。
志乃は能力に頼るよりも手刀の方が得意としている。俺も波導に比べれば剣術が得意だ。詠唱して波導をぶつけるよりも剣による火力のあることを乱撃の方が、いまの俺からしたら効率的なのだ。
だからわかる。能力なんか無視したとしても、素手の攻撃はそのまま死に繋がるのだということを。
天剣をいったん属性石に戻して刀を両手で握り力を一点に集束させる。絶叫にすら近い雄叫びを上げながら、下段から上段にかけて全力で振り上げた。
眼前で火花が散る。いや、火花なんて生易しいものではない。全身の水分が蒸発し、それがさらに全身を焦がしていく。肌の表面が熔解され、肉を貫通して骨へと直接ダメージが蓄積されていくようだ。
しかしそれを感じたのも一瞬のことで、浮遊感の後、俺の体は水面上を跳ね回っていた。競り負け、叩きつけられたのだろう。幸いだったのは水がクッションの代わりになったことだ。ダメージがないわけではないにしろ、着地点が液体だっただけまだマシだ。
「は――くっ」
ゾワリを背筋を駆けた悪寒に吐き気が込み上げてくる。気合いだけで飲み込み、即座に再復元させた天剣と刀を十字に重ね、それを受け止めた。
「ほら! 止まっていては的になるだけだぞ!?」
すでに背後に回っていた志乃の腕に紫電が纏う。『雷天』にも勝るとも劣らない密度を誇る紫電は、触れるまでもなく脳からの電気信号に悪影響を及ぼしている。防ごうと対策を練るが、いかんせんバリエーションが少ない。
志乃は『九十九』の創設者だ。『九十九』の原点にして生みの親――すなわち、『九十九』の能力はすべて使うことができる。空間移動や『陰陽師』の式神の使役、さらは『吸血鬼』の不老不死まで自由自在にだ。
これだけ数があれば対処ができないなどということはまずあり得ない。
俺はといえば氷および風系統の波導のほかには剣術しかなく、対処法は相手に技を発動させないか、真っ正面から相殺するかくらいしかない。避けるという選択肢もないこともないが、実力が拮抗するなかではかなり難しい。
……いや、そんなのはどうでもいい。やられる前に、捻り潰す――!
「止まってんのはそっちじゃねぇのか!?」
背後に回り込んだ志乃のさらに背後に移動する。紫電に触れずとも悪影響があるのだとしても、それくらいなら俺だって調整することができる。
かすかにまとわりついていた痺れを取り払い、天剣と刀の乱舞を浴びせる。瞬間、紫電は霧散して消えていった。
風の流れを動かし、プラズマを発生させて紫電を相殺したのである。風系統の波導使いがよく用いる攻撃手段でだ
波導は生まれつき使える属性が決まっている。それでもしも相性の悪い属性と戦ったとき、防戦一方になる場面がほとんどだ。だが長い歴史を持つ波導――強いては先人の波導使いたちが、それに我慢が利くはずがない。だから改良を加えた。
もともと定められていた波導のシステムに変化を与え、本来の属性とまでいかずとも、擬似的な属性波導を発動させることに成功したのだ。
乱舞に並行して氷花を大量に形成する。鎌鼬でそれらを切り刻み、粒子ほど細かくなった氷を雨のように降り注がせる。
乱舞をひとつひとつ弾き返す志乃の瑠璃色の双眸の奥に狂喜の色が浮かんだ。
不意に空間が歪む。巨人が跪いような轟音と共に氷の粒子が遮られた。なにが起こったのか確認しようとして――気がついたときには、志乃の手刀が鎖骨ごと肩を抉っていった。
激痛に悲鳴を漏らす暇もなく、志乃の怒濤の能力連撃が襲う。
『門』を閉じるときに使っていた分身を併用しながら、紫電やら獄炎、さらに透明な柱による体勢崩し、あるいは直接破壊を施そうとしてくる。
前言撤回である。技を使わせないだとか真っ正面から相殺するとか言っている場合ではない。攻撃と攻撃の繋ぎ目がわからないのに、同時に放たれているわけでもなくて、無意識に計っているタイミングを外すよう仕掛けていた。
全神経を集中させて回避に専念する。どれもこれも完璧に避けようとすれば次弾に直撃してしまう。一度のダメージが低くとも、こうひっきりなしに喰らっていては長くは持つまい。
着流しは無惨なほどボロボロになり、見るに耐えない姿になっている。
「どうしたどうした! そちはその程度ではあるまい!?」
耳のつけねまで頬を裂いて嗤う志乃は、まるで俺を挑発しているかのようだ。
自身の力に酔いしれて力を過信する輩ならその言葉は聞き流していただろう。しかし相手は志乃だ。わざわざ挑発して力を引き出させようとする意味がわからない。
志乃の目的は能力者の殲滅であり、俺と戦うことではない。俺を排除してから、ということなら理解できなくもない。だがそんなことをする必要性はないのだ。であればこの挑発になんの意味がある?
意味なんてないのかもしれない。でも、俺には志乃が意味もなしに行動するとは思えないのだ。
「なら、見せてやるよ」
刀を手放して鞘を復元させる。そして遅滞なく、一気に抜刀した。
レヴァンティン秘伝炎剣技――鼠花火!
炎系統の波導による剣技の究極形のひとつ。抜刀した衝撃を波動で拡大、拡散させて全方位を同時に断絶する技だ。本来は炎で焼き尽くすのだが、俺の場合は先に氷系統の波動を撒き散らして凍結させ、全方位に飛ばした風系統を混ぜた斬撃で破壊するのである。
放たれたそばから空中に停滞していた能力の塊を悉く凍結させ、切り裂く。
「ああそれだ! 妾は妾を屠らんとする存在を待っていたのだ!」
「……ははっ、マジですか」
鼠花火を喰らった志乃には波脈を焼き斬られる、想像を絶するほどの激痛が襲っているというのに、そんな素振りを一切見せることなく高らかに笑っていた。
これで倒しきれるとはちっとも考えていなかったとしても、あんなふうに元気ハツラツにされると精神的に堪えるものがある。いかに鼠花火が一点集中の技でないと言っても、俺の波導のなかでも最大の威力を誇っているのだ。
「これでほぼ無傷とか、バカにするにもほどがあんだろ……」
「いいや無傷ではないぞ。『吸血鬼』の再生力が詩織によって進化していなければ、いまごろ妾はいくつもの肉塊になっておったところだ」
そう言って志乃は服をまくる。そこには徐々に治っていく傷痕があり、見せている間に完全に回復した。
「しかも治ったように見えても見かけだけ。妾にこれだけの傷を刻んだのはゆかり以来のことだ。――――愉しいな、かしぎよ。願いを成就させられるというのは」
「その願いっていうのは、能力者を殺すことじゃないんだろ?」
聞いた志乃は腕を組みながら首を傾げた。
「いいや、それも偽らざる妾の願いだ。ただし、それは先ほどそちが現れたことで破棄させてもらったがな」
予想外にあっさりと答えられ、ありったけの脱力感に襲われた。能力者を殺すことが目的でないのであれば、俺が戦う必要はないことになる。
だが引っ掛かるのは、俺が現れたからというところだ。
まさか志乃の目的というのは俺と戦うことなのか? たったそれだけにためにこんなことをやったとでもいうのか。
そう考えてすぐに否定する。たしかに志乃は俺との戦いを望んでいなかったわけではない。戦うのが直接の目的ではないものの、間接的には願いを成就させるのに必要なことなのだろう。
なら戦いを通じて叶えたい願いとはなんだ。中途半端ではなく、全力で戦わせんとしたのは何故なんだ。――浮かんだのは、思いついたことさえ馬鹿馬鹿しいと切り捨てたくなるような、それ。
しかし辻褄が合う。こうすれば嫌でも大勢の能力者が動くことになる。
そのなかに俺や母さんみたいな異常があれば、目的は達せられる。
ああ――そうか。
お前の目的は、それなのか。
「……だからお前は」
「言うな」
何を言おうとしたのか、文字通り言うまでもなく悟ったのだろう。いままでにない強い口調で言葉を遮ってくれる。
俺もそうしてもらったことで助かったと思ったのは否めない。
言葉にさせないようにしたならそれは的を射ていたといことで、それを口にして表していたならば、俺はきっと、志乃と戦うことはできなくなっていただろうから。
早く意識から追い出せ。こんなことでは柄を握ることなどできはしないぞ。
「そろそろよいか? 待つことにはなれているが、願いの成就を前に待てを強いられるのにはなれていないものでな。潤いを欲して止まんのだ」
「……待たせて悪いな。もう大丈夫だ」
そもそもだ。それを欲しているなら、くれてやって然るべきではないのか。誰かが迷惑するでもないのだ。むしろそうしないことで、これ以上の被害を被ることは確定事項だ。悩むべくもない。
躊躇してしまうのは人間として当然だとしても、それを望まれて二つ返事で了承することもできない。理解してから、理解したことを後悔したのは初めてではないが、こんなにも後悔したのは初めてだ。
構えた天剣と刀に雑念が宿っている。腕が重い。動きに違和感がある。
「気に病むことでない。そちは妾を止めるために死力を尽くせばよいのだ」
「……そうかよ」
もとより退くつもりはない。前に進むしか選択肢を与えられていないのだ。
先手を打ったのは志乃だった。空間を凝縮して消滅させんとする予備動作にとっさに反応して前に出、そのまま初動に移る。
レヴァンティン秘伝炎剣技――閃光花火。
一気にトップスピードまで加速し、勢いと速度を抱えたまま抜き打ちを放つ。見切られているようだが関係ない。この技は見切られることを前提とした剣技だからだ。
炎系統の波動を一瞬のうちに最大出力で放射することで陽炎を生み出し、視覚との認識の差を利用するのである。俺の場合は氷系統の波動で相手の体内の水分を凍結させ身動きを取れないようにするやり方だが、十分に効果的だ。
斬撃をまともに喰らった志乃の体勢がここに来て初めて崩れた。仰け反り、鮮血を宙に舞わせている。
跳び跳ねた鮮血は凍結して結晶となる。それが落下を始めるより早く、連続して閃光花火を体躯に叩き込んでいく。
どれだけ化物じみていようと、能力者――超越者である限り、彼女も人間だ。人間であるなら負担を積み重ねていけば、いつか限界は訪れる。それがいまだ。
表情を苦悶に歪め、抵抗しようにも儘ならないことに焦りを感じているのが手に取るようにわかる。
これで事足りるならば喜ばしいことはない。俺の手札はもう底を尽きかけているし、肉体的にもそろそろ限界を迎えようとしている。全力で戦える時間も、もうわずかしか残されていないのだ。――だがこれで終わるわけがない。
直後、禍々しい波動を孕む魔手が、両刀を捉えた。
「これは効いたぞ、かしぎよ。しかし、もうそれは見飽きた」
両腕が外側へと弾かれ、どうしようもなく無防備な姿を、あろうことか志乃の眼前で晒すことになる。
「しかとついてくるのだぞ?」
鳩尾に膝が捩じ込まれる。もはや表現不可能な一撃は波動の肉体強化の壁を容易くぶち抜き、内臓器官の悉くを停止寸前まで追いやってくれた。
喉の奥から込み上げてきた血の塊を吐き出す間もなく膝蹴りから遅滞なく放たれた踵落としによって、本来は蓄積されない衝撃が体内から逃げることができず、そのまま置き去りにされている。
結果、破壊は内臓器官に留まらず、骨格にまで達することとなった。
全身の骨が粉砕したと錯覚させるほどの感覚麻痺に襲われながら、なんとか自分が落下していることだけは把握する。
しかしそれだけだ。すでに志乃が俺のそばに接近し、回し蹴りを放たんとしていることもどこか別世界を観測しているようにしか見ることができず、防御が間に合いそうにもない。
そして再び訪れた視界の暗転。こうまで一方的にやられると、逆に思考が冴え渡ってくるようだ。目に映る光景がゆっくりと流れ、ともすればすぐに反応できるかのような。けれどそれも錯覚だ。ゆっくりと流れる時間のなかで自分だけが早く動けるわけがないのだ。
背中からなにかに打ちつけられた俺の喉元に、志乃の肘が飛び込んでくる。
眼球のなかで火花が散り、視界がはっきりしない。意識が混濁して思考することができない。唯一わかったことといえば、これは避けなければならないということだ。
そうしたらあとは簡単だ。両腕を空間に突き刺し、全身のバネを連動させて上下を逆転させ、志乃が着弾する前に上空に避難する。一拍遅れて志乃が着弾すると、ガラスが砕けたような音を立て、透明なそれが消え失せた。
「これくらい耐えてもらわねばなァ! でなければ妾を斃すことなどできんぞ!」
咆哮。彼女にしてみればただ叫んだだけのそれは、破壊の音波を乗せて俺の肉体をさらにズタズタにしていく。
下方から飛び込んできた拳を紙一重で避け、しかし余波で切り裂かれた皮膚の痛みを押し殺しながら、さっきの仕返しとばかりに斬撃を刻み込んでいく。
もう避ける気がないのか、志乃は避ける素振りすらない。愚直なまでの攻め。肉を切らせて骨を断つを文字通り実行するつもりなのだ。
しかし、そんな分の悪い一騎討ちに乗るつもりはない。避ける気がないならこちらにとっても好都合だ。
大振りで放たれた拳を大袈裟に回避して背後に回る。反応の遅れた志乃が振り返ると同時に閃光花火を使い、今度は抜き打つのではなく、天剣と刀で串刺しにしたまま重力に従って落下する。集中させていた波動を放出して海面を凍らせ、勢いのまま志乃を縫い付けた。
「我慢比べといこうか」
人間は無意識に力をセーブしている生き物だ。波動もそれと同じで、どれだけ全力で放出しても自分に影響がない程度である。
だがそれでは通じないこともある。それゆえの我慢比べだ。
レヴァンティン秘伝炎剣技――崩花火
これは己を保護するためにかけられているリミットを一時的に解除し、波脈を焼き切る諸刃の剣でもある。なにせ焼き切られるのは相手だけでなく自分もだからだ。
限界を越えて放たれる波動は、焼き切る代わりに凍結させていく。志乃は波脈の存在自体まだ把握しきったわけではないのだろう。超能力ではない異能の干渉に困惑を隠せずにいた。
しかし鑑みるに俺と志乃の波動は同等の質と量だ。俺は波動についてなら引けを取らないはずだが、彼女の才能は時間の差を簡単に埋めてしまうほどだ。気を抜くつもりはさらさらないとはいえ、追い抜かれることも考慮しなくてはなるまい。
波動の出力に耐えきれず、血管や波脈が破裂する。直前に受けていたダメージとも相まって意識が朦朧としてくる。
そんなときだった。
「――――」
志乃の左眼が、俺を捉えた。
波紋の宿った左眼が。
「切り札とは、最後の最後まで残しておくものだそうだ」
眉間を銃で撃ち抜かれたような衝撃に上体が弓なりになる。崩花火は一度失敗すると次は長い溜めが必要な不便な炎剣技だ。跳ぶようにして距離を置いたところで、俺はふと違和感を感じた。
崩花火は失敗したが、波動が残留しているはずなのだ。それを吸収して糧とし、波導を詠唱するつもりだった。
けれど。
残っていないのだ。俺が放出した波動の一切が消え去り、まるで最初からなかったかのような。
ゆっくりと起き上がった志乃の左眼が向けられる。
反射的に志乃の視界から外れるように飛んでいた。生物として当たり前の恐怖。この世に『生』を授かった瞬間に定められた決して逃げることのできない運命を突きつけられ、思わず逃げてしまったのだ。
そしてその判断は正解だった。左眼の向けられた先にあった氷が、なんの前触れもなく――消滅した。
自分でも驚きで目を見開いているのがわかる。いまのはあり得ない。いまの消滅はなんの行程もなく、存在そのものを否定され、世界から追放されたのと同じだった。
「そちはなぜ妾が『吸血鬼』を執拗に生み出そうとしたのか、知っておるか?」
静かに問いかけてくる。
「すべてはこの左眼を継承させるためだ。右眼も九重に継承させられたのだから、当然のごとく左眼もできると思うていたのだが……なかなか上手くいかんようでな」
瑠璃色の眼球のなかに彩られた波紋。いまは効果を自制しているらしく、正面に立っていても先ほどのような現象は起こらない。
「妾の左眼はな、捉えたモノを有無を言わさず死さす力がある」
志乃――死乃。
俺はようやく彼女の本質を垣間見ただけなのかもしれない。死をおおっぴらに語る彼女が、複数の能力を所持しているだけにとどまるはずがなかったのだ。能力なんてただのおまけで、その左眼こそが彼女の真価。
ここからが志乃の全力全開、一切の情けを削ぎ落とし、その左眼を以て容赦を殺した史上最強の存在。
構えた両腕に違和感を感じて視線を下げ、舌を打った。不死殺しである刀が左眼によって殺されていた。刀身の先から風化していき、塵となって消えていく。
天剣がこうならなかっただけで幸運か。魔導に対して絶対的なアドバンテージのあるといっても超能力が相手ではただの武器だ。それなのに天剣がなければ俺は波導を使えなくなるのだから、理不尽にもほどがある。
「その左眼を継承させて、お前はどうするつもりだったんだ?」
「かっかっか。そちに言わせるのを止めれば、妾に直接言わせようという腹か? いやらしいことをするものだ。ならば言わせてもらおうか」
人懐っこい笑みで志乃は言う。こうしていると本当にいい奴だ。だからこそ、彼女は――壊れてしまったのだ。
「妾を殺してもらうためだ」
それは薄々わかっていたことだった。
自身を殺す。五百年ものを歳月を生きた志乃にとって、すでに生きることは苦痛以外のなにものでもなくなっていたのだ。
『九十九』の創設者にして最強の超能力者。逸脱した力を持ちすぎたがゆえに弱点を失った。そう――すべての弱点をだ。
志乃は誰からも殺されることはない。自身にさえ、殺すことはできないのだろう。
寿命もなく生命活動を止めることもできぬ体になったそのときはいい。だが何百という時を生きれば、生きることが虚しくなり、苦痛となり、それが絶望へと変わっていく。
どうあっても変化することのない日常が、やがて破壊衝動となる。六年前のことは、それが爆発した結果だ。
生きることに嫌気の指した志乃はすべてを破壊しようとした。すべてを破壊し、せめて代わり映えのない世界に色をつけようとした。けれど叶わなかった。
ひとりの侍とひとり『英雄』。その二人によって阻止されたのである。
そこからだ。九十九志乃が希望を抱いたのは。
「そちは妾の願いを十分に聞き遂げるだけの力がある」
告げられた真実に俺はなにも言うことができなかった。
規模が甚大というだけで、ようは死にたがりの癇癪に巻き込まれただけなのだ。
「しかし妾が絶えたあと、この美しき世界を汚す輩が現れるやもしれん。ならば妾に全力を出させ、尚且つ打ち勝つ人間がおらねばならん。そちはその条件を十全に満たしている」
「……贅沢なんだな」
「当然の憂いだ」
冷徹にして冷酷な、しかし無限に近い慈愛を持つ志乃。生きることに絶望して破壊に身を委ねようと世界を守ろうとする、矛盾を抱えた彼女の選択。
それが最善の選択とは言いがたい。他者に自分のことだけを押し付けた選択は、想いを込めたその願いは、託された人々に重く伸し掛ってくる。
こう言う俺も自分のことしか考えてはいないのだろう。
だけど――違う。
こんなのは、絶対に認めるわけにはいかない。
ならどうすればいい。俺ひとりでは志乃をどうにかすることはできても、それ以上は望めない。
俺ができるのはひたすら剣を振るうこと。――本当か?
ああそうだ。俺ひとりだけでは剣を振るうことはできても、人の想いは捻じ曲げられない。これほどまでにないほど中途半端な『勇者』である俺には、その程度が限界なのだ。
――あなたは私がいないと、なにもできないんですね。
それはお前も同じだろ。
――失敬な。私はやらないのではなく、やらないだけです。
おっと、そりゃ悪かったな。
――では、いきましょうか。
俺とお前の二人なら、なんだってやれるさ。
口角を鋭利に吊り上げると、俺は波動を全身に走らせる。
「切り札ってのは、最後の最後まで残しておくものなんだろ?」
左眼を解放させて志乃が全力を発揮したというならば、俺は異世界から還ってきて一度たりとも全力を出したことはない。
右手を天に掲げ、言う。
「なあ――真宵後輩」
光条が天より招来する。敵味方問わず圧倒するプレッシャーだというのに、それが心地よく感じられる冷たくも暖かい光に口元がにやけてしまう。
投げ掛けた言葉は、一拍遅れてやってきた。
「――はい、かしぎ先輩」
風になびくサイドテールにまとめられた黒曜石のような黒髪。小柄ながらも力強さを感じさせる後ろ姿に、底知れない安心感を覚えた。精巧で端整な顔立ちに貼り付けられた無表情は志乃に厳しく向けられていた。
藍霧真宵。共に異世界に召喚された『勇者』の片割れ。
俺たち二人が揃って、初めて『勇者』なり得るのだ。
「かっかっか、いいぞいいぞ! それでこそ妾が見初めた男だ! さあ――最期の遊戯といこうか!」
現代に降り立った『勇者』の戦いが、始まる。
◇◆◇




