7―(1)「背水の陣①」
そのとき、藍霧はたしかに感じた。
門が開いた。何人たりと立ち入ることの禁じられていた領域へと雪崩れ込んでくる。解き放たれた獣は瞬く間に世界を蹂躙し、そして破壊を施すであろう。
地杖を握る手が汗ばんでいる。黒衣の侍と対峙したときさえこれほどではなかった。だというのに、遠く離れた相手に圧倒されている。それだけで藍霧には急を要する事態に発展しているのが察せれた。
それを感じたのは藍霧だけではない。
「志乃……? え、エミ!」
「わかってるよ。わかってるからちょっと待ってて!」
支倉亜美と依美は『吸血鬼』の眷属だ。利用されるためだけに生き返らされ、しかし家族だと慕う彼女の。だから自分たちを使役する主になにがあったのかがわかってしまうのだ。
いや、そうではない。わかっていたことがわからなくなった。。
どこかしら繋がっているような感覚があったというのに、それが突如として途切れた。『吸血鬼』の直感をもってしても把握できない状況に戸惑いを覚えてしまう。
「どうかしたのか?」
ゆかりは刀を地面に突き立てて杖代わりにしながら、藍霧の背中に問いかける。
「具体的にはわかりませんが、このままだと取り返しのつかないようなことが起こっています」
「ちっ……志乃がまたなにかやらかしたのか」
ゆかりは能力者ではない。殺気や気配などの流れは読めても異能までは感知できない。長年の経験が、なんとなく危ないとアラームを鳴らしてくれることもあるが、それはあくまでもゆかり自身に危険が迫っている場合のみだ。
ただ能力者うんぬんを除いても結果は同じだろう。これは藍霧が波導使いであるがゆえに察知できたに過ぎないのだ。
いや、たとえ察知できた波導使いだろうとこれに押し潰されずに平然としていられるのは、勇者パーティーと『八天』くらいに違いない。
「八雲!」
呼ばれて、八雲は両手を軽く挙げる。降参のサインだ。
「信頼してくれているのは非常にありがたいのだけれどねゆかりくん、いくら僕でもここにいたままなにがあったかわかるわけないだろ? 藍霧くんに言われて、僕もなにかが起こってるって初めてわかったんだぜ?」
ただし、ここにいる『役者』が『舞台』に上がるためのシナリオは用意されているとは思っていた。まさか最前線にいるメンバーと遜色ないほど巻き込まれながら、あれで終わりなどということはあるまい。
そういうふうに世界はできている。まるで、彼らを成長させようとしているように――。
「どうにかならないのか?」
ゆかりの体調は万全とは言いがたい。
戦いに赴かせるには不安だが、止めたところで素直に聞いてくれないだろう。
八雲もそれをわかっているのだ。引き留める素振りを微塵もせずに、返答する。
「志乃の居場所さえわかるなら、どうにかしようとすることはできるだろうねぇ。だけど行ったところで、どうにかしようとしたところで、どうにもならないかもしれないぜ?」
むしろその可能性の方が大きいだろう。ゆかりでは志乃と渡り合えない。実力的なことではなく、肉体的なハンデを背負っているためだ。
両手足が感覚のない紛い物。そのため、ゆかりは神経を必要以上に尖らせ続けなくてはならない。コンマ単位の時間でも集中力を欠けば、それで終わりだ。
対して志乃は底が見えないのだ。いまのゆかりが戦うには荷が重すぎる。
ゆかりもそれは重々承知している。時間稼ぎになるかどうかさえ怪しい。けれどじっとなどしていられない。理屈に縛られるほど、裕福な人生は送っていない。
「――どうにかしてみせます」
ゆかりが口を開くより早く、言葉が割り込んできた。
「私が――私たちがどうにかしてみせます」
「もちろんそのつもりさ。僕たちがはるばる君のもとにやってきたのは、最終手段である君に戦ってもらうためだからねぇ。でも志乃は君と同格である冬道くんを倒し、超越者の詩織くんも下した」
「…………」
「君は、そんな志乃を止められるかい?」
ここで気持ちが揺らぐようでは到底不可能だ。
藍霧は自分自身に問いかける。
元勇者と超越者。それらを捩じ伏せた志乃を本当に止められるか?
藍霧の行動原理は『トウドウカシギ』だ。それをなくして本領を発揮することはない。志乃を倒すというそれだけの目的のために藍霧が立ち向かったとして、力を十二分に引き出すことはしなかっただろう。
だが、いまは違う。彼女は当たり前の感情として守りたいと思っている。
自分は彼しか見ていなかったのに、周りの仲間は自分を見てくれていた。
ならば藍霧は――自ら進むことを拒んできた少女は一歩を踏み出す。
「愚問ですね。そのようなこと言うまでもありません」
「それならいいんだよ。と、いうことだそうだよ、司くん?」
八雲はぐるりと首を回し、校舎のなかにいる司へと視線を向けた。ただし正確にいうならばどんな男でも虜になってしまうであろう彼女の豊満な胸にである。
司は二つの意味で苦い顔をしながら、とりあえず胸は腕を組んで隠しておく。
「どうしてそこに私に振るんですか」
「決まってるじゃないか。君ならもう志乃の居場所を掴んでいるんだろう?」
「……どこで盗み見してやがったあの変態」
司の能力である『ゲームメーカー』は一度でも面識を持った人間のそれであれば、ある程度までは自由に使うことができる。『眠り姫』の世界を見渡す眼があれば、志乃の居場所を特定するのは容易い。
すでにそれを行い、仲間へと知らせている。
しかしそれは八雲がここに訪れる前のことだ。
わざとタイミングを遅らせて登場したのは、無防備な司を観察するためだったのか。背筋に悪寒が走る。なにしろあんなだらけきった姿を見られたていのだ。あとでそれをネタにいじられると思うと憂鬱になる。
「はぁ……」
ため息くらい許してもらえるだろう。直接戦場に赴きはしないが、情報集めに関してなら司は充分すぎるほど動き回っているのだから。
藍霧は司に懇願するように頭を下げた。
こうまでされなくとも教えるつもりだったのだが、と司は髪をかき混ぜる。
そして司は藍霧に場所を伝える。
「どこですか、ここ」
もっともな反応である。一応学業でトップの成績を有する藍霧でも見たことがない。無人島なのだから仕方ないといえば仕方ないだろう。
「まあ場所がどこだろうと関係ありません。いますぐここに……」
「どうやって行くんだ?」
鋭い指摘に藍霧は唸る。一般的な移動手段では何時間かかることか。状況は刻一刻と変化しつつある。そんな時間をかけている暇はない。『雷鎧』を纏ったとしても短縮にはなるまい。
どうするかと悩んでいると、八雲が言う。
「それなら心配はないよ。足なら僕が用意しよう。ちょうどいいのがいるからねぇ」
「ちょっと待て。八雲、まさかあいつに頼むなんて言わないだろうな?」
ゆかりのポーカーフェイスが完全に崩れていた。
「他に手段がないんだ。選んでる場合じゃないだろう?」
ゆかりは観念したように眼を閉じた。あれこれ言ったところでこれしか手段がないのだ。さっさと腹を決めた方がいい。
「なら呼んでおくけど、定員は五人までだ。そうなると、もう決まってるみたいだねぇ」
八雲は順番に四人の顔を眺めていく。
「ハーレムか」
「黙れ。オレをお前のハーレムに加えるな殺すぞ」
「私は先輩だけのものです。あなたみたいな変態に媚びるつもりはありません死ね」
「おー……見事に粉砕じゃないか」
そう言って八雲は空を指差す。すると突如として風が吹き荒れた。
ゆかりが黒髪を揺らしながらそれを見上げ、悟りを開いたかのような表情を作る。
「覚悟しておけ。お前ら、間違いなく吐くぞ」
そこにあったのは、鉄の塊だった。
◇◆◇
これが絶望というならば、これから起こることはなんと呼べばいいのだろう。
心していたはずだ。なにが起ころうと不思議ではない。なってしまったならば然るべき対処をするしかないと。
しかしこれはなんだ? 天へと昇る光の柱。その先にあった空は音を立てて崩壊し、不気味な穴を覗かせている。谷底を見下ろしたような闇に包まれたその穴は、空中に黒い染みを作り出していた。
いや、染みなどではない。見たこともない異形の生物だ。架空の化物が次々に現れている。その数は十や二重ではない。下手をすれば何百という数が吐き出されている。しかもそれは止まることを知らないのか、いつまでも数を増やし続けているではないか。
現実離れした光景に放心しそうになるも、どうにか持ちこたえている。
しかし、その持ちこたえさせてくれているのが柱の足元にいる女とは皮肉な話だ。
美しい白い髪。地面につくのが嫌で三つに折り畳んでいるようだが、それでもまだ身長ほどの長さがある。瑠璃色の双眸は元は綺麗なはずなのだが、いまは濁り、淀みきっている。
しなやかな女性らしい曲線を描く肢体。色気を振り撒く妖艶な顔立ち。目につけば忘れることなど不可能であろうと思わせるほどの女性だが、光の柱を発生させた元凶だ。
能力者を支配する二つのグループの内の一つである『九十九』の創設者。
規格外にして想定外。化物のなかの化物。
禍々しいほど美しく、惚れ惚れするほどに恐ろしい。
それが九十九志乃――。
「くそっ、こんなの、どうすりゃいいんだよ」
九重は呆然としながら呟いた。
手の内は出し尽くした。唯一志乃に対抗しえるだろう十文字に割けた瞳。これによって一時は志乃を倒した――かのように見えた。
しかし志乃はこうして立ち上がり、先ほど以上の異彩を放っている。
志乃は戦えば戦うほど強くなっていく。
どれだけ敵が立ちはだかろうとその度に力を上げていく志乃を、どうやれば倒せるのだろう。もうこちらには、かくし球もなにもないというのに。
「くそったれ!」
吐き捨て、志乃へと右眼を走らせる。異形が溢れてくるは光の柱が空間に圧力をかけ、穴を広げているからだ。凍結させ、止められずとも少しでも遅らせる。
だが、そこで予期せぬことが起こった。
右眼の効力が志乃に届く前に弾かれたのだ。強引に突破しようとするも、光の柱がそれを押し返してくる。押し返されたそれは、志乃の周りだけに影響を及ぼしていく。
「この――ヤロウ!」
さらに力を集中させた途端、ひときわ激しい痛みが右眼を襲ってきた。眼球の血管が切れたのか、右側の視界だけが赤く染まっていく。
戦場を駆け抜ける風がいっそうの激しさを増した。両側からぶつかり拮抗する衝撃波が気流を乱れさせ、突き飛ばそうとしてくる。
地面に靴底を縫いつけ踏ん張るが、余波だけで体が下がりつつあった。
九重は器用に右眼の力だけは志乃に向けつつ、周囲に目線を配る。
亀裂の入ったいまにも崩壊してしまいそうな洞窟。あれだけ激しい戦闘を繰り返しておきながらギリギリで形を維持していられるのは、奇跡としか言いようがなかった。だが、それももう長くはもつまい。天井を破壊されたのだ。いつ生き埋めにされてもおかしくない。
生き埋めにして志乃を倒せるなら喜んで崩落させていたところだが、それしきでどうにもならないことはいまさらいうことではないだろう。
次に目についたのは、穴から現れる異形と同類だと思われる三つ首の犬――ケルベロスだ。
志乃の一撃にやられてからぴくりともしなくなっていたが、この余波にあてられて否応なしに覚醒させられたようだ。牙を剥き出しにして唸り、志乃に飛びかからんとしている。
逆転の一手が見つからない。志乃がなにをしているのかはわからない。だが、攻撃の手の休めている間にどうにかしたいところだ。
「ぐっ……!」
限界だ。九重は顔をしかめながら右眼を閉じる。
「だめだ。まるで歯が立たねえ」
荒くなった呼吸を整えながら言う。
「あの光の柱をどうにかしないことには、先に進めないってことね。なら私がなんとかしてみる。志乃の式神である私ならなんとかなるかもしれない」
智香がストレッチをして飛び出そうとするのを、御神は方を引いてやめさせる。
「あの得たいの知れない光に直接触れるのは危険です。九重の右眼も通じないのに、あなたが生身で壊すのは不可能だと思います」
指摘した御神も先ほどから風の刃で攻撃をしている。結果は九重と同じく苦いものだ。
外部からの干渉を遮断する完全なる防御。それが文字通り壁となり立ちはだかっている。
「じゃあどうすりゃあいいんだ? 俺たちが束になってもあれは壊せねえんだろ?」
「…………」
その問いかけに御神は黙りこむ。
九重の右眼は水さえあれば直線的でなく、空間的に仕掛けることができる。
それは使用者である九重が一番よくわかっている。けれどそうしないのは、しないのではなく、できないからだ。おそらく光の柱の内と外では流れが別物になっているのだろう。あくまで九重が干渉できるのは、自分と同じ空間にあるもの。そうでないものには水があろうとどうもできないのかもしれない。
曖昧なのは前例がないためだ。この右眼はもともと志乃のものだと言っていた。もしかしたら対抗策があるのではないかとも考えられる。
どちらにしろ頼みの綱である右眼は通用しない。御神も一撃必殺を持ち合わせているわけでないし、智香を突っ込ませるわけにもいかない。手詰まりとはまさにこのことをいうのだろう。
目の前にしながらなにもすることができないことが、歯痒くて仕方がない。
「ひとまず逃げるしかないわ。いつあの化け物に狙われることか……」
見上げれば空を埋め尽くす化け物の群れがいる。志乃の側にいれば狙われる可能性は低くなるかもしれない。しかし志乃とあの化け物のどちらかの相手をしろと言われたなら、後者の方が生き残ることができるだろう。
智香の言葉に二人は首を縦に振ると、踵を返そうとする。
その刹那――空から黒い影が落下してきた。
衝撃で粉砕された欠片から顔を守るため反射的に腕を前に持ってくる。突き刺さりかねない勢い飛んできたそれにぶつかり呻くも、大したダメージには繋がらない。
おそるおそる腕の隙間から舞っている砂塵の向こうを覗く。
「やっぱ……そうだよな」
苦笑いしか出てこない。そうだ、狙われる可能性が低いという考えが間違っていたのだ。
よく思い返せばこうなることは予測できた。ケルベロスが志乃に敵意を示した。ならばあの化け物も志乃に敵意を示さないわけがない。
遅れてそれを確認した御神と智香が息を呑む。
最初に見たとき、それは人間に近い生物なのかと思った。大柄な人間の十倍はあろうかという上背ではあるが、構造が似かよっているならば幾分やりやすい。――だがそうではなかった。
砂塵が晴れて全容を目にしたとき、とてつもない嘔吐感に包まれた。
下半身が、人間のものではない。まるで切り離して取り替えたようだ。
尻尾のように長く伸びたそれの左右には無数の足が並べられている。昆虫ともまた違った構造をしたそれらは、ひとつひとつ自我があるかのように蠢いている。
ムカデのようなそれに気をとられていたが、異様なのは下半身だけではない。腕は六本、顔に至っては縦に三つも並んでいた。肌は腐敗したように黒ずみ、不快な臭いを撒き散らしている。ぎょろぎょろと動く目玉は色として表現できない不気味な彩飾を施されていた。
「……絶体絶命?」
「バカなこと言ってないで逃げる!」
智香は九重と御神の手を掴むと、目にも止まらぬ速さで走り出す。
走るというより跳ねるの方が正確だ。地面を蹴る音が長いわりに速度は上がっていく。
来たときとは比べ物にならない速さで洞窟を突っ切っていく智香の横顔は嫌悪感でいっぱいだ。よく見れば鳥肌も立っている。
「きもいきもいきもいきもいきもい! なんなのあれ!?」
嗚咽混じりの叫びに九重はわずかな安堵を覚えるが、それもすぐに消え去る。視界が捉えてしまったのだ。
「智香さん、あいつ追ってきてる!」
「いやぁぁぁぁぁぁ!!」
芋虫のように下半身の伸縮を繰り返し、猛スピードで化け物が追いかけてくる。
あの巨体でありながら一度離れた距離を縮められるとはなんという速度だ。智香に運ばれていなければ、逃げた直後にでも先回りされていたかもしれない。
遠くに明かりが見えたかと思えば、それはすぐに大きくなっていく。出口だ。
智香の目が輝いた。やっとあれを見なくても済むと思ったら表情も緩んでしまう。気の緩みからがくんと減速した速度を一気に引き上げる。
「――っ!? 翔無さん止まれェ!」
御神から放たれた獣のような雄叫びに、智香は両足を地面につけざるを得なかった。
「なになにどうしたの!? 早くしないと追い、つか……れ……」
出口を睨んで苦悶に似た表情を作る御神の目線を追った。追ってしまったがゆえに絶句するしかなかった。
射し込んでいた日が陰っている。大きななにかが出口の前に立っているのだ。
鷹のような姿をしているが、手足が異様に発達していた。大縄のように盛り上がった筋肉。餌に餓えた獣のごとく血走った目が、こちらを真っ直ぐに捉えている。
九重たちは間合いを計りながら背中合わせになる。
「挟まれた……!」
御神は絞り出すように呟く。一本道の前後を塞がれた。
「どうする? このままだと……」
「やるしかねぇだろ!」
言うまでもないことを聞かれて苛立ったというわけではない。けれどこう当たり散らすように声を荒げてしまったのは、体が強張ってしまったからだ。
右眼の痛みはまだ続いている。だが、使わずして切り抜けられるほど甘くはないだろう。
すっと瞼を持ち上げる。その瞬間、世界が広くなった。見ていた画面がズームアウトされ、自身の感覚が加速する。
「なら私がグリフォンやるから二人はムカデの方を頼むからね!」
返事は一対の化け物によって遮られた。
「うるっさい!」
いつのまにかグリフォンの眼前に移動していた智香の怒号と共に拳が顔面に突き刺さる。衝撃に耐えきれず嘴がひしゃげ、おびただしいほどの血が顔を濡らした。
智香の何倍もある巨体が後ろに傾き、腹部ががら空きになったのを見逃さない。腰を捻り、勢いを乗せた踵を躊躇なく叩きつける。体を回転させ、立て続けに爪先による一撃を加える。
そして最後の仕上げとばかりに斧のごとき踵落としを振り下ろした。
「うわ、すげ……」
九重が感嘆を洩らす。自分たちはケルベロスを見て一も二もなく逃走を選んだというのに、智香は尻込みすることなく攻めに転じた。それだけなら感心するだけだっただろう。武芸者を動かすのはやはり持ち合わせている武だ。いまの一瞬に行われた動作は、九重だけでなく御神ですら見惚れるものがあった。
だてに修羅場を経験していないということだろう。八雲の殺人衝動を孕まされ、志乃の式神として転生した。彼女ほどろくな目に会っていない人間はなかなかおるまい。
だが、そんな智香の連撃をもってしても、グリフォンは倒すのは難しい。
怒ったように羽を逆立たせ、雄叫びを轟かせる。
「やば、全然効いてないんだけど……」
手応えはあった。皮膚が硬く、並の打撃では通用しないのは初手でわかっていた。だから内側からの破壊を意識して二打目以降を放っていたのだが、グリフォンに弱った気配はない。
智香にできるのは志乃から供給されている強大な力を振り回して蹂躙することだけだ。
それが通じないとなると、智香にやれることなどほとんどない。同じことをひたすらやっていくしかないのだ。
「見た目がまともなだけまだマシかな……」
うっすらと浮かぶ汗を拭うと、瞼を下ろし、脳裏に焼きついた記憶から志乃と戦ったときのことを引っ張り出し、呼び起こす。
自分と凪と一葉と双弥。この四人を圧倒したのは能力ではなく、その拳だった。
武器も同じならば、経験はないが、絶大な力までも同じなのだ。
「――なら、やれないわけがない」
闘気を拳に憑依せると、それを薄く鋭く伸ばしていく。
そして眼を見開いた。
そのときそれを向けられたグリフォンだけでなく、九重たちもたしかに感じた。
全てを無に返すような、圧倒的という言葉すらちっぽけに思えてしまう底無しの殺気。触れることのできぬ闇の向こうにあるのは、定められた死であるような死の恐怖。
生存本能が全力で訴えかけてくる。
――ここから逃げろ。お前の敵う相手ではないと。
「なぁ理央、お前いまスッゲー逃げたいだろ?」
「奇遇ですね。僕もあなたにそれを言おうと思っていたところです」
なぜ目の前の敵よりも背中越しの味方に怯えなければならないのだろう。
だがそのおかげでムカデに対する恐怖はきれいに吹き飛んだ。いまあるのは、どうやってこのデカブツを叩きのめそうかというだけだ。
冷静に見つめるのは拒絶反応が大きすぎるが、見極めもせずに戦うのは無謀だ。
弥勒菩薩がごとく三つの顔はそれぞれが威嚇をしている。こちらが腹を決めたのを感じ取ったのだろう。先のように無作為に突っ込んでくるようなことはしない。
「にしても参ったなー。こいつらって知性まで持ち合わせてんのかよ」
「いえ、おそらくそうじゃありません。戦いなれしているというだけだと思います。長い間戦ってきた弱肉強食の本能が、僕たちにわずかにでも躊躇を訴えている……のかもしれない」
「煮えきらねえ答えだなぁ。まっ、ごちゃごちゃ考えんのはお前に任せんよ。俺は――」
刀を鞘走らせると右眼をカッと見開く。
「ただ前に進むだけだ!」
ムカデを包囲するように氷柱が出現する。矛先が中心に方向を変え、一斉に動き出す。
図体がでかいだけのことはあり、細かい攻撃への対応は疎かだ。六本もある腕を振り回すがほとんど落とすことができていない。それどころか、腕同士で衝突するほどだ。
九重は氷柱の雨を掻い潜り懐に入ると、胴体を繋ぐ境目に横一線に刃を走らせる。グリフォンと違い、皮膚は刃があっさりと入るほど柔らかかった。
刀刃が駆け抜けたあとを追って傷が開く。肉を裂き血管をちぎった奥から、緑色の体液が噴き出した。
「な――くっ……!」
降り注ぐ体液をかわし、刀を振り上げようとする。だがこれだけ近距離で勢いよく噴き出したものを避けきれたわけではない。腕や足にわずかに付着していた。
するとどうだ。衣服を溶かし、あまつさえ皮膚にまで侵食しようとしているではないか。
ちくりとした痛みで踏みとどまり、それに気づくことができてよかった。体液であるのだから所詮は水分だ。凍結させ、肌から落としていなければ骨まで溶解されていたかもしれない。
後ろに飛んで距離を稼ぎ、九重は息をつく。
「くっそ……厄介だな」
斬撃によるリスクは大きい。ならば志乃に対して行った技を使おうかとも思ったが、それで確実に仕留められる保証はないし、九重への負担も尋常ではない。
「でもま、厄介なのは百も承知だぜ!」
連戦に加え右眼の負担が九重を蝕む。だが止まらない。
もう止まるわけにはいかない――違う。止まりたくないのだ。
これまでは口先だけで、とにかく中途半端で、なにひとつとして成し遂げることができなかった。
だからせめてこれだけでも。目の前にある障害くらい乗り越えなければ、己の意思を貫き通してきた彼らに示しがつかない。
瞬間的にトップスピードに乗った九重は、あらんかぎりの力を込めて刀を打つ。三つの顔のうち一番上を斜めに駆け上がっていった斬線は、おびただしいほどの体液を撒き散らせる。それが付着するより速く安全圏へと避難した九重は、再度たどった軌跡を切り返していく。
なにも近距離だけが刀の間合いではない。白兵戦が無理なら距離の調整をしながらやればいいだけのこと。九重が行き着いた答えはそれだった。
飛び散る体液は九重を掴むことなく、地形だけを溶かしていく。
「へっ、あたらなけりゃあ意味ねぇよ!」
にやりと犬歯を見せながら笑う九重だが、対応になれてきて油断しているわけではない。声に出して言葉にすることで自分に言い聞かせているのだ。
あたらなければどうということはないと。しかし些細なミスで全身にでも浴びてみろ。骨まで溶かされて跡形もなく消え去ってしまうのが目に見えている。多少なりと余裕を削るリスクを背負うことにはなるが、それで生き残る確率が高くなるなら悪くない賭けだ。
しかし妙だと、御神は傍観しながら思う。
ムカデの動きが鈍すぎる。智香のでたらめな速度についてこれたのだ。図体がデカイからという理由だけで防戦一方になるとは思えない。それに視野の広さもリーチの長さも、なにもかもが圧倒的に上回っている。こちらが優っていることなど、せいぜい小回りが利くということくらいだ。
単純に直線の動きに特化していただけなのか、まだ隠し玉があるのか御神は判断しかねていた。
あの体液は脅威だが、九重がやっているようにあたらなければ怖くない。
しかしこの均衡がいつまで保てるだろうか。いまの九重は能力を限定されている。志乃にやってのけたがむしゃらな攻めは自殺行為に等しい。さらにムカデの生命力は未知数だ。どの程度で倒せるか検討もつかない。
やはり出方を窺っている場合ではないか。
長い思考の末に弾き出した答えに頷くと、九重が後退したタイミングを見て前に出る。
「おあああああああああああッ!」
穏和な顔立ちからは想像できない猛々しい雄叫びが響き渡る。
背中に生まれた四本の十字架に酷似した羽。その先端が中央に寄り、さらに斜め十字になるように広がっている。
視認ができるほど濃厚に圧縮された風の羽の一枚が肉片を散らしていく。素材が風であるからだろう。体液は噴き出しても前に飛ぶことはなく、そのまま返っていく。体液は付着すると、肌を一瞬で溶かした。これで一本が解れた。
御神が着地すると、その拍子に六本の腕が襲いかかってくる。数はともかくサイズは初めてになる対応だ。大袈裟なほど警戒しても足りないくらいだ。
大木ほどもある剛腕の凪ぎ払いを跳んで避ける。その際に舞い上がる風が体勢やあらかじめ決めておいた跳躍の最高点や着地点をずらそうとするが、空中こそ御神のテリトリーだ。素早くそれらを修正すると、十字架の一つを真ん中の顔に突き刺した。
耳をつんざくような叫びが響き渡る。思わず耳を塞ぎたくなるも、御神は気合いだけでそれを堪える。
「これで二つ!」
「おいおい! あとから来たのに出番全部持ってく気かよ!」
「別に張り合ってるわけじゃないんですよ!? あなたも参加してください!」
九重の場違いなセリフにぞう返すと、同じラインまで下がる。
「あれはなにをするかわかりません。さっさと片付けますよ」
「それはいいけどよ、なんかわかったのか?」
「……あの、僕の話聞いてました? なにをするかわからないから早く終わらせたいんです。気づきませんか、あの見かけに反して全体的にスペックが低すぎます」
言われるべくもない。戦闘中にすぐ熱くなる九重だってムカデが不自然なまでに弱いことに疑問を抱いていたほどだ。
しかしなぜだ。突進力を全力で使われたら対処はかなり難しい。そもそも躊躇する理由がどこにもない。理性があるのだとしたら頃合いを見計らっているだけなのかもと考えられる。だが見る限りでは何回か機会はあったし、手応えでは理性があったようにも思えなかった。
御神は視線を巡らせる。ところどころを抉られ、顔面は二つも潰されている。唯一無事な顔は怒りで塗り潰されていた。後ろに伸びている胴体は洞窟に飲まれ、身動きが取れずに――、
「そういうことか……!」
気づけばそれは当たり前なことだった。自分だってその状況に置かれたならばそうなってしまって当然だ。
「九重、あれを絶対に洞窟から出すな。くそっ、なんで気づけなかったんだ……!」
「いきなりどうしたんだよ。なにがわかったんだ?」
九重は視線は外さないまま問いかける。
「僕たちはあれを人間でないとわかっていながらわかっていなかったんです。動きが鈍い? 当たり前だ。だってまだ体の半分以上が洞窟に隠れたままなんだ」
「あー……なるほ。そゆことね」
九重も隠れたままのムカデの部分に黒目を動かす。たしかにあれでは本来の力が発揮できないはずだ。
これまでは脱出の片手間で相手にされていただけだ。脱け出されたらいよいよもって手がつけられなくなる。何度も打ち合って力量を測れないほど楽な道は歩んでいない。
そうなると出し惜しみはしていられない。九重は十字に裂けた右眼を解放し、御神も足りなくなった十字架を補充する。
「とにかく攻めあるのみ! あとのことなんて考えてられっか!」
「あとのことはちゃんと考えてください!」
御神の懇願が届いたかどうかというところで、氷の弾幕がムカデの胴体を穿っていく。素材が水分であるのなら、体液も例外ではない。溢れた体液が刃となって突き刺さる。そこから再び体液がこぼれ、ダメージの蓄積が繰り返されていく。
その連鎖を途切れさせることがないよう攻撃の隙間を縫って鎌鼬が吹き抜ける。
氷と風のコラボレーション。鼓膜を破らんとする轟音と近づくことも困難になるほどの余波。
かつてこれほどまで全力で能力を酷使したことはなかった。対人ならば手加減してちょうどいいくらいだったからだ。だがこいつらは全力でやっても足りない。
それが御神の本能を刺激した。頬がつり上がっていき、凄惨な笑みを顔面に張り付ける。喉の奥から込み上げてくる雄叫びを飲み込むことなく吐き出す。
風刃の勢いが増す。威力が底上げされ、ムカデの最後の顔を切り裂いた。
三つの口からこの世のものとは思えない絶叫が轟いた。空気を震動させるほどの大音量。
そしてぐらりと体が傾くと、ムカデは糸の切れた人形のごとく地にひれ伏した。
「終わり……なのか?」
「わっかんねぇ。確認してみてぇとこだけど、それでやられたとかシャレになんねぇからな」
いまのところムカデが動き出しそうな気配はない。これで倒しきれたなら万々歳なのだが、それほど楽観的に解釈するのは難しい。
相手はやはり未知の敵だ。見かけほど苦戦しなかったのだから、まだなにかあると考えて然るべきだろう。
背後で巨人が跪くような音が聞こえた。慌てて振り向くと、そこにはグリフォンを制圧したらしき智香の姿があった。
「そっちもちょうど終わったみたいね」
グリフォンから降りながら智香は疲労を感じさせない声で言う。
「はい。でものんびりしている暇はありません」
「そうだな。早く姉ちゃんたちんとこに戻んねぇと」
ここで戦ったのはあくまでも数多くあるうちの二体だ。あの大群がどこに向かっているか知らないが、怪我人を背負っていては逃げるに逃げられないだろう。
もしかしたらまた囮をやらなくてはならないかもしれないが、泣き言を言っていても仕方がない。
踵を返して森を抜けようと走り出そうとする。
すると――空から影が落ちてきた。
「嘘だろ……」
揃って絶句するしかない。一体ずつでもかなりの苦戦を強いられたというのに、囲まれるほどの数をどうすればいいというのだろう。
◇◆◇




