6―(16)「トウドウカシギ⑤」
香ばしい匂いに誘われて目蓋を持ち上げると、俺の顔を覗いていたノアと視線がぶつかった。逃げるように慌てて顔を逸らすノアに首をかしげる。なんだ、嫌われたのか?
軋みという悲鳴を上げる体を起こし、焼かれている魚をぼんやりと見つめる。
「お目覚めか?」
投げ掛けられた言葉の方に目線だけを配る。
拾ってきたらしき木を放って火加減の調整をする竜一氏がいた。
「まさかノアのやつがあんなことするとは思わなかったぜ。おめぇにゃ悪いことしたな」
竜一氏の口から出た言葉に、俺は耳を疑ってしまった。
いつもふてぶてしい態度で、ああ言えばこう言う屁理屈の達人が謝ってきたのだ。それほど長い付き合いでない俺がこの反応をするくらいだ。もし司先生たちが聞いたとすれば、どうなるのか検討もつかない。
「ほら、食え」
そう言って投げられた串に刺してある魚をキャッチする。
一口食べてみる。絶妙な加減で焼かれており、味付けなどしていないのに魚の旨味が引き出されていた。
「うま……」
思わずそう呟くと、ノアが気分よさげに鼻を鳴らす。
「リュウイチとレンが共同作業して焼いたんだから、美味しいに決まってるじゃない」
「……は?」
ノアの雰囲気がさっきまでと全然違うことに俺は戸惑ってしまう。俺が気絶していた間に天真爛漫だったノア になにがあれば、こんな傲慢稚気なことになるんだ?
「なに鳩が豆鉄砲食らったみたいな顔してるのよ。あんたにはこれから洗いざらい話してもらうんだから、その寝惚けきった頭をなんとかしなさいよね」
「洗いざらいって……」
話してもらいたいのは俺の方だっての。腰に手を当ててふんぞり返るノアをよく観察してみると、雰囲気だけでなくどことなく違いがあることに気がついた。
同じ顔のパーツではないと思わせるような鋭い眼光。あれは俺を信用していない眼だ。少しでもおかしな行動をしようものなら、すぐさま殺してやるという警告だろう。
さらに指に嵌められている指輪。あれは紛れもなく属性石だ。あれだけの波動を属性石で制御されようものなら、無傷で生き残るのはまず不可能だ。どちらかが死ぬまで終われない――そんな戦いに発展してしまうだろう。
指先になにかが触れる。無意識に属性石を探してしまっていたらしい。ノアにはそれがすでにバレているらしく、より一層警告の色が濃くなっていた。
無言のまま視線を交錯させる。下手に動けない。一歩でも踏み外してしまえば、奈落の底に呑み込まれてしまうような緊張感が漂っている。
そんな一触即発の空気を打ち破ったのは、以外にもノアだった。
「合格」
そう一言だけ告げてきたノアから、警告表示が消えた。
「シルヴィが炎剣技を教えたくらいなんだから、この程度の駆け引きができて当然よね」
さらっと飛び出てきたある人別の愛称に、俺は身を乗り出すようにして訊ねた。
「なんでノアが師匠のこと知ってるんだ!?」
「耳元で叫ぶなうるさいのよひれ伏しなさい。レンがシルヴィのこと知ってたってあんたには関係ないでしょ。いいからさっさとあんたの知ってることを教えなさい」
早口で捲し立てるノア。さりげなく罵倒も含まれていて、口の悪さに耐性のある俺でさえ黙りこんでしまうほどだった。
俺に向けられる眼差しには有無を言わせない強制力があり、なにがなんでも話させてやろうという気迫が感じられる。というかこれはもはや殺気に近いかもしれん。
助けを求めて竜一氏へと念を送ると伝わってくれたのか、嘆息しながらノアを軽く叩く。
「困ってんじゃねぇか。話を聞きてぇのはわかるがまず落ち着け。おめぇのことも説明してやらにゃならんだろうが」
「レンのことを教える必要はないでしょ。あんたは黙ってレンに従えばいいのよ」
驚くほど自分勝手な物言いだ。こうもきっぱり断言されると逆に清々しく思えてくる。
「……なにを話せばいいんだ?」
鉛を思わせるようなため息はお約束だ。ノアの要求を飲まなければ話は進むまい。
俺も急ぎと言えば急ぎだが、竜一氏がのんびりしているくらいだ。まだ猶予は残されているのだろう。ノアを無視して話を進めようとするより、聞きたいことを話してやった方がスムーズになるはずだ。
「でもこれだけは先に答えてもらうぞ。竜一氏とノアは何者なのか。そしてどうして波導を知り、扱うことができるのかだ」
「それくらいなら教えてあげるわ。感謝なさい」
ノアは頬が裂けるのではないかというほど口を大きく開くと、容姿と口調にそぐわぬ豪快さで魚に食らいついた。骨を砕く不快な音を辺りに撒き散らしながら咀嚼する。
あまりのギャップに若干引いてしまうが、俺のことなど眼中にないらしい。
あっという間に魚を一匹平らげると、指についた油を舐めとる。
さて、とノアは前置きをする。
「レンたちが何者なのかってことだったわね。端的に言ってしまうと、この世界の住人ではないわ。あんたで言う異世界ってとこから来たのよ」
その可能性は候補として考えていた。並外れた運動能力に加えて、とんでもない量の波動。この二つから導き出されるのは、俺のような人間か異世界からやって来たかのどちらかしかない。
予想していたとはいえ、本人から直接聞かされたとなると衝撃は大きかった。
「まさか竜一氏も異世界から来たのか?」
「んなわきゃねぇだろ。おれはれっきとした地球産の人間だ。でねぇと夜筱たちと同級生にならねぇだろうが」
言われてみるとたしかにそうだ。ということは……、
「おれもおめぇと同じで、異世界に召喚されたんだよ」
立て続けに放たれた衝撃の余韻が抜けるには、どうやら相当な時間がかかりそうだ。おかげで頭がかち割れそうなほど痛い。
この頭痛の種は主にショック原因だ。異世界に召喚されたという経験は、俺と真宵後輩の二人だけのものだと信じて疑ってこなかった。異世界にそう何人も召喚されていたら、それに選ばれたとしても自慢にもならない。
絶対にあり得なかったはずの体験が、俺と真宵後輩を繋いでくれた。それは誰にも汚されることのない思い出として、心に刻み込まれていたのだ。
それはこれからも続くと思っていた。なのにこうもあっさり打ち砕かれてしまうなんて、これまでは甘い幻想を見せられていたような気分だ――なんて、ロマンチストすぎるな。
「だったら波導を使えてもおかしくない、ってことか。つーことは、体育祭のときに仕掛けてきたのも竜一氏なのか?」
「んあ? まあそうなるな。にしても、まさか反撃されそうになるとは思わなかったぜ。おめぇが止めなかったらズタボロにされてたかもしんねぇしな」
「リュウイチにそんなふうに言わせるなんてどんなヤツなのか気になるわね」
「可愛い後輩だ」
「……なんか、ますます気になる答えね」
神妙な面持ちのノアをよそに、竜一氏は次の話題に移行する。とりあえず答えられる範囲内であるといいなと思いながら、耳を傾ける。
「あっちはどんな様子だ? いきなり『水天』と『雷天』がいなくなったんだ。それなりの騒ぎにはなったんじゃねぇのか?」
「え……?」
普段の俺なら出さないような力の抜けた声に気恥ずかしさが込み上げてくるが、いまはそんなことはどうだっていい。
竜一氏から飛び出たとんでもない発言に、ノアへと目線が移っていく。敏感に視線を悟った彼女は、不機嫌そうに眉間に皺を寄せている。
雷槍を翳しているノアが脳裏をかすめていく。属性石に触れることなく大規模波導と同等の威力を秘めていたことを考えれば、『雷天』に選ばれたこともそう不思議なことではない。
『八天』に選定される基準はいくつかある。内包している波動の豊富さはもちろんのこと、武芸を極めているか、また目指すべき模範となる人柄であるかどうかなどだ。
先代の『八天』と模擬戦と演説で競ってそれを証明し、最終的に彼らに認められれば、晴れて仲間入りができる。
そこで俺はあることに気づいた。
「騒ぎになるどころか、『雷天』も『水天』もちゃんといるぞ?」
選定式のときに『八天』の会ったのだが、そのときには俺を除いて七人――つまり全員が揃っていたのだ。しかもかなり前からの付き合いであるかのようにし親しげにしていたのが印象深かった。少なくとも、十年以上は入れ換えは行われていないだろう。
「ちょっとあんた、それ本当なの?」
信じられなさそうなノアに、俺は首を縦に動かして肯定する。
「うっわ、信じらんない。レンたちがいなくなってからちょっとしか経ってないのにすぐに張り替えたってわけ?」
「いや、そういうわけじゃないだろうけど……」
あまりの剣幕に身の危険を感じ、ノアから遠ざかっておく。
そして案の定、怒りが沸点に達したノアが雷を撒き散らすことになった。
「おい、おめぇがあっちにいたのって終戦歴何年の話だ」
割り込んできた竜一氏の声を受け、記憶のなかから引っ張り起こす。
終戦歴とは『魔導』という存在が波導によって滅ぼされてから積み上げられてきた年月だ。とはいってもそれは大まかに定められたものであり、終戦歴を細かく噛み砕いていけば多くの時代がある。
終戦歴で答えるとするならば、戦争が終わったのと、『魔王』を倒すまでかかった五年を計算すると……、
「だいたい終戦歴五百年ってところだな」
俺が言うと、竜一氏とノアは表情を無くしたまま絶句していた。ただならぬ雰囲気にかける言葉が思い浮かばない。放心したノアの手から雷槍がすり抜けていく。
互いに顔を見合わせた竜一氏とノアは、ずいっと詰め寄ってくる。
「嘘言ってんじゃないでしょうね!」
「なんで嘘なんか言わねぇといけないんだよ」
「だってありえないでしょ! なんでレンたちがこっちに来てから十年も経ってないのに、あっちでは五百年も経ってるのよ!」
黄金に輝く瞳の奥には、行き場を失った感情が複雑に絡み合っていた。見ていると思わず息を飲んでしまう。
わかだまる感情をどこにぶつけたらいいかわからなくて、自分のなかに押し止めようとしても溢れ出してきて、どうしようもなくなってしまっているように見えた。
俺だってきっとそうだ。異世界に召喚されて、戻ってきたら俺の知っていた世界はもうなくなったのだと告げられれば、こんな反応をしていただろう。
「ワケわかんない……なにがどうなってるのよ!?」
胸ぐらを掴みあげてきそうな勢いで迫るノアに、俺はなにも答えられない。下手に慰めの言葉をかれば怒りを促進させることになるし、なにより同情するようなことをしたくなかったからだ。彼女だってそんなことはされたくないだろう。
同情してほしいなら泣きつけばいい。荒れ狂うありったけの感情をぶつければいい。
拳を握り締めて沈黙するノア。かける言葉はなくとも、この気まずさを引っ張りたくない。どうにか破ろうと思考を回転させていると、身を屈めていた竜一氏が俺たちを呼んだ。
手元を覗いてみると、砂になにかの図式を描いていた。
「これはおれの予想に過ぎねぇんだが、つまりはこういうことなんじゃねぇか」
矢印で繋いでいる二つの円の片方を指で叩く。
「こいつがおれやレンがいた異世界、そんでこっちがおれたちがいまいる地球だ」
竜一氏は言いながら指を動かし、矢印をもう一本描き足す。
「おれは異世界で十年くれぇ生活してたんだが、帰ってきてみりゃあ重ねたはずの年齢はリセットされちまってた。ついてきたレンも、おそらくはおれのリセットに合わせて肉体が縮んじまった、ってのは前に話したな?」
「まあね。そうとでも思わなかったら、こんなの納得できるわけないじゃない」
「さっきから気になってたけど、レンって誰なんだ?」
「それはあとから本人に聞け」
続けるぞ、と竜一氏は話を再開する。
「十年の成長をリセットされ、さらに異世界にいたはずの十年もなかったことにされていた。この世界を移動する『召喚』ってのは、もしかしたら流れている時間のなかから引き抜いてるだけなのかもしれねぇ」
「どういうこと?」
ノアが訊ねると、竜一氏は図を描き足していく。三つ目の円。それをさらに矢印で繋ぐ。
「おめぇもそうだろ? 異世界じゃあ何年も過ごしてるはずなのに、還ってきてみりゃあその分の時間は経ってなかった」
「ああ。でもそれがなんなんだ? ただ元の時間に戻しただけじゃねぇのか?」
「そうだ、戻しただけだ。だがそうやって時間を越えることができるってんなら、別の時間軸から召喚されるってこともあるんじゃねぇのか」
竜一氏がそこまで言ったところで、俺はようやく理解することができた。
「……そういうことかよ。でもそんなことできるのか?」
「なによ二人だけわかっちゃって。レンにもわかるように説明しなさい!」
ノアは竜一氏の背中に飛び乗ると、鼓膜が破れかねんほどの大声量で叫んだ。
顔をしかめ、ノアを振り落とした竜一氏は間違いではないだろう。
「ようはおれやレン、そんでこいつが召喚された異世界の時間軸が違うってだけで、実際はそんだけの時間は経ってねぇかもしれねぇってことだ」
「あっ……!」
ノアの表情に明るさが戻る。竜一氏の言う通りならば、まだ望みが残っている。
俺が『勇者』として召喚されたのは竜一氏たちが召喚されてから五百年後のことだ。とはいえ、なにも五百年の流れを鵜呑みにすることはない。それらを切り離された二つの絵として並べてしまえばいいのだ。そうしてしまえば話は簡単になる。
異世界から人間を喚び出すくらいなのだから、時間を越えることだって可能だろう。
俺や竜一氏はそれぞれ違う時間軸の同じ世界に召還された。この一言で全て片付く。
「な、なら帰れるかもしれないってことよね……? レンの故郷に」
「おれの推測が合ってりゃあな。ま、こいつの話を聞いてだいぶ確信したがな」
喜ぶノアに水を差すようなことは言いたくはないが、竜一氏の仮説が合っていたとしても、召喚しないことには世界を移動することはできない。
『八人』の波動をもってしても召喚を行うのは難しい。王家でも最大級の波動がなければ、召喚はできないのだ。あちらから喚ばれたのならまだしも、こちらから狙った時間軸に飛ぶというのは、はっきり言えば不可能だ。
「よっし、やる気出てきた!」
握りこぶしを振り上げるノアから雷が放出された。なぜか竜一氏を避けて俺にだけ噛みついてくる雷を必死にかわしていく。
「おめぇがやる気出してどうすんだよ。なんもやらねぇだろうが」
「いいじゃない別に。気合い入れたって誰かに迷惑かけるわけじゃないんだし」
よく周りを見てみろ。現在進行形で俺に迷惑がかかってるんですけど。
「つーか、俺の話は終わったん、だから……こっちの番、だろ!」
「そういやそっちが本題だったな。ってなにやってんだ?」
「見りゃ、わかんだろ!」
息も切れ切れに雷を避け続ける。嬉しさのあまり洩れているのに気づいてないのだろう。それはいいのだが、いい加減に鬱憤を張らすように俺を狙い撃つのはやめてくれ。
竜一氏がノアに言うと、ようやく自分のやっていることに気づいたようだ。
「さて――落ち着いたところで、おめぇはなにが聞きてぇんだ?」
仕切り直しを兼ねて竜一氏は腰を下ろすと、対面に座るように促してくる。ちゃっかり隣に位置取ったノアに、さっきの批難の眼差しを送ったのだが、どこぞに吹く風のように受け流された。
ひとまず焚き火を跨いで竜一氏の正面に座ると火種を撒く。
「俺が寝てる間の状況と志乃についてだ」
「おめぇが寝てる間っつったら大したことは起こってねぇよ。ただ一つだけあったのが、ポニテのおっぱいちゃんが志乃にやられたってことくれぇだ」
俺は呼吸をすることも忘れて絶句するしかなかった。
いや、いちいちショックに思考を止めている暇はない。柊が志乃にやられた。その事実は俺がどう考えたところで覆ることはないのだから。
「おっぱいちゃんはよくやった方だぜ。聞いた話だと二ヶ月くれぇしか経験がないんだろ? 同じ超越者になったからって、普通ならあそこまで戦えねぇよ。志乃の奴をあそこまで追いつめたんだから、大したもんだ」
「超越者……?」
聞きなれない言葉に、思わず首を傾げる。
「知らねぇのか。超越者ってのはいわば超能力者を凌駕した存在だ。つっても『死乃』みてぇな真名を持つ『九十九』の人間にしか発現しない上に、志乃の遺伝子を色濃く受け継いでる奴しか辿り着けない。『九十九』が身内同士でしか子を成さねぇのは、薄まった志乃の遺伝子を濃くするためなんだよ」
その本人たちは、そのことを知らねぇだろうけどな、と竜一氏はそこで言葉を一旦切る。
「おっぱいちゃん――詩織ちゃん、って名前だったか? あの子を『九十九』から追い出した先代当主と十六夜の判断は正しかったのかもしんねぇな」
「柊が『九十九』を追い出された理由を知ってるのか!?」
「これでも六年前は志乃と戦うためにいろんなところ駆け回ったんだぜ? いまのおめぇらよりは知ってることは多いに決まってんだろ」
思い出したのは最近だがな注釈とばかりに付け加えた。
「教えてくれ。なんで柊は追い出されないといけなかったんた」
柊は『吸血鬼』を創る過程で生まれた失敗作だからと『九十九』を追い出された。でもそれならば、屋敷の地下にある失落牢にでも閉じ込めておけばよかったはずだ。けれどそうしなかったのは、別の意図があったからだろうと睨んでいる。
「第二の志乃に成長させないようにするためだよ。あの子は表向きには失敗作ってことになっているが、ありゃあえて完成させなかったんだ。能力が完成に近けりゃあ余計に志乃寄りになっちまう。だから未完成のまま、柊家に引き取ってもらったらしい」
「でも柊の能力は……」
「そうだ。おめぇのせいで、いい方向に完成したんだ」
沈みかけた気持ちを、竜一氏のよく通る声が引っ張り上げてくれた。
「あくまでも危惧したのは、詩織ちゃんがより志乃に近い存在として完成しちまうことだった。おめぇたちのおかげで、超越者っつー強力な武器を手にしながらも志乃と対極に位置する存在になったわけだ」
しかし、その柊も志乃に太刀打ちすることは叶わなかった。竜一氏がそう言ったわけではないが、聞いた限りでは柊が志乃に対抗できる唯一の戦力だという意味で捉えられなくもない。
対極にあるということは、お互いがお互いの弱点であるということだ。これまで俺以外には決して手を出そうとしてとしていなかった志乃が追いつめられ、そして柊を倒したのがなによりの証拠だ。志乃にとって柊は利用する駒の一つではあった。けれど超越者に昇華し、自分と同列になるとは思っていなかったのだろう。
いや――それでさえ、まだ同列になったわけではない。
「なんで志乃が波導を使えるんだ。あいつは異世界から来たわけでも、行ったわけでもないんだろ?」
「そいつはこの島が原因だ」
濁りきった溝のような色の瞳で俺とノアを順番に眺めてから、言葉尻を繋げる。
「この島はほんのわずかにだが異世界とリンクしてんだ。だからさっき波動を走らせたとき、びっくりするほど強い出力になっただろ?」
「そうだけど……ちょっと待て。異世界とこの島がリンクしてる……?」
ありえないだろ叫びかけた否定しかけた俺を、竜一氏は掌を前に出して制する。
出鼻を挫かれた俺は、途中まで伸びかかっていた膝を渋々折り、どっしりと尻を落とす。
「信じられねぇだろうが事実だ。おれが異世界から還ってくるとき、レンもついてきたってのはさっき説明しただろ?」
前の話題を思い返しながら、すでにうろ覚えになっているのも構わずに頷く。
「おれたちゃあ召喚っつー正式な手続きを踏んで行き来したわけだが、レンはそうじゃない。こっちに帰ってくる際の術式に無理やり割り込んで不正にやってきちまったんだ」
「……うるっさいわね。いちいち言わなくたってわかってるわよ」
拗ねたように唇を尖らせるノア。そんな彼女に竜一氏はかすかな笑みを浮かべる。
「本来ならあるはずのなかったものが増えちまったんだ。形を維持するにはリスクが伴う」
「それがこの島と異世界のリンクってことか。でもそれならノアがここにいなくたって、いますぐ異世界に戻ればいいんじゃねぇのか?」
「そうしてぇのは山々なんだが、時間軸のこともある。どこに繋がってるかもわかんねぇのに帰らせるわけにもいかねぇだろ。そうじゃなくても召喚術式なしで世界を移動しようなんざ暴挙にでようもんなら、あっちゅう間にスクラップになっちまうだろうよ」
推測の域を出ないものの、ある程度の想像をすることはできた。
壁も足場も天井もない四次元空間で全方向からでたらめな圧力がかる。どう足掻いたって生き延びることはできないだろう
「こっちから異世界に行くことはできない――が。異世界からこっちに来ることはどうやら可能らしい。多分だが一度レン――言っちまえば異物が紛れ込んだことで、形を維持するために変化している境界線が不安定になってるのかもしれねぇ」
「……だから悪いと思ってるって何回も言ってるじゃない、このバカ」
ぱつりと投げられた言葉が着地する暇さえ与えられないまま、竜一氏が紡ぐ。
「その影響で島の周囲から内側にかけて波動が満ちてるんだ」
だからあれだけの速度が出せたのか。波動による肉体の強化は体内にあるものを、どれだけ制御できるかによって差が生じる。その差を埋めるために体外から波動を取り込むのだが、俺はそれを無意識にやれるほど反復練習を重ねてきた。
還ってきてからは自らの波動だけでやりくりしていたから、というのは言い訳にしかならないのだが、あのときは調整を怠っていたということになる。
「六年前、おれとゆかりさんが共闘して深傷を負った志乃はこの島に逃げ込んだんだ。波動に満ちているこの島で、ありとあらゆる全てを取り込んで、傷を癒した」
「まさか、それで波導が使えるようになったって言いたいのか?」
人間ならば誰しもが微量ながらも波動を秘めている。異世界には波動が満ちており、それに触れながら成長していくことで己の容量を増やし、波脈を形成していく。赤子が親が口にする言語を聞いて覚えていくようなものだ。ただ、言語はあとから覚えることができても、波脈のように体の一部になるものを後付け培っていけるわけがない。
俺は天剣と波長が完全に一致していたから、急速に波脈を完成させられたのだ。志乃のように波動を取り込んだだけで波脈を形成し、波導を扱うなど考えられない。
そんな俺の心情を読み取った竜一氏は、苦々しく表情を歪ませながら頷いた。
「俺の剣を使ってたのも、あっちからたまたま流れ込んできたからってことか」
「おめぇのって……天剣ならあるじゃねぇか」
「さすがに天剣だけで走れるほど甘くなかったからな。ノアの後任でいいのか? まあ俺があっちにいたときの『雷天』に打ってもらったんだよ」
「はぁ!? 『雷天』が鍛冶屋なんかやってるわけ!? 呆れてため息も出てこないわね」
ノアの発言に俺は背筋が凍る思いに掻き立てられた。もしも『雷天』にそんなこと言おうものなら、なにをされるかわかったもんじゃない。殺されても文句言えんぞ。
「だが波導が使えるようになったってんなら、おめぇには有利なんじゃねぇのか? シルヴィから炎剣技を授かったおめぇならな。おれんときはゆかりさんがいなかったら、完全に最後の一手はなかったところだ」
俺の師匠――シルヴィア・レヴァンティンが秘伝の技として生み出したものだ。次代に『炎天』となった波導使いであろうと習得するのは不可能だと言い切った、まさに究極の剣技。
それが炎剣技――。
師匠がなぜ『氷天』である俺に授けてくれたかは未だにわからないが、 志乃が波導を使えるのならばこれが最大の武器となる。
炎剣技を考案し始めたのは単なる気まぐれだったらしい。もしも不死の波導使いが現れたら、どうやって殺そうか――ふと思いついたことへの答えを探究した結果、この剣技が誕生したのだ。
波脈とは波動を全身に巡らせる器官であると同時に、第二の心臓だと言っても過言ではない。だから波脈を壊されてしまうのは、心臓を貫かれたのと同じことなのだ。
そして炎剣技は、波脈を燃やし尽くすことができる。
師匠は心臓を潰さずとも、波脈を燃やして対抗手段をなくしてしまえばいいという答えに辿り着いたのだ。それであとは心を折ればいいだけだし、屍となってくれればなおよい。そう言っていた師匠の顔を思いだし、身震いする。
「つーかなんで戦ったときに使わなかったんだ? 忘れてたわけじゃあるめぇし」
「使うのも考えたさ。ただ、ほとんど再現できてないのに失敗したらあとがないだろ」
炎剣技の弱点はモーションの大きさにある。自分なりにアレンジしてはいるが、型を変えすぎると別の剣技になってしまう。最も最適なフォームから放たれなければ、炎剣技としての効力は半減することになるのだ。
そうやって出し惜しみしたから、俺は志乃にやられてしまったわけだが。
会話も一区切りついたのを見計らったように、携帯電話が鳴り響いた。竜一氏のだ。
悪いなと断りを入れると、着信に応じる。
「…………」
ノアと二人きりになった途端にこれだ。なにを話せばいいかわからず、無言だけが漂う。
ちらりとノアに目線を向ける。苛立たしげに足を揺すり目角を吊り上げているノアは、どう見ても最初に会ったノアとは違う。
異世界から来たとき補正がかかって体が縮んだと言っていたが、それは性格にも影響したのだろうか。だとしたらノアとレンは、どちらが本当なのだろうか。
そんなことを考えていると、竜一氏が携帯電話を閉じる音が耳に届いた。
「あー、いまから野暮用に出掛けっけど、おめぇらはここにいろ」
「嫌よ。レンもつれていきなさい」
立ち上がったレンは、竜一氏を下から睨むようにしながら言う。
「すぐに戻ってくっから大人しくしてろ。そいつと話してりゃいいじゃねぇか」
「……仕方ないわね。シルヴィたちのことも、もっと聞きたいし」
あっさりと引き下がったノアは俺の正面に座り直すと、女王様のような威厳を醸し出す。
その態度が明らかに有無を言わせんとばかりで、俺の方がつれていってもらいたくなる。
竜一氏はめんどくさそうに踵を返すと、ゆっくりと背中を小さくさせていった。