6―(14)「トウドウカシギ③」
その瞬間――一陣の冷気が殺気と共にやってきた。半ば反射的に背中から時計塔から身を投げ出すと、その張本人を視界の中央に捉える。
冷気を纏う手甲。動きやすさだけを追求して突き詰めたような、露出の多い大胆な戦闘装束。向かい風によって掻き上げられる癖っ毛なショートヘアー。鬼のような形相を顔面に張り付けていたのは、ここにはいないはずの少女だった。
「君ならそう言うとわかっていたが、直接聞いてしまうと怒りを抑えられないものだな!」
リーンは手甲をはめた手を握ると、空気と冷気を圧縮した拳撃を放ってくる。
俺は息を大きく吸い込むと、波動を波乱だ空気を吐き出す。
『嵐声』
「かあっ!」
両方向からぶつかりあった衝撃は、周りに余波を撒き散らしながら相殺される。宙にいた俺はそれをまともに受け、落下速度の背中が押された。
なんとか体勢を立て直すと、上から迫る無視できない威圧を感じ、腕を交差させる。
全身を叩く衝撃が体を襲ってきた。思わず苦悶の声を洩らしてしまいそうになるのを堪え、痛みに耐える。腕はあまりの衝撃に痺れ、感覚が失われている。それはリーンがどれだけ本気であるかを物語っていた。
リーンの攻撃は終わらない。距離を詰め胸ぐらを掴み上げると、一個の塊にでもなったような拳を躊躇なく振り下ろしてくる。紛れもない死の権化に抱いた恐怖を払拭するように、全身に巡らせる。それに呼応するように、リーンの波動も跳ね上がっていく。
だが大きいというだけだ。波動は練り上げ圧縮し、形にしなければ真価を発揮しない。
拳が着地するまでのほんのわずかな間に波動をぶ厚く練り上げ、さらなる衝撃に備える。準備を終えた途端、まるで準備を終えるのを待っていたようなちょうどのタイミングで、上下から押し潰されるような激痛に意識を手放しかけた。
しかしそのようなことは許されない。霞む視界の奥でリーンの続く追撃を確認している。感覚の戻ってきた腕の力だけでその場から下がると、直後にリーンが落ちてくる。俺の眼前を通りすぎていき、拳が地面を爆砕した。破片が飛び散るなかで一呼吸つく。
それが限度だった。あの高さから落ちて怯むことのないリーンの拳が、破片に混じって放たれている。膨れ上がった冷気と波動の暴風が、でたらめに右手に叩き込まれている。
飛び下がるか――すぐに考えを放棄する。たとえ距離を稼いだとしても気休めにもならない。この速度ならすぐに軌道を修正され、の狂いもなく狙ったところに拳を置きにくることだろう。
ならば――、
『氷型』
事前に練り上げていた波動で氷を巻き込み、脇差し程度の刀を形成する。形成した刀を、遅滞なくリーンの拳に押し込む。
だが、反射的に拳を傷つけることを避けたリーンは、自らお互いに間を作った。
「……ったく、なんでお前と戦わなきゃならねぇんだよ」
「わからないか? わからないだろうな。いつまでも逃げ続けているような君に、アタシたちがどうして怒っているかなどわかるわけがない!」
愚直なまで真っ直ぐで直線の突撃は、リーンが開けた間を瞬く間に無に返した。その動きはひたすらに鍛え上げられたものがあり、他のすべてを費やしてまで積み上げた執念すら感じさせる。まどろっこしいことが嫌いなリーンにぴったりな、まさに神速と称すべきの代物だった。
『魔王』を倒してからも、リーンは鍛練を怠らなかったのだろう。俺が知っている彼女よりも、数段にスピードが上がっている。少なくとも全盛期の『勇者』ですら、初見で見切るのは不可能だ。
しかし、どうしてだろう。いまの俺には、見えないはずのそれが見えたのだ。
体の芯を放たれている拳の軌道からわずかにずらして腕を掴み、突撃の勢いを利用してリーンを投げ飛ばした。
わけがわからない――そう言いたげだったのはほんのわずか。すぐに置かれた状況を把握したリーンは時計塔に着地すると、足のバネを最大限に活用して突っ込んでくる。
「どうして君は、逃げるばかりで向かい合おうとしてくれないんだ!」
その言葉に一瞬だけ硬直した隙を、リーンは見逃すようなことはしない。あえて一撃必殺を狙わずに、速度と勢いを抱えた砲弾のような体で俺を組み伏せてくる。後頭部を強く打ち付けて涙目になっている最中に、リーンは馬乗りになっていた。
腕を弓とするならば拳は矢か。肘を曲げて後ろに引かれたそれに思わず目を奪われる。
拳に限らず、打撃によってより大きな衝撃を与えるにはどうするのか。答えにしてみれば実にシンプルだ。言葉にすることができずとも、人間は日常的にそれを行っている。灯台もと暗しとはよく言ったものだ。よくやっているからこそ、いざ問われるとわからなくなってしまう。
そしてリーンは、すでに答えに辿り着いている。
極限まで絞られた弓から矢が放たれる。波動を一瞬だけ全力で放出し、リーンを浮かせる。その隙間から体を引きずり出す――刹那、リーンの下段突きが地面を爆撃した。
その一撃は破片がもろとも砂へと変え、地面には小規模のクレーターが完成していた。
「勇者、どうして天剣を復元しないんだ? このままでは防戦一方だぞ。それともまさか、天剣を持たずともアタシに勝てるとでも思っているのか? だとしたら、嘗められたものだ」
「……」
俺は無言を貫く。その問いにどれだけのものが込められていようと、俺は天剣を抜くつもりはないのだから。
リーンの睨む視線はより一層と鋭さを増し、険しい表情となっていく。
「黙ってるなよ。なんとか答えろよ!」
拳撃が地面を抉っていく。だが俺は動かない。そのように俺を狙ってもいないものに反応する必要はない。
「君はいつもそうだった。アタシたちの気持ちから逃げるばかりで、一度たりとも向かい合おうとしなかった。アタシもエーシェも、そんなことはとっくに気づいていた!」
今度こそ狙いはしっかりと定められていた。しかし動けない。無意識に刻んでいるリズムの隙間に差し込まれ、反応しようにも遅れがでてしまう。
だが飛んできたのが蹴りだったのが幸いした。靴底が触れ、圧迫のかかる瞬間に後方に跳ぶことで直撃は逃れる。蹴りに込められた波動が周りを派手に破壊していく。その際に舞い上がった砂煙を引き連れ、リーンは俺の背後に先回りしていた。
「まさか気づいていないとでも思っていたわけじゃないだろうな!」
縦に弧を描いた踵が鎖骨を無作為にむしりとっていく。 噴水のように沸き出した血飛沫はお互いの顔に赤色のペイントを彩った。
わめき散らしたくなるのを意地だけで堪え、続く力の暴力に構える。しかし、そうしたときにはリーンの姿は認識していたそこにはなかった。
背後――ではない。それはまやかしだ。氷系統の波導使いが用いる相手を撹乱させるための常套手段。自分とそっくりの氷人形を作ることで、本命を惑わすものだ。本来、これは攻撃を読ませにくくし、相手を惑わすものだが、リーンがそのようなことをするとは到底思えない。であれば、本体に気を配らなくてはならない。
氷の剣を形成し、振り上げたすぐそこにリーンはいた。拮抗することさえなく砕け散った氷の向こうから、手甲が迫ってくる。強引に捩じ込まれた拳が、肩に激痛を走らせた。
骨は砕けていない。だが関節が外れてしまった。これで右腕はもう動かせない。
反動で後ろに仰け反るのに従い、足を地面から切り離す。縦に回転しながらリーンと間合いが開いたことを確認し、再び地面に足を縫い付けた。
「おい勇者、いい加減にしたらどうだ。そろそろ天剣を抜け。アタシが全力だっていうのはわかっているだろ。いつまでもやる気のない君を殴るのは気持ち悪いんでな」
「だったらやらなきゃいいだろうが。俺も天剣なしでお前とやり合うのは辛いんだよ」
「ならば天剣を抜けばいいと言っているだろう! このわからず屋め!」
「そりゃこっちが言いたいっての」
平行線を行く言い合いには、決着の目処がつかない。
リーンの歯の軋む音がこだまする。指の隙間から、強く握りすぎたがために手の皮を破って流れ出した血が滴り落ちてくる。
「……君はいつまでそうしているつもりだ。いつまで逃げ続けているつもりなんだ」
静かな呟きだった。しかし我知らずリーンの体外へとあふれでた波動が轟音となって大気を叩く。
「アタシたちに、いつまで腑抜けた君を見せ続けるつもりなんだ!」
波動の矛先は俺の体を音もなく穿っていく。倒れたり呻き声を上げなかっただけでも誉めてもらいたい。重症の身に鉛玉をいくつも撃ち込まれたようなものなのだ。
逃げ続ける――か。俺が彼女たちとの関係を崩さないためにやってきたことが逃げることに繋がるというならば、たしかに逃げ続けているのだろう。だがそれで腑抜けた姿を晒した覚えはないし、晒したところでとやかく言われるいわれはない。
『勇者』という存在に幻想を抱くのは勝手だ。そもそも『勇者』は弱きを導くための象徴とならなければならない。けれど、俺にそれを押しつけるな。おとぎ話にあるような全知全能で無敵な、誰にでも愛されるような存在ではないのだ。
リーンの姿が消える。移動の始めだけは目で追うことができたが、接近する軌道は地面に残る焦げ跡がなければ見切るには至れかった。いうなれば映像を細切れにして、始点と終点だけを並べたような感じだ。
速度だけとするならばリーンに敵う相手はすでにいないだろう。俺だって肉眼で追いかけるのは不可能だ。肌に触れる空気の流れで、おおよその位置を掴むくらいが限度だ。それにしたって、いまの状況では心もとない。
あと何発喰らって立っていられるのか。波に乗ったリーンを相手に、これから無傷で立ち回れるほど甘くはない。
「アタシたちは、そんな君が見たかったわけじゃないんだよ!」
波脈が悲鳴を上げるまで波動を巡らせて運動能力を加速させ、ひたすら回避に専念する。
打ち上がってくる拳打を上体を反らしながら受け止め、耐えきれずに上方に投げ飛ばされた。上から下に流れていく景色の外側から、気流を強引に引き裂いて衝撃波が迫ってくる。
一息で間を詰めたリーンが拳打を繰り出してくる。一撃が撒き散らす波動が意思を持ったように、皮膚の表面に噛みついてくる。突き立てられた牙は、とっさに防御に回した波動に弾かれて火花を散らした。
動きが止まったわずかな瞬間にしか、リーンは目に映らない。途切れ途切れになるその姿は時折眼前からなくなり、対応を遅らせてくる。
最初は避けることができていた。だがついていけなくなったのはすぐのことで、徐々に攻撃がかすりつつあった。骨折や脱臼より軽いにしろ、裂傷がいくつも刻まれていき、そこが炎で焼かれているような熱さを伴っている。
長い滞空を経て時計塔に足をつけると、リーンの攻撃はさらに激しさを増した。重力に従っていたのでは避けきれないと判断すると、そのまま駆け上がっていく。追従するリーンの拳は暴風を生み出し、それも堪えなくてはならない状況だ。打開しようにも手出しができない――したくない以上は、やはりどうしても受け身になってしまう。
「アタシを助けてくれた君は、もっと真っ直ぐな男だった!」
語調を荒くし続けたリーンの声にわずかな掠れがある。喉が潰れかけているのだ。
そんなことをすれば自分を慕ってくれている女の子に心配をかけてしまうとわかっているはずなのに、リーンは構うことなく叫ぶ。
「アタシは、そんな君が好きだった!」
驚きに目を見開いているのが自分でもわかる。脳が思考することを放棄していた。
はっとしたリーンも硬直して攻撃の手を休めた結果、激しさを忘れ、静寂を漂わせた。
ゆっくりと着地し、俺たちは視線をぶつけ合わせる。
「……」
無言でリーンは拳にエネルギーを込める。ただし、いままでのとは格段に違っていた。ただの波動でなければ冷気でもない。その両方を兼ね備えた属性波動をだ。
リーンは波導拳士だ。詠唱を得意とする波導術士と違い、自らの波動を形として撃ち出すのではなく、塊として己の一部とする戦闘スタイル。ゆえに速度を追求する。そうすることで遠距離に対する苦手意識を薄くさせる――と同時に、肉体強化をすることで威力の底上げができる。さらにそれが属性波動であるならば、詠唱をせずとも同様の効果が発揮されるのだ。
踏み込んできたリーンの拳には中規模ほどの波導の威力がある。だがそれは本人の拳撃とも相まって、規模な波導にまで昇華されていた。
こんなのをまともに喰らえばひとたまりもない。とはいえこれは氷系統の波動だ。同系統の波動の引っ張り合いならば、こちらに分がある。
凝縮した氷系統の波動をリーンの拳にぶつける。上手く相殺することができ、それがただの拳撃となった。
だからといって油断できるものではない。リーンの拳撃はクレーターを作ることさえやってのけるほどだ。本当ならこれだって受けてはならない。いや、それを言うなら拳に属性波動を込めさせてはならなかったのだ。そうなったリーンが止められなくなるというのは、よくわかっていたはずなのに。
俺は次の瞬間に訪れるだろう衝撃に備える。
「……頼むから」
けれどやってきたのは、俺が思っていたものとは程遠いものだった。
直前までの迫力は嘘のように消え去っている。立てなくなることまで想定して身構えていたのだが、胸を叩いたのは力のない軽い拳だった。
「頼むから、自分の気持ちから逃げるのだけは、やめてくれ……」
そう言ったリーンは、頬に大粒の涙でいくつも線を作っていく。なにか言おうと口を開こうとすると、リーンは俺に抱きついてきた。
「アタシいま、みっともない顔してる。だから見るな」
鼻を啜りながらリーンは言う。顔を覗きこもうとすれば絞め殺されてしまいそうになるので、リーンが泣き止むまで待つことにした。
すると唐突に、誰かが時計塔の方向からやってくる足音が聞こえた。その真逆からも誰かがここに向かってきている。おおよその予想はリーンもついているはずだが、一向に離れようとしない。どうやら抱き合っているように見られるよりも、泣き顔を見られないことを優先したようだ。
「こりゃあずいぶんと派手にやっちまったもんだなぁ。環境破壊に貢献しすぎだぜ」
チトルが周りを見渡して脱力しながら、呆れたように見つめてくる。
「でもま、この程度で済んでよかったんじゃねえの? 五体満足で生きてることだしさ」
その言い方だと、まるで俺の体がどうにかなっていたように聞こえるのだが、あえて言及するのはやめようと思った。深入りすると後悔しそうな気がする。
それよりも、俺たちが戦ったことをチトルが当たり前のように受け入れていることの方が無視しがたいことだった。リーンがここに来たことも、いま思い返してみると不自然なのだ。チトルが事情を知っているわけがない。
「おれが知ってるのか信じられないって顔だな。だから鈍感なんて言われんだよ」
「いや、俺は……」
その先を言いかけて俺は口を閉ざした。どう言うべきかわからないのだ。
これまでリーンやエーシェにやってきたことが最善ではなかった。だから改めて言うことになると、言葉が見つからない。
「お前さんが鈍感を演じてたことくらい知ってんよ。おれだって男なんだぜ? こんな美人に好かれてなにも思わねえなんてんなら、そいつはあれだ。あっち系の趣味だ」
「ま、まさか、君はあっち系の趣味だったのか!?」
「そんなわけねぇだろ!」
つい声を荒げて言うと、どっと笑いが生まれた。それにつられて、俺も小さく笑う。
するとどうしてだろう。チトルたちが俺の顔を見ながら固まってしまった。
「ゆ、勇者さまが笑った……?」
「いやいや見間違いだって。だってカシギだぜ? いつも無愛想にしてるこいつが笑うことなんてあるわけねえって。むしろこいつが笑ってるとき、おれらは泣いてるって」
「だがアタシも笑っているのをたしかに見たぞ……!?」
失礼なことを口々にするチトルたちに天剣の属性石をちらつかせてやると、リーンを含めて一気に押し黙った。ついさっきまでの天剣を抜けと言っていた威勢はどこにいった。
「それより、さっきの続きだ」
「え? はあん、なるほど。そんなんが気になってたわけね。つっても大したことじゃねえよ。お前さんは鈍感ではねえが、物事の見方の視野が狭いんだよ」
「仕方ないだろ。これでも限界だったんだ」
元々戦いなんてなかった世界から召還され、いくら自分からそこに足を踏み入れたとしても、俺は世界に馴染もうとするだけで手一杯だった。だというのに重荷となってのし掛かってくる期待やその他の感情は、冬道かしぎという人間には大きすぎたのだ。
その上に向けられる想いを受け入れようとしていたなら、俺は潰れていただろう。感情の波に呑み込まれてしまい、立ち上がることができなくなっていたかもしれないほどに。
そうでなくとも、俺は精神をやられてしまっていた。
「まあ、それでお前さんを責める奴は誰もいねえさ。わざわざ異界から来てくれて、世界を救ってくれたんだぜ? 礼は言われても責められる筋合いはねえってこった」
そう言ってチトルはエーシェの後ろに下がる。
「でも、こいつらが言いてえのはそういうことじゃないらしいぜ?」
そこでようやくリーンが俺から離れ、エーシェの隣に立つ。目元は赤くなっていた。
二人は目配せをすると、それだけで言いたいことが伝わったように頷いた。
「勇者さま」
エーシェが俺を見上げながら心細そうな小さな声で、しかしはっきりと言葉を紡ぐ。
「さっきは言いそびれましたけど、今度はちゃんと言わせてください」
深呼吸をして一拍置くと、エーシェは続きを口にした。
「――好きです。ずっと、あなたのことをお慕いしていました」
涙で潤わせた瞳、高熱があるのではないかと心配になってしまうほど蒸気した頬でそう告げてきた。はっきりと、俺のことを好きだと言ってくれたのだ。
混乱しているとはまさにこのことを指しているのだろう。なにを口にしたらいいか全くわからず、一切の言葉が浮かんでこない。乾いた唇から洩れるの言葉にならず吐き出された空気だけだ。
リーンにも想いは伝えられた。二人の女性に告げられたのだ。ずっと避けてきたことではあるが、言われたからには答えは出さねばなるまい。
しかしどうしたらいい。いくら問いかけようと答えは返ってこない。正面からぶつけられた想いに、曖昧な答えだけは出したくない。
受け入れるにしても突き放すにしても、もういままでと同じ関係でいられないだろう。
「いいんです、勇者さま。無理に答えを出そうとしてくれなくたって」
「……は?」
次に言われたことに、間抜けな反応をしてしまった。
「いますぐにってわけで言ったんじゃなくて、ただ気持ちを伝えたかっただけなんだ」
「いいのかよ、それで」
ついつい聞き返してしまう。想いを打ち明けたのだとしたら、いますぐにだって返事をもらいたいのだと思うだろう。だからこうして悩んでいるというのに、すぐに戻ってきた答えはそれを見事に否定してくれた。
「むしろそんなすぐに答えをもらっても、気の迷いから来たみたいだろ? アタシはそんなのごめんさ。ちゃんと考えて、考え抜いてもらった君に選んでもらいたいからね」
「私もです。ぜひ勇者さまのお嫁さんに選んでほしいです」
「お嫁さんとは気が早すぎないか? まずは恋人となってからだろう?」
「そ、そうかもしれないですけど、いつかはっていう意味ですよ!」
俺をそっちのけで会話をするエーシェとリーンは、想いを伝えても、いままでとなんら変わることがなかった。お互いがお互いに同じ相手を好きになってしまったというのに、それを気にしていないとばかりの態度だ。
思わず呆気にとられてしまう。これまで気にしていたのはなんだったのだと、馬鹿らしくなってきた。
「ぐっ……」
安心して気が抜けたのか、蓄積されてきたダメージに体が耐えきれなくなったのだろう。膝から力がなくなり、糸の切れた人形のように座りこんでしまった。
手足が痙攣を起こしており、しばらく動くことはできそうにもない。
エーシェが慌てた様子で駆け寄ってくると、水系統の波動で回復させてくれる。
薄い水の膜が全身を包む。何度も体験しているのだが、未だに水のなかで呼吸ができることが不思議でならなかった。
「勇者さま、大丈夫ですか? もう、リーンがあんなにやるから!」
「だってムカついたんだから仕方ないだろう……」
子供のような言い訳に顔をひきつらせた。唇を尖らせて拗ねるリーンには、かける言葉がない。
それにしてもリーンには驚かされた。基本的に天剣は武器だ。運動能力が向上するわけではないし、それによって肉体に変化があるわけではない。攻撃をしないと限定されていたとはいえ、『魔王』を倒したときとは比べ物にならないほどに強くなっている。以前なら、同じ条件だったとしてもここまで追い詰められなかっただろう。
軽くなっていく手足に残る違和感を探しながらら内心でリーンに舌を巻く。
もし天剣を使っていたとしても、リーンに勝つことができたかどうか定かでない。
「はい、これで大体の治療は終わりました。あとは安静にしていてください」
水の膜が弾け、地面に吸収されていく。
「ありがとう。悪いな、ここに寄ったのだって安静にしてるためだったのにな」
そう言った途端、エーシェだけでなくリーンやチトルの表情に苦いものが混じったのを見逃さなかった。聞かれてはならないとも言いたげに、共通して隠そうとする動きがある。
「いいんですよ。これから戦いがあるわけでもないんですから」
明らかになにかを誤魔化している。俺に悟られないようにしている。それがなんなのか、心当たりがないわけではない。
『魔王』を倒して地球に戻ったはずなのにここに居続けていること。そしてそれから四ヶ月間の記憶が全てなくなっていることだ。いや、全てというわけではない。ほんの少しだけ思い出せる。けれどあるのは――ここでの記憶ではない。
「お前ら、なにを隠してるんだ?」
俺は目を細めながら、睨むようにして言う。
「別にアタシたちはなにも隠してなんか……」
不自然に宙をさ迷う視線は、俺と合わせようとはしない。いつもなら言いたいことを考えなしに発言するようなリーンなだけに、確信があるような気がしてならなかった。
俺がここにいることには意味があるのかもしれない。だがその意味とはなんなのだろう。一度はさったはずの異世界に再び招き、俺になにをさせようとしているのだろう。
言葉は暗闇に消えて、姿を見せようとはしてくれない。
そんなとき、チトルが口火を灯らせた。
「お前さんはさ、リーンに自分の気持ちから逃げるなって言われたよな?」
「……それがどうかしたのか」
いまそれは関係ないだろう。苛立ちが紡ぎ出された言葉に棘となってチトルを刺す。
「おれもその通りだと思ったんでな。お前さんは自分の気持ちから逃げてるよ。いーや、もしかしたら気づいてないだけかもしんねえな」
意味ありげに口角を吊り上げるチトルは、俺の胸を指で叩いてくる。
それが自尊心を刺激する挑発的な行動にだったのかはわからないが、そうだとしたなら俺はまんまと引っ掛かってしまったことになる。チトルの手を払うように力任せに弾いた。
手をヒラヒラと振って痛みを訴えてくるが、そんなのは知ったことではない。
「言いたいことがあるならはっきり言え。まわりくどいのは嫌いだ」
「なら言ってやんよ。お前さんは関係を壊したくないからそうしてるって思ってるみてえだけどそうじゃないだろ。アイリスのことを引きずりっぱなしで、ただ気持ちを受け入れるのが怖いだけなんだろうが」
怒りが一瞬にして沸点に達し、握りしめた拳がチトルの鼻っ柱を叩いていた。炸裂する瞬間に後ろに跳んでいたようだが、確実に捉えた感触が残っている。
獣のように荒くなった息。真っ赤に塗り潰されている視界は、それだけ怒りの大きさを示しているのだろう。理性があと一歩でも後退していたなら、さらに追い討ちをしかけていてもおかしくはなかった。
「いてて……事実を言われると、すぐに手ェ出してくるもんだから困るぜ」
口のなかを切って流れてくる血を手の甲で拭いながら、チトルは立ち上がる。
「これでわかったろ? お前さんは自分の気持ちから逃げて――アイリスのせいにして、こいつらからも逃げようとしてんだよ」
アイリス――アイリス・フォン・ユンカーはかつて、『勇者』パーティーのひとりだった。主に後方からの波動による支援を担っていた頼れる仲間であり、包み込むような暖かさを持つ女性だった。
異世界に召還されて初めて一緒に旅をすることになったのはエーシェだが、右も左もわからない俺を助けてくれたのがアイリスだった。旅に出たばかりで、困難の連続で消耗しきっていたところに彼女の持つ独特な包容間に触れたというのもあったのだろう。俺はいつの間にか、アイリスに惹かれるようになっていた。
だから旅を共にすることになり、想いを受け入れてもらえたときは素直に嬉しかった。
けれど、それは長くは続かなかった。
「あれはお前さんのせいじゃねえよ。おれたちが挑むにゃあ早かったんだ」
あの光景は忘れようとしても、俺に絡み付いて決して忘れさせようとしてくれない。
アイリスは俺が浮かれて油断していたせいで、敵の攻撃を庇って――死んだのだ。
敵の実力がそれまでと桁違いだったということもあるが、それだけではない。力を手にして勝ち続けてきた俺は慢心し、酔いしれていたのだ。アイリスが何度も忠告してくれたのにそれを無視して戦い、最悪の結末を迎えることとなった。
アイリスに支えを立てていた俺は、そのときにぽっきり心を折られた。
アイリスを殺した相手は理性や感情を失った本能に身を委ね、暴走するようにして塵も残さずに消滅させた。しかしそれからの俺は、人が変わったように、脱け殻となってしまったように毎日を過ごした。
それからだ。想いを受け入れ、受け入れてもらうのが恐ろしくなったのは。
「いつまでも自分に縛られてるお前さんを、アイリスは見たいって思ってんのかねぇ。自分のことでうじうじするくれえなら、さっさと忘れろって言うんじゃねえか?」
「そんなの……」
わかるわけがないだろ。だってアイリスは、もう死んだんだから。
それについて気持ちの整理はつけたはずだった。みんなに支えられ励まされ立ち直れた。なのにそれを思い出すだけで、胸を締め付けられるような痛みに苛まされる。
「実際のところはわからんが、アイリスがどういう奴だったか思い出せるってんなら、きっとそんな風にいうんじゃねえかっておれは思うわけだ。お前さんはどうだ?」
「……」
俺のなかにいるアイリスも、チトルのようなことを言うのかもしれない。
彼女は俺が悩んでいるとき、後ろは振り返らず前だけを見て進めと言ってくれた。
こうして俺がアイリスのことを引きずっていることは、下を向いて歩みを止めてしまっているのとなんら変わらない。それは、彼女の助言を無視しているのではないだろうか。
自分が死の淵に追い詰められているのに、それを省みずに俺を助けてくれた。
それでも前に進めと背中を押してくれたのだ。
こんな後悔ばかりで俯いている俺を見たら、アイリスは叱ることだろう。
――いつまでも私のことを理由にして、前に進むのをやめたりしちゃだめよ。真っ直ぐ、あなたの気持ちに素直になって歩かなきゃ。
「……あぁ、俺も、アイリスならそう言いそうな気がする。こんな腑抜けた姿を見せた日にゃ、なんて言われるかわかったもんじゃねぇな」
「だろ? アイリスに叱られたときゃあずいぶんヘコんだもんだぜ」
チトルはこんな性格だから、アイリスによく叱られていたものだ。
「そんじゃあ、そろそろお別れだな」
「なんのことだ?」
「お前さんのあるべき場所に帰ってもらうって話さ。ずいぶん前から気づいてたみたいじゃねぇの。――記憶との食い違いがあるってことにさ」
なぜ、チトルがそれを知っているのだ。このことは誰にも言っていない。さっきまでの話と違って会話の流れから読み取れるものではないはずなのに、どうして――。
憶測が憶測を呼び、パズルのピースがはまることなくそのまま放置されていく。次々に放り込まれていくバラバラの欠片は、しかし共通した特徴を帯びている。
記憶の食い違い。頭に響いてきた声。アイリスの過去との決着。
「もう思い出してもいい頃だぜ? お前さんがここに戻ってきたのは、お前さんと一緒に召還されたもうひとりの勇者と向かい合うためなんだからよ」
脳天から爪先にかけて、稲妻が一直線に駆け抜けたような衝撃が訪れた。
違う種類のものだと思っていた欠片たちは、全てを組み合わせることで大きな絵となって完成した。それは俺の新しい物語の表紙であり、投げ出してきたものだった。
俺は帰らなければならない。帰って――真宵後輩に想いを伝えるのだ。
「帰ってからも苦労かけさせんなよ。お前さんたちはとことん自分の気持ちから逃げ腰だからな。いい加減に向き合ってみたらどうだ?」
「もちろんそのつもりだ。まだやることも残ってることだしな」
そう言って、手元に畳まれてあった着流しを渡す。俺の身を包むのは地球にいたときの私服だ。胸の辺りに空いたはずの穴は、すっかり縫われて痕跡を消していた。
「持ってってもいいんだぜ?」
「さすがに持ってけねぇよ。天剣まで勝手に持ってっちまってるわけだし」
「構わねえって。おれたちからの餞別だ、持っていけよ」
チトルが着流しを押しつけてくると、不意に視界が真っ暗になり始めた。
意識が異世界から切り離されようとしているのだ。
「頑張れよお前さん。敵は手強いみてえだが、なんとかなるんじゃねえか?」
「おいチトル! 君ばかり話していてアタシが話せないじゃないか! ええと、次にこっちに来るときはもっとゆっくりしていけよな!」
「え、えと、また来てくださいね勇者さま! いつまでも待ってますから!」
最期の最後までぐだぐだなメンバーに、俺は苦笑を隠すことはできなかった。
◇◆◇
瞼が落ちて、チトルたちの声が聞こえなくなる。意識的には異世界間を移動した感覚はなかったが、たしかに切り替わっていた。
体を満たしていた波動は薄くなっており、波脈への通りが悪くなっている。指一本を動かすだけで痛みを訴えてくるこれは、『勇者』の肉体でないことの証明を物語っていた。
「――よう、待ってたぜ、主人公」
その声に反応して俺は顔をあげると、近くで焚き火をしている一組の男女に目が行った。
親子と言っても通用するほど外見に差のある二人。女の方は、どちらかといえば幼女と少女の中間くらいの部類に入るだろう。
男の方は知っている。なにせ知り合いだ。友達というには友好を深めてはいないものの、何度か世話になっている。
後ろで一つに結んだ長髪はばっさり切られ、不衛生に伸ばされていた髭は綺麗に剃られている。白衣の代わりに着ていたのは、古くさい戦闘依だった。
「なんでお前がここにいるんだ?」
「起きて第一声がそれかよ。まぁ、おめぇならそう言うって予想できたがな」
男――雨草竜一は丸焼きにした魚を豪快にかぶり付きながらそう言った。