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氷天の波導騎士  作者: 牡牛 ヤマメ
第六章〈志乃覚醒〉編
82/132

6―(11)「ミツドモエ⑤」

 

 驚きに目を剥く志乃が、雷撃砲を凌ぎ切ったかどうかを物語っていた。

 洞窟内は氷の装飾を施され、幻想的な雰囲気を醸し出していた。凍結し砕け散った雷撃砲の欠片が降り注ぐ。

 雷撃砲を凌ぎ切れるという保証はなく、正直なところ賭けの部分が大きかった。この右眼を解放したところでどうにもならない可能性だってあったし、むしろその方が確率的には勝っていると思っていた。

 だが蓋を開けてみればどうだ。被害を最小限に抑え、志乃の雷撃砲を凌ぎきったのだ。肩で息を切らせながら、九重はしてやったりとほくそ笑む。

「なに、その眼……?」

 智香はなんとか声を絞り出すことができた。絶句せずにはいられない光景が、九重の右眼に縫い付けられている。

 瞳孔が十文字に切り裂かれた瑠璃色の、奈落の底でも映し出したかのような光の宿らない眼。視覚を確保できているのか疑いたくなるような右眼が、そこにはあった。

「奥の手だよ。これは使うなって言われてたんだけど、姉ちゃんたちを守るためだったら仕方ねぇよな」

 まるっきり言い訳そのものだが、それを咎める気にはなれない。智香は式神のため不死身と同列に扱えるが、東雲たちは生身なのだ。雷撃砲を喰らっていれば炭すら残るまい。

 九重や御神だってそうだ。奥の手が通じなければ二度と光を拝めなかったかもしれないのに、よく囮を引き受けたものだと智香は思う。しかも逃げた東雲とは違い、九重たちはいま現在も命の危機に直面している。むしろここからが本番だ。

「ククク……」

 反響して嘲りが耳に入ってくる。

「クカカカカカカカカカカカカカカカカカカカカカカカカカカカカカカカカ――――っ!」

 狂乱したように嗤う志乃から強烈な威圧感が放たれる。あまりの強烈さに意識が混濁し沈みそうになるが、気合いだけでそれを繋ぎ止める。

 元勇者や超越者、『組織』のトップや『九十九』の当主と休む間もなく戦ってきたはずなのに、志乃の力は衰えるどころか馴染んできているようだった。

 そういえば、志乃は最近になってようやく戦えるようになったと聞いた。まさかいままでは志乃さえ御しきれなかった力に、振り回されていたにすぎないとでも言うのか。ならば落ち着いたいま、志乃は完全に力を支配下に置いたということになる。

「なるほどなるほど。そちが妾の右眼を宿しておったのか……いささか妙な気配をしておるとは思うておったが、妾と同一なのだから、妙であっても仕方のうて」

 嬉しそうに嗤う志乃を前に、右眼がずきりと痛んだ。

 それは宿主が相応しくないという叫びか。元は志乃のものだったという右眼は、九重に踞りたくなるような痛みを与え続けていく。

「その右眼ならば妾の雷を防ぎきったのも頷けるのう」

 浮いていた志乃の体がゆっくりと降りてくる。

 刀を構え、痛みをねじ伏せ右眼を凝らす。

 志乃の両足が地面についた瞬間――世界が灼熱の炎に包まれた。どこから沸いて出たものなのか、炎は壁や地面を這って洞窟全体に範囲を拡大させ、氷の幻想を溶かしていく。

 周囲の景色が熱によって歪む。生身では耐え難い炎を掻き分けて、純白の閃光が九重のすぐ近くまで流れ込んできた。避けきれないと判断し、刀で迎え撃つ。

 数瞬の衝突。攻防は十数合にも及び、なおも続く。後退する九重に距離を開けさせまいと志乃は追撃する。黒い焦げ跡をそこら中に刻み、壁を駆け上がり、天井に達したところで跳ぶ。跳躍の軌跡は音だけが刻み、そのあとを炎と氷のイルミネーションが飾っていく。

 志乃の攻撃に切れ目がない。動きと動きの繋ぎが遅滞していく九重とは対照的に、志乃は加速し続けている。御神と智香はなんとか割り込もうと隙を窺うが、そんなものはどこにもない。

 苛烈さを増していく一進一退の攻防。割り込めなければただ飛び火に巻き込まれるだけなので、御神と智香は暴風地帯から離れる。

「なかなかどうして楽しませてくれるなァ九重! 妾の眼を我が物として使えているではないのか!?」

「くっ――!」

 めまぐるしくお互いの位置を入れ替えながら移動し、移動の衝撃によってぶれた切っ先の微調整を繰り返しながら、ひたすら磨きあげた技の押収をする。幾重にも重なって描き出される炎と氷の軌跡は消えては増え続け、お互いを蝕んでいく。

 志乃には膨大な量の能力が備わっている。ならば九重の唯一の武器である右眼を封じることは、そう難しいことではないはずだ。かつては己の一部であった右眼のことなのだ。間違いなく熟知しているだろう。

 しかしそうしないということは、できないということなのか。はたまた封じるまでもないということなのか。

 思考の隙間を狙って手刀が喉を穿ってくる。手首を返してすでに放っていた斬撃の軌道を修正し、打ち上げた。

 刀刃を喰らった手刀は皮一枚も切れていない。これも能力の一つなのだろう。鮮血の代わりに火花を散らし、志乃が下がる。

 しかし息をつく間を与えるようなことはしない。志乃が両手を交差させるように振るう。その刹那に左右からなにかが迫るのを感じ、右眼を走らせた。

 虚空だったそこに突如として氷柱が現れた。氷柱は九重を挟むように直線上に並んでいる。思いきり地面を蹴ってそれらを回避すると共に、ある仕掛けを施した。あとはどのタイミングで発動させるかだけだ。

 刀身を左の腰に深く添える。左手で刀身を握る。抜き打ちの構えだ。

 仕掛けを悟られてはならない。そうなってしまえばいくらでも対処の方法がある。これで仕留められる確証はないが、多少なりとも動きを鈍らせることくらいはできるはずだ。そうとでも思っていなければ、こんな化物と相対するなど地獄以外の何者でもない。

 志乃を化物たらしてめいるのは、ただ単に能力の豊富さだけではない。もちろんそれも理由の一部として上げられるが、真に恐れるべきは体に染み付いているであろう技術だ。精密にして精巧な一挙手一投足には、どの技にも存在する穴が見当たらない。そんな老練して積み上げられてきた技術には、武芸者として尊敬の念しかない。

 だが、それが敵であるのだから話が別だ。厄介なことこの上ない。いまはギリギリのところで対応することができているが、技術においても経験においても、いや、持っている全てにおいて劣っている九重ではいずれ限界が訪れるだろう。右眼がなければ、すでに地に伏していたかもしれない。

 左手がちくりと痛んだ。刀身を握る手に力を込めすぎたせいで皮が切れてしまっていた。肉にも刃が食い込んでいる。悔しさが表に出すぎていたようだ。

 九重は一息置く。流れ出た血が刀身を伝い、唾に達したところで弾けた。

 着地点を予測していたかのように眼前に志乃が現れるのは、こちらも予測していた。だからそこからの動作には遅滞がない。左手で押さえていた刀身を抜き放つ。

 首が切断されるかもしれないのにひたすら全身の一手を打つ志乃には躊躇いがない。たとえ首がなくなろうとも、すぐに再生することができるからだ。

 少しでも逃げの姿勢を見せようものならすかさず追い討ちをかけていたところだが、期せずして訪れた好機に躊躇してしまった。軌道は志乃の首の皮一枚を切る程度に描かれ、ほぼ無防備な体勢の九重に飛び込んでくる。

 指を槍の矛先のようにすぼめ、弓のように絞られた腕が放たれる。避けようにも志乃を間合いに入れさせ過ぎた。

 ――避けられない……!

 右眼に頼ろうにも互いの距離が近すぎる。この一撃を耐え切り、次に繋げられるかと問われてしまうと、答えることはできない。志乃ほどの実力者が確実に仕留められる隙を逃すわけがないからだ。

 見ていればわかる。志乃の指先が向かうのは心臓だ。あまりにも美しすぎる死の刃は、九重に行き着く結果を脳裏に映し出していた。

 けれど諦めたくない。これまで適当にしてきて、最後までそんなのでいいはずがない。

「伏せろ! 九重!」

 とっさに反応した九重は膝を折り曲げると、真上を風の刃が通過していく。

 忌々しそうに舌を打った志乃が腕を引っ込め、後退していくのが見えた。

「大丈夫ですか?」

 九重の横に立った御神が手を差し伸べてくる。

「ははは……来るのおっせーよ。ずいぶん待ちぼうけ喰らっちゃったんだけど?」

 その手を力強く掴んだ九重は、刀を杖代わりにしてゆっくりと立ち上がる。

「そちらもおったのだったな。すっかり忘れていた。許せ」

 抑揚のない薄っぺらなら謝罪を口にする。

 言葉の投げ合いなどするつもりのない御神は風を制御すると、志乃の周囲に配置する。

「僕たちも戦います。あなただけにやらせはしない」

「だったら最初っから入ってくれよな」

 互いに顔を合わせて歯を見せると、左右から志乃を挟み込むように疾走する。

 一拍の間を置いたことにより、再び間合いの計り合いが始まる。しかし志乃は左右の二人には目も暮れず、正面に位置する智香に標的を絞っていた。

 志乃にしてみれば脅威なのは智香だけだ。戦いに浸かってきた経験こそないが、式神として備わっている感覚がその差を埋めている。無視しがたい相手なのだ。

 それなら踏み込むこともできるのではないかと九重は考えたが、志乃がそんなことを許すわけがない。標的を智香に絞っているが、二人への対処を怠っているわけではないのだ。いざ間合いに踏み入りでもしようものなら、待っているのは死だ。

 それにこちらが仕切り直しをしたということはすなわち、やっと崩した志乃のペースも仕切り直されることになる。

 空気をちぎりながら放たれた智香の爪先が、志乃のこめかみへと突き立てられる。

 それがわかったのは志乃が肘で受け止めていたからだ。九重と御神には足が消えたようにしか見えず、切り落とされたのかと背筋が凍える思いだった。

 わずかに安堵したのもつかの間。あれだけ超高速で放たれた蹴りを、志乃は微動だにすることなく見切り、そして受け止めたのだ。

 その事実があとになってから浸透し、絶句せざるを得なかった。だからといって刃は止まらない。間合いに捉えた刀が前後から志乃の首に吸い込まれていく。

 次の瞬間には刀身を通じて気持ちの悪い感触が伝わってくる――はずだった。

 だが違った。訪れたのは口のなかに広がる鉄の味と、腹部に残る痛みだけだった。気づけば志乃

から遠く離れ、地面を転がっている自分たちがいる。どういうことかなどと、訊くまでもない。

 志乃はあの一瞬で智香を蹴り飛ばし、九重と御神を投げ飛ばしただけだ。

 やったことは単純だ。しかしそれを認識させることなく行い、さらにはそれが当然だとする志乃があまりにも異質なのだ。

「あまりがっかりさせるな。三人もいてなぜ誰も妾に触れられない。その程度で妾をどうにかしようとしていたのかのう」

 志乃の背中は雄弁に語っていた。

 ――笑わせるな。

 それを言葉にしなかったのは優しさなのか。それともそうしたところで、究極的すぎる差を縮めることができないがゆえの落胆なのか。どちらにしろ状況は変わらない。

 そしてこれが、最後のチャンスかもしれない。

 九重の右眼が志乃を捉える。

 瞬間――、

「……っ!?」

 志乃の全身から内側を破って氷の棘が噴き出した。さすがの志乃も突然のことに痛みよりも驚愕が上回り、一瞬の隙を見せた。

 飛び上がるように起き上がり、九重は刃を走らせた。御神も智香も動いている。

「おおおおおおおおおおおおおおおおおおおおッ!!」

 放たれた刀身は左の脇腹から右の肩を、肉に食い込み音もなく駆け上がっていく。

「まだ、まだぁぁぁあああああ!!」

 畳み掛ける。刀に体を引っ張られそうになるのを強引に押し止めると、まだ残っている斬線と交錯するように刃を舞わせた。

 血は出ない。全身から飛び出す棘のせいだ。この棘は志乃の体内にある水分や血液を媒介として作られているのだ。人間はほとんどが水分で構成されており、それは志乃であろうと例外ではない。そしていくら外側が強固であろうと、内側まではそうと限らない。

 目論見通り、志乃も内側からの攻撃には対応できなかった。しかも体内の水分がほとんど失われていたため、まともに肉体として機能しなかったことも幸いした。

 九重が下がると、志乃の全身を風の刃が切り裂いていく。再生は行われている。だがそれよりも早く体を切り刻んでいく。

 行き場のない衝撃は志乃を地面から離れさせる。そこを狙い、智香が飛び込んでいく。

 声ひとつあげることのない志乃の肢体に無数の打撃を叩き込んでいく。智香の身体能力は志乃を基準としている。つまり智香の打撃はイコールで志乃と同等のものと考えていい。それが容赦なく遅滞なく注ぎ込まれていくのだ。いかに志乃といえど、己の破壊力がそのまま反映された拳には耐えられまい。

 粘土のように変形していく志乃を蹴り落とすと、智香は叫ぶ。

「九重くん!」

「わかってる!」

 九重は右眼に与えられ続ける痛みに耐えながら、最後の仕上げに入る。

 志乃が再生しきる前に、絶対零度を持って凍結させる。そうすることで動きを封じ、再生さえ行えようにするのだ。

 そして志乃の全身は氷に包まれ、停止した。

「や、やった……のか?」

 九重は朦朧とする意識のなかで呟く。

 最善は尽くしたはずだ。自分たちにできることをし、納得できる形で終わらせた。

 しかしこれで本当に終わりだというのだろうか。あの志乃が、こうもあっさりと自分にやられるのだろうか。この右眼があったからといって、九重が志乃に勝てる要素はなに一つない。ただ真っ向から、愚直なまでに真っ直ぐに立ち向かっただけだ。こんなことで勝てるのであれば、冬道や柊はおろか、双弥たちが負けるわけがない。

 どうにも勝ちの実感が沸かないでいると、背中に柔らかいものが押し当てられた。

「お疲れさま九重くん」

 どうやら押し当てられたのではなく、支えきれなくなって倒れそうになった九重を智香が受け止めたようだ。

 しかし、智香の言葉は懸念の色が隠せていない。智香だけでなく、御神も同じことを考えていたのだろう。

「ひとまずここを離れましょう。志乃がまた動き出す前に体勢を立て直す」

「そうね。九重くんがいるなら、もしかしたらなんとかなるかもしれないし」

 ――本気でそう思ってんのかよ。

 九重は心のなかで吐き捨てた。自分がいてどうにかなるなら、とっくに事態の収拾はついている。どうも嫌な予感がして仕方ない。

 津波が来る前は潮が引くと言われている。もしこれもそうなのだとしたら、じきに大きな波が来る――。

 その直後だ。志乃の全身からエネルギーが奔流し、胸元に下げられた首飾りに注がれ剣の形となる。剣が膨大なエネルギーに耐えきれず悲鳴を上げる。限界を踏破し、剣は一切の塵も残さずに粉砕した。

 だがエネルギーの奔流は止まらない。志乃の体を飲み込み一個の光の塊となる。そして爆発的に増大していく光が天井を破り、空へと解き放たれた。

 光の柱は高く高く伸びていき――、

 そのとき九重たちは見た。

 光の柱の先に謎の空間が大口を開けているのを。そしてそこから、見たこともない異形の大群が溢れ返ったのを。


     ◇◆◇


 たまに背中を風が撫でていくだけで、洞窟を出る間に雷はついに襲ってくることはなかった。

 ――九重はあの雷を防ぎきったんか?

 東雲は安全地帯を目指しながら思う。いや、いま自分たちが生きているということは、九重は雷撃砲を防ぎきったのだろう。しかし、相性と実力を覆すほどの策を用意していたとは到底思えない。現に防ぎきったのだから策はあったのだろうけれど、ならば何故いまこのときまで隠していたのだろうか。

 九重の性格からして出し惜しみなどするわけがない。とすれば使えない事情があったのだろう。そこまで考えて、東雲はある一点に辿り着いた。

 ――あいつ、眼帯外しおった……!

 十六夜が忠告した右眼がどんなものかはわからないが、志乃の雷を防ぐことができるほどなのだ。並大抵の代物ではないということだろう。けれど、代償として命が失われるとも言っていた。

 使わせないようにすると約束したにもかかわらず、東雲はそれを守ることができなかった。

 いまがそんなことを言っている場合ではないことはわかっているが、しかし終わったあとで九重がいなくなっていたのでは元も子もないことだ。

 おそらく九重は右眼を最後まで解放し続けるつもりだろう。一刻も早く増援にいかなくては、取り返しのつかないことになる。

 足手まといにしかならないかもしれない。九重は東雲に来てもらいたいと思っていないかもしれない。だけどそれと同じくらい、東雲も九重にいなくなってもらいたくないのだ。

 だがまずは双弥の治療が先決だ。呼吸の間隔が長くなり、脈も弱くなってきている。治療するための道具はないが、止血くらいならできる。いざとなれば十六夜に双弥を医療機関のあるところまで運んでもらえばいい。

 無人島にやってきた船に乗り込むと、双弥をベッドに寝かせる。腕や足に何ヵ所か穴が開けられている。縛るものがないか周囲を見渡すも、使えそうなものはなにもなかった。東雲は両の袖を破くと、それで縛る。

「揺火は船内になんかないか探すんや! 来夏は能力で血を上手く循環させてくれ!」

「もうやってるっつーの」

 すでに来夏は双弥の体に手を添え、能力で血の流れを制御していた。過度な集中力を要する上に、来夏は能力を長時間持続させることが難しくなっている。保って二十分といったところだ。

「姫路とガンマはそっちの二人を頼むわ!」

「おっしゃあ! ガンちゃんやるぞ!」

 幸いなことに一葉と凪は軽い怪我しかしていない。大した治療をせずとも大丈夫のはずだ。

 問題は双弥だ。応急手当ができたとしても、あくまでも仮の治療なのだ。すぐにでも医療機関に預けなければならないのだが、いまから急いだとしても一時間は最低でもかかってしまう。

 五十嵐を屋敷に残してきたのが悔やまれた。物体を元の状態に戻す能力の持ち主である彼女ならば、傷の再生などお手のものだ。ただの回復能力よりも格段にいい。

「あ、りゃ……こりゃ参った、ね……」

 途切れ途切れになるその声に、はっとして顔を上げる。うっすらと目蓋を持ち上げた双弥が言ったのだ。

 東雲だけでなく来夏も顔を覗き込むと、双弥はわずかに口角を持ち上げた。

「美人な、天使様が……二人も、見えやがる……」

「アホか! 下らんこと言うてる暇はないわ! 死にかけてんねやぞ!」

「耳元でうるせーよ東雲。ガタガタ言ってるとミスるかもしれねーから黙ってるよーに」

 軽い調子の双弥だが、相も変わらず悪化する一方だ。いまは流血を阻止しているものの、駆けつけるまでに失った血液まではどうにもならない。

 船内に医療道具はなにもなかったらしく、ついさっき揺火が飛び出していった。医師の資格を取得している十六夜を探しに行ったのかもしれないが、それでも双弥の傷を治すことはできないだろう。医療設備の不十分なところで下手に手を出せば、さらに取り返しのつかないことにもなりかねない。

 相当苦しいようで、荒い呼吸を何回も繰り返している。

「ちょ、おい! まだ動くなって!」

「うるさい黙れ。我輩に触るなであります」

 抑え込もうとする姫路を押し退け、意識を取り戻した凪はおぼつかない足取りで双弥のところにやってくる。未だに健在な竜の如き眼光で東雲を睨む。

「そこを退けであります」

「無理な相談や。私はともかく来夏は退かせられん。双弥を見殺しにするつもりなんか」

 真っ向から受けて立つ東雲だが、内心では凪のあまりの威圧感に舌を撒いている。これが自分よりも一〇は年下の少女が放つものなのか。

「誰もそのようなことは言っていないであります。我輩の能力ならば、お兄……そやつの傷を治すことなど容易いということであります。だから退け」

 凪の小さな体のどこからそんな力が沸いてくるのか。肩を引いて退かせようとしてくる凪の腕力に耐えきれず、東雲はたたらを踏むように後ろに下がった。

「来夏、そこを退け」

『組織』に属しているが、こうして凪と顔を会わせるのは初めてだった。しかし初対面で尚且つ年下の少女に偉そうな態度をされるのは、元々子供が好きでない来夏にしてみれば腹の立つことこの上ない。

 しかし双弥を治すことができるのならば、この際下らない私情など挟むべきではないだろう。来夏ももちろんわかっている――が、そもそも双弥にかける想いなど持っていないのだ。

 額に薄く青筋を浮かばせた来夏は、眼球をぎょろりと動かして凪を見据える。

「……あとからできねーなんてほざきやがったら、承知しねーからな」

「誰に口を聞いているでありますか。分をわきまえろ」

 来夏が手を離すと、正常に流れていた血液が外に流れ始めた。純白なシーツが鮮血によってあっという間に一色に染め上げられていく。

 凪は双弥の姿に牙を剥いて鳴らした。双弥がこうなってしまったのは、自分と一葉のせいなのだ。ならば双弥の傷を治すのは自分の役目だ。

「『アリス』、傷を癒すであります」

 来夏や姫路といった『組織』のメンバーを含めた全員が疑問を浮かべた。

 実のところ、凪の素性を知らなかったように、能力のことも誰も知らないのだ。竜を彷彿とさせるそれが能力に関係するものだと考えたこともあったが、やはりなにもかもが不透明だ。

 だから、なにも起こらなかった・・・・・・・・・・ことに、凪以外が反応することができなかった。

「なにをしているでありますか、さっさとお兄様の傷を治せ『アリス』! 聞こえているでありましょう!? 黙っていないないでなんとか答えろ! 『アリス』! 『アリス』!!」

 凪は狂ったように『アリス』という名を叫ぶが、なにも起こらないままだ。

 まさか――と、凪の頬を一筋の汗が流れる。

消失ロストか」

 来夏は底冷えする瞳で言う。

 凪はなにも言わない。能力が消失ロストしたわけではないからだ。凪の能力は特別なため、扱いが難しい。けれど同じ状態になったのと大差はないのだ。結論から言えば、能力は使えないということになる。

「まだだ……。『アリス』! いつまでも黙っているな! いい加減に我輩に従え!」

「もう退いてろよ。てめーじゃなんもできねーよ」

 能力が発動しないとわかってまでやらせるわけにはいかない。来夏は叫び散らす凪の肩を軽く叩き、辛辣に現状を突きつけた。

 悔しさで強く噛みすぎた奥歯が砕ける。戦いでも双弥の足を引っ張ることしかできず、傷を治そうとすれば能力が消失ロストしてしまっている。役たたずもいいところだ。

『組織』のトップなどといっても、能力が使えなければただの人間だ。見渡せばどうしても目に入ってしまう有象無象となにも変わらない。

 ――嫌だ。そんなもの認めてなるものか。なにもできないまま終わっていいはずがない。

「『アリス』――――!!」

「そんな喚き散らしたって仕方ねえだろ。ちょっとくれぇ落ち着けよ、凪」

 懐かしい声に、凪は瞬間的に涙が込み上げてきた。けして優しいというわけではないのに、ただ聞くだけで安心できてしまう声音。しかし一緒に込み上げてくる罪悪感はとても無視できるものではなく、彼を直視することはできなかった。近づいてくる足音に抱きつきたいのに、いますぐ逃げ出したい。

 どう顔向けすればいいかわからない。彼に頭を下げることなく六年もの歳月が経ったいま、どのような顔で向き合えばいいというのだ。

 伏せた視界の端で腕が持ち上がるのが見えて、凪は体を硬直させる。殴られても仕方ないだけのことをしてしまったのだ。彼がそうしたいというなら、甘んじて受けようと思っている。

 しかしやってきたのは痛みではなく、頭を撫でられるくすぐったさだった。

「久しぶりだな。六年ぶりか? 元気そうでなによりだ」

 涙が溢れた。堪えきれなくなった涙は、煌めきながらいくつもの線を残す。

 彼――雨草竜一は困惑したように凪を抱き締めた。

「なに泣いてんだよ。せっかく久しぶりに再会したんだから、子供らしく喜んでくれねぇのかよ」

「だ、誰が貴様のためなんぞに喜ぶでありますか! それに泣いてないであります! これはお兄様が酷い有り様になった、から、で……」

 一時は元気を取り戻したが、状況を思い出してすぐに表情を曇らせた。しばらくは止まりそうになかった涙を無理やり堪え拭い取る。

「竜一、どうしてここにいるのでありますか。お前は我輩のせいで……その、力を失ったはずでありましょう」

「おめぇのせいだとは思っちゃいねえよ。元々おれにはなかったものだったわけだし、それがなくなろうがどうなろうが知ったこっちゃねえわけ。で、なんでここにいんのかって訊かれたら、八雲さんにおめぇらを手助けするように言われたからだ。専門外を専門とする専門家としてな」

 必要なかったみてえだがな、と竜一は付け加える。

「だけどまぁ、九十九んとこの執事と赤獅子が来たときはたまげたもんだ。なんせ、出会い頭に怪我人を治してくれなんて言うもんだからな」

 竜一は首飾りの紐を引きちぎると、

「――エレメントルーツ」

 復元言語を詠い、それをあるべき姿へと還元した。

 手のひらに収まるのは一丁の銃だ。どのような仕組みなのか、水晶のように透き通った銃身は、覗けば反対側の景色が見えるほどで、銃自体の構造が映し出されていなかった。銃のなかで気泡が不規則に暴れている。

 トリガーガードの内側に人差し指を引っ掻け、手のなかで器用に銃を回して弄ぶ。そして回転を止めると持ち直し、銃口を双弥に突きつけた。

「おい竜一、なにをするつもりだ!」

「は? 決まってんだろ」

 持ち直した際に指が銃爪の位置にかけられていた。さらにいまの言葉。竜一がなにをしようとしているか、頭が理解するよりも早く体が理解していた。

 開いていた拳を握り直す。しかしそれだけの動作も竜一の前では遅すぎた。

 すでに銃爪は絞られ、淡い水色の発光体が双弥の体に撃ち込まれていた。それとほぼ同時に凪の拳が竜一の顔面を打ったが、能力の使えないただの少女の拳が効くはずもない。

「竜一! 何故だ、何故お兄様を撃ったでありますか!」

「おれはおめぇらにコイツを治療してくれって頼まれたからしてやっただけなんだが……なんなんだこのアウェイ感。マジパネェなおい」

 凪は弾かれたように撃たれた双弥を見ると、体を包み込むように水の膜が広がっている。血だらけだった肌は本来の色を見せ始め、貫通して空いた穴はビデオテープを巻き戻すが如く塞がっていく。顔色も回復していき、水の膜が弾け飛んだときには双弥は安らかな寝息を立てていた。

「ったくよ、こっちも忙しいってのに駆けつけてやりゃあ殴られるし、少しくれぇ感謝したってバチは当たらねぇだろうが」

「……すまないであります。まさか銃で撃つなどという方法があるとは思っていなかったでありますから。い、痛くないでありますか?」

 瞳をうるうるとさせながら上目遣いで言ってくる凪に、竜一の理性に皹の入る音を聞いた。

「抱き締めてもいいですか?」

「にゃ――!?」

「アホなこと言うてんなや。しかもやったらあんた、私らにロリコンとして見られんで?」

 東雲に言われてより一層増したアウェイ感に気づき、竜一は名残惜しそうに抱き締めるのを諦めた。といっても再会してすぐに抱き締めているのだが、それについては触れない方向で話を進めるようだ。

 咳払いを一つ挟み、仕切り直しを図る。

「改めてというかいまさらなんだが、おめぇらだったんだな。こんな無人島にわざわざ来やがったのは」

「私らはこんな無人島にいやがったんがあんただったんかって言いたいわ。雨草なら、ここでなにが起こっとるかわかってるやろ。六年前に黒衣の侍と・・・・・・・・・共闘して志乃を倒した・・・・・・・・・・銃騎士であるあんた・・・・・・・・・ならな」

 六年前、志乃を倒したのは黒衣の侍――冬道ゆかりともうひとり、白衣の銃騎士がいた。それこそがこの男――雨草竜一なのだ。

「わーってるよ。だからこそ、ここにいんだろうが。つーか忙しいって言ったろうがい。今度こそ志乃をどうにかするために、勇者様を復活させようとしてんだよ」

 揺火と十六夜は言葉の真意がわかったのか、納得したように頷いている。

 問いただそうと口を開こうとするが、島全体を揺るがす振動によって遮られた。バランスを崩し思わず膝をついてしまう面々を差し置いて、竜一は船から顔を出し、そして苦渋にしかめた。

「誰だ志乃とドンパチやってんのは。こんままだと、くそ面倒なことになんぞ畜生めが」

 しかし竜一の視線は遥か上方へと注がれていた。台風の過ぎ去った青空が場違いな晴天を覗かせ、腹立たしい爽やかな風を運んでくる。

 ようやく揺れが収まると、竜一は矢継ぎ早に言う。

「これからやることができちまった。おめぇらは巻き込まれねぇうちにこっから離れろ。――妖怪大戦争をおっぱじめるかもしんねぇからな」

「は、ちょ、竜一!? どういうことやねんそれ!」

 答えるのも面倒だとばかりに無視を決め込んだ竜一は、脇目も振らずに駆け出し、一陣の疾風となって影を小さくさせていった。

 東雲は唖然とする。いきなり現れたかと思えばあっという間にどこかへ行ってしまった。昔から色々なところを駆け回っていたが、それはいまでも変わらないらしい。なんの説明もせずに置いてきぼりにするのも昔のままだ。

 だいたい、ここから離れろと言われたからといって、はいそうですかとおずおずと引き返せるわけがない。

 だが――、

「なんだ、あれ……?」

 その呟きはいったい誰のものだっただろう。誰のものだったからといって大した差はない。どうせ言うことはそれくらいしかないのだ。

 青空を点々とした影が覆っていく。

 竜一の言いたかったことがわかった。たしかにあんなものからは逃げた方が賢明だろう。

 そこで見たのは、空飛ぶ異形の軍勢だった。





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