6―(10)「ミツドモエ④」
反射的だったとはいえ、弾かれたように逃げ出したのは、生物として正解な行動をしただろう。いかに異常に対する耐性があるといっても、あんなものは規格外だし専門外だ。真っ向から挑もうとするなど愚の骨頂、あり得ないことだ。
情けなく悲鳴を上げながら逃げ出したことだって気にしている余裕はない。異能を持っている能力者を化物と例えることかあるが、人間の容姿であるだけまだマシだ。それならまだ余裕があるし、同じ人間だからという安心感がある。だが、本物の化物を前にしたらそんなことを言う余裕などどこにもない。所詮、化物と呼ばれる能力者も本物の『化物』と対峙すれば、こうなるのは当然のことだった。
振り返り、自分たちを追いかけてくる畏敬の怪物の姿を視界に納める。
薄紫色の肌に浮かび上がる、大縄のように盛り上がった筋肉。地を駆ける強靭な四肢には鋭く尖った鉤爪があり、あれに抉られでもすれば絶命は逃れられないだろう。狼のような胴体に取り付けられた三つの頭部は、別々の意思を持っているようだった。隙間から見え隠れする牙には、もはや恐怖しか感じない。
記憶が正しければ、あれはケルベロスと呼ばれる地獄の番犬のはずだ。人間の空想が生み出した架空の生き物。だというのに、どうして現実に存在しているのだ。そんなことを考えている場合ではないとわかっているのだが、どうしても考えずにはいられない。
体格が違いすぎて全力で逃げても、だんだんと距離を縮められていることに背筋が凍るような思いだが、しかしいずれ追いつかれるのはもう覚悟している。そうなれば戦わなくてはならないだろう。まるっきり未知の相手に手探りで戦えるほどの暇は与えてくれないだろうが、やるしかないのだ。せめて洞窟を抜けることができれば、勝機がないわけではない。
それを全員が瞬時に理解したようで、走る速度をさらに上昇させる。距離を離すことはできないが、だんだんと詰められるようなことはギリギリのところで防げていた。あとはいかに早く洞窟を抜けられるかどうかだ。
「来夏! あんたの能力であの化物の足をへし折ったりできないんか!?」
「さっきからやってるっつーの!」
揺火に背負ってもらいながら、来夏はさっきからずっと能力で足を捩り切ろうとしていた。だが強靭すぎる四肢は、それをものともしていない。おかげで体力の消耗が激しく、せっかく回復した視力も落ちつつあった。
舌打ちし、これ以上やるのは無駄だと思った来夏は、別の方向に能力を使うことにした。
回転軸をそこら中に乱立させ、一気に作動させる。すると天井や壁に亀裂が走り、次の瞬間にはケルベロスを押し潰すように洞窟が崩壊した。ガンマの逃げ道を封じたときは地面を割ることができたのだから、これくらいは壊すことくらい苦にはならない。
「やるねぇ。助かったぜ来夏」
姫路も平静を装っているが、顔は蒼白になったままだ。あんなものを見て正気を保っていられるのは、あれ以上の化物を見たことがある来夏くらいのものだろう。だから当たり前な対処をすることも、機転を利かせることもできたのだ。
瓦礫に埋もれたケルベロスが這い出ようと体を動かしている。だが全身が埋まっているのだ。洞窟から脱出するくらいの時間は稼げるだろう。
それを見届けた来夏は、背中から降りようと声を掛けたのだが、揺火は聞こえていないかのようにそのまま走り続けている。
「フラフラなお前に無理をさせて死なれては困る。黙って私の背中にいろ」
「それ、なんてプロポーズだよ」
来夏の軽口に返事ができるほどには余裕を取り戻した面々は、急いで出口を目指す。ほどなくして洞窟を抜けると、ケルベロスが出てこないか確認したあと、安全圏に身を潜めてようやく息を吐き出した。
足から力が抜け、その場にへたれ込んでしまう。痙攣が激しいのは、筋肉の疲れから来るものだけではないことは、言うまでもないことだ。
「なんだったんだよさっきの。化物じゃねぇか」
大粒の汗を流して空を仰ぎ見る姫路は、まるで愚痴を溢すように言った。
それに皆が同感する。散々化物と言ってきたのだが、こうして本物の『化物』と遭遇して尻尾を巻いて逃げ出しているのだから、どうしようもない。
「幻視系の能力かなにかだろうな。でなければ、あのような生物が志乃の拠点にいるとは到底思えん。そもそも存在自体があり得ない」
「おぉ! あんたいたのか黒豆!」
「誰が黒豆だ!」
殴りかからん勢いで怒鳴るガンマに、九重は両手を挙げて降参のポーズになる。いまの九重の軽口のおかげか、空気が軽くなったような気がした。
しかしそれもすぐに影を潜める。顎に手を添えて思案する御神が、ガンマの考えを否定した。
「それはないと思います。個人に対してならばまだしも、複数の場合は同じ幻覚を見せるのは難しい。しかもあれには実態がありました。紛れもない、実在している存在で間違いありません」
「せやけどあり得んやろ。あんな化物が現実にいるか?」
超能力のことを棚に上げているようだが、東雲にはあんな化物が存在しているのが信じられなかった。それはもちろん、実在していることを口にしている御神だって同じだ。
何故いまなのか。どうしてここにいるのか。
これまでのことを総じれば、志乃が能力でなにかをしたという結論に辿り着いてしまう。だが、智香がなにも言っていなかったのが気掛かりだった。ケルベロスのような番犬がいるなら、どこかしらでそのことを口にせずにはいられないはずだ。言わなかったということは、おそらく智香もケルベロスのことを知らなかったのだろう。
話を聞く限りでは志乃は仲間を家族のように思っている。ならば、その家族が危険になるような存在がいることを言わないはずがない。
ならばあれは志乃とは関係がないのだろうか? そうだとしても、ケルベロスがいることには志乃に近づくことも儘ならない。
遠くでケルベロスが雄叫びを上げるのが聞こえた。どうやら瓦礫から抜け出して洞窟を出たらしい。もしケルベロスが嗅覚に優れていれば、この場所もすぐに見つかってしまうだろう。いまのうちに対策を練るしかない。
「もしもこのメンバーであれと戦うとしたら、策もなしに勝つ自信あるか?」
東雲の問いに、誰も頷かない。負けることはないという自信はあるが、勝てるかとなると話は別だ。対策を立てようにも専門外もいいところだ。
なにをどうすればいいのかわからない。超能力が通用するのか。体は一つでも頭は三つなのだから思考は別々で、しかし心臓を潰せば死に至らせることができるのか。
志乃が相手なら超能力という武器があるとわかっているだけ対策もとれるが、ケルベロスについては情報の持ち合わせがなにもない。名前くらいしか知らなかったくらいだ。対策の練りようがない。
「それだったら藍霧に訊けばいいんじゃないですかねー? 聞いた話だと、かしぎくんとあいつって異世界に行ってきたんだろ? もしかしたら、あれのことも知ってるかもしれないし」
「馬鹿馬鹿しい。貴様はそんな情報を信じているのか」
「うっせーぞ黒豆。てめーはすっこんでろ」
ガンマの方を見向きもせず、辛辣な言葉を浴びせる。
「あんなんが目の前にいんだから、異世界に行ったっつーのを信じたっていいだろうが。ダメ元で聞いて情報が手に入んなら万々歳だろーが」
「んー。それもそうだよな。ガンちゃんは頭がカッチカチなんだよ。冷えたご飯粒よりもカッチカチだぜ」
頭の後ろで手を組む姫路は、東雲に訊ねる。
「藍霧真宵に連絡ってとれんの?」
「……まぁ、とれるにはとれるんやけど……」
苦い顔をしながら言い淀む東雲に、姫路は首を傾げる。
純粋に不思議そうにする姫路の瞳に耐えられなかった東雲は、視線を宙にさ迷わせながら、
「私が個人的に嫌や。あいつのこと嫌いなんや」
「姉ちゃん、そりゃあねーぜ……」
さすがの九重でもフォローしきれず、ただただ呆れるしかなかった。
「う、うっさいな! そないなこと言うても藍霧の連絡先なんて知らんし!」
東雲が知っている連絡先など三つほどしかない。そのうちの一つはいまはできないし、もう一つの方も連絡したとしても打開策が見つかるとは思えない。だが最後の一つなら、もしかすると知っているかもしれない。
本当なら電話などしたくはないのだが、命に関わることゆえに形振り構っている暇はない。
携帯電話を取り出してアドレス帳を開き、電話をかける。相手は呼び出し音が繰り返される前に応答した。
『まさか君の方から電話をくれるだなんて思ってもいなかったよ。嬉しい限りだねぇ。どうせならいつものように延々と下らない掛け合いをしたいところだけれど、そんな時間もなさそうだし……さて、僕になにを訊きたいんだい?』
声の主――翔無八雲は相変わらずの神経を逆撫でするような態度で、全てを見透かしたような言動で――しかし、そうだというのに、どこか安心を覚える自分がいた。
「ケルベロスって、知ってるか?」
『ギリシャ神話における冥界の番犬のことかい? それならもちろん知っているとも。それがどうかしたのかい?』
「信じられんと思うけど、そのケルベロスに襲われたんや。せやからどうにかして倒さなあかんのやけど、正直どうすればええかわからん。八雲はなにかケルベロスの弱点とか知らんのか?」
電話越しに八雲の唸る声が聞こえてくる。頼みの綱は八雲しかいないのだ。これで八雲がなにも知らないとなれば、本格的に正面から戦うしかなくなってしまう。
東雲もそうだが、周りの面々も表には出さないが不安でしょうがないのだ。
『まぁ、超能力に広く知られている対策が通じないこともあるように、君が見ているケルベロスに僕が知っていることが効くかはわからないけれど、弱点はあるにはあるよ』
「ホンマか!?」
『ああ。ギリシャ神話には、竪琴の名手が死んだ恋人を追って冥界まで行く話があってね。そのときにケルベロスは竪琴の音色によって眠らされているんだよ。要するに、別々の意識があるケルベロスの動きを封じるには、音楽を聴かせるのが手っ取り早い』
「音楽って……」
こんな無人島では、暴れるケルベロスに聴こえるほどの音量で音楽を流すことなどできるわけがない。そもそもの問題として、誰も音楽に関係する物を持ってきていないだろう。
「他にはないんか?」
『そうだねぇ。ケルベロスは甘いものが好きなんだ。蜂蜜と小麦の粉を練って焼いたお菓子でも与えてやれば、それを食べている間は夢中になってくれるから、倒すことはできなくても意識を逸らすことはできるはずだよ』
またも不可能なことを言われ、東雲は頭を抱えた。
音楽も菓子もこんな無人島でなければ簡単に用意することができるのにと、苛立ちが溜まってくる。
『その様子だとどっちも無理みたいだねぇ。なら僕の憶測でしかないけれど、しかしこうして地上に存在しているのだから、もしかしたら通用するかもしれない手段でいいなら教えてあげるよ』
「なんでもええ。とにかくどうにかできればええんや」
『オーケー。なに、そう難しいことじゃないから安心しなよ。ただケルベロスから逃げなければいいんだ』
「は……? いや、そんなんでええわけないやろ。逃げんかったらやられてまうやろ」
『いいや。ケルベロスは、冥界にやって来る死者の魂にはかなり友好的なんだ。地獄の番犬が貪り食うのは冥界から逃げ出そうとする亡者だけで、ケルベロスが門番をしている場所へ行く分には、おそらく問題はないはずだぜ?』
東雲は黙り込む。八雲を疑うわけではないが、出会い頭に襲われている身としては鵜呑みにしていいことではない。
八雲が言っていることはあくまでも広く知れ渡っていることだ。それが実際に通用するのか確証は持てない。だがこうした弱点が明るみになっていなければ、ケルベロスを含めた妖怪や怪異、悪魔といった類いのものが世界にのさばっていないはずがないだろう。
「……信じてええんやな?」
『もちろんさ。会ってすらいない僕の言うことがそうすんなり受け入れられない気持ちはわかるけれど、しかし他に頼る宛もないんだろう? 大丈夫、もしものときのために保険をかけておくよ。そういう専門外を専門とする専門家にね』
「誰やねん専門家。……なら――お願いします」
向こうで八雲が意地悪く笑っている光景が目の裏に浮かぶようだった。
携帯電話を閉じ、東雲は空を仰ぎ見る。
――やるしか、ないか。
手段がそれしかないのであれば当たって、それで砕けてしまったならそのときにどうすればいいかを考えればいい。――どうせ、失敗すれば犠牲が多くなるか少なくなるかくらいの違いしかないのだ。
「みんな一つ聞くけど、死ぬ覚悟はあるか?」
東雲の質問に全員が顔を見合わせた。
答えはすでに決まっている。
「あるわきゃねーでしょーが。ばっかじゃねーの?」
来夏の返事に全員が頷いた。
予想通りの返事に苦笑しかなかったが、生きて帰るという意思表明が聞けて安心した東雲は、いまあった会話を話すことにした。
洞窟に戻ると、東雲たちを捕捉しきれなかったケルベロスが佇んでいた。どうやら能力者に対するセオリーは、本能で動く獣にも通用したようだ。
威嚇するように喉を鳴らすケルベロスだが、八雲の言った通り、逃げ出そうとしなければ襲ってくる様子はなかった。とはいえ油断はできない。気を許したところで一気に襲われるなど笑えない冗談だ。
品定めするように見つめていたケルベロスは、やがて体を転換させて奥へと進み始めた。
「おぉ……マジで道案内してくれるのかよ」
「これじゃなんのために逃げたのかわかりませんねー」
さっきまでの怯えた様子はどこへ行ったのだろう。九重と来夏は率先してケルベロスの後ろをついていく。
「だが、こいつはいったいなんなんだ?」
ガンマはやや後ろをついて歩きながら呟く。
「せやな。こいつが志乃が能力で作ったもんやないんなら、こないな生き物がいるんはおかしいっちゅう話や」
志乃がケルベロスのような生き物を作り出せるならば、わざわざ『吸血鬼』の眷族を使役する必要はなかった。ケルベロスが一体いれば、眷族の戦力を集めずとも能力者を制圧することは容易かったはずだ。ここにいる戦力が太刀打ちできないと瞬時に判断するくらいなのだ。おそらくまともに戦える能力者はいないだろう。
しかし、だとすればケルベロスはどこから現れたのか。よく考えてみると、志乃が従えているわけではないのだから、ケルベロスがそこまで連れていってくれるとは思えない。けれどケルベロスが門番をしている場所――つまりケルベロスがやってきた冥界へ辿り着くことはできるのではないだろうか。
冥界がどのようなところなのか。もしかしたら、冬道や藍霧が召還された異世界に繋がっていることも可能性としてなくはないだろう。
追求したいところではあるが、いまはそれどころではない。もし本当にケルベロスが冥界への案内をしているのであれば、戦わなくてはならなくなるだろう。東雲としては避けたいところだ。
「ん? この穴はなんだ?」
揺火が見た先には、重機でも突撃したような穴が空いていた。洞窟の位置からしても、目印としていた爆発があった地点と見て間違いはないだろう。
「まさか……」
「そのまさかでしょうね。ここに凪がやってきた」
「凪は相変わらずムチャクチャやってんなー。それくらいじゃなきゃ『組織』のトップは務まらねぇってのか、それとも子供ゆえの行動なのかは、正直アタシにはわっかんねぇけど」
興味なさげに姫路が相づちを打ったときのことだ。
先導していたケルベロスが、不意に鬣を逆立てながら虚空を見て唸った。鬣を逆立て、明らかな戦闘態勢に入ったケルベロスに緊張が駆け抜けた。
眼球だけを忙しなく移動させ、肌に触れる空気の感覚を神経を研ぎ澄ませて感じとる。わずかに痺れるものがある。どこか遠くで激しい戦闘が行われている証拠だ。
だが集中しなければわからないほどであり、まだ警戒するほどのものではない。ケルベロスが威嚇しなければ気づきもしなかったほど小さいのだ。けれどケルベロスが本能的にそうしたのならば、自分の感覚を頼るよりも正確かもしれない。
そして、衝撃は不意に訪れた。
ケルベロスが横から叩かれたように山なりになりながら、壁に吹き飛ばされたのだ。
突然のことに思考が停止しかけるが、そう何度も止まってなどいられない。
ケルベロスの巨体が衝撃で吹き飛ばされた。それは先ほどの衝撃がとんでもない威力を誇っているということに他ならない。生身で受けようものなら、下手をすれば即死もあり得る。
東雲は胸の奥から込み上げる恐怖を押し込め顔を持ち上げると、すぐそこに人影が迫っていた。反射的に殴り飛ばさず、受け止めたのは正解だっただろう。
「双弥……!? おいしっかりせぇや!」
腕のなかに収まった人影――双弥は虫の息だった。体の至るところから血が溢れ出ており、露出している肌は真っ赤に染め上げられていた。かろうじて意識は繋いでいるようだが、とても話せるような状態ではない。
どうした、などと聞くつもりはない。双弥がここまでの重傷を負う原因など一つしかない。
「いつの間にか鼠が増えておるのう。まぁよい。烏合の衆がいくら集まろうと妾にとって大したことではない」
瑠璃色の双眸がより凶悪さを増した威圧で見下ろしている。両手にはぐったりした二人の少女――凪と一葉が、物でも扱うように掴まれていた。
双弥ほど傷を負ってはいないようだが、おそらく彼が二人を庇っていたからだろう。でなければ相手が志乃とはいえ、双弥がこうも一方的にやられるわけがない。
「それとそこの奇妙な犬はなんだ。もしやそちらのペットであったか? ならば申し訳ないのう。目障りであったからついつい殴り飛ばしてしまったぞ」
東雲はぞっとする。志乃からは屋敷で会ったほどの余裕が感じられないというのに、あの巨体をただ殴っただけで吹き飛ばしたのだ。いくらなんでもでたらめすぎる。
「……ん? ああ、この二人か?」
少女を掴んだ志乃の両手が持ち上がる。
「欲しいならばくれてやる。しかと受け止めるがよい」
志乃が上げていた腕を振り下ろした。砲弾を連想させるような勢いで投げ飛ばされた一葉を東雲が、凪を御神が地面にぶつかるギリギリのところで受け止めた。
しかし勢いは弱まることなく全身を叩き、壁にぶつかることでようやく止まることができた。苦悶に顔を歪めるが、すぐに持ち直す。
――どうする……?
東雲は迷っていた。一葉を助けることができたのはいいが、どうやって志乃を撒いたらいいのだ。倒すのが最終目的とはいえ、言い方は悪いが足手まといがいては形勢の不利さに拍車をかけることになる。たとえ一葉たちがいなくとも勝ち目は皆無に等しいが、数で押しきればあるいはということもある得る。
志乃は連戦で力を消耗している。いかに能力が強力であろうと使うのが人の身であるならば、必ず限界は訪れるはずだ。逃しても次があるというわけではないのだ。好機があればすかさず攻め入る。
――せやけど、双弥も一葉もほっとくわけには……。
双弥はすぐに処置を施さねば命に関わるほど重傷だ。戦わずに逃げるという選択をしたとしても、志乃が逃がしてくれるわけがない。
唇を噛む。たった一つの要因が戦況を大きく左右するとは思わなかった。
「どうした、仕掛けてこないのかのう? ならば妾が先手を取ってもよいのだな?」
志乃が手を翳した。暗い洞窟を照らすように雷が球状に収束していく。ある一定まで大きくなると、さらに形状に変化が起こる。翳した腕を覆うように雷が形を変え、数秒としないうちに完成した。
銃身の長い砲撃銃とでも言うべきだろうか。見たことのない独特な形をするそれが向けられる。銃を形作る雷から、さらに威力を凝縮した雷弾が放たれるのだ。おそらく着弾範囲はここを中心に数キロに及ぶだろう。
「そうはさせない!」
志乃の胸から腕が生えた。咳き込むように血を吐き出すと、雷撃砲を構えたまま首だけを後ろに回す。
「智香、先も言ったであろう? 妾の邪魔はするなと」
肘で智香の鳩尾を打ち上げる。息を詰まらせた隙を狙って腕からすり抜けると、腰の捻りを加えた蹴りで智香を打ち落とした。
滝のように流れる血は、『吸血鬼』の回復力によって地面に落ちる前に溶けるように消えていく。傷もあっという間に閉じ、志乃は喉の奥に残った血の塊を飲み下す。
「待たせたのう。では、これで終わりだ」
高熱と暴風が満ちる。台風のように渦を巻いて肥大化していく雷は、いよいよもって発射寸前まで迫っていた。
この狭い洞窟内ではどうやっても後ろにしか逃げ道はない。しかし直線で放たれる雷から真っ直ぐに後退したとしても、音速を超える速さから逃げ切れるわけがない。壁を壊すという手があるにはあるが、一撃でどうにかなる厚さではない。せめて数発は必要だ。
心のどこかで事を甘く考えていたのかもしれない。きっとどうにかなると、どうにかできると思っていた。けれど、絶対を前にはなにもかもが無意味だったのだ。
志乃を倒すなど夢のまた夢だった、ということだ。
東雲は諦めたように目を伏せるが、前に出る足音を聞きすぐに顔を上げた。
「姉ちゃんたち、一葉ちゃんと双弥を連れて逃げてくれ」
九重は抜刀し、正眼に構える。
「なっ!? バカ言うな! そないなことできるわけ……」
「いいから! 早く逃げろって言ってるんだ! いまは四の五の言ってる場合じゃないだろ!」
めったに怒鳴ることのない九重の切羽詰まった剣幕に、東雲は思わずびくりと震えた。
「このままじゃ全員死んじまうだろ! 姉ちゃんたちは先に逃げてくれ!」
たしかに九重の言う通りだが、だからといって見捨てるような真似はしたくなかった。防御に集中すれば雷も防ぐことができるかもしれないが、氷では相性が悪すぎる。東雲たちは無事に逃げられるかもしれないが、九重はただでは済まないだろう。
「姫路さんとガンマも凪を連れていますぐに逃げてください。ここは僕たちがなんとかします」
「おう、任せたぜ。逃げるぞガンちゃん!」
姫路は凪を担ぐと、頷いたガンマと共に踵を返す。
一切の躊躇のない決断に東雲は正気を疑ったが、こうするのが最良なのかもしれない。残っていたってなにかができるわけではないのだ。九重も逃げろと言った以上、無策ということはないだろう。
「行くぞ東雲。九重に任せるんだ」
「……わかったわ。――九重、死ぬなよ」
フラグ建てんなよ、と九重は笑いながら親指を立てて承諾の意を見せる。言われずとも、元より死ぬつもりなど毛頭ない。
東雲たちの足音が遠ざかっていくのを確認すると、いままで撃つのを待ってくれていた志乃に話しかける。
「別に待ってくれなくても、撃ってよかったんだぜ?」
「安心せい。ヒーローが変身している間に攻撃しないという知識くらいは身につけておる。ここで逃がそうが逃がすまいが、同じ結果になるのだ。わざわざ追うこともあるまい」
雷の収束がいつの間にか止まっていた。あまりの高熱に眼球の水分が蒸発していく。大気中の水分も同じように蒸発しているため、上手く氷を作ることができない。
九重は逃げ出したくなる衝動をねじ伏せ、御神に問う。
「なぁなぁ、あれ、防ぐ方法とかあったりしねぇ?」
「あったら苦労しません。むしろ、最初に残ると言ったあなたに策がないことが驚きですよ」
「そりゃあこの場に残ったあんたも同じだぜ? ――まっ、策がないってわけじゃねぇよ。とっておきの、文字通り命懸けの一手が残ってるさ」
右眼を隠す眼帯に手をかけると、一気に剥ぎ取る。
「消し飛べ」
雷が放たれる。
開かれた九重の右眼が、雷を捉えた。