6―(9)「ミツドモエ③」
特定した志乃の居場所は、京都どころか国内ですらなかった。日本から遠く離れた名前もなく、人も住んでいない小さな島。いわゆる無人島が志乃の拠点だった。
送られてきたデータも司が独自にまとめたもののようで、どこからどう行けば一番早いのか、最短ルートまで印されていた。早ければ一時間もあればつくほどの距離ではあるが、この台風で船を出すところなどあるわけがない。なので急遽『九十九』を経由して船を用意したため、出遅れてしまっていた。
皆が移動時間に苛立っていたが、それもあと少しだ。視線の先には、無人島が見えてきている。
船の運転をする十六夜は、東雲が先行して飛び出すと思っていたのだが、以外にも大人しくしていた。
いや、大人しくしているというより、溜め込んでいるとでも言うべきだろう。ガントレットを嵌めてすでに臨戦態勢の東雲の後ろ姿からは、漏れ出すほどの凄まじい殺気が発せられている。
殺気とは実力が高い者であればあるほど抑えられるものだ。殺気を撒き散らして威嚇する相手は、大抵が実力のない能力者だと十六夜は思っている。
唯一の例外として『組織』の小さな竜が上げられるが、あれは有り余る殺気をあえて全面に押し出しているのだ。わざと殺気を放ち、戦意を喪失させるための策だ。
だが、いまの東雲はそのどちらでもない。一葉を助けたいという気持ちと志乃を倒したいという闘気、そして単純に実力が上の能力者と戦ってみたいという好奇心が複雑に絡み合った結果がこれなのだ。
東雲の執事を勤めてきた十六夜でも、あんな姿を見たのは初めてだ。
そして、十六夜の予想に反して最初に我慢の限界に達したのは来夏だった。
「だぁーっ! もう待ってられないっつーの!」
空に向かって吠えると、足をたたんでロケットスタートの体勢をとる。周りの空間が不透明に歪み、来夏の体を宙へと持ち上げた。
そして宙を蹴って飛び出そうとした――のだが、そんな来夏の背中に、九重が飛び乗ってきた。
まさか九重が乗ってくるとは思わず、しかも能力の使いすぎによる失明が戻ったばかりだから出力を軽めにしていたため、飛び出した直後に来夏の体が床に叩きつけられた。
「殺す」
どうやら落ちたとき強かにぶつけていたようで、起き上がった来夏の額が赤くなっていた。さらにそれに反発するように浮き上がる青筋が、怒りの大きさをわかりやすく示していた。
すでに能力の矛先は九重に向いており、発動した念動力が腕を捻り切ろうとしている。
「わお! リアクションもなしかよ来夏ちゃん!」
九重はひょいひょいと跳んで念動力をかわしていく。
「リアクション? うっせーよ。邪魔すんな」
まるで九重が敵であるかのような来夏の態度から察するに、キレているのは東雲だけではないようだ。
周りから水柱が吹き出し、その先端が槍状になって九重に襲いかかる。その水柱は一本ではない。一本がいくつもに枝分かれし、四方から急所ばかりに伸びていく。
いくらなんでもやりすぎだと見かねた東雲と揺火は、同じタイミングで炎を灯らせ、投げつけようとする。だが九重が刀に手を添えた瞬間、その必要はないのだと無言で伝えられ、とりあえずもしものときのために炎を灯らせたまま事を見守ることにした。
抜刀された刀が水柱を切り裂く。切断面から水柱が凍りついていき、完全に氷に覆われると、礫となって頭上に降り注いだ。
「怒るのはいい。八つ当たりするのだって構わない。だけど、無茶するのはやめてくれ。こっから先はなにがあるかわからないんだ」
誰かが悲しむのはもう嫌なんだ――。
普段、真面目になることが少ない九重にそんな風に言われてしまうと、どうも調子が狂ってしまう。たぎっていた怒りが急速に薄れていくのを感じ、来夏は能力を止める。
九重に悟られないように背後に礫の銃弾を用意していたのだが、無駄になってしまった。
「つーか、一番役立たずだったてめーに言われたくねーんですけど? 『九十九』最強の肩書きはいったいどこに行っちまったんですかねー」
「おぉ……痛いとこ突いてくるな来夏ちゃん……。クリーンヒットだぜ……」
胸を押さえる仕草をしておどける九重だが、内心ではそのことをずっと気にしていたのだ。
九重は守ると言いながら、なにも守ることのできていない自分に憤りを感じている。役立たずと言われたって仕方ないと思っている。
短い間とはいえ一緒にいた来夏にはそれがわかってしまい、やってしまったなと苦い顔をしながら頭を掻く。基本的に来夏は慰めるのが苦手なのだ。
「あー」だとか「うー」だとか唸った末、来夏は言う。
「今度おっぱい揉ませてやるから元気出せ」
「マジで!? やっほーい!」
「うわぁ……男って単純だわ……」
来夏の呟きにもっともだと思った東雲や揺火は正解だろう。いや、あれだけで復活するのは九重だけかもしれないが、なにはともあれ、元気になってなによりだ。
そうこうしている間に、目的地に到着した。
「皆様、ここではなにが起こるかわかりませんゆえ、お気をつけてください」
「おう、わかってるわ。十六夜はちゃんとそこで留守番しとくんやでー」
ひらひらと手を振って船を降りた東雲は、無人島にあるはずのない痕跡を見つけた。遅れて揺火たちもそれに気づいたようで、訝しげにしながら近づく。
「焚火……だな」
燃えて灰となった薪があり、明らかに人がいたという痕跡を残していた。だがここは無人島のはずだ。まさか志乃が焚火などするはずがない。そうなると、志乃以外の誰かがこの島にいるということだ。
焚火の周りにある足跡は島の外周に沿って奥に続いている。大きさの違うものが二つずつ三組あるということは、少なくとも関係のない人間が三人ほどいることになる。
しかしおかしい。こんな台風のときに、地図にも載らないような小島にやってくるのだろうか。探せば見つかるのかもしれないが、上陸した跡やここまでやってきた船がどこにもない。
もしかしたら、夏期休暇でも利用して遊びに来たのかもしれない。志乃の目的はあくまでも能力者の抹殺だ。いくら志乃でも無関係な人間を襲うようなことはしないだろう。
だからといって気にならないわけではない。間違いなくこの島に戦火が吹き荒れることになるのだ。巻き込まれでもすれば、そちらに割く意識になどどこにもない。
「十六夜、留守番してて言うたところで悪いんやけど、もしかしたらここに誰かがいるのかもしれん。探して避難さしといてくれんか?」
「わかりました。それと九重様」
船から降りた十六夜の視線が九重へと向けられた。
「先ほどは申しませんでしたが、右眼の使用はなるべく控えてください。命に関わることですから」
眼帯の奥で九重の右眼が疼いた。余計な発言をしてくれた十六夜を珍しく憎々しげに睨み、やがて視界から外す。言われてしまったことは仕方ないし、いつまでも気にしていてもモチベーションが落ちるだけだ。
刀を鳴らして背を向けると、九重はさっさと先に行ってしまった。
「九重の右眼って、ただ見えないだけと違うんか?」
実のところ、『九十九』の能力者は、九重がどうして眼帯をしているのか知らなかった。ずいぶん昔になにかあったというのを聞いたことがあるだけで、その理由を知るのは『九十九』でもごくわずかしかいない。
先代の『九十九』の当主の時代にそれは起こったらしいのだが、その頃は東雲も揺火も箱入り娘のように大事にされ、それぞれの家から出たことがなく、知るに知れなかった。十六夜はすでに九重の執事として側にいたため、嫌でも関わらざるを得なかったのだ。
右眼の事情を知っている者に聞いて回ったこともあるが、揃いも揃って口を閉ざし、誰もそのことに触れようとしない。唯一わかったのは、事件を納めることができたのは先代当主がいたからであり、それを経て九重が『九十九』最強と呼ばれるようになったということだ。
だが、東雲は九重と戦ったとしても負ける気がしない。
最強などといっても能力は『氷』を操るというものであり、スタイルは刀を扱う白兵戦だ。かの元勇者と同じスタイルで、戦ったことのある東雲の感想としては、確実にそちらの方が勝っているというものだ。
東雲が戦ってからそれほど時間は経っていないにも関わらず、いま戦ってあのときと同じ結果がだせるのかと問われれば、首を横に振るしかないだろう。
九重にはそれがない。だというのに先代当主を手こずらせて、最強の称号を手に入れたとは思えないのだ。
それが右眼に関係しているのであれば、たかが眼帯で塞いでいるだけのものでどうにかなってしまうほど、強力だということなのだろう。
「ちゃんと見えていると思いますよ。いえ――見えすぎていると思います」
「もうちょいわかりやすく」
「わたくしには九重様の世界がどのように見えているかわかりませんゆえ、こう言うほかございません」
これ以上追求したところで、絞れることはないだろう。
十六夜がわかりにくい言い回しをするのはいつもだが、それでも、どの程度までが言えることなのかは言葉の端々から伺える。
見えすぎるというのがどういうことなのか、十六夜が言うように同じ世界を見ていない東雲にもわからない。ただひとつ言えるのは、九重が自分の世界に入ることは死に繋がるということだ。
手を抜いて勝てるような相手ではないとわかっているが、結果的に九重がいなくなってしまうのでは元も子もない。
犠牲を出すことなく目的を達するというのは、所詮は理想でしかないのかもしれない。だが、その理想を追い求めるのが人間という生き物だ。
「ようは使わせなかったらええだけなんやろ。だったら心配すんやな。私が絶対に使わせん」
行くで、と東雲は先に行った九重を追いかける。
やれやれと言いたげに肩をすくめた来夏と揺火も、遅れて二人を後ろを追い始めた。
すぐに合流した四人は、迷うことのない足取りで目的地を一直線に目指す。小さな島とはいえ、たった四人で人ひとりを見つけるのは困難だ。
しかし、大まかな居場所だけは船上にいたときから把握することができた。
移動している最中のこと、まだ大分距離にも関わらず、思わず耳を塞ぎたくなるような爆撃音が聞こえてきたのだ。反射的に振り向くと、煙のようなものが空へと昇っていくのを見つけた。
最初は誰かが交戦しているのかと思ったが、それにしては派手すぎだ。空気を振動させて伝わってくるはずの戦いの余波もない。おそらく自分たちとは別に、島に乗り込んだ人間がいるのだろうと判断した。
正直ありがたかった。乗り込んだということは、少なくとも自分たちと同じ目的を持っているということだ。
『九十九』以外の能力者がいてくれるのは戦力の向上になるし、なによりも心に余裕が生まれる。自分たちの能力は通用しないかもしれないが、外部の能力者ならばもしかしたらということがある。倒すことができないにしろ、動けないようにすることが求められているのだ。戦力は多いに越したことはない。
「道はこっちで合ってる……はずだよな姉ちゃん」
「たぶんな」
「おそらく」
同時に言ってしまい、揺火と東雲は顔を見合わせる。こんな状況でなければ苦笑の一つでも溢したかもしれないが、いまはそんな気になれなかった。
九重の狙いはまさにそれだったのだが、重苦しい空気を打破するまでには至らなかったようだ。
揺火はもとより、東雲もこんなときにふざけるような性格はしていない。いい意味で真っ直ぐである彼女たちは、その状況に即した最も正確な答えを実行してしまう。だからこんなにも張り詰めているのだ。
「ただの堅物と実は堅物に通用するわけないでしょーに」
隣で来夏が小声で話しかける。
「むむむ……なら俺のとっておきのギャグで……」
「やめとけっつーの。次は燃やされても知らねーぞ」
いつもならここで九重に乗っかって夫婦漫才でも繰り広げるところだが、やはり状況が状況なだけにそんな気分にはなれなかった。
ここは敵の本拠地で、いつ襲われてもおかしくない立場に立たされている。気を抜いて隙を射たれたのでは話にならない。志乃の性格からすればそれはほぼないだろうが、それ以外がそうとは限らないのだ。警戒を怠ることはできなかった。
しばらく無言のまま歩いていると、草木を斬り捨てながら先頭を進んでいた九重が、不意に片手を上げて制止を促し足を止めた。
「どうした、なにかあったのか?」
揺火が奥を睨み付けている九重に問いかける。
「近くに、誰かいるぞ」
それだけで全員の脳裏に、警戒のアラートがけたたましく鳴り響いた。
辺りの気配を探ってみると九重の言ったように、誰かが身を潜めていた。あちらも九重たちに気づいているようで、気配を隠すことはせず、敵意を剥き出しにしていた。
こんなところで出会うのだから、必然的に敵だと判断してしまうだろう。こちらも戦闘態勢に入り、いつでも動けるように構える。
「三人か。数の上ではこっちが上回ってる。普通にやれば負けねーだろ」
来夏の言葉に無言で頷き、辺りへの警戒を高める。
向こうはずいぶん前から九重たちに気づいていたようだ。その証拠に陣形を作るのも早く、すでにあちらの間合いに捉えられている。
数的に有利だといってもこう視界が悪く、尚且つ不意打ちでもされれば一気に攻め込まれてしまうだろう。なにせこの寄せ集めに近いパーティーでは連携など皆無に等しい。せいぜい九重と揺火の間でコンビネーションを取ることができるくらいだ。
東雲は『九十九』から長い間離れていたし、来夏など端から協力する気など欠片ほどもない。
個性が強すぎるというのは自己の主張が激しいということでもあり、それらが反発することなく混ざり合うのはごく稀だ。各々が自分がなんとかするという思考を持っているために、ここで連携を組むのは難しくなっている。
「来たでェ!」
叫んだ東雲は三人の前に飛び出すと、炎を壁状に放出した。同時に周りの草木が細かく切り刻まれ、視界が一気に開けた。切断系の能力なのか、炎の壁をすり抜けて東雲の体を切り裂いていく。
鋭利な痛みに顔をしかめながら、東雲は繰り返される攻撃への防御に意識を巡らせる。
「姉ちゃん! いま助け――」
「九重! 上だ!」
弾かれるように空を仰ぐと、太陽に被さるように誰かが落下してくるのを捉えた。とっさに身を退こうとするも、それでは東雲の背中ががら空きになってしまう。そうなっては防御に専念している東雲に凌ぐすべはない。
九重は刀を抜き放つと、上段に振り払う。その軌道に沿って形成された氷の弾丸を、全く同じ軌跡を描いて振り抜かれた刀身が影に向かって叩き上げた。それと一緒に、九重は地面を蹴って飛び上がる。
影は氷柱を叩き落とそうとしているのか、空中で拳を構えている。しかし、そうあっさりとやらせたりはしない。
急に氷柱の軌道が不規則に動き出す。来夏の念動力によって道を開けるように双方に分かれた氷柱は、左右からそいつを挟み込まんとする。
逃げ場のない三方向からの攻撃だが、焦った様子は見受けられない。まるで最初から氷柱など眼中になかったような動きに、逆に九重が動揺した。しかしそれも一瞬のこと、九重しか狙っていないのなら好都合だ。
刀を振り抜く動作をしながら、受け流す構えを作る。
「――そりゃあだめだろ」
声を聞いて初めてそいつが女であることがわかった。弾み具合からして、その女の口元に笑みが浮かんでいるだろうことが推測できる。
「いつなんどき策が崩れるかわかんねぇんだぜ? 守りなんてくだんねぇことすんなよ。――そうだよなァ! ガンちゃん!」
「……っ!」
九重は直感的に危険を感じて構えを切り替えようとするが、お互いの距離が詰まりすぎていて間に合わない。
そして九重の直感は的中することになる。女の左右から迫っていた氷柱が目に見えぬなにかによって一つ残らず粉砕され、粒子となって降り注いだ。それは九重が唯一視覚を確保できる目に入り、反射的に瞼を閉じてしまう。――その瞬間に衝撃は訪れた。
焦りのために構えが曖昧になっていた九重は衝撃を防ぎきることができず、地面に叩き落とされた。刀身を震わせて腕に伝えてきた衝撃は感覚を一時的に奪い、九重の選択肢を奪っていた。
苦悶に顔を歪ませる九重に追い打ちとばかりに女が踵を降り下ろしてくる。
嘗められたものだと九重は思う。足を振り上げて踵を振り落とすまでの行動は、九重にしてみれば駒送りにでもしているようにゆっくりに見えた。
体勢を持ち直すと氷で小さな足場を作る。それは少し力を込めるだけで崩れてしまうが、しかしそれだけで十分だった。持ち上げた体を動かして一瞬にして背後を奪った九重は、刃ではなく峰の方で斬りつけた。
峰は女を捉えたが、結果は痛み分けに終わる。女は攻撃が外れたとするや、そのまま体を回転させて振り上げへと動きを変えたのだ。爪先が肩を貫き、女から距離が開くと同時に地面を転がった。
わずか数秒で行われた攻防で、相手がどの程度の力を有しているかを大体把握することができた。個人の実力はおそらく九重や東雲が上回っているだろうが、連携を組まれると話にならない。いくら個人の実力で勝っていようと、これでは先の展開が目に見えている。
敵戦力の三人目が見当たらないのも気になる。正確に全ての氷柱を撃ち落とすくらいなのだから、目の届く範囲にいつもおかしくはない。だが視認できる位置にいるのは九重が痛み分けした女と、最初に仕掛けてきた男だけだ。これだけ視界が開け、しかも気配を探ったときは近くにいたのだ。必ずどこかにいるはずだ。
「よそ見たァ、ずいぶん余裕あるんじゃねぇか?」
足の裏にバネでも仕掛けているのではないかと疑った。声が聞こえたときはまだ遠くにあったのに、振り返ってみれば女の拳が眼前に迫っていたのだ。少なくとも一歩や二歩では埋められるような距離ではなかった。女の能力はまだ未知数だ。いままでの状況から分析すれば、肉体強化の類いに近いが――いや、考えるのはあとでいい。
腕を交差させて拳撃を受け止める。トラックに突っ込まれたような衝撃が全身を叩き、耐えきれず地面に二本の線を刻みながら後ろに引き摺られていく。かろうじて体勢を維持してはいるが、続く女の追撃がそれを許そうとしてくれない。放たれた拳撃を確実に防いでいくが、防ぐがゆえに攻撃に転ずる手段がなくなっていく。
九重も女の狙いはわかっている。こうしてわざと防ぐことができる甘いところを叩き、腕を使い物にならなくしようとしているのだ。仮にそうならなかったとしても、これだけの一撃をまともに受ければ立ち上がることすら困難だ。
どうにか逃げようと試みるが、甘いところに打っているくせに逃げ道が全て封じられている。このままではいつか体力が尽きてしまう。そうなる前に流れを変える。
能力を全力放射し、辺り一面を氷原へと変化させた。
「凍らせてなにがしたいうおっ!?」
「これがしたい!」
表面が滑りやすい氷の上では踏ん張りが効かない。超高速での移動は足場がしっかりして初めて成立するのだ。氷上での動きになれていないのなら、いきなりトップスピードに乗るなど自殺行為に等しい。案の定、女は足を滑らせて体勢を崩し、自身の速度が仇となって修正不可能な隙を見せていた。
逆に九重は体勢を万全にまで立て直すことができたが少し遅かった。痺れて腕の感覚がなくなっていたのだ。惜しむことなく後退した九重は、腫れ上がった腕を冷却する。
同じように交代してきた東雲と背中合わせに、ようやく敵の姿を観察する。
「なんや思ってたのと違うな。『吸血鬼』の眷属やから目ェ赤い思ってたんやけど、あいつら、全っ然赤くないで? 新種なんかな?」
「おいおい姉ちゃん、そんなふうに思ってたのかよ! 俺も思ってたけどね! きゃは!」
「キモいからやめろやきゃは。あいつらより先にあんたのことぶっとばすで」
呆れ顔で呟いた東雲は、すぐに神妙な顔つきになる。
「とりあえず目の前の敵の相手やな。もう一人は揺火と来夏がなんとかするはずやからな」
そういえば三つほど気配が遠ざかっていた。内の二つが揺火と来夏であるならば、必然的に残りの一つは敵側の能力者だろう。
あの二人に追わせるのは九重ですらも心配だが、連携を組まれる心配がなるなら足を引っ張り合わなすぎる限り問題はない……と信じたい。正直私生活での二人の姿を知っているだけに、反発しないとは言い切れないのだ。
「姉ちゃん、敵はどんなタイプ?」
「なんか見えない刃を使うタイプや。そっちは?」
「鉄拳制裁タイプ。姉ちゃんみたいんだよ」
『…………』
無言で顔を見合わせると反転し、お互いに戦っていた相手を入れ換える。同じタイプ同士で戦った方が都合がいい。弱点を知り知られる状態になるわけだが、その分経験や実力が重要になってくる。その点においては九重や東雲に勝る者は少ないだろう。
相手が入れ替わったにも関わらず焦る素振りの見せない男を間合いに捉え、刀で薙ぎ払う。
東雲は男が刃を使うと言っていたが、それは能力のことだろう。手には武器はない。剣を打ち合う間合いで男が腕を振り上げる。やはりかと確証を得たが、しかしおかしい。すでに衝撃が来てもいいはずなのに、未だに衝撃が来ないのだ。その理由はすぐに知ることになる。
「――っ!?」
とっさに顔を動かすと、そのすぐ真横を風が打ち上がっていった。余波で頬を縦一線に赤い血が流れる。
跳ねるように飛んで距離を稼ぎ、九重は息を吐いた。
「なるほど風の刃ね。そりゃあ東雲姉ちゃんが手こずるはずだよ」
流れてきた血を舐め取ると、九重は氷原を作り出した。
開けた場所とは違い、見渡しも足場も悪い草木のなかでは追いつこうにも追いつくことができなかった。
どんな手品を使っているのか、来夏と揺火が追いかけている男との距離は開いていくばかりだ。来夏が言うには単純に運動能力で走っているだけらしいが、そうならばもう少しスピードを上げたいところだ。しかし来夏をひとりにするわけにもいかず、見失わないようにするのが精一杯だった。
ちらりと来夏の方に視線を向ければ、走って掻いたものではないであろう汗が滝のように流れていた。息も荒く、足取りも真っ直ぐしていない。そこで揺火は彼女がどんな状態になっているのか察した。
来夏の腕を引いて体を持ち上げると、そのまま背負う。
「なに、やってんですかねー……」
「気づいてやれなくて悪かったな。お前が弾いてくれていたものが、私にもやっと視えた」
揺火は炎の膜を薄く放出し、いままで来夏が防いでくれていた不可視の攻撃を受け止める。
「そんなんは別にいいけど、私を背負って走ったらもっと遅くなると思うんですけどねー」
「心配するな。ほとんど重さを感じないほど軽いお前を背負っても、いままでの倍のスピードで走れる。来夏は振り落とされないように捕まっておけ」
「あいわかった」
来夏が首に手を、腰に足を回してしっかり捕まったのを確認すると、揺火は全身から炎を噴き出した。それは獣を形取っていき、双弥が命名したものでいうなら炎獅子モードを発動する。足の鉤爪で地面を抉り、前傾の姿勢で距離を縮めていく。
走る負担がなくなったことで、来夏は攻撃を防ぐだけでなく反撃する余裕も生まれていた。明らかに能力の持続時間が短くなっているが、後先考えるのは面倒だ。なるようになればいい。
二つの違う回転をする軸を作り、それらを同時に回す。地震のように揺れたのち、男の進行方向である地割れが起こった。
規模の大きさに男だけでなく揺火も驚きを隠せなかったが、この隙に一気に片をつける。
頭を飛び越えるようにして男の前に回り込むと、勢いを抱えたまま炎爪を肩から腰にかけて斜めに振り落とす。男は飛び退いてかわすも、揺火は息をつく間を与えない。即座に離された距離を埋め直し、鬼神ごとき猛攻で男を追い詰めていく。
来夏も加勢しようとするが、能力の精度が落ちているいま、細かい攻防に割り込むのは危険だ。下手をすれば揺火を巻き込んでしまうかもしれない。
「さて、どうしましょうかねー」
来夏は暢気にしながら、男の観察をする。さっきから使っている不可視の攻撃は、男の能力であることは言うまでもない。しかし条件でもあるのか、揺火に防戦一方となっているだけだ。
そういえば、ふと来夏は思った。逃げているときの男の姿勢は独特なものだった。腕を後ろに投げ出し、指をこちらに向けるようにして走っていたのだ。あんな姿勢でよく早く走れるものだと思っていたが、あれが能力に関係しているのではないだろうか。
さらに集中して見ると、男は防ぐなかで揺火に指を突きつけようとしている場面が多々見受けられた。揺火の猛攻が激しく狙いが定まっていないが、不可視の攻撃がされていないわけではない。指を向けた直線上にある大木に穴が空いたり、地面が抉れたりしている。
「なるほどねー。そういうことか」
そうすれば男の走る速さにも納得がいく。炎の推進力と同じようなことをしていたのだから、速くて当然だ。
そしてネタの明かされた能力など、恐れることはない。
「揺火さん、そいつの指だけには気を付けるよーに」
来夏の言葉を聞いて男が苦々しげに舌打ちする。そのとき意識がわずかに来夏に向き、そしてそれを見逃すほど揺火は優しい性格はしていなかった。
膝蹴りが男の腹部を打ち抜く。肺から空気が押し出され擬似的な過呼吸に陥った男の顎を蹴り上げ、最後の仕上げとばかりに体を前に縦回転させると、顔面に二段かかと落としを喰らわせた。
「うわ……えげつねー……」
直撃はかろうじて避けたようだが、相当なダメージが蓄積されたことだろう。敵とはいえ、揺火の容赦のなさに来夏は若干だが引いていた。
結局出番が回ってこなく余力を残したまま、地面にめり込む男に近寄っていく。巧く力を受け流したのか、それほど外傷は見当たらない。しばらく動くことはできないはずなのに、男は必死にもがいている。それほど志乃のところへ行かせたくないのだろうか。
「どうする? 眷族なんだから殺しても殺しきれねーと思いますけど」
「そうだな。動けなくなったのならそれだけでいい。急いで九重たちの援護に――」
そこまで言って、揺火は口を閉ざした。踵を返して元の道を辿ろうとすると、向こうから九重たちがやって来るのが見えた。しかしそれだけでは言葉を切ったりしない。
揺火が言葉を切ったのは、九重たちと敵である能力者が仲良さげに歩いてきたからだった。
どうして九重と敵――『組織』の能力者たちが一緒にいたのかといえば実に簡単なことで、もともと敵対する必要がなかったからだ。お互いがお互いのことを眷族だと勘違いし、体力を消費していたのだからこれ以上に馬鹿らしい話はない。
揺火たちとは別に戦っていた能力者――御神理央と姫路楓はそれほど外傷はないが、黒肌の男――ガンマ・ガーフィードだけはボロボロだった。
「にゃはははは! なんだよガンちゃんなっさけねぇ。ボロボロじゃんか」
「黙れ。俺だけ獣が二匹だったのだ」
「貴様と戦ったのは私だけだがな」
「じゃあガンちゃんは揺火だけに負けたんじゃねぇか。話盛るとかくだんねぇことすんなよな。少しは理央を見習えって。にしても揺火って強いんだな」
背中をバンバン叩いてくる姫路からこっそり離れながら、曖昧に返事をしておく。姫路はもう馴染んだようだが、揺火はすぐに馴染めと言われてもなかなか簡単にはできなかった。
九重も御神と気が会って話が弾んでいるようだし、仕方なく先導して歩くことにした。あんなテンションには付き合っていられない。
ピクニック気分のなメンバーとは打って代わり、張り詰めた糸のような緊張感を醸し出す東雲に揺火は訊く。
「あとどのくらいで着きそうだ?」
「『組織』の連中から聞いたことと、上陸する前に見た爆発の位置も含めるとあともうちょいて着いてもいいはずや。……せやけど、あんなゆるゆるやし、話にならんわ」
苛立たしげに言う東雲に賛成だった。あまり気を張り詰めるのもよくないが、後ろのやつらは気が緩みすぎだ。これではちょっとしたことで穴ができてしまうだろう。
そもそもこのメンバーになった時点で穴だらけであり、協力することはあまり得策ではないように思えてきた。なるべく数を増やして、戦いに挑みたかったが、早計だったかもしれないと後悔している。
「ここ、みたいやな」
そこにあったのは洞窟だった。見上げなければ入口の大きさを納められないほどの規模だ。爆発のあった場所が合っているなら、志乃はここにいるのだろうが、人が立ち入った形跡がない。
一葉や智香や双弥、『組織』から聞いた話では凪も来ているはずだ。それなのに、足跡ひとつないのはどうしてなのだろうか。ひとまず考えを放棄すると、東雲は振り返る。
「ええか、こっからは志乃の手のひらのなかやと思え。そんでその緩みきった気ィ引き締めェや。ええ加減にせんと志乃ンとこ行く前に――私があんたらのこと、灰にすんぞ」
偽りのないその言葉に、一同は苦笑することもできなかった。それだけ東雲は本気だったということであり、このメンバーを持ってしても威圧感で後ずさってしまいそうだった。
東雲は全員が承諾したことを確かめると、さっさと洞窟に入っていく。下手な小細工は仕掛けられてないだろうと判断したからだ。仮にあったとしても、おそらく先に乗り込んだ能力者がどうにかしたはずだ。
胸糞悪いが、東雲は志乃が罠を仕掛けるようなことをするとは思えない。そんなことをせずとも、力の暴力によって捩じ伏せることができると考えているだろう。なにせ東雲も、同じようなことを考えているのだから。
「みなさん待ってください」
洞窟をしばらく進んでいると、不意に御神が制止をかけた。立ち止まった皆の視線が集まる。
「どうした。なにかあったのか?」
揺火が訊ねると、御神は警戒心を剥き出しにして暗闇を見つめながら言う。
「あの先に、なにかがいます」
言われて目を凝らしてみると、暗闇の向こうでなにかが蠢いていた。だが人間ではない。もっと大きい、四足歩行のなにかだ。耳を済ますとそれの息づかいや足音が聞こえる。まるでこの世のものとは思えない、凶悪な息づかいに体を強張らせた。
直感が全員の脳裏に危険信号を鳴らした。とんでもないものが来る――そう思った瞬間、そいつが姿を現した。
あまりの非現実的な光景に、全員の思考が吹き飛んだ。
だってそこに現れたのは――像の倍ほどの巨体である三つ首の狂犬だったのだから。
狂犬の咆哮が、洞窟に鳴り響いた。