6―(7)「ミツドモエ①」
一葉が柊詩織を連れ帰ることができたのは、彼女が志乃をギリギリのところまで追い詰めていたからに他ならないだろう。超越者として容赦をなくした志乃をかわすなど、一葉ではできなかった。
異世界の剣に体を貫かれた柊は『九十九』の屋敷、一葉の部屋に寝かせている。貫通した孔は『吸血鬼』の回復力で完治したのだが、未だに意識を取り戻す兆しはない。
一対で揃っていたはずの剣のうち、手元にあるのは柊を貫いた漆黒の剣だったものだけだ。柊から引き抜いた剣は、まばゆい光を放ったかと思えば小さな石ころになっていた。どういった原理で変化したのか、『九十九』の能力者にしてみれば狐につままれたような気分だ。
東雲だけは、あれが属性石と呼ばれる武器であることを教えてもらっていたため、さほど驚くようなことはしなかった。
それよりも、変わり果てた柊から目を離すことができなくなっていた。
色素の抜けきった、白というよりも銀に近い髪。うっすらと開く瞼から覗く瑠璃色の双眸。どちらもが『九十九』の創設者であり、全ての能力者を統べる存在である志乃と重なった。
これまで『四』の序列を与えられた能力者は何人もいたが、歴代でも最も優れた四番は東雲だった。能力もさることながら、個体として志乃に近かったことも関係している。だから生身でもコンクリートを粉砕できる腕力を持っていたり、普通では考えられない動きをやってのけることができる。
しかし、それでもそこまでだ。能力者としては十分かもしれないが、志乃には到底敵うものではなかった。直接対峙してみて、それを認識させられた。
『九十九』では『四』序列だけは異端であり、一世代にひとりしか誕生させないという暗黙の決まりを作っている。だが『吸血鬼』を生み出そうとした結果、この代だけは二人もの『死』を生み出してしまった。
それが柊と東雲だ。二人には共通点が多々見受けられる。茶に染まった髪や、異常離れした異常じみた攻撃力。挙げていけばもう少しあるだろうが、総括すると、その特徴は超能力者の時点の志乃の特徴なのだ。それを越えることで、志乃と同じラインに立つことが許される。
どういった条件でそうなるのかわからないが、もしかすると自分も志乃と対等に戦えるようになるのではないかと東雲は考えた。だが同時に、そこにたどり着くことはないだろうとも思っていた。
志乃によって生き返らされた女性――翔無智香の話によれば、東雲は『死乃ノ目』であり、すでに柊と同じ状態にあるらしい。柊は『死降り』――死を降ろす者であったから、あそこまでの変貌を遂げた。
すでに東雲には、志乃と対峙できる可能性は残っていないのだ。それが東雲は悔しい。もともと戦いに巻き込んだとはいえ、ここまでのことをさせようとは思っていなかった。だというのに、ついこの前まで戦いを知らなかった少女に頼らざるを得ないところまで追い詰められている。己の無力さを突きつけられたようで、自分に対する怒りが抑えられなかった。
東雲は柊の手を握り、心配そうにする一葉を見て、胸の奥で黒い炎が灯るのに気がついていた。その正体が嫉妬であることは、指摘されるまでもない。
――あぁ、そうか……。
東雲はこんな状況であるがゆえに、なぜ六年前に抗争を起こしたのか、本当の理由に行き着いた。
――私は、一葉に認められたかっただけなんだ。
やはり四番というのは特別視されるもので、執事であった十六夜以外からは、割れ物でも触るような態度で接せられた。それは当主である一葉も例外ではない。いや、一葉の場合は遠慮していたといったところだろうか。
屋敷を出る前の東雲は『九十九』が、在り方が嫌いだった。身内で能力者を創るという行為が受け入れられなかったのだ。
そんなことをしてどうなる、やったって誰が喜ぶのだ。
その気持ちが表にですぎていたようで、まだ幼かった一葉は怯えていたのだろう。能力がどれだけ強力でも、それを扱う彼女はまだ二桁にも満たない年齢だったのだから。
溜め込んだ息をゆっくり吐き出すと、東雲は一葉の頭を雑に撫でた。
「そんな心配せんでも大丈夫や。詩織ちゃんは、ちゃんと戻ってくる」
おそらくは次に志乃と戦うとき、無理やりにでも自分を覚醒させるだろう。
長い睫毛を伏せ、一葉は泣きたいのを堪える。
「しかし、どうしたものか……」
紅蓮の獅子の声を聞き、壁に寄りかかるように座っていた少女が目を開く。
「どうしたものかって、そりゃこっちのセリフだっつーの。成り行きで協力しちゃってますけど、私って『九十九』攻略の助っ人じゃありませんでしたっけー?」
語尾を上げる言い方を聞くに、彼女――臥南来夏の苛立ちは限界まで溜め込まれてしまっているらしい。
なにせ助っ人を頼まれておきながら実際のところ、まともに助っ人をすることができていないのだ。塔では志乃の眷族を倒したとはいえ、不死身な能力者にしてみれば多少動けなくなることなど、痛手でもなんでもない。後に聞いた話では、来夏が相対したピエロが復活していて、一葉の邪魔をしたとか。
いまは回復したが、一時的に視力を失ってまで倒した敵が簡単に復活すれば、来夏でなくとも苛立ってしまうだろう。
「来夏ちゃん、そんなに怒ると小皺が増えちゃってててててて!? 来夏ちゃん痛い痛い!」
「てめーは黙ってろ。話がややこしくなる」
爪先を踵で踏み抜かれて情けない悲鳴を上げる少年――九重のこの姿だけを見れば、とても『九十九』最強の能力者とは誰も思ったりはしないだろう。
「ああん揺火姉ちゃ~ん、来夏ちゃんが苛める~」
「よしよし、大人しく部屋の隅に引っ込んでようなー」
「うん! ……あれ? 体よく厄介払いされちゃったカンジじゃね?」
九重の緊張感の欠片もない態度に、一気に沸点に達してしまうところだったが、手元にあった瓦礫を握り潰すことで自制を試みる。わずかにではあったが、落ち着くことができた。
けれど九重でなくとも、軽い発言が出てしまうのは仕方のないことだと東雲は思っている。志乃が眷族を使って能力者を皆殺しにするといっても、『九十九』は対象に含まれていない。一葉を救い出すこともできたし、東雲の誤解も解くことができた。
だからいまここにいる人間には、まだ行われ続けている戦いに参加する理由がないのだ。
揺火や九重、双弥や五十嵐などの『九十九』は、やられたからやり返しただけ。東雲が喧嘩をふっかけるような真似をしなければ、そもそも争うようなことはなかったのだ。来夏も似たような理由で協力していただけで、本人もそれ以上のことに介入するつもりはなかった。強いてあるというなら東雲や智香くらいのものだが、それでさえ理由としては薄いと言えよう。
どうしたものかという揺火の呟きは、そういうことだ。
「東雲、あんたはどうするつもりなんだ?」
これまで沈黙を保っていた双弥が、頃合いを見計らったかのように東雲の隣にやってくる。
「……どないする言われても、私らのやるべきことはここで終わらせられたんや。普通に考えて、もう出てくんないうことやろ」
志乃はこれまでの抗争を予定に組み込み、そして調整してきた。でなければ志乃のいいように事が進みすぎるわけがない。『九十九』や東雲や来夏といった能力者がここで舞台から退場するのも、計算済みだったということになる。
六年前の失敗を利用して策を練り上げるくらいなのだから、たかがサブシナリオを制御することなど難しいことではない。
「せやけど、そんな筋書きで抑えられるほど、感情ってもんは素直やないわ」
爛々と目を輝かせる東雲に双弥は呆れを隠せなかった。
「……やる気満々じゃねぇか」
「はん! 当たり前やろ。やられっぱなしも頼りっぱなしも性に合わんわ」
「で、どうするんだっつってんだよ」
双弥に容赦なく言われて言葉を詰まらせる東雲。役割を強制的に終わらせられたため、シナリオに組み込まれていない東雲たちが介入するには、まだ進められていないか、もしくは始まっていないシナリオに割り込むしかない。
だが、役割を終えた役者が残されたシナリオを見つけるのは限りなく不可能に近い。そういう風に構成されているのだから、イレギュラー因子が混ざるなど、あの志乃が許すわけがない。
しかし、これまでのことを一貫して思い返してみると、明らかに無駄だろうという部分が少なからずあった。わざと遠回りするような駒の動かし方に、東雲は付け入る隙があるのではないかと考えた。
そのことを話してみると、双弥も思い当たる節があったようで浅く頷く。
「志乃は能力者を殺すっつーのが目的――もしかすると、その前提すら間違ってたりするんじゃねぇのか?」
「それはないやろ。それやったら、こんなバカみたいな真似する意味がわからんわ。自分でも言っとったしな。仮にそうやったとしても、こんなことになったんや。どのみちやることは変わらんわ」
「つってもいまの俺たちゃ蚊帳の外にいるわけだがね」
「言うなや」
だからこうやって介入する方法を探しているのだから、急に現実の壁にぶち当てるようなことはしないでもらいたい。
だが、双弥の言うことを頭ごなしに否定することはできない。東雲も能力者を殺すのが目的ではないというのは、考えの一つとして頭の隅に置いていた。可能性としては低いものだからあえて口にはしていなかったが、誰かが言うと不思議とそうなのではないかという気持ちが出てくるから厄介だ。
「あんたはどうなんだ? ずっと志乃の近くにいたあんたなら、なんか知ってるんじゃないのか?」
以前に殺したことなどおくびも気にした素振りを見せず、智香に向き直った双弥が訊ねる。
「私は志乃のそばにいただけだからなにも知らない。眷族ってわけでもないし、そもそも戦いに参加させるつもりはなかったんじゃないかな?」
「はぁ? ならなんであんたは生きてんだ。俺はあんたを殺したはぶがっ!?」
顔面を襲った衝撃によって双弥の体が床をバウンドし、壁に型を作ってめり込んだ。
「アホか! なんちゅう不謹慎な発言するんや!」
拳を振り抜いた体勢で怒鳴る東雲を見、一同は双弥が跳ねた理由を察した。
智香としても気にしてないと言えば嘘になるが、不謹慎極まりないとはいえ、そこまでしなくてもいいだろうと苦笑を浮かべる。
がらりと崩れ落ちた壁から降りた双弥は口のなかに溜まった血を吐き捨て、床に着く前に外にテレポートさせると、改めて智香に向き直って口の端を持ち上げる。
「これでけじめはつけたぜ?」
「呆れた。あんた、いまのわざとかいな」
「ったりめぇだろ。あんたにぶん殴られんのわかっててこんなこと言うほど、俺は痛みに快感を得るような変態じゃないんでね」
しかし逆に捉えれば、けじめをつけるためだけに東雲の逆鱗に触れるようなことを言ったということだ。智香はどんなことを言われても暴力を行使することはない。だから東雲にやらせたのだ。
下手をすれば顎が砕けてもおかしくなかったことへの恐怖はあったものの、けじめをつけることとどちらが優先させるべきかと考えたら、そんなものはどこかに消えて失せた。
青く腫れ上がった頬に触れて激痛が走るも、殺されたことに比べればどうということはない。こんなことで罪を償うことができたとは思わないが、いま話すくらいの権利は貰えてもいいだろう。
「双弥君、私は別に君を恨んでいるわけじゃないの。やってから言うのも遅いかもしれないけど、そんなことやらなくたってよかったのに」
「俺なりのけじめの付け方だからな。あんたがどう思ってても、これくらいしないと俺の気が済まないんでね」
柄にもないことをやったのはたしかだけど、と双弥は愚痴を溢していた。
そんな双弥の後ろから突然腕が伸び、首に回された。
「ぷっはぁ! ふたみんカッケー! 男前じゃん!」
「うるせぇ茶化すな! あとふたみんってなんだよ!?」
九重の腕を無理やり振りほどくと、思いきり突き飛ばした。よろめいた九重が揺火の胸に顔をうずくめ、顔を真っ赤にした彼女に殴り飛ばされるという光景はもう見慣れているので、あえて視界から外す。
殴り飛ばされた先で来夏の胸を鷲掴みにし、殴り飛ばされている姿なんて見えない。見えないったら見えないのだ。
「……いまさらやけど、あれ、『九十九』で一番強い能力者、なんやろ?」
「……あー、そのはず、なんだけどなぁ……」
創設者である志乃さえ除けば、『九十九』で最も強い能力者は九重という声が多いだろう。なかには当主である一葉や、裏切り者の烙印を押されている東雲と言う者もいるが、直接力を測らなければそれはわからない。
だが、そんな三人ですらも全能力者から最強を選べというならば、それぞれ別々の答えを返してくるだろう。三竦みの関係というわけではなく、純粋に別の能力者をだ。
けれど彼らは戦うことなどできない状態にある。やはり現状として、ここにいる能力者でどうにかするしかないのだ。
どうすればいい。状況を打破する秘策の一つでもあれば、突破口を見つけることだってできるかもしれない。なのに必要な情報が、ありとあらゆる方面から遮断されてしまっているような気がしてならない。
「あ」
なるべく視界に入れないようにしていた来夏が不意に呟き、思わず振り返ってしまった。
「そういや『組織』に能力者の居場所を特定できる能力者ってーのがいたよーな気が……」
「ホンマか!? てかなんでそれ先に言わんねん!」
「え、普通に忘れてただけですけど?」
来夏の言い方がさっきの双弥と微妙に被るのは、もしかしてわざとやっているからだろうか。思いっきりぶん殴りたくなる衝動をそれもう必死になって堪える。
これでシナリオに介入することができるのだから、これくらいは多目に見てやるべきだ。
「でも眠り姫ちゃんが起きてくれるとは思えねーんですけどねー。つーか連絡先知らないし」
「おいこら面ァ貸せや」
「怒っちゃいやーよっと」
言葉と拳が相席してきたため、来夏は後ろに飛んで、代わりに九重を差し出した。珍妙な奇声を発しながら転がっていく九重だが、あれだけ殴られて平然としていられるのには素直に感心する。
もはや女に対する執念すら感じられる姿に、来夏は呆れを覚えずにはいられなかった。というか、この短い間に二人もの異性に胸を揉まれ、来夏は異性への考えを改めようと若干本気で考えた。異性といっても高校時代の知り合いや九重くらいしか付き合いはないが。
とりあえず九重を殴って落ち着いた東雲は、この光景も志乃に見透かされているのだと思い出し、憂鬱な気分になる。目を瞑ればどうにかならないかと思ったが、それでどうにかなるような代物ではない。なったらなったで好都合だが、拍子抜けもいいところだ。
「てゆーかさ、私じゃなくて智香さんに教えてもらえばいいんじゃないんですかねー?」
ああ腹が立つ。へそで茶が沸かせそうだ。なんで私はこんなやつと知り合いになってしまったのだろう。もう少しまともな神経の人間に協力してもらえばよかったと、東雲は心底後悔した。
出会った時期が時期だったため、そう贅沢なことを言っていられなかったのもまた事実ではあるが、来夏がこんな性格だと知っていたら……いや、知っていてもこうなっていただろう。なにせ東雲も相当に甘い性格をしているのだから。
東雲の思考をよそに、来夏は智香に歩み寄る。
「志乃と一緒にいたんだから、居場所くらい知っててもおかしくねーだろ」
どこかしら棘を感じさせる言い方に、来夏の機嫌の悪さを伺い知れた。
「つーかさっきはうやむやになっちゃったけど、結局のところ、智香さんって何者なんですかねー? ふたみんの話だと、智香さんって一回死んでるんだろ?」
「お前までふたみん言うんじゃねぇよ」
「生き返ったのに眷族じゃないって、どういうことなんですかねー?」
双弥に睨みを利かせて黙らせながら、淡々と言の葉を繋いでいく。
「そうね。私は眷族ではないけど、志乃に生き返らせてもらったのは間違いないの。ただ単に能力ってこともあるんじゃないかな? 彼女は数えきれないほど能力を持っているのだから」
「雪音から聞いた話だと、八雲さんの殺人衝動と一緒に孕まされたって聞きましたけどねー。その辺りは関係してたりするんじゃねーの?」
「あらあら。雪音からそんなことまで聞いたの? ちょっと恥ずかしいかな」
智香の肉体の成長は殺されたときに止まっているとはいえ、それでも年齢と不相応の容姿をしている。姉といっても通じるような若さの頬を薄く赤に染め、はにかんだ。
その表情に毒気を抜かれたように脱力しながらも、来夏は追求はやめない。
「で、どうなんですかねー?」
じっと来夏の目の奥を覗いていた智香は、やがて観念するように盛大に空気を吐き出した。そんな仕草でさえ気品があるのは、ひとえに彼女の人柄と容姿がそうさせるのだろう。
「私は眷族ではないけど、人間でもない。『翔無智香』という肉体を触媒とした式神ってところかな。そういうのはあなたの方が詳しいでしょ?」
「……せやな」
東雲は苦虫を噛み潰したように苦々しげに答える。
「志乃は『陰陽師』も持っていて、私を生き返らせたのはただの気まぐれらしいの。自分の手足となる式神が欲しかったんじゃないかな? あのころの志乃は自由に動けなかったわけだし」
しかし、本当はどういった理由で智香を生き返らせたのかは本人も聞いていない。訊いたこともないというのもあるが、わざわざ詮索するようなことではないと智香は思っている。予期せずして与えられた第二の『生』に理由を訪ねるなど、無粋以外の何者でもない。
「それと志乃の居場所だけど……」
「だけど?」
来夏が追い立てるように言う。
そんな態度にも動じることなく沈黙を保つ智香の白目が、充血でもしたように真っ赤に染まっていく。しかしそれは充血など比ではなく、あますことなく真っ赤になった眼で品定めするように見渡す。
「――残念だけど、教えることはできない」
「あ?」
来夏の額に血管が浮き彫りとなった。散々苛立たせるようなことが重なった上に、あれだけ焦らして言ったことがこれなのだ。ほぼ巻き込まれただけの形である来夏のボルテージが頂点に達するには十分すぎた。
能力が発動する。空間が歪み、その歪みが智香に襲いかかろうとし――しかし不意に与えられた重圧によって押し潰され、それは虚しく霧散していった。
まさか力で捩じ伏せられるとは思っていなかっただけに来夏は一瞬だけ息を詰まらせるが、すぐに冷静さを取り戻し、これをやった張本人へと視線を傾ける。
じっと動かないでいれば、人形といっても差し支えないほどに精巧な顔立ち。淡い色の着物が白い肌を際立たせ、白い肌が黒髪を際立たせた。そんな少女の黒曜石のような瞳と右手が、来夏へと向けられている。誰がどう見ても、来夏の能力を捩じ伏せたのが一葉だということがわかった。
憎々しげに舌打ちした来夏の後ろ頭を、東雲の張り手が軽く叩いた。ただし東雲の軽くであるから、来夏にとっては拳骨くらいの衝撃だ。
「……なにしてくれてんですかねー?」
「あんたがバカなことするからや。いきなり能力なんか使って、なにするつもりだったんや」
「こう……ぐりっと?」
捻る動作をしながら言う来夏の額に平手を喰らわせておく。そしてなにを捻ろうとしたかはあえて言及しないでおく。
「まぁ、これはさておくとして、教えられんてどないいうことなんや?」
「単純に危険というだけのこと。いまの志乃はかしぎくん詩織ちゃんと戦って消耗しているから、あなたたちを相手に手加減できる余裕がないの。せめてもう少し回復しないと」
いまの智香は志乃の式神ということになっている。だから使役している志乃の状態がどうなっているのか、意識的に感じとることができるのだ。
けれど、東雲たちが聞きたいのはそんなことではない。
「手加減できる余裕がないって……そんな、まさか」
唖然と呟く東雲は、予想が的を射てくれないことを祈るが、しかし直感的にそれが正解であると感じ取ってしまっている。
「もしかして気づいてなかったの? 志乃は詩織ちゃんと戦ったあの一瞬以外、全力なんて出してないの。せいぜいかしぎくんと本気で戦ったくらい」
それは東雲だけでなく、九重や揺火や双弥を絶句させるには十分すぎる真実だった。
直接戦っていない揺火や双弥ですら、志乃の強さを骨の髄まで染み込まされているというのに、ただの一撃で叩き潰された九重と東雲に、その言葉はどれだけ絶望的なものかは計り知ることができないだろう。
さらに言えば、志乃に全力を出させた柊が事実上、可能性のある希望のなかで最も強いということになる。その柊が敗北したのだ。たとえ冬道や藍霧が立ち上がったとして、果たして勝ち目など、あるのだろうか。
現状において、まず勝つ負ける以前の問題として、同じ舞台にすら立てていない。いまの東雲たちは、ただ主役を目立たせるための脇役でしかないのだ。
どうにかして主役クラスまで押し上げなければならないが、やはりそのための決定打が見つからない。志乃の居場所を聞いて乗り込んだとしても無意味に終わるだろう。
しかし――だ。
このまま無駄に時間を消費していくのも好ましくない。動こうが動くまいが志乃の思惑通りに事が進むことになり、バッドエンドとして物語は終幕を迎えるだろう。
ならば動くしかないではないか。なにもしないで後悔したくはない。やって後悔だって、もちろんしたくはない。――だから、やって後悔しない選択をする。
沈黙を破ることのできぬ少女が静かに動いた。真紅の瞳を引っ提げる智香に睨んで見上げるようにし、紡がれない言葉を吐き出す。
「……そう。いいのね?」
目を細め、智香は最終警告を放つ。
一葉は首を縦に振った。
「――一命、ご案内」
強烈な光が眼球を焼きつけた。不意を突かれたこともあって、一時的に完全に視界が奪われた。
来夏は視界が奪われるのは二回目ということもあり、痛みを無視すればそこまで慌てるようなことではなかった。
人間の体の仕組みは不思議なもので、どこかに不備が生じれば他の部分が補ってくれる。数時間とはいえ視界を奪われていた来夏の場合は、聴覚が発達し、些細な物音で空間の把握ができるようになっていた。
――右に揺火と双弥、左に東雲と執事とメイド、その少し先に柊が寝てて、どさくさ紛れに胸を鷲掴みにして開閉させてんのが九重だな。
来夏は九重の鳩尾に肘を喰らわせて離れさせる。
――智香さんと一葉の音が聞こえない……?
心音の聞き分けができるようになったわけではないが、しかし人間にはそれぞれのリズムがあり、無意識に刻んでいるものだ。もちろんそれは普通ならわからないが、いまの来夏ならば念動力とも相まって感じとることができる。
痛みが引いて視界が戻ってくると、数秒前の光景との変化に、来夏はやはりかと呟いた。
「なっ……!?」
驚愕の声を上げたのは東雲だけではない。
九重も揺火も、事前にこうなったことがわかっていた来夏以外、全員が目を剥いてたじろいだ。
一枚の札を残し、一葉と智香がいなくなっていたのだ。
「どうなっているんだ……? 一葉と智香、それになぜ双弥までいなくなっている……!」
揺火が言ったように、いなくなっていたのは一葉と智香の二人だけではなかった。
九十九双弥――『九十九』において異彩を放つ男が消えていたのだ。
来夏がそれに気がついたのは、二人がいなくなった直後のことだ。双弥のいる場所を確認したかと思えば、突然切り取られたように音を感じとることができなくなった。
「双弥もそうやけどまず一葉と智香さんや! くそ、いったいどないなってるんや……!」
ついに堪えきれなくなったようで、東雲の拳圧が床を粉々に粉砕した。
「……たぶん、志乃んとこに連れていかれたんだ」
「九重の言う通りだろーね。あの口振りからして、最初っから一葉しか連れていくつもりはなかったんじゃねーの?」
重ねて推測を口にしていく来夏と九重。
どうしてそのように冷静でいられるのかと東雲は正気を疑ったが、すぐにその考えが間違いだと思い知らされた。
冷静などではない――いられるわけがない。一葉を助けることができたからとはいえ、まだ戦いが終わっていないにも関わらず油断していたのだ。己の愚かさに怒りが込み上げてくる。
「連れていかれたって……智香さんは志乃の居場所を知らんはずやろ」
「あの流れからしてそれはないだろう。知っていなければ、教えんなどというセリフがでてくるわけがない」
揺火はそう言うが、東雲にはどうも智香が本当に居場所を知らないように思えてならなかった。
彼女は単独行動をしてここに乗り込んできた。東雲たちと敵対するためではなく、彼女は志乃に勝つためにと乗り込んできたのだ。
裏切ったわけではないのだろうが、この戦いには役者の想いのほかにも、様々な思想が入り交じっている。
それは志乃然り、智香然りだ。
おそらく志乃も、智香がなにかしようとしていることに気づいているのだろう。だから智香には拠点の場所を教えなかった。
「やっと一葉ちゃんを助けられたのに、こんな簡単に連れていかせちまうなんて……!」
「まぁ、助けたのもてめーじゃないんですけどねー」
てかふたみんのことも心配してやれよ、とあくまでも他人事のように来夏は言う。
「あいつは大丈夫のはずだ。そうあっさりとやられる奴ではないからな」
揺火の双弥に対する無条件の信頼に、なんとなくだが疑問を抱いた。彼女が好意を寄せているのは九重であるということは、傍目から見ていても気持ちいいほど簡単にわかる。気づかれていないと思っているのは揺火くらいで、気づいていないのは九重くらいだ。
それとは別の、しかしどこか似たような信頼は、いったいどこから寄せられてくるものなのだろう。
揺火と双弥の関係というのは知り合い以上ではあるが、すれ違っても言葉を交わすほどではない。実際は『九十九』の血を引くのだから、全くと言っていいほど似ていない二人も血縁関係ではあるのだが。
それをさておくとすれば、やはり二人は知り合い以上、友人以下の関係だ。
信頼など、どこからも得られそうにないものだが……。
「ま、どうでもいいんですけどねー」
来夏はここまでの思考をばっさりと切り捨てると、目の前で行われる話し合いに混じる。
「一葉のところに行くには、志乃の居場所を突き止めるほか、方法はないだろう。それがないからあの女を頼ったのだが、それが間違いだったか……」
「いまはそんなこと言ってる場合やないやろ。『組織』の眠り姫とやらなら居場所を突き止められるんやろうけど、連絡とれんしな」
責めるつもりはないのだろうけれど、そんな風に言われると、まるで自分が悪いと言われているようでいい気分ではない。
「だったら司先生にでも電話でもすりゃーいいだろーが」
「そ、それや!」
「はぁ?」
いったいなにがそれなのかは来夏にはわからないが、東雲は指差しながらそう叫んだ。
「司の能力なら眠り姫を再現できる。そうすれば志乃の居場所を突き止められるわ!」
司の能力である『ゲームメイカー』は、超能力でない波導まで再現した。いや、波導の術式まで再現したわけではないが、それに準じたものまで再現してみせたのだ。同じ『組織』の眠り姫の再現など、取るに足りないことだろう。
急いで携帯電話を取り出して司の番号に呼び出しをかける。
いつもならすぐに応答するのだが、今回は何分経ってもその気配がない。単に東雲の気が短くなっているというわけでなく、本当に出ないのだ。
苛々して東雲が唸っていると、ようやく応答があった。
「司! もうちょい早く出られないんか!」
人を頼ろうとしておいて何様なんだと来夏は指摘したいところだったが、揚げ足を取って喜ぶような趣味はしていないので黙っておく。
『すみませんが師範。俺は夜筱司ではありません』
電話口から聞こえてきた声は、司のものではなかった。
「大河? なんであんたが司のケータイに出てるんや?」
東雲を師範と呼んだのは私立桃園高校で生徒会長を務め、『組織』の一員でもある男――黒兎大河だった。
「まぁええわ。司はどうしたんや?」
『……いまは少々、電話に出られないと言いますか、他人にはこんな姿見せられないと言いますか……』
気まずさを隠しきれない黒兎の声に東雲は首を傾げた。
矯正を施したとはいえ、性格の傲慢さが完全に治ったわけではない。そんな黒兎が気を遣うようなことになっているのだから、どうなっているのか想像もできない。
『なにか用事があったんですか?』
「あぁ。司に志乃の居場所を突き止めてもらいたかったんやけど……」
『それならよかった。いまちょうどやってるところです』
東雲が言い切る前に、黒兎が遮るように告げた。
『ちょうど終わったみたいですから、データ送っておきます。……それで、奴のところに行くつもりなんですか?』
らしくないとは思っていたが、黒兎がここまでらしくないことを言うとは思っていなかっただけに、驚きよりも気遣いに対する感謝が上回った。
「守らんとあかん人が行っちまったからなぁ。私が行かんわけにはいかんわ」
『……そうですか。生きて帰ってくることがあれば、俺を鍛えてください』
黒兎はそれだけを言うと、東雲がなにか言うよりも早く通話を切った。
通話にかかった料金の記録を眺めていると、司のアドレスからデータが送られてくる。ファイルを開いて中身を参照すると、東雲は言う。
「場所がわかったわ。いますぐ行くで」
「待て待て待て。場所がわかったんなら私たちに教えろっつーの。なにひとりでわかっちゃってるんですかー?」
突っかかってきた来夏に、東雲は携帯電話のディスプレイに映し出された地図を見せる。
しかし地名などは一切記載されておらず、そこがどこかわからなかった。
「見てもわからんやろ。私だって場所しかわからん」
黒兎ももう少しわかりやすくデータをまとめてくれればよかったのだが、さすがにそこまでの贅沢を言うのはわがままがすぎるというものだ。
「ほなら急ぐで。四の五の考えんのは性に合わんし、どうせ動くんやからさっさと行った方が利口やわ」
東雲はガントレットを両手に嵌めると、気怠く訊ねる。
「で、誰がついてくるんや?」
そんなものは聞くまでもなかった。
創設者に反旗を翻した『九十九』が、出陣した。
◇◆◇