6―(6)「がらんどうの檻④」
死んでいた――まさにそれがぴったりではないかと、私はおぼろげな意識のなかで思った。いや、ぴったりという言葉ですら適切ではないかもしれない。事実私は、なにもないことを感じることさえできなかった――ことさえできていなかった。……そうではありませんね。
あれこれと考えたところで、それは生きているという前提で事を進めてしまっているわけですから、やはり死んでいたことに対しての正解というものはないのでしょう。
誰も死んだあとのことを伝えることができず、実感さえできないのだから、正解も不正解もない。地獄も天国もただの空想が生み出した架空の存在で、ならば神や仏や閻魔を信じるなんだというのだろう。あり得ないことを信仰することで、現実から逃げようとしているだけではないのだろうか……などと辛辣に言ってみたところで、同じようなことをしている私には、言う資格などないのだろう。
まぁ……どうでもいいですけど。
それよりも、これはいったいどういうことなのだろう。体に刻み込まれた反応でおもわず体勢を立て直したけれど、何故そのような状況に置かれなければならなかったのだろうか。そうする前の記憶はひどく曖昧で、うまく繋ぎ合わせることができない。
言えることといえば、あの脳裏に浮かんだ映像から記憶が途切れ、先ほどの黒衣の女の言葉から始まっているということくらいか。
壊れた校舎の壁の向こう側にいる人たちとあたかも敵対でもしているような構図は、わずかながら不快感を与えてくる。しかし、それが気にならないほど、黒衣の女から放たれる敵意は無視しがたいものだった。
地杖に無意識に添えられていた腕を介し、波動を注ぐ。
かつて勇者であったといっても、私は勇者たる人間であるとは思ったことはない。それに勇者たる活躍をしてきたのは、すべてもうひとりの――黄金の剣を持つ騎士だった。
私もなにもしなかったということはないが、ならばなにをやったんだと訊かれると、彼に害を与える、もしくは与えた敵に報復したくらいだ。決して誉められるようなことではない。
それなりの手練れと命の駆け引きをしてきた自覚はある。魔王すら打倒した勇者を苦しめた相手を、私は圧倒的なまでの暴力で蹂躙してきたのだ。大抵の相手には対応し、順応することができる。そして叩きのめすだけだ。
女の体は、いっそこの風に吹かれてしまいそうなほど不安定に、ふらふらと左右に揺れている。かといってそれほど弱々しいものではない。無駄を極限まで削ぎ落とした、究極形とも言える、一切の隙がない構えだ。
距離にしてみれば、あと十歩ほどある。
「油断しすぎだよ」
しかし次の瞬間だった。たった一歩でその距離を埋めた女が、刀の間合いに私を捉えた。
たったの一歩が見えなかった。気配もなく距離を縮められ、瞬間移動をしたと言われても疑わないだろう。油断がまったくなかったわけではない。けれど油断していなかったとして、いまの一歩が果たして目に映っただろうか。
人間には本人が知覚することのできない空白の時間というのが二つほどある。その一つが翔無さんがやるような、脳が電気信号を流して全身に動きを伝えるまでのタイムラグ。そしてもう一つが人間の意識は一定の間隔でリズムを刻んでいるらしく、そこにわずかな間だけ無防備になる時間があるというものだ。
黒衣の女が――冬道ゆかりが消えたように見えたのは、そこに付け入られたからだ。
柄に添えられていた手が刀を引き抜く。闇を切り裂くような銀光の刃は、喉元を抉るようにして唸りをあげる。
詠唱は必要なかった。地杖に触れてさえいれば、わざわざ復元させずとも波導を発動させることができる。
『氷型』
水分が凍結して刃の形となったそれは、冬道ゆかりの体を串刺しにした。
「――虚像の伍」
それがフェイクだと気づいたのは、後ろから声が聞こえてからだった。
空気に溶けていくように霧散した冬道ゆかりの残像は、たしかな手応えを与えるほどの純度を誇っていた。それに加えて相手を倒したと思った瞬間の気の緩みを逃さない的確なタイミング。並大抵の者では斬られたことに気づかずに逝っていることだろう。
私は地杖を復元させ、体を捻ってそれを振るう。伝わってきた振動はごくわずかだが、逆にそれが手腕に頼ったものではなく、斬線を完璧に捉えていたのだと思わずにはいられなかった。
つばぜり合いには持ち込ませない。そうなってしまえば不利なのは私だ。
『雷鎧』
体に雷をまとわせると、それに見合う速度で距離を開ける。後方に約五歩、されど雷の五歩ともなれば、少なくとも生身の人間がすぐさま詰めることができるような距離ではない。
なのに――すでに彼女は、私の後ろに回り込んでいた。フェンシングのレイピアのように端で柄を握り、腕をよく絞った弓のように引いている。
「――直線の壱」
刀の尖端が鈍く光を放ち、私に引き寄せられるように迫ってきた。
機械的に行われた動作にはキャンセルが効かず、次のモーションに入るには一度入力された工程を終了させなければならない。着々と迫ってくる刃を『避ける』という動作は、『後退』という工程を終わらせないことには実行に移すことはできない。これが『雷鎧』の速度に対する欠点だ。だから術者は、常に先回りされたときの対策を立てておく必要がある。
『嵐刃』
風の刃が、突き出された刀を弾き返す。反動で仰け反ったのを目尻に捉えながら、地杖で地面を叩き、強引に軌道を修正して飛び越えるようにして着地した。
がら空きになった背中に追撃を仕掛けようかとも考えたが、そもそもなぜ私は彼女と戦わなければならないのだろう。斬りかかられたからつい反射的に動いてしまったが、彼女と戦う必要性はまるで感じない。
とはいえ、あちらは敵意を露にしている。理由はわからないけれど、こんなことをしている場合ではないというのに……!
「驚いたよ。いまのはあたったと思ったんだけどな」
そう言いながら、おくびもこれくらいはやって当然だという感情を隠さないのは、どういうつもりなのだろう。
「そんなことはどうでもいいです。先輩が……かしぎ先輩が生きているというのは、本当のことですか?」
「あぁ……そんなこと気にしてたのか」
私のなかで黒いものが渦巻いた。そんなこと? かしぎ先輩のことを、この女はそんなことと言ったのか。自分の息子の生死の確認は、この女にとってそんなことで片付けられるようなことなのか。
――いえ、違いましたね。
私の気に障ったのは、かしぎ先輩をそんなことと言ったことだ。彼女がかしぎ先輩の母親で、その母親が息子をないがしろにすることなどどうでもいい。けれど、彼女はたしかに私を敵に回したのだ。
「生きてるよ。正確に言うなら、無理やり生かしてるって方が正しいけどな」
「……どういうことですか?」
妙な言い回しに引っ掛かりを覚えた私は眉をしかめる。
「お前に教える必要つもりはないよ。オレは、もうお前とかしぎを会わせるつもりはないんだ。知ったところで意味なんてないだろ?」
彼女がなにを言っているのか私は理解できなかった。
私とかしぎ先輩を会わせるつもりはない……?
こうして繰り返してみたというのに、私は理解することを放棄してしまっている。理解したくないと思っている。本当は、聞いた瞬間に理解なんてできているというのに。
「夏休みの間に転校の手続きは済ませるつもりだ。お前とかしぎは、もう二度と会わせない」
「どう、して……」
声が震える。視界がぐらぐらして目眩がする。吐き気がする。内蔵をミキサーでかき混ぜられたような気持ち悪さが、意識を混濁させる。
「どうして? 聞いた話だと、それがわからない奴じゃないと思ってたんだけどな。本気で言ってるんだとしたら――失望させるなよ」
斬撃が走る。刀が振り抜かれた一瞬に生まれる衝撃が、刃の形のまま迫ってくる。地杖を振るい、逆方向に同じだけの威力をぶつけ、斬撃を相殺した。
とっさに防いでしまったのは、文字通りとっさのことだったのだろう。それだけいまの私は、弱ってしまっている。
「誰のせいでかしぎが苦しんでると思ってるんだ? ……違うな、お前はかしぎが悩み、苦しんでることを知らないんだ」
「……私のせいだとでも言うつもりですか」
「そうだよ。かしぎはお前のせいで苦しんでる。こうなったのも、全部お前のせいだ」
彼女がそう言った刹那、閃光がほとばしるような錯覚に陥った。目のなかがちかちかして、頭が割れるような激痛が逆に意識を繋ぎ止めている。
混乱する、というのはおそらくはこういうことをいうのだろう。自分がなにをされたのかわからず、さらに状況把握をすることもできないなどというのは初めての経験だ。まるで他人のものであるような体を起こし、そこでようやくこの一瞬でなにがあったのかを呑み込むことができた。
すぐそばには、刀を鞘に納めたまま振り抜いた体勢の侍が立っている。私が知覚できないほどの速さで、もしくはそのようなことをせずともいまの私にならそれができたかもしれないが、鞘に納めたままの刀で額を叩いたのだ。
実際は叩いたなどという生易しいものではない。体が弾き飛ばされ、額からは止めどなく血が溢れ出している。気絶しなかったのは、手加減されていたからだろうけれど、それでも生身にはきつい一撃だ。
しかし、そんなことはどうだってよかった。この身がどうなろうと私の知ったことではない。なくなったのなら、それまでだということだ。
それよりも、私のせいで先輩が苦しんでるという言葉が、胸に突き刺さっていた。
少しでも先輩のためになろうと、私は必死に尽くしてきたつもりだ。先輩に喜んでもらえるように、彼のために生きてきた。
かしぎ先輩が女と一緒にいるとつい殺してしまいたい衝動に駆られても、その反面、それで彼が幸せになるならとほかのことに衝動をぶつけることで良しとしてきた。最良のことをしてきたとは思わない。けれど、それで先輩を苦しませたとはもっと思わない。
ならば、私たちのこと知らないこの女の言っていることは全部でたらめだ。
「オレの言ってることが信じられないか? でもこれは事実だ。お前のせいでかしぎは負けたんだ。あいつは優しさ半分、甘さ半分だから言えなかったんだよ。それを言ってしまえばお前がさっきみたいになるのがわかってたから」
「…………」
「かしぎは自分の命を自分のために燃やせない。冷徹に凍結させ、冷血に振る舞っている。もともと、あいつはそんな性格じゃなかった」
そう言われてみると、異世界に召還されたばかりのころの先輩は、そのような性格だったような気がする。見知らぬ場所に半ば拉致され、奴隷のように働かされる状況だったというのに、先輩は『自分にしかできないことをやってみたい』という理由から、勇者になることを引き受けた。
当時の私からしてみれば、かしぎ先輩はただの変わった人だった。いっそのこと阿呆と言ってもよかったかもしれない。それほどまでに彼は真っ直ぐで眩しかった。……そうだ。私はかしぎ先輩に会い、旅をしているうちにこう思ったのだった。
――なんて、熱血な人なんでしょう。バカバカしくて話になりません。
忘れていた。私が知っている――覚えているのは、いまの氷のような冷たさを持つかしぎ先輩だけ。冬道ゆかり――ゆかりさんが言うような先輩のことを、私は覚えていない。
「変わっちまったんだよ。あいつはお前がまた生きる希望を失わないように、自身を氷で覆っちまったんだ」
斬撃が右肩を抉った。吹き出した血飛沫が顔を濡らし、不快感を施した。
「お前はかしぎに寄生してるだけだ。寄生して生きたつもりになってる。……そんなのおかしいだろ? 人の命ってのは自分だけのモノのはずなのに、どうしてかしぎはお前の分の重荷を背負わなきゃならないんだ」
吐き出された言の葉は刃となって地杖を弾き、私の胸へと突き立てられる。無意識に片足を軸に体を回転させると、右肩を再び抉る形で回避した。
「お前ががらんどう? 冗談じゃない。お前は求めようとしてないだけだろ? 失うのが怖くて手を伸ばしていないだけだ」
「それのなにが悪いんですか!」
どこかに忘れてきたはずの怒りという感情が、まるで火山が噴火でもしたように沸き上がってきた。抑えきれなくなった感情を吐き出した私は、地杖を拾い上げるとでたらめに波動を叩き込む。
「えぇそうです。私は失うことが怖い。失いたくないと思ったから、私はすべてを手放してきました。でもそれのなにが悪いというんですか! もう私は、なにも失いたくないんです!」
それでも私は、もう一度だけ大切なものを見つけてみようと思った。眩しすぎる彼を、守ってみせると告白したときから違ったはずだった。
そしてまた失うようなことがあれば、そのときこそ私は死のうとも思った。なのに私は死ぬことさえできなかった。死ななかったことが、かしぎ先輩が生きているたしかな証拠だ。彼が死んでいたら、私だって死んでいた。
だって私は、そういう呪いを自分にかけたのだから。
「悪いなんて言わないよ。お前がそう決めたんだったら、オレはその生き方を否定するつもりはないんだ」
正眼に構えた刀から毒々しい色の刀気が放たれた。
「ただ、オレはお前の生き方が、かしぎの母親として許せないだけなんだよ」
私の見立てが正しければ、あれは魔剣の類いだ。効力は不死殺し。とはいえ不死でもない私にとってはただの刀でしかない。折ってしまえばそれで終わりだ。
それに許せないのは私も同じだ。私だって、私をこんな風にした奴が許せない――!
私だって昔からこんなだったわけではない。中学三年生になるまで、私は自我を持ち合わせていた。人並みに笑うことだってしていたし、人並みに泣くことだってしてきたし、嫌なことをされれば当然怒りを覚えた。
でも私は変わってしまった。いや、変えられたと言った方があるいは性格かもしれない。変わりたくてこんな風になったわけではないのだ。
私には血の繋がった本当の家族がいない。六年前のある日、私の家が全焼した。原因は外部による干渉。ようは誰かが家に火を放ったということだ。それがどういった理由でされたものなのか、ただの偶然だったのかは、いまでは犯人以外は知るところではない。
そしてその火災で生き残ったのは、私だけだった。
どうして私だけが生き残ったのか、ただ運がよかっただけにしてはできすぎた気もする。同じ場所にいたのに無傷で助け出されるなど、なにかあるのではないかと勘繰りたくなる。もし過去に戻れるのであれば、私はそれを突き止めてみたい。家族を助けたいと思えないのは、その結末のせいだ。
その後、私は親戚に引き取られることとなる。父の兄弟の夫婦だ。よく遊びに来てくれて、私とも深い面識があった。おかげで義理の兄妹なんてものもでき、家族を失った悲しさも徐々に薄れていった。
だが、それも長くは続かなかった。父の兄弟の夫婦も火災にあって全焼したのだ。しかも前回とまったく同じ状況でだ。
こんなこと、二度も重なるのだろうか。家が全焼したにもかかわらず、私だけが無傷で生き残るなど、絶対にあり得ない。誰かが意図的にしたにしては、私だけを助ける意味があったのかどうかだ。そう考えるとどうしても偶然、同じことが二回起こったと思うしかなかった。
そしてここからが、いまの私を形成する道筋となる。
親戚の家を転々とする私は、その先で必ず火災に見回れた。一度目や二度目とまったく同じ状況のだ。それが転々とする先で必ず起こり、私の精神を壊していった。
当たり前だ。そのときの私はいわゆる普通の女の子で、大切な人たちが次々に亡くなっていく異常な状況に、耐えられるわけがない。さらには私を引き取る親族からの暴言や暴力、あげくのはてには犯そうとまでしてくる始末だ。なんとか逃げることができたものの、どこにも居場所がない私は心を閉ざしていった。
親族はバレていないと思っていたらしいが、私がいないところで私がどう呼ばれていたか知っている。
――災厄の迷い人。
私の名前と掛けた下らない言葉遊びに過ぎないそれも、心を閉ざす一因になっていたのは言うまでもないことだ。
私の唯一純粋な血縁であり、もっとも愛した家族につけてもらった名前をそのように使われて、いい気分なわけがない。
そのときばかりは私は願った。災厄の炎に願った。
「あの屑共を……燃やし尽くして殺してしまえ!」
だが、それが叶うことはなかった。災厄の炎は私が強く大切に思うモノほど狙ってくる。憎らしく思っている人間には決して襲いかからない。
彼らはのうのうと生きて、私のことを罵っているのだろう。災厄を受け止める覚悟のない屑のくせに、言うことだけは一人前だ。そんなやつらには、正面から棘のある正論をぶつけてやった。ちなみに私の毒舌は、このころに培われたものだ。
それからいくつもの場所を転々とし、いまの家に居付くこととなった。父の祖父が、誰もが押し付け合う私を引き取ってくれたのだ。
最初、祖父は私を罵倒するためだけに引き取ったのかと思っていた。祖父の子供を私が殺したも同然なのだ。それ以外に私を引き取るメリットなど……いえ、そもそも私を自ら志願して家族にする意味などないのだから。
でも違った。祖父は私を温かく迎えてくれたのだ。
「いままで大変だったね。これからは、おじいちゃんたちが真宵ちゃんの家族だから、遠慮しなくていいんだよ」
だから私は、祖父を大切に思うことがないように、ずっと避けてきた。
私が大切だと思ってしまえば、また失ってしまう。そんなのもう二度とごめんだ。
そうしていまの私が形成され、異世界に召還された。
私の物語は、そこから始まったのだ。
かつてのことを思い返している間にも、ゆかりさんの手は緩まない。少しでも隙があればすかさず喰らいついてくる斬撃は、息をつく余裕さえ与えてはくれない。
だが良くも悪くもゆかりさんは正直すぎるのだ。わざと見せた隙にも掛かってくれるのだから、戦況は私が有利に事を運んでいる。だからといって、やすやすと決定打を打ち込ませてはくれない。さすがかしぎ先輩の母といったところだ。
均衡を保っている攻防だがしかし、それもすぐに崩れだろう。最初と比べると、ゆかりさんの動きが目に見えて衰えていた。斬撃にはキレがなく、もはや防ぐまでもない。
「はっ……オレも、いまじゃこの様だよ」
正眼に構えていた刀を片手持ちにし、ゆかりさんは腕をだらりと下げる。殺気とも呼べるほどの集中力で刀を振るっていたゆかりさんの姿は、見る影もなくなっていた。
「オレが六年前に志乃と戦ったも、そのときに両手両足が義手義足になったのも知ってるか?」
私は首を縦に一回だけ動かして頷く。
「おかげでオレは満足に戦えない。お前もわかったろ? オレがまともに動けてたのは最初だけで、あとは目も充てられないほどだって」
私に言われるまでもなく、ゆかりさんはもう限界に達していることに気づいていたのだ。あとはどう足掻こうとも、ゆかりさんは弱くなっていくだけ。これ以上、強くなることはできない。
「だからオレはお前が羨ましくもあり、妬ましくもあるんだよ。大切なものを守れるだけの力があるのに、それを使わないってのがさ」
かちゃりとゆかりさんは刀を握りしめる。一瞬また斬りかかって来るのかと身構えたが、そうではないことはすぐにわかった。
唇から一筋の赤い線が顎を伝い、地面へと滴となって落下する。強く噛み締めすぎたせいで、唇が切れたのだ。
刀身だけでなく体も小刻みに震え、なにかを堪えるようにするゆかりさんは声を絞り出す。
「本当ならオレがかしぎの代わりに戦うべきだったんだ。なのにオレはもう、まともに戦えさえしない」
ある種、懺悔のような告白に私は戸惑ってしまった。触れれば斬れてしまいそうな刃の印象を受けた彼女が、一気に萎んでしまっていたのだ。それこそ、風に吹かれれば飛ばされてしまいそうなほどに。
「オレもすべての人間を救いたいとか、そんな気持ちは持ち合わせてないよ。せめて家族くらいは守りたいと思ったから、戦ったんだ」
「家族……」
「でもオレは守れなかった。――だからって、立ち止まるわけにはいかないんだ」
彼女の目からは一点の曇りも負い目も感じられなかった。確固たる意思を持って、従って決死の覚悟を決めた――そんな目をしていた。
私はこんな目をする人間をひとりだけ知っている。というより、世界中を探したとしても――異世界中を探したとしても、かしぎ先輩くらいしかこんな目はしないだろうと思っていた。
やはりこの人は、かしぎ先輩の母親なんだ。
「お前はかしぎしか見えてないのかもしれない。でも、あいつらはお前のことをしっかり見てるんだよ。だからせめて、あいつらだけても守ってやれ」
だんだんと小さくなっていく声で言い切ったゆかりさんは、膝から崩れ落ち、私にのし掛かってきた。慌てて支えようにも片手には地杖を掲げている。私の身長と並ぶほどのことはあり、地杖は重いのだ。小柄な美少女である私が支えきれるはずがない。
体重をかけられ、私は後ろに倒れていく。しかしだ。いまは雨が止んでるとはいえ、まだ乾くほどの時間は経っていない。つまり水溜まりが溜まっているのだ。このままではずぶ濡れになってしまう。
私は筋力を強化して踏ん張ると、ゆかりさんから「自画自賛してるなよ」と遅めのツッコミをいただいた。
「あーあ……情けないよ。あんな偉そうなこと言っておきながら、もう自分で立つこともできないんだから」
「……そんなことありませんよ。あなたには、たくさんのことを教えてもらいましたから」
私から抱きつくように支えられるゆかりさんは、それを聞いて女性らしく微笑んだ。
「そっか。ならいいんだけどさ」
「ですが、私は生き方を変えるつもりはありませんし、ずっと先輩を好きでい続けるつもりです」
「……ったく、それじゃオレがなんのために戦ったんだかわからないな」
ため息混じりに言われたとしても、私はこの生き方を変えたりはしない。先輩のために動いて、喜んでもらえるようにする。……でも、先輩のために生きるのではなく、私のために生きるとしよう。
愛するかしぎ先輩はきっと、私が私のために生きることを望んでいるだろう。それを思い知らされたのは、眼前にいる女性のおかげだ。
「大丈夫です。ちゃんとわかってますから」
じっと私の目を見つめたゆかりさんは、やがて頬を緩めてもう一度微笑む。
やっと張り詰めた糸のような緊張感から解放されるかと気を抜いていると、急にゆかりさんが刀を握る柄に力を込めた。また斬りかかられるのかと地杖に波動を注ごうとしたが、
「真宵、オレのこと支えとけよ」
それを聞いて私に敵意がないことがわかった。
ならばいったい誰に対して敵意を露にしているのかと首をかしげたが、その矛先は案外あっさりと見つかった。
気配を絶って近づいてきていた髪を逆立てている男が、飄々とした態度でゆかりさんの一太刀を後ろに飛んでやり過ごす。その際やったどうだと言わんばかりの表情に苛立った私は、男がまだ宙に浮かんでいる間に闇系統の波導で引き寄せ、刀の軌道上に体を誘導した。
ゆかりさんは凄惨に口角を吊り上げると、一気に刀を振り抜いた。勢い余って柄尻が私の頭部を掠め、このときばかりは身長の低さに心から感謝した。
男は引き寄せられた直後は驚いていたようだが、ゆかりさんの一太刀は見切っているらしく、上体を後ろに傾けることで回避する。
ゆかりさんが苦々しげに舌打ちすると、目線だけで私に合図を送ってくる。
――やっちまえ、と。
それは殺してしまえというわけではないのだろうけれど、ゆかりさんが言うとそういう風にしか聞こえない。……まぁ、言ったわけではないのだけれど。
しかしこの男が気に食わないのは私とて同じだ。私は手を出さないだろうと油断しきっているこの男に、目にものを見せてやる。
中途半端に垂れ流しにしていた波動を地杖に叩き込む。容量が限界に達したところで、私は高らかに詠う。
「――氷姫よ、天焦がす地獄の花束を!」
わざわざ詠唱する必要はないのだが、これはいわば決意の表れだ。これからは先輩におんぶにだっこになるのではなく、しっかりと自分の足で彼の隣に並んで歩いていく。
私は先輩しか見えていないけれど、私を見てくれている誰かを守れるような、異世界にいた頃の私とも、なにもなかった私とも違う、新生藍霧真宵として、これからは生きていく。
……もちろん、そんな赤面ものの決意は口に出したりしない。絶対である。
「おや」
「へぇ」
ゆかりさんと男は同時に短く呟くと、地杖より放たれた氷の花束を木っ端微塵に破壊した。
それがなんの呟きかも気になるが、それなりに波動を孕んだ一撃をこうも簡単に破壊されるとは、私を以てしても驚きだ。
「すっかり元通りになったみたいだねぇ。安心したよ」
こんな胡散臭さ丸出しの男に言われても、砕けて頭上に降り注ぐ氷花ほども信用できない。
「それにしてもひどいじゃないか。君、僕を殺すつもりだったじゃないか」
「不用意に後ろから近づいてくるお前が悪い。八雲、気配を消すのは構わないが、オレに斬られたくないなら後ろに立つな近づくな」
「これはこれは物凄く嫌われちゃってるねぇ」
そんな性格で嫌われない方がおかしい。むしろ、あなたを好いてくれているような酔狂な人間がいるのか教えてもらいたい。
「あの、ゆかりさん。一つだけ聞いてもいいですか?」
「いいよ。いくらでも聞きな」
さっきとは打って代わったゆかりさんの態度にやや困惑しながら訊ねた。
「先輩を転校させると言いましたが、その……本当に転校させてしまうのですか?」
「そんなん気にしてたのか? 安心しろ。あんなのただの嘘だよ。ろくに親らしいこともしてやれてないのに、友好関係を引き裂くような真似、するわけにはいかないだろ」
ゆかりさんの口から直接聞くことができて、ようやくほっと息をつけた。
まだ話さなければならないことがあるというのに、話せずじまいでは死ぬに死にきれない。
先輩と会ったら、私の気持ちをきちんと伝えなくてはならないのだ。
そのためにも先輩の居場所は――私が守る。