6―(5)「がらんどうの檻③」
「お嬢ちゃんは、アカシック・レコードを信じるかい?」
唐突な問いかけに、アウルは頭を持ち上げた。
暇そうに天井を見上げて手足を放り投げている八雲は、相変わらず人をからかうような笑みを口元に張り付けながら、目だけをアウルに向けていた。
「さあ。どうなんでしょうね」
八雲の唐突すぎる質問の意図がわからず、そんな返答をしてしまう。
「うんうん。まぁそんな反応になるよね。いきなりこんな質問をされて、そもそもアカシック・レコードという単語すら知らないかもしれないのに、どう答えたらいいかなんてわかるものじゃないからねぇ。君の返答は模範回答だよ、とでも言っておこうか」
「は、はぁ」
「でも、僕が求めているのはそんなものじゃないんだよねぇ。なにせ君は模範となるには少々、逸脱しすぎているんじゃないかい?」
「……なにが言いたい」
アウルの視線が鋭くなる。彼女はもともと目付きがいい方ではないから、それをさらに鋭くされるとかなり威圧的になった。まともな神経をしている人間であるならば、腰を抜かしてしまうだろう。
だが八雲はまともな神経どころか、まともな人間ですらない。刺し殺すような視線すらも心地良さそうに、笑みの彫りを深くする。
「そりゃ決まってるよ。ここにいる人間は、揃いも揃って化物と呼ばれても仕方ない存在なんだぜ? 一般人に訊いて返ってくるような答えは求めてないんだよ」
知っているはずだぜ、と八雲は体を起こす。
保健室の教師が娯楽用に置いていたものであろう将棋の駒を、盤上に散乱させた。
「『アカシック・レコード』という神様の書いた脚本を自由に閲覧することのできる、神様気取りの能力者のことを」
なぜそのことを私に話すのだろう――アウルは純粋な疑問を膨らませた。
アウルと八雲は会ったばかりだし、初めて交わす言葉としては突拍子のないことだった。
お喋りや他人の困る姿を見るのが好きというのは、彼の行動を追っていれば嫌でもわからされることだ。これもアウルを困らせようとしているのであれば、疑問を抱かなかっただろう。けれど、八雲にそういうものは伺えない。なにかの確証があって訊いているように思えた。
「えぇ。話に聞いただけですが、『組織』にも『九十九』にも属していないものの、両方が干渉を控え、その行動を黙認しているとか」
「……そうそう。そうだったねぇ」
そう答えるまでわずかに間があったことは、あえて言及しないことにした。
「そこまでは少し超能力の内部事情をかじっているなら、誰でも知っているんだよ。それなのに肝心な名前を誰ひとりとして知らないのさ。『九十九』の当主はともかくとして、『組織』のトップですらね」
「……そうですね。私もさっき言ったこと以外は、なにも知りませんし」
「だろう? だからおかしいんだよ。これだけ大層な能力を持っているということがわかっているのに、本名もその容姿も、男なのか女なのかも、大人なのか子供なのかも――まぁ、年齢的には君たちと同じか上かくらいだろうけど、とにかくなにもかもが不明なのさ」
超能力者の情報というのは『組織』の能力者に限るなら、大抵のことはすぐに知ることができる。『組織』に属す眠り姫が、常に目を光らせているからだ。
他人の視界を繋ぎ合わせ、共有し、映し出す能力のおかげで、できたばかりの頃は同好会程度だった『組織』は世界に根を張った。
能力者の行動を把握できるのも眠り姫がいるおかげだ。
たとえば秋蝉のように能力を発現させて力に溺れた能力者の処分をさせたり、不知火や紗良のように『組織』に利益を与える能力者を見つけたり――志乃の居場所を探ったりと、『組織』の骨子は眠り姫のおかげで成されているといっても過言ではない。
世界は眠り姫に見透かされている。それなのに、神の書いた脚本を自由に閲覧できる能力者のことはわからない。
『アカシック・レコード』という単語に繋げることができたのも、信憑性のない噂から汲み取ったものなのだ。
「それが、どうかしたんですか?」
「ん? いやなに。本当にそんな能力者がいるんだったら、こうなることだって予測できたんじゃないかって思っただけさ。きっとそいつは、君たちが泥まみれになりながら頑張っているのを、どこかで嘲笑っているんだろうねぇ。……ところでさ、一つ気になってることがあるんだよ」
アウルは無言で八雲を次の言葉を待つ。
「君の能力って、いったいどんな能力なんだい?」
八雲の言葉がいちいち刺々しい。まるでアウルがその能力者とでも言いたげな口調は、攻められているようで居心地が悪かった。
おそらく八雲はアウルがそいつだと疑っているのだろう。でなければこんな唐突に、攻めるような口調で話しかけてくるわけがない。
「……別に大したものではありません。ただ情報を引き出すというだけの能力ですから」
これは嘘ではない。しかし、嘘でないからといって真実とは限らない。
「ふうん、そうかい。悪かったね、君を疑ったりして」
「……いえ」
そのいい加減な言い方からは、言葉以上のものを感じない。八雲に対して誠意の篭った言葉など期待していなかったし、それ以前に、そんなことを言ってもらう必要もない。
パチン、と軽い音がアウルの耳に届いた。
「さて、と。話は変わるんだけれど、えーと、君は将棋を知っているかい?」
「それくらいは知ってますよ」
どれだけ無知だと思われているのだ、と反射的に言ってしまいそうになったが、なんとかそれを飲み込む。
「なら話は早い。君は自分を将棋の駒に例えるなら、どの駒だと思うかな」
「私、ですか……?」
「そう君。遠慮しなくたっていいんだぜ? 自分で自分に当てはまると思う駒を言えばいいだけさ。ちなみに僕は歩兵かな」
てっきり桂馬とでも言うのかと思っていただけに、その答えは意外だった。
桂馬は駒を飛び越えて動くことのできる。それは掴み所のない八雲と重なっていた。それにしてもなぜ歩兵なのだろうかと、アウルは首をかしげる。
「お嬢ちゃん、君は歩兵を捨て駒かなにかと勘違いしてないかい? 違うよ。僕が思うに、将棋は歩兵がいるから他の駒は王のところに辿り着けるのさ。戦いと同じでね、強い能力者がひとりいたって、勝てるってわけじゃないからねぇ」
――彼が負けてしまったように。
八雲は盤上に並べた駒から、飛車を一枚だけ外す。
「さしずめ、かしぎ君は飛車だろうね。歩兵が大事なんて言っても、やっぱり飛車みたいに強い駒には勝てない」
「ならば志乃は王将とでも言いたいのですか?」
「まぁ、それが妥当だろうね。この戦いは志乃を倒してしまえば終わりなんだから、彼女を王将とするのがいい。だとすれば、僕たち側の王将は誰になるんだろうねぇ」
「少なくとも私ではありませんよ」
「はははっ、別に自分が王様だって言ってもいいんだぜ? そうやって謙遜することはないよ。こんなのただのたとえ話じゃないか」
そうだとしても、自分が王たる器ではないことをアウルは自覚している。とてもではないが、そんなことは言えなかったし言いたくもなかった。
とはいえ、こちらの王とは誰なのだろうか。
飛車は冬道、歩兵は八雲を含めた能力者たち。頭に浮かぶ能力者たちを駒に例えていっても、どうしても王だけは誰にも当てはまらない。そうして残ったのは、藍霧だけ。
ならば藍霧こそ王ではないのかと思ったが、それと同時に、アウルには彼女が王となる人材とは思えなかった。
それ以前に、藍霧は盤上にいないのではないだろうか。
なにせ藍霧は局面などどうだっていいと考えている。冬道さえ生きているのなら、その他大勢など気にかけてやる必要はない、そう考えているからだ。
「王様はきっと、神様気取りのそいつだろうねぇ。いや、そいつは王様と打手を兼任しているのか。どちらにしろ、僕たちはそいつによって動かされてるだけなんだよ」
八雲は心底面白くなさそうに呟くと、盤を思いきりひっくり返した。並べられていた駒が宙を舞い、床に落ちた。
「……そんなことは、ない」
絞り出したようなその囁きは、八雲の耳には届かない。
爪が食い込むほどに強く拳を握りしめていたが、やがて弛めてうつむいた。
いまはこうするしかない。なんと言われようと、この道が最善であり、来る未来への架け橋なのだ。それをわかってくれなどとは言わない――だからせめて、黙っていてくれ。
「八雲さん、うちの生徒を虐めるようなことは遠慮してもらいたいのだが」
「やれやれ、司くんは人聞きの悪いことを言うなぁ。僕は彼女のことを虐めていたつもりなんてないよ。ちょっとお話ししていただけじゃないか」
「どうだか。私の目からは、虐めているようにしか見えなかったのだがな」
保健室に入ってきた司は、能力の副作用で眠そうにしながら床に散らばった駒の一つを拾う。
「貴方はどう考えても歩兵などではない。せめて桂馬が妥当なところだろう」
「おやおや、盗み聞きとは色気のないことをするねぇ。せっかくの美人が残念がっているよ」
同じように駒を拾った八雲は、なにもない盤上に叩きつけるように打つ。打ったのはもちろん桂馬だ。
そして司が打ったのも桂馬だ。
「そんなもの、勝手に残念がらせていればいい。私には必要のないものだ」
「贅沢なことを言うねぇ。持って生まれた容姿っていうのはなかなか変えられるものじゃないんだぜ? 才能と同じさ。見た目がいいってだけで人生勝ち組だとは思わないかい?」
「そんなもので人生を左右されてたまるものか」
取りつく島もないといった感じで司は八雲を一蹴する。
八雲は笑って肩をすくめるだけで、さして気にしているようではなかった。
思わずそのふざけた顔を殴り飛ばしたい衝動に駆られたけれど、いつものことだと自分を落ち着かせる。八雲の態度にいちいち対応していては身がもたないし、それこそ思う壺だ。
ほとんど話したことはないものの、こういう人間だというのは嫌なほど身に染みていた。
八雲の体を舐め回すようないやらしい視線をかわすため、近くに置いてあった白衣を羽織ると無言で爪先を突き上げるが、あっさりと避けられる。
「司くんはいけずだねぇ。いいじゃないか。君もこういった視線には慣れてるんじゃないかい?」
「貴方のようにあからさまに見てくる輩は、路地裏に呼び出しておいたがな」
「それは怖い。僕も呼び出されるのかな?」
嬉しそうに手をわきわきとさせる八雲に「それはない」と短く断りを入れる。こんな変態を呼び出したら逆にこっちが危ない。
こんな変態でも、八雲は司では太刀打ちできないほどの実力者だ。以前に冬道の拳を、全力でなかったとはいえ、棒立ちのまま片手で受け止めたほどだ。まず力押しは通用しまい。それにあの冬道ゆかりと旧知の仲であるのだから、この戦いに巻き込まれた能力者でも頭ひとつ飛び抜けているだろう。
「私ではなく東雲でも見ていろ。あいつの方が私よりも胸がデカイからな。義理の娘の胸ならいつでも見放題だろ」
「んー。それもそうなんだけど、嫌がる君の顔も、僕としては見ていて楽しいからねぇ」
「死ね」
辛辣に突き放すと、藍霧に視線をかたむけた。
やはり藍霧は眠ったままだ。保健室を出たときからまるで動いた様子がない。なにかしらの変化があったのではないか――あってほしいという期待を裏切られ、落胆は大きなものとなった。
期待しても藍霧が起きないというのはわかっている。異世界での――いや、異世界から帰ってくる前の藍霧のことはなにもわからないし、話したがらないが、それでも冬道を中心に藍霧真宵という人間が保たれていることだけは一目瞭然だ。生きていることさえも冬道に依存して、まるで自我がないような振る舞いをしている。
実際はそんなことはないが、それでも冬道に関係しないことでの藍霧の興味はほとんどないと言っていいだろう。
だから冬道がいないのであれば、藍霧が再び目を覚ますことはあり得ない。
冬道が地に墜ちた瞬間、藍霧は死んだのだ。
「僕はね」
八雲の話はいつでも唐突だ。驚くことにももう慣れた。
「雪音から彼女の、藍霧真宵くんの話を聞いていたんだよ。かしぎ君がいなければ生きることさえできない、がらんどうの少女のことをね」
「貴方がこっちに来た理由はそこにあるとでも?」
「言ってしまえばそうだね。ただし、用があったのは雪音ともうひとり。ゆかりくんだけさ」
「ゆかりさんが来ているのか!?」
こちらの話などそっちのけで外の景色を見ながら会話していた支倉姉妹が、司の悲鳴にも似た叫びを聞いて勢いよく振り向いた。いや、ただ反射的に振り向いたわけではない。
冬道ゆかり――その名前に反応したのだろう。でなければアミはともかく、エミがいままで以上に牙をむき出しにするはずがない。瞳孔など縦に避け、真紅の瞳は禍々しい光を発している。
それもそうだ。アミとエミにとって志乃は親みたいな存在で、ゆかりはその宿敵と呼べる相手だ。四肢を犠牲を潰したとはいえ、志乃は死の淵にまで追いやられている。憎んだりするなという方が無理な話だ。
「それで、ゆかりさんはどこにいるんだ?」
「さぁね。だからさっきも言っただろう? 一緒に来たもうひとりとははぐれたって。なんていっても、検討がついてないってわけじゃないんだよねぇ。まぁ、待っていればここに来るさ」
「そうか……。ところで、ゆかりさんの用とは?」
司の問いに八雲はわざとらしく間を置くと、
「――がらんどうを埋めにでも来たんじゃないかい?」
そんな風に答えた。
まず藍霧が関係していることはたしかだろうが、がらんどうを埋めるとはいったいどういうことだろう。がらんどうとはなにもないことを指し、その通り、藍霧はなにも持っていない。
持っていないといっても能力的なことではない。総合的に見れば、藍霧の能力パラメータはずば抜けている。なんでも我が物とする要領のよさと、がらんどうであるがゆえの容量の大きさがそうさせるのだ。
藍霧が持っていないのは、およそ『自分』と呼べるものだ。感情だって周りと比べれば希薄だし、自我などないといっても差し支えない。
つまりゆかりは、藍霧に自我や感情を取り戻させようというのだろうか?
かの勇者でも、彼女をここまでにするのが限界だったというのに――。
「できるのか……?」
「それはゆかりくん次第さ。いくら彼女がかしぎ君の母親といったって、所詮は初対面の赤の他人。そう簡単に心を開くとは思えないけどねぇ」
もっとも、と八雲は凄惨に笑う。
「開く心がないんじゃ、意味ねぇっつーの」
これだからこの人は恐ろしいんだ。司は背筋を駆け抜けていった悪寒を悟られないようにしながら、元殺人鬼を見据えた。
この男もどうしようもないほど異質だ。そしておそらくは同族嫌悪。彼も娘以外のことを等しくどうでもいいと思っているところがあり、自我の有無という違いがあれど、同じ考えを持つ藍霧を受け入れることができないのだ。だって八雲は、これが正しくないことだと思っているから。
人の思想など千差万別だ。誰がどう言おうと、自分がそうだと決めた道を否定される謂れはない。たとえ自分以外が間違いだと否定しても、自分さえ正しいと思っていれば、それは正しいのだ。だから誰も藍霧や八雲の『芯』を否定することはできない。
「まぁ、ゆかりくんのことだから、真宵くんのことなんて一切考えてないんだろうけどねぇ」
「え?」
「だってゆかりくんは、かしぎくんの母親なんだぜ?」
司にしては珍しくきょとんとする。八雲がなにを言いたいのか、本心からわからなかったのだ。
母親だからなんだというのだろう。その辺りだけは、司にも理解できない。
「いまはわからなくたって、君も結婚して子供を持ったら、いずれわかるようになるよ」
そんなものだろうか。やはりよくわからなかったが、それはこの際は忘れることにした。
「それでアウル。いまさらだが、ほかのやつらはどこに行ったんだ?」
「……白神先輩から助けてほしいと連絡がありました」
アウルがぶっきらぼうに答えたところを見る辺り、まだ八雲が言ったことを気にしているのだろう。
「なるほど、それで翔無を連れて助けに行ったというわけか。……おい八雲、なぜついていってやらなかったのだ」
「どうして僕が行かなきゃならないんだい? 行っても無駄ってことがわかってるのにさ。なんたって、向かった先がゆかりくんの自宅なんだからねぇ」
そう言った瞬間だった。保健室の鏡が不自然に揺れ出したかと思えば、なかから何人もの人影が飛び出してきた。何人かが急に変わった高低差に対処しきれず床に転がるなか、黒の女性は危なげもなく着地する。
見知った顔ぶれが勢揃いしたことに内心でこっそりと安堵すると同時に、なんだかどっと疲れが押し寄せてきたような気がして、司は力なくパイプ椅子に座り込んだ。
黒衣の侍は当時在籍していたころとほとんど変わっていない保健室に、なんとなく感慨深いものを感じながら、後ろで床に転がる少女たちに手を差しのべる。ひとりずつ優しく起こしてやると、ゆかりは乱れた服装を正した。
どこか執念すら感じる黒一色に着飾った姿は、アウルに死神を連想させた。これで鎌でも背負っていれば、紛れもない死神だっただろう。けれど右手に掴むのは、鞘や柄、唾までが漆黒の刀だ。この場合は侍が上等だろう。
研ぎ澄まされた刃が喉元に突き立てられたような雰囲気から察するに、生半可な道は歩んでおるまい。四肢を偽物に委ねてまで刀をとる姿勢は、もはや狂気さえ感じられる。
そんな黒衣の女は、ベッドの上でのんきに片手を上げる八雲を見ると、盛大にため息を溢した。
「ゆかりくん、僕を見ていきなりため息って、失礼なことをするねぇ」
「うるさい。こっちはせっせと働いてるのにお前だけのんびりしてるなんて、いいご身分だな」
「僕の役目は君の手足と刀の調整だけ。それ以外は基本的にノータッチでいくつもりさ。それと一つだけ忠告しておくことがあるんだけど」
「お前に忠告してもらうことなんてなにもない」
ゆかりは黒の上着を翻すと、鞘に納まったままの刀を振り上げた。背後から伸びてきた柱がその一撃で粉砕する。塵埃が舞い、その向こうから一匹の小さい獣が飛び込んできた。
まさか蹴り飛ばすわけにもいかず、半身になり床に焦げ跡を残しながら、すれ違うように場所を入れ替えた。
「お前か――」
繰り返して、ハウリングするように、前後で怨念の唸りがゆかりを包む。
「あぁ、そうか。お前ら、志乃の……」
「――冬道ゆかり!」
気怠そうに支倉姉妹を交互に見やると、刀を足元に落とす。能力者であるにもかかわらず、能力を使わずにただ突き出されただけの腕を掴むと、空いていたベッドに叩きつける。そのまま遅滞のない動作で刀を蹴り上げて抜刀すると、二人の顔の間に刀身を突き立てた。
一切の躊躇のない動きに――ではなく、抜き身となった刀に支倉姉妹は戦慄するしかなかった。直感などしなくとも、『吸血鬼』がそれを教えてくれる。
この刀は自分たちにとって天敵だと。この刀を手にする黒衣の女は、自分たちを殺す者だと。
ゆかりは支倉姉妹に顔を近づけ、耳元で囁いた。
「大人しくしてろ。オレの邪魔をするな」
それだけを言うと体を起こし、刀を鞘に戻した。
「容赦ないねぇ。まだ子供なんだぜ?」
「子供ろうとなんだろうと、手を抜いて死んだら話にならないだろ。ただでさえオレは感覚のない四肢で動いてるんだ。そもそも手加減なんてできないよ」
「君は不器用だから……いや、失言だったかな」
笑いを噛み殺す八雲を、ゆかりはおもわず斬り殺してやろうかと思った。
義手義足の調整が八雲以外でもできるのであれば、とっくの昔に斬りかかっていただろう。どうせかわされるだろうけれど、そんなものは知ったことではない。あたるまで振るだけだ。それで刃が通れば儲けもんだ。
ゆかりは殺気をおくびも隠すつもりのない姉妹を意識下から追い出すと、隣のベッドに眠る少女に目を向ける。
「そいつが……」
「藍霧真宵くんだよ。どうだい? まるで人形みたいに綺麗だろう?」
「綺麗かどうかはさておくとして、お前にそっくりだな」
明らかに不機嫌になった八雲を見て、してやったりと内心でほくそ笑む。
しかし、本当に綺麗だと思った。艶のある黒髪に精巧に作られたような美しい顔立ち。幼さを残しながらも、それが短所にならないほど整っており、ゆかりにしてみればとてつもなく気味が悪かった。
人間は人形にはなれない。それは当たり前のことであり、覆すことのできない事実だ。でも彼女を見ていると、それが間違っていると言われているような気がしてならない。
人形のような――マリオネットのような彼女。
「なぁ……オレの役目を果たすためだったら、なにやったっていいんだな?」
誰に問うわけでもなく、気怠そうに呟く。
「好きなようにすればいいさ」
答えたのは八雲。無責任ともとれるセリフではあるが、彼は介入しないとはっきり明言している。ゆかりがどんな方法を使おうと、冬道を差し置いて藍霧を目覚めさせることができるのは、彼女に他ならないのだ。ならばなにをしようと構いやしない。
「ならいい。安心した」
気負うことなく臆すことなく、近所に買い物でも行くような気軽さで、ゆかりは言う。
司は悪い予感しかしなかった。それは周りにいる全員が思っていることだろう。ゆっくりとした歩みで藍霧に近づくゆかりからは殺気もなにもないが、役目を果たそうというつもりもないのがわかるからだ。
ゆかりが藍霧の脇に立つ。さっき支倉姉妹にやったように顔を耳元に近づけると、
「――かしぎは生きているよ」
囁きかけ、藍霧を窓の外に思いきり放り投げた。藍霧の軽い体は砲弾のような勢いで窓ガラスを割り、なおも失われない速度を抱えたまま、アスファルトへと落ちていく。未だに眠り続ける藍霧があのまま地面に叩きつけられれば、まずただでは済まないだろう。だが、ゆかりがそれを考えないはずがない。
投げる直前に、ゆかりは彼女を覚醒させる魔法の言葉を紡いでいた。
さっきまで微動だにさえしていなかった藍霧の体がぐるりと縦に回転する。両足を地面に縫い付けると、二本の直線を刻みながら藍霧は停止した。
碧の双眸がまっすぐにゆかりを捉えた。無機質で無感動な瞳の奥から、いま言ったことは本当なのかと問いかけてくる。
「母さん、やりすぎだよ。みんなびっくりしてんじゃん」
そう言うつみれは慣れっこだからか、驚いたりしない。
けれど唖然としてしまうのも仕方のないことだ。回復したとはいえ、さっきまでは廃人同然だった少女を投げ飛ばすのだから、正気の沙汰とは思えない。
「わがままなお嬢様にはあれくらいがちょうどいい」
「えー……そうかなー。やりすぎだろー」
いいんだよ、とつみれに返し、壊れた窓の骨子に足の裏を乗せる。
銀色の首飾りに手を添えた元勇者によくない感情を抱きながら、ゆかりは飛び出した。
◇◆◇




