6―(3)「がらんどうの檻①」
司は目を覚ますと、頭から首までをすっぽりと覆う流線型のヘルムを脱ぎ捨て、ぼやける視界のなかで似たような二つの顔を見つけた。
心配していた、というより興味津々なその様子に司は思わず頭を振る。他の全員は藍霧のところにいるだろうに、この二人はVRシステム内にいる間になにをやっているというのだ。
だんだんと戻ってきた視界で顔を近づけるアミとエミの額をこついて離れさせると、生徒会室のソファから立ち上がる。
藍霧のいまの様子を二人に訊いてみようかとも思ったが、このように司の後ろを嬉々としてついてくるような子供からではなにもわからないだろう。
もともと支倉姉妹は藍霧――というより、志乃以外の敵だ。少しばかり話したからといって心配するような仲ではない。このように無神経な振る舞いをするのは仕方のないことなのだ。
司と支倉姉妹は奇妙な関係にある。
いまや全能力者の敵となった志乃を助けてほしいと頼まれているが、司はその真逆のことをやろうとしている。はなから敵である彼女たちの願いを聞く必要はないのだが、ここら一帯の眷属の動きを止めるには、協力するフリをしなければならない。
しかもこの二人は『吸血鬼』の眷属だ。子供だといって侮ればすぐに気取られてしまう。
VRシステム内でのことは漏らさない方がいいだろうと判断し、司は保健室へと向かう歩みを速める。
保健室の前にたどり着くと、そこにはひと足先に目を覚ましていた黒兎が、腕を組みながら壁に寄りかかっていた。
「藍霧の様子はどうだ?」
司の問いに黒兎は首を横に振る。
聞くまでもないと思っていたが、その答えには落胆する気持ちが抑えられなかった。もしかしたらということを考えていただけに、希望を砕かれたときの絶望は大きい。
「まさか、藍霧真宵があのようになるとはな。正直なところ、信じられんな」
「私だって信じたくはないが、藍霧の性格を考えればこうなるのはわかっていたことだ」
司は言いながら、ドアを開け放つ。なかには意識を取り戻したアウルや不知火、秋蝉などの姿がある。そんな彼らの視線の先には、ベッドに横たわる少女――藍霧がいた。
藍霧はあの映像を視てからずっとこの調子だ。まるで死んだかのように機能を停止させ、誰の言葉にも答えようとしない。虚ろに開かれた瞳には光が宿っておらず、底無しの闇だけが広がっていた。
こんな藍霧は……いや、こんな人間はいままで見たことがない。どうなればここまで堕ちることができるのだろう。
生きていながらに死んでいる。
生きた屍ともまた違う、別のものがそこにはあった。
それは糸の切れたマリオネットか。はたまた生きる意味を奪われた、がらんどうの少女の形をした人形か。
それはこの際どうでもいいことだ。ただ言えるのは、この少女が目に光を宿すことはもうないだろうということだけだ。
「先生……真宵ちゃん、どうなっちゃうんですか……?」
秋蝉がすがるように司を見上げていた。
藍霧がどうなるかなど、司にだってわからない。聞きたいのはこちらも同じだ。そうやって誰かに頼る癖を治せと叫びたかった。
だが、すぐに司はそういったことを振り払った。いろいろなことが重なりすぎて、ついそんなこと考えてしまったのだろう。
込み合った状況なのはどこも似たようなものだが、ここだけは他とはわけが違う。敵が仲間のように居座っているし、その敵に協力しようとする仲間はいるし、問題を抱えた元勇者もいる。さらには自分しかできないとはいえ、敵大将の場所を特定しなければならないのだ。
司でなくとも、誰かに八つ当たりしたくなって仕方のないことだろう。
薬棚から頭痛薬を取り出して水で流し込み、言う。
「いまはなんとも言えん。藍霧の状態は精神的なところから来るものだ。それを解消するには精神を回復させるか、自分で立ち上がるしか方法はない。……まず、しばらくは無理だろうな」
藍霧のは精神というより、生に関する意識と言った方が正確かもしれない。
がらんどうであった藍霧は、異世界で冬道のために生きると決めていた。それは地球に帰ってきてからでも変わることはない。冬道が倒れたのなら、藍霧にとって生きる意味はないのだ。
だからこのように、植物状態のようになっている。
こう言ってみたものの、藍霧が自分で精神を立て直すことは万が一にもないと思っている。なにせ冬道にすべてを左右されている藍霧は、彼がいなければなにもすることができないからだ。
冬道がいなければ、まさしく藍霧は糸の切れたマリオネットそのものだ。
「司先生、いまの状況はどうなっていますか?」
まだ背中が痛むのか、顔をしかめながらアウルは言う。
司はこの場にいた全員に、どういう状況になっているのかを説明した。もちろん凪が志乃のところに行くことも、司がその場所を特定することも省いてだ。
聞いてあっさり納得できる内容ではないだろう。しかしアウルはどこか合点がいったような表情で、思考の渦に入っていく。
「とりあえず、ここら一帯は支倉姉妹が命令しない限り、眷属に襲われる心配はないはずだ。協力しようとする仲間を、むざむざ襲わせるような真似はしないだろうからな」
司は遠回しに、余計な真似はするなと威圧をかける。
「アミたちを信頼してくれたっていいじゃん!」
信頼などできるものか、と内心で吐き捨てる。
いくら協力関係にあるとはいえ、二人は『吸血鬼』の眷属――強いては志乃の仲間なのだ。しかも相手は子供だ。無邪気で無垢なだけに、普通ならやらないことをやってしまう。
もし司が協力するつもりなどないことに気がついてしまえば、支倉姉妹はすぐさま眷属に命令を下すだろう。
能力者を殲滅せよ――と。
そうさせないためにも、二人には気づかせてはならない。細心の注意を払い、なるべく会話をしないようにする。そう決め込むと、司は保健室の外にいる黒兎に囁いた。
「私はこれからやらなければならないことがある。黒兎、私の護衛につけ」
「なぜ俺がそのようなことを……?」
「ここにいるなかで一番強いのがお前だからだ。いいか、私は生徒会室にいるが、絶対にあの姉妹を近づかせるな」
こんなときだというのに眩しい笑顔で会話をするアミとエミ。黒兎はまだ能力を見ていないだけに、二人がどれほどの能力者か推し測れずにいた。
眷属となら戦ったが、東雲に鍛えられた黒兎にとって、さほど苦戦するような強さではなかった。ただ数が多く、一体一体を捌くのに時間がかかってしまったからダメージが蓄積したにすぎない。
その眷属と同じなら、あんな子供相手に警戒するだけ無駄だと思ったが、司がそこまで言うのだからと、黒兎は無言で頷いた。
「いざというときのためにあの姉妹の能力を教えておく」
そう前置きして司は言う。
「赤いレインコートの方の能力は物質の爆発だ。自由自在に爆発を起こせるわけではないから、回避するにはモノがないところに行くか、距離を開ければいい。青いレインコートの方は物質の形状変化。こちらはほとんど警戒する必要はないが、爆発とのコンビネーションもある。なるべく形状変化した物質にも近づくな」
「……わかった」
矢継ぎ早に説明されて多少混乱したものの、ようはモノに近づかなければいいだけのことだ。黒兎の雷速をもってすればそれくらいは造作もない。
だからといって油断するなどということは、いまの黒兎にはない。東雲の教育によって叩き直された黒兎には、傲慢さも侮りも存在しないからだ。
そんなものを持っていては、大切な人を守ることなどできないと体感した。もう二度と、大切な人を失いたくない。
「それで、いったいなにをしようというのだ? 『組織』全体が、そしてトップまでもが自ら出向くようなことだ。決して規模の小さいことではあるまい」
黒兎は司がVRシステム内にいる間に『組織』に通信をしていた。だが応答は一切なく、どこも同じように繋がる兆しが見えなかった。
いままではどこかに通信が繋がらずとも、『組織』の頂点――凪だけは最後に応答していた。それだというのに今回に限っては応答がない。
おそらくは『組織』の能力者全員がそれを不審に思っているはずだ。まさか、敵大将のところに直接赴くとは夢にも思っていないだろう。
「お前も視えただろう? 冬道がやられる様を」
「……あぁ」
視たもなにも、黒兎が目を覚ましたのはそれがあったからだ。冬道が胸を貫かれた瞬間、黒兎の意識は無理やり覚醒させられた。
五感を休ませていたせいか、夢として視えたあの映像は妙な現実味を帯びていた。
あんなものを見せられて起きない方がどうかしている。
「冬道がやられた以上、志乃を倒す手段はないと言っていい。ならば、我々がどうにかしなければなるまい」
志乃の超能力を封じる力が、不可視の柱によりものであるかどうか。それがどう転ぶかによって戦況が大きく変わってくる。
こちらのいいように事が運べば、少なくとも真っ暗だった道筋に光が射し込んでくる。逆ならば、凪はおろか助けに行こうとしている姫路やガンマ、御神の命はないだろう。それでもどうにかしなければならない。
『組織』がどうこうではなく、生き残るためにだ。
「私は志乃の居場所を特定する。それをあの姉妹に感づかれてしまうと厄介だから、お前に護衛を頼んだのだ」
「なるほどな。了解した」
すると、見向きもしなかったアミが司たちの方に向き直り、近づいてきた。
「さっきからなんの話してるの? なんだか怪しいぞ」
一瞬、アミに気づかれてしまったのかと肝を冷やした。
司は『吸血鬼』の能力の一部には直感があったことを思い出した。アミは会話の内容まではわからずとも、聞かなければならないことだと直感したのだろう。
首をかしげるその姿は、自分でもどうしてそんなことを訊いたのかわかっていない、と言っているようだった。
「別に怪しいことはなにもしていないよ。大したことない話さ。……それより、私と黒兎はやることがある。なにかがあれば生徒会室に来い」
司はそれだけを言うと質問すらさせる間を与えず、保健室をあとにした。
残された秋蝉には、支倉姉妹の会話と雨音以外はなにも聞こえなかった。アウルは考え事に集中しすぎているし、不知火とはそもそも話すような仲ではない。
紗良と話すとき、幼馴染みということで彼のことをよく聞いて悪い人ではないということは知っていた。けれど秋蝉は男が話すのが苦手だ。冬道は例外として、ほぼ初対面の少年と話すことなどできはしない。
支倉姉妹とだけなら話せるが、どうもさっきの司とのやり取りのあとからアミの機嫌が悪い。話しかけるような雰囲気ではなかった。
藍霧はあれからずっとベッドに横たわっている。うっすらとだけ目が開いていて、眠っているわけではなさそうだ。
顔にかかる髪を流して、秋蝉は狐の面に触れた。
『狐の面』であったなら、なんだってできた。なんにでもなることができた。
でも『狐の面』は秋蝉が作り出した紛い物だ。実際には存在しない、することさえ許されない理想形。
もしも『狐の面』であったなら、こんな歯痒い気持ちにはならなかったのではないか。秋蝉はそう思わずにはいられない。
誰かに守ってもらうばかりで、守ることができない。中途半端に力を持ってしまったがために、足手まといでしかない自分に腹が立った。
どうしようもなく情けなくて、不甲斐なくて――秋蝉は手で目元を覆った。
泣きたいけれど、泣いていいような立場ではない。こんななにもできない自分が泣くなど、迷惑になるだけだ。
そう考えると、戦っている人たちはすごいと思った。戦闘能力などではなく、大切な人を守るために、信念を貫くために泣き言ひとつ言わないその心の強さがだ。
「ほら、やっぱり。アミのせいだよ」
「そ、そんなこと言ったって……」
耳元でそんな会話が聞こえて、秋蝉は顔を上げた。
いつの間にか秋蝉の両脇にアミとエミが座っていた。エミはじとっとした視線で見つめられ、アミは居心地が悪そうにしている。
なんのことかわからない秋蝉は、思わず首をかしげた。
「かなでさん、アミにやられた背中、まだ痛む?」
エミにそう訊かれ、なにを言いたかったかがわかった。
秋蝉が俯いていたから、アミにやられた背中が痛むと思ったのだ。だからエミは批難を浴びせるような視線で見つめ、アミは事実なだけに否定できず居心地が悪そうにしていたのだろう。
「大丈夫だよ。背中はもう痛まないから」
そう言って二人の頭を優しく撫でる。目を細め、気持ち良さそうにしているのを見て秋蝉も少しだけ落ち着けた。
背中の傷はもうすっかり癒えているから、当然痛みなどない。少しだけ違和感が残っているものの、それもすぐに気にするほどではなくなるはずだ。
「ごめんなさい、かなでお姉ちゃん。あんなことして」
「ううん、気にしなくていいよ。あのときはまだ敵同士だったんだから仕方ないよ」
「……うん」
しかしアミの表情は浮かばれない。浮き沈みの激しい子だと思っていたが、そこまで落ち込まれるとこちらまで困ってしまう。
どうしようか秋蝉が悩んでいると、エミがアミの頭を思いっきり叩いた。これが拳骨だったら鈍い音だっただろうが、あいにくとエミは平手でやっている。おかげで部屋中に乾いた音が響き渡り、思考中のアウルや外の警戒をしていた不知火にまで注目されてしまった。
支倉姉妹に挟まれるようにして座っていた秋蝉など驚いて目を丸くし、口をぽかんと開けていた。
「な、なにするんだよエミ! 痛いよ!」
じんじんと痛む後頭部を押さえるアミは、涙目になりながらエミに怒鳴る。
そんなものは平気と言わんばかりの態度のエミは、つまらなそうにため息をついた。
「そんなに落ち込むなんてアミらしくないよ。いつもは謝ることもしないのにそんなになるなんて、気持ち悪いよ」
「気持ち悪いってなにさーっ!」
「かなでさんがいいって言ってくれてるのにいつまでもそうしてたら、逆に気を遣わせちゃうよ。アミはいつも通り、元気にしてればいいの」
これではどっちがお姉さんだかわからないなぁ、と秋蝉は思っていたが、ふとあることに気がついた。
「アミちゃんとエミちゃんって、どっちがお姉さんなのかな?」
色合いで勝手にアミを姉と思っていたが、そういえばどちらが姉なのかを訊いていなかった。そんな暇がなかったからつい忘れていたのだ。
話を逸らすちょうどいい話題に、秋蝉は周りには目も暮れずに食いつく。
「お姉ちゃんはアミだよ。こんなお姉ちゃんじゃちょっと……じゃなく、すごく頼りないけど」
「お姉ちゃんに向かってその言い方はないと思います!」
「アミのこと、お姉ちゃんだなんて思ってないけどね」
「ピエロの兄ちゃんよりは頼りがいあるでしょ?」
「彩人さんは頼りがいがあるないじゃなくて、ただの変態だから。あの人に頼っちゃだめ」
「それ聞いたらピエロの兄ちゃん、きっと泣くと思うよ」
「泣かせてたらいいよ」
ここに来る前は彩人を庇っていたはずだが、実はそんなことはなかったらしい。双子なのだから、考えることも同じなのだろう。
支倉姉妹の彩人への評価は『頼りないお兄ちゃん』と言うことのようだ。
しかし、その頼りないお兄ちゃんも支倉姉妹の――志乃の仲間ということは『吸血鬼』の眷属ということだ。
司の話によれば、眷属には二種類がある。ただ能力者を襲う駒と、それに命令を送る司令塔の二つだ。
駒の方には自我がなく、また能力を使うこともできないデメリットがある。それでも『吸血鬼』の恩恵を受けているため、攻撃力と回復力が備わっている。そして司令塔にはそれに加え、デメリットが存在しないのだ。
司令塔は一体で『九十九』の能力者数人分にも及ぶ。
アミとエミはどちらかといえば弱い部類に属しているわけだが、それでさえ司がいなければ、秋蝉たちでは手も足もでないだろう。その司がいたところで、本気になった支倉姉妹を相手にできるかは定かではないのだ。
たとえ軍隊が相手だったとしても、直接組み合うことをしなければ、アミとエミの二人だけで壊滅させることだってできる。
超能力者とは、『吸血鬼』とはそういうものなのだ。
「あ……彩人さんっていうのは志乃が生き返らせた名付きのひとりなんだけど……」
秋蝉がついてこれていないことに気づき、エミは慌てて彩人について話す。
「年上好きで痛いことが好きな、女の子みたいな顔なの」
「エミちゃん、その人に関わるのはやめなさい」
いろいろな性格の持ち主と会って、模写してきた秋蝉でもそんな変わり種とは会ったことがない。特殊な性癖の持ち主ということで割りきればそれまでだが、なんだか割りきるわけにはいかなかった。
真意に迫った秋蝉を見て、エミは頬を引きつらせながらだが頷いた。
「……じゃあそろそろ、問題について考えようか」
いつまでもほったらかしにしておくわけにもいくまい。
「どうやって志乃さんを助けるか、だよね」
志乃がこんなことをしているのは、能力者に存在する『格』が彼女に負担をかけているからだと言っていた。
超能力者についてほとんど知識のない秋蝉には、『格』がどういった役割を果たしているのかわからない。どうして『格』が志乃に負担を強いているのか、なぜ志乃のみに負担がかかるのか。超越者だからという理由ならば、柊にも同じことが言えるはずだ。
いや、こうして志乃だけを死の淵に追い込もうとしているのだから、可能性のことを考えていても無駄だ。
けれどどうしたものだろう。ほっとくことができなくて言い出したものの、具体的になにをすればいいか検討もつかない。
「どうしたらいいんだろう……」
「どうする必要もないんじゃないかな?」
いきなりの声に秋蝉たちは驚いてそちらを見た。
保健室の入り口に見知らぬ男が立っていた。和服を着こなし、短く揃えた髪を逆立てている。柔和な笑みのなかに潜む人を馬鹿にしたような態度には、どこか見覚えがあった。
「父さん、いきなり入ったらみんなが驚いちゃうだろ?」
「雪音ちゃん……?」
「やぁ。みんな久しぶりだねぇ」
男の背中越しにひょっこりと顔を出したのは、帰省したはずの翔無だった。
「お父さん……?」
秋蝉は男を指さしながら翔無に訊く。
「そうだよ、これがボクのお父さん」
「翔無八雲です。よろしくね、お嬢ちゃん」
軽薄にそう言われ、この二人が正真正銘の親子なのだと納得させられた。一言ずつ喋っただけで、親子ということがわかるくらい似ているのだ。
ここまで似ている親子というのもかなり珍しい。
「どうして雪音ちゃんがここに? 実家に帰ったんじゃなかったの……?」
「そうなんだけど、あんなのを見せられてじっとしてるわけにはいかないからねぇ」
志乃の行った能力者抹殺宣言は、翔無親子のところにまで届いていた。
『九十九』との因縁を断ち切った翔無は勝手ながら、あとのことを冬道に任せようと思っていたが、あんなものを見せられたら黙ってなどいられない。半ば飛び出すようにして、翔無はこっちにやってきたのだ。
やってきたのは翔無ひとりではない。八雲と、八雲の古き友人と一緒にだ。ただし、そいつはここに来るまではぐれてしまったので、いったいどこにいるのか……。
翔無は保健室に踏み入ると、ベッドで横になっている藍霧に歩み寄った。
「やっぱりこうなっちゃったか。かっしーがやられたら、マイマイちゃんはこうなるってわかってたんだけどねぇ」
「どういうこと……?」
「それは彼女のプライバシーに関わるから言えないよ。言ったってどうしようもないしねぇ。それよりさ……」
ぐいっと後ろに親指を向けながら、秋蝉に耳打ちする。
「どうしてあの姉妹はボクのことを睨んでるんだい?」
なぜか支倉姉妹は、翔無が現れてからをこちらをずっと睨んでいる。会ったばかりの女の子の恨みを買うようなことをした覚えがないため、居心地の悪いことこの上なかった。
しかも本来の能力である『おんがえし』が戻ってきたおかげか、はたまた特殊な能力者であるかはわからないが、支倉姉妹が『吸血鬼』の眷属だということを感じ取っている。話に混じったはいいがいまいち状況を呑み込めていないので、敵かどうかの判断をつけかねていた。
眷属なら敵なのだろうけど、ここにいるなら敵ではないのかもしれない。
そのせいで迂闊に手を出すことができないのだ。
「わ、わかんないよ。……アミちゃん、エミちゃん。このお姉ちゃんは私の友達だから、そんなに睨まなくてもいいんだよ?」
どうどう、といまにも噛みつきそうな二人をなだめる。
「それにしてもここら辺だけは穏やかみたいだけど、その子たちがなにかしてるのかい?」
「え、うん。この子たちが眷属が能力者を襲わせないようにしてくれてるの」
東北地方など眷属の猛攻が凄まじかった。いまのところ、超能力が衆目に晒されてはいないが、あのままでは時間の問題だ。
「ふーん、その子たちがねぇ……」
ふと目に入った紙束を拾い、中身を流し見していく。
それを八雲が脇から掠め取り、興味深そうに笑みを浮かべ、頷きながら読み進める。
いきなり奪われたことに翔無はむっとしたのか、八雲の脛に向けて爪先を振り抜く。そんなものは当たらないとばかりに一歩下がると、あるページで目を止めた。
「なかなか正確にまとめてるみたいだねぇ。さすが司くんだ、情報収集に関しては彼女の右に出るものはいないよ」
近くにあったパイプ椅子に腰をかけ、紙束を放った。
「でも、そんな彼女でも知らないことがあったんだねぇ。まぁ超能力はわからないことばかりだし、知らないことがあっても仕方なしさ」
「知らないこと? ……ていうか、そんなもったいぶった言い方しないでさっさと教えなよ」
さっきの仕返しのつもりなのだろう。普段ならしないような言い方をする翔無を見て、しかし八雲は微笑ましげに笑むだけだった。
だてに十八年も親をやっていない。むしろ一度殺してしまった娘の成長を見ることができて嬉しいくらいだ。……ただし、罵られて快感を得るという趣味は持ち合わせてはいないが。
「能力者にある『格』についてさ。『格』が志乃に負担をかけているとかいうので、君たちは能力者を殺そうとしているんだろう?」
「……そうだけど」
八雲の妙な言い回しに、エミは引っ掛かりを覚えた。
パイプ椅子の上で胡座をかき、頬杖をつく八雲は不敵な笑みを浮かべて楽しそうにしている。こういった展開が好きな八雲にとって、これはこの上ない余興なのだろう。
言ったことに不安を覚えた姿を見るのが楽しいのだ。
「そうなんだ。へぇ、なるほど」
「なにさなにさ! 焦らさないで早く教えてよ! そうじゃないと……!」
アミが手のひらを前にかざす。能力を使って爆発させようとしているのだ。これだけモノが多い場所でなら、アミの能力は絶大な力を発揮する。いくら八雲でも無傷でやり過ごすのは難しいだろう。
だが八雲の飄々とした態度のまま変わらない。
「無知は罪じゃない。だから僕が君たちに罪を与えよう」
この回りくどさが八雲の性格なのだろうけど、アミとエミはどうにも好きになれそうにない。
「能力者に『格』なんてものは存在しないのさ」
「……は?」
エミは正直、八雲がなにを言っているのか理解できなかった。驚いたわけではない。いや、あれだけもったいぶったのに、こんな下らないことなのかと、ある意味では驚いている。
『格』が存在しないなどという、この戦いの根底を覆すようなことを言われて信じられるわけがない。寝言は寝てから言えと叫びたかった。
そんな心境を読み取ったのか、八雲はさらに続ける。
「超能力者というのは異常ではあるけど、人間であることには変わらない。なのに能力者というだけで『格』なんていうものが備わると思うかい?」
そんなのあり得ねぇよ――八雲はあっさりと否定した。
「そんなものがあったとしてなんの意味があるって言うんだい? 人間の体には不要なものは存在しない。体外に排出されるからね。それと同じで、『格』なんてものがあったとしても超能力を使う上で必要がないんだから、すぐに消えてなくなるだろうさ」
「……そんなの信じろって言われても無理だよ。エミたちは志乃に言われたんだもん。能力者に存在する『格』が負担をかけるから、もう体がもたないって」
「だから、その話そのものが嘘なんだよ。志乃は君たちに嘘を言ったんだ」
そう言った瞬間、八雲が座っていたパイプ椅子が爆発した。その際に発生した煙幕が保健室を黒く染めた。
「お前は嘘つきだ! 志乃がアミたちに嘘をつくわけないじゃん!」
「そんなわけないだろ」
爆発に巻き込まれたはずの八雲の声が聞こえ、アミはそちらに顔を向けた。
煙幕が晴れて視界を取り戻すと、傷ひとつ負っていない八雲が藍霧の眠るベッドに座っているのを捉えた。
「志乃だって人間なんだぜ? 神や仏じゃあるまいし、嘘をつかないとでも思っているのかい? だとしたら彼女は可哀想だねぇ。――なんつって、同情するつもりは微塵もないんだけどね」
話を仕切り直すかのように八雲はもう一度、両手を叩いた。さっきと違うのはその乾いた音が妙に響いたことだ。
それはさながら仕切り直しではなく始まりを告げているようで、支倉姉妹だけでなく、蚊帳の外にいたはずのアウルや不知火、秋蝉にも緊張感を与える。
「もう一度だけはっきりと言おう。超能力者に『格』なんてものはない」
「……じゃあ、どうして志乃はそんなことを言ったの?」
「エミ!?」
驚きにアミは目を見開いた。こんな胡散臭い男の言葉を信じるというのか。とてもではないが、アミにはそんなことはできない。だが、なぜエミが信じようと思ったのかはわかる。
ただの直感だ。『吸血鬼』の直感は予知に近い。だから柊の直感も当たってしまった。
直感なんかを信じて志乃を疑うようなことはしたくないが、八雲が嘘を言っているようにも見えなかったのだ。
話を聞いてから判断すればいい。エミは癇癪を起こそうとするアミを制して、八雲に耳を傾ける。
「君たちを巻き込まないようにするためじゃないかい?」
「どうして」
「さぁ、いくら僕でもそこまではわからないよ。人の気持ちというのは千差万別だからねぇ」
「…………」
どう判断したらよいのだろう。エミの直感は八雲の言っていることが正しいと、こいつらと協力して志乃のところに戻れと告げている。
でもそうしたら志乃を裏切ったことにもなるのだ。
だからエミは自分の考えを信じることにした。
「信じるよ。でも、信じない」
「うん、それがいいんじゃないかな」
八雲とエミの会話の意味がわからなかったのは、どうやらアミだけではなかったようだ。
「エミは志乃のこと、信じてるから」
ようは八雲の言ったことは信じてることにした。だがついた嘘が裏切りであることは信じないというだけのこと。自分のいいように解釈したというだけのことだ。
話にひと区切りがつき、さてこれからというところで、秋蝉の携帯電話が振動した。着信相手は紗良だった。
秋蝉とアウルははっとして顔を見合わせる。
「もしもし、紗良ちゃん!?」
『…………っ!』
ひどいノイズのせいで、なにを言っているか聞き取ることができない。けれど、向こうがどんな状況になっているのかが、ノイズ越しにも伝わってきた。
ノイズの合間から聞こえる声を拾い、なんとか言っていることを聞き取ろうとする。
『助け……、こっちに……敵……っ! もう…………!』
聞こえたのはそこまでだった。通話が途中で切断されため、最後まで聞き取ることは叶わなかった。しかし重要なところだけは聞き取れてしまい、秋蝉の焦燥感を煽った。
狐の面を片手に、慌てて保健室を飛び出そうとする。
「どこに行くんだい?」
翔無に呼び止められ、秋蝉にしては珍しく苛立たしそうに答える。
「紗良ちゃんたちを助けに行くに決まってるよ! 早くしないと紗良ちゃんたちが危ないんだから!」
いち早く反応を示したのは、支倉姉妹だった。
いま考えられることで危ないといえば眷属による襲撃だ。まさか『九十九』が協力関係にある人間を襲うとは思えない。そんなことしても互いにデメリットしか生まれないだろう。
眷属は支倉姉妹と違い、自我を持ちあわせていない。命令を発していないのだから、勝手に動き始めるわけがないのだ。
しかし、実のところ先ほどから眷属の動きを把握できていない。もしかしなくとも、その辺りが関係していることは明らかだ。
エミは『吸血鬼』を介して眷属に命令を送る。
――動きを停止せよ。
司令塔の役割を持つエミの命令を駒は拒むことはできない。――できない、はずだった。
だが、命令が伝わらない。
「学習し、慣れるのが生物ってものだよ、お嬢ちゃん」
エミの思考に割り込むように八雲がそう言ってくる。
「君が悩んでることなんてお見通しさ。眷属に命令が行き届かなくなっているんだろう?」
どうしてそれを……、という言葉はこの際呑み込み、エミは肯定する。
「紙束を見る限りじゃ志乃は詩織くんの『吸血鬼』を介して、眷属を支配しているようだねぇ。さらに司令塔にその力を分配している。支配する力が弱まって当然っちゃ当然だ」
「……つまり?」
「ここも安全圏じゃなくなるってことさ」
ここら一帯が安全圏なのは司令塔である支倉姉妹が、眷属を待機させていたからに過ぎない。その呪縛から解き放たれた眷属は、再び無差別に能力者を襲い始めるだろう。
紗良たちもおそらく、眷属に襲われている。いまのところは火鷹の能力者で寄せ付けていないはずだが、それも長くは保たない。
『吸血鬼』は不可能を理不尽によって可能にねじ曲げてしまう。以前に藍霧がやったように、火鷹の能力を消すこともさほど難しいことではないのだ。
となればまずい。冬道家には戦える能力者がいないばかりか、無関係なつみれまでいる。冬道のためにも、彼女を巻き込むわけにはいかないのだ。
まさにそれが脳裏をよぎったのだろう。
「藍霧!?」
アウルの叫びに皆がそちらに振り向いた。
廃人にでもなったかのように動かなくなっていた藍霧が、わずかに反応を示していた。体を起こそうと必死になっているが、言うことを利いていない。
「アウルちゃんと雪音ちゃんは、真宵ちゃんの面倒を見てて。私が紗良ちゃんのところに……」
「おっと、それはだめだ。ボクも行くよ。面倒を見てるのなんて不知火くんと父さんだけで十分だろう?」
男二人に意識のない女の子を預けるのには抵抗があったが、アウルや支倉姉妹もいるし、間違いは起こらないだろうと秋蝉は判断した。
そもそもこんな状況の上に、二人はそのようなことをするタイプではない。
頷いて、狐の面で素顔を覆う。
豪雨が降り続ける空の下に、秋蝉と翔無は身を投じた。