5―(17)「繋がり②」
突如として消えた藍霧に、声をかける暇さえなかった。
焦燥感に掻き立てられたあの表情。藍霧を深く……とまではいかずとも、冬道に対する想いを知っているのならば、彼女がなにに焦っていたのか、おおむね見当がついた。
「……っ! 忘れていた……」
司は思わずうめき、脇腹を押さえた。止血もしないままあれだけ無茶な動きをしたのだ。傷口が悪化してしまうのは同然だろう。
いつの間にか赤色の染みが白いワイシャツを侵食してきている。雨に打たれた影響か、その侵食は司が考えていたものよりだいぶ早い。また出血が多いせいか、足取りがおぼつかない。
治療をするために踵を返すが、校舎の惨状を見て脱力してしまう。生徒会室にいたから被害の大きさがわからなかったが、こうしてみるとどれほどなのかがよくわかった。一部は自分のせいだとしても、壁を破壊した眷属に怒りを覚えずにはいられない。
「……これを誰が直すと思っているんだ。どいつもこいつも派手に校舎を壊しおって」
ぶつぶつ愚痴をこぼしながら、司は保健室に向かう。
夏休みでよかったと思う。いままでは壊れても大したことのないものばかりだった。しかし今回は一室の壁が全壊、その近辺の窓ガラスは割れ、壁や柱に亀裂が入っている。これだけを直すには時間がかかるだろう。
どうせなら能力者同士の戦いにも耐えられるようにしようか、などと半ば本気で考えながら、保健室のドアを思いきり横にスライドさせた。
長期の休みということもあり、保健室には誰もいない。というよりも今日この学校に来ているのは司だけで、他には誰もいないのだ。
薬品の棚を開け、司は包帯のほかに傷口の治療に使えそうなものを探す。しかし学校の保健室に用意されているものでは気休めにもならないだろうと、司は包帯だけを片っ端からかき集め、ベッドに腰を下ろす。
ワイシャツを脱いで血がつかないように気をつけながら床に置くと、傷口の具合を確かめた。
「なるほど……痛いわけだ」
肉がごっそりと持っていかれていた。これなら焼けるような痛みがあるのにも納得がいく。
とりあえず応急手当として包帯をぐるぐる巻きにしておくと、予備として用意されていたワイシャツを拝借し、着込む。生徒用のためか、司のバストには少しきつい。
代えがないのだから仕方がないと割りきり、生徒会室に足取りを進める。もともと司が生徒会室にいたのは、『組織』に『九十九』との抗争の内容を報告するためだ。お互いに均衡を保ち合う勢力だが、状況が変わりつつありいま、不測の事態にも対応できるようにと考えたのだ。
実際に二つの勢力は協力し、第三の勢力に立ち向かわざるを得ない状況に立たされている。とはいえ、『九十九』からすれば『組織』など微々たる勢力だ。信用も信頼もされず、それなのに情報を流用するのは気が進まない。あちらはあちらで対策を練るだろうと決定付け、得た情報は開示しないとしたのだ。
「……バカなのか、うちのトップは……」
『組織』をまとめるトップは『九十九』の当主と何かしらの因縁があるらしいが、その辺りは司もよく知らない。
だいたいあんな餓鬼がトップって……。『九十九』はともかく『組織』も世も末だな――と、だんだん思考がずれてきていた。
「ん?」
生徒会室の前までやって来ると、中から会話をする声が聞こえてきた。
「なんだお前ら、戻ってきていたのか」
中に入ると、そこにいたのは私服をボロボロにした黒兎と不知火だった。どちらも満身創痍といった感じで、黒兎はところどころに火傷を負い、不知火は目立った怪我こそないものの、武器である銃がバラバラにされている。
二人とも平然を装っているが、おそらく立っていることさえきついはずだ。
「夜筱……さん、あれはいったいなんなんだ……ですか」
黒兎の言葉に司は硬直した。
「お前が敬語を使うなんて、なにかあったのか?」
「……東雲師範に直すように言われたのだ……です。ではなく、あいつらはなんなんだ」
敬語は不要だと勝手に判断した黒兎は、眷属について説明を求めた。
「あとで説明してやる。どうせウィリアムズたちにも説明してやらねばならんからな」
だからまず座れと促し、二人をソファに座らせる。
司はパソコンの前に腰を下ろすと、『組織』へと送る情報の追加を行う。キーボードに指を這わせ、文面を打ち込んでいく。
どうせ情報は増える一方なのは目に見えているが、それでもまとめておいた方がいいだろう。同じ説明を何回もするのは面倒だ。多方向から別々の情報を得すぎているせいで、状況の把握はできるが、それを繋げるのが大変なのだ。
横目で黒兎と不知火を見ると、あまりの疲労からすでに寝息を立てている。
まだ戦いは終わらないだろう。むしろこれからさらに激化していくに違いない。居残りメンバーの勢力は藍霧を除けばさほど高くないのだ。ゆえにこの二人には頑張ってもらわなくてはならない。
司はわずかに微笑むと、視線をディスプレイに戻した。
アウルは閉じていた瞼をゆっくりと持ち上げる。瞳に広がる新緑の波紋を霧散させると、ソファから立ち上がった。
「――……来る」
つみれを除いた全員の表情が強張る。考えられなかったことではない。狙いが能力者であるなら、四人も能力者がいる冬道家は必然的に標的になる。冬道家から藍霧が離れたとき、ここを守るのは残りのメンバーの役目だ。
頭では理解している。けれど体が言うことを聞かない。
秋蝉はもとより、火鷹も紗良も本来は戦闘向きではない。能力だけを見れば秋蝉は『九十九』とも遜色ない力を発揮するが、本人の意思の弱さがそのスペックを下げてしまっている。戦えるのは、アウルだけのようだ。
気配を見るだけならまだ近い位置にはいない。だが距離などあってないようなものだ。
先に仕掛けるか――アウルは考え、それが一番最良の手だろうと判断した。
「火鷹、お前の能力でここ全体を覆うことはできるか?」
「……そのくらいであるなら大丈夫です」
よし、とアウルは頷く。
「白神先輩は敵の位置の補足、その後、私をそいつの背後に移動させてくれ」
「それは別にいいんだけど、近くに鏡がなかったら私の能力なんてないのと同じなのよ?」
「構わない。そのときは奇襲は捨てる」
アウルが戦うとはいえ、なにも勝つ必要はないのだ。学校に向かった藍霧が帰ってくるまでの間、時間を稼ぐことができればいい。あわよくば倒しておきたいと思っていたのだが、できないのならその策は即座に切り捨てるべきだ。
それにアウルはこの戦い、負けることはないと確信している。自信があるわけでもなければ、虚勢を張っているわけでもない。
ただ、視えているだけだ。
「秋蝉は……」
もしものとき迎え撃ってくれ――そう言おうとして、不意に遮られた。
「私もついていくよ」
「なにを言っている。火鷹たちならともかく、秋蝉は訓練を受けているわけでも、戦闘の経験があるわけでもないんだ。無理をしなくても私が……」
「ううん。無理してるわけじゃないの」
いつもなら少しきつく言えば引いてくれるはずの秋蝉が前に出てくることに、アウルは戸惑いを覚えた。
秋蝉は四月の事件を解決させるため自分を殺そうとしたアウルに、内心ではまだ怯えている。非日常に踏み込み、初めて死に触れたときのトラウマのため、無意識にアウルを避けるようにしていたのだ。また殺されそうになってしまうのではないかと思うと、どうしても近寄れない。
それは冬道も同じだ。いくら性格を柊のものに上書きしていたとはいえ、恐怖は体に刻み込まれている。できることなら関わりたくない。だが、それではいけない気がするのだ。
「私ね、変わろうと思うの。私に宿った異常のせいにするんじゃなくて、自分で自分の罪に向き合わなくちゃもう進めない」
秋蝉の犯した罪は決して消えることはない。犠牲となった五人。彼らに許しを得たとしても、秋蝉自身が自分を許すことができない。
こうして秋蝉は、立ち止まるしかなくなっているのだ。異常を受け入れ前に進むのか、受け入れずに中途半端なところで立ち止まってしまうのか。
だからそろそろ、けじめをつける。
「私は超能力者。みんなが戦ってるのに、私だけ守ってもらうわけにはいかないの」
強い意思の籠った瞳に見つめられ、アウルは折れるしかなかった。こんな決意までされては、罪悪感すら込み上げてくる。
「なら白神先輩、場所の特定を頼みます」
「任せなさい。いざとなったら鏡に飛び込みなさいね。私が何とかするから」
紗良の言葉に二人は相槌を打った。
◇◆◇
「司!? おい司! 聞いてんのか!」
もう聞こえていないとわかりながら、東雲は叫ばずにはいられなかった。
司は敵が来たと言っていた。となればあの轟音は近くで敵がなにかをした音だろう。本人は悟られていないと思っているはずだが、電話を切る前の声は明らかに怪我を我慢しているものだった。万が一にも司が負けるとは思っていないが、あんな形では気にならない方がどうかしている。
東雲は司のことが嫌いだ。けれど、友達なのだ。心配が募っていくばかりで、不安が胸の真ん中をぐるぐると渦巻いていた。
しかしそうやって心配ばかりもしていられない。
司はとんでもないことを矢継ぎ早に、そして適当に口走っていた。
『東雲、失落牢に急げ! やつらの狙いは『吸血鬼』の成り損ない共だ!』
これが真実であるなら、敵はすでに『九十九』の屋敷に侵入していることになる。
体の痛みはもう引けている。東雲は跳ね起きるように立つと、突然現れた揺火たちに歩み寄る。
「揺火、あんたに聞きたいことがあるんや。ええか?」
「……こっちは怪我人なんだがな。まぁいい。なんだ?」
揺火は五十嵐に治療をさせながら、赤髪を揺らす。
「九十九志乃以外の敵ってなんなんや。……いや、九十九志乃以外に敵がいるってどういうことなんや? あんたがそないな怪我してることに関係あるんか?」
「おおありだ。これはやつらに――『吸血鬼』の眷属にやられたものだ」
東雲は驚くあまりに目を剥いた。それから揺火から聞かされた話は信じがたいものだったが、しかしそれならば辻褄があう。
九十九志乃以外の敵、柊が拐われた意味、現れた無数の敵。ついに事態は六年前の再現を、それ以上の深刻さで迎えようとしている。
東雲は歯が軋むほど食い縛ると、唯一ほぼ無傷といっていい十六夜へと視線を変えた。
「失落牢に急ぐで。こんままやと眷属だけやなくて、もどき共も敵になってしまうかもしれん」
「どういうことでございましょうか」
十六夜は訝しげに東雲に訊ねる。
「決まってるやろ――」
東雲と十六夜は同時に床を踏み砕いた。重力に従って落下する体をさらに勢いづかせ、下の階の床もぶち破って屋敷の最深部を目指す。
「――眷属は、もどきを率いようとしてんねや!」
この屋敷の階層は無駄に多い。その上、床も能力によって破壊されないよう能力が施されているため、東雲の腕力をもってしても一気に何枚も破ることは難しい。勢いは徐々に削がれ、一撃で破れなくなりつつある。それに苛立ちを覚えた東雲は左手一本に膨大な量の炎を凝縮させ、高圧エネルギーとして直線上に放射した。
巨大な円の焦げ跡を残して消え去った床を潜る。空気を蹴って勢いを乗増しにし、十六夜を引き離していく。
失落牢は一階からかなり地下にある。こんな勢いで着地でもしようものなら、五体満足ではいられないだろう。にもかかわらず、東雲の加速は止まることを知らない。
そうこうしている間に、石造りの床が見えてきた。
「東雲さま! そのままの勢いでは危険でございます!」
「大丈夫や。私を……信じろや!」
ぐるりと体勢を逆転させると、足の裏から炎を放射した。紅蓮の灯りが闇を追い払い、苔やカビにまみれた壁を浮き彫りにする。
やがて勢いは弱まり、着地するころにはゆっくりとした穏やかスピードになっていた。足の伸縮を利用して綺麗に着地した東雲は、あとからやって来た十六夜を受け止めてやる。
「心臓が止まるかと思いました」
開口一番がそれなことに、東雲は苦笑いを浮かべる。
「あなた様は昔からそうです。わたくしに心配ばかりをかけて……。もう少しばかり慎ましくはできないのでしょうか。わたくしは東雲様の将来が心配でなりません」
「うっさいなぁ。大丈夫やて、十六夜は昔っから心配しすぎなんや。もう子供やないやで」
小言はよしてくれとばかりに、東雲はあからさまに態度に示した。
「わたくしから見れば東雲様はいつでもお嬢様で、いとおしい子供にございます」
東雲はむず痒そうに頬を掻く。昔から、十六夜が執事だったころから『お嬢様』と呼ばれるのだけはどうしても抵抗があった。当主でもなんでもないし、そんな柄ではなかった東雲は呼ばれるたびに直すように叫んだものだ。
「そんなことでは嫁にもらってくれる方がいつ現れるか、わかったものではございません」
「ほならもし貰い手がおらんかったら、十六夜んとこにでも嫁ごうかな。私、十六夜のこと嫌いやないからな」
満面の笑みを浮かべ、東雲はそんなことを言う。
「…………」
「ん? なんや固まって。さっさと急ぐで、時間がない」
何故か硬直している十六夜を置き去りにして、東雲は駆け出す。
執事になったときからポーカーフェイスを崩さないことを心がけていたおかげか、東雲に体温の急激な上昇を悟られることはなかった。いや、東雲は炎を操る能力者だ。もしかすると気づいておきながら、あえて流したのかもしれない。
十六夜が東雲に向けている一種の感情。それが恋愛感情なのかは本人さえ定かではないが、抱いていることだけは確かだった。
しかしさっきの一言で、それが東雲に対する恋愛の感情だということを自覚してしまった。
「……やれやれ、どうしたものでしょうか」
こんなときでなければ、と十六夜は残念に思った。
頭を振って思考を整理すると、急いで東雲の後を追う。少し進んだところで東雲が待っていてくれたおかげで、合流に時間はかからなかった。
「東雲様、どうして失落牢に?」
追いついた十六夜は思考を切り替え、まずはここに来た理由を問いただした。さすが『九十九』の精鋭というべきか、そのあたりの切り替えは早い。
「さっきも言ったやろ、眷属がここの『吸血鬼』もどきを狙ってるんや」
東雲は走りながら、説明を続ける。
「『吸血鬼』には吸血をすることでそいつを眷属にする能力があるのは知ってるな。その眷属にも仲間を増やす能力が備わって、連鎖的に仲間が増えていく。まぁ、ゾンビみたいなもんやな」
たとえがゾンビであることに脱力しそうになりながら、十六夜は頷く。
「たぶんその能力を使うて、もどき共を眷属に――能力を使える状態にまで昇華しようとしてんねや。そうなると、かなりマズイで」
東雲の言わんとしていることが十六夜にもわかり、戦慄するしかなかった。
『吸血鬼』の眷属にされるというのは、もともと備わっている能力に加えて化物じみた腕力や回復力が与えられる。それはもはや不死身と呼べるほどのレベルだ。しかしそれは、『吸血鬼』とは別の能力を持っている場合だ。
この『吸血鬼』もどきは生まれたときから、完成には至らずとも『吸血鬼』の能力が備わっている。自我がないだけで、腕力と回復力は相当なものだ。そこに眷属としての力が上乗せされればどうなるだろう。下手をすれば、概存の『吸血鬼』である柊をも凌駕する『吸血鬼』の軍団が完成してしまうかもしれない。
そうなってしまえばもう『九十九』と『組織』の連合であろうとも、対処は不可能だ。
戦いの素人である柊が『吸血鬼』を持っているだけで東雲に届きそうな力を発揮しているのに、それが戦いを知る人間に渡れば破壊力は計り知れない。
仮に『吸血鬼』軍団を倒せたとしても、まだ九十九志乃が残っている。そうなればもう超能力者には手出しはできない。いまは冬道に任せているが、その他は超能力者たちで対処しなければならないのだ。ここで眷属にもどきを連れていかれてしまえば、形勢を覆すことができなくなってしまう。そうなる前に、なんとしてでも食い止めなければならない。
だが、十六夜が見た限りではそのような行動を起こせるような眷属はいなかったように思えた。いくら数がいるにせよ、おそらくはどれも同じような感じだろう。
それこそ東雲が言ったようなゾンビのようなものだ。案外的を射ている東雲の発言に感嘆しながら、十六夜は思考する。
ここにもどきがいることを知り、そしてそれらを引き込もうとするだけの思考能力のある眷属――そこまで考え、十六夜はあの黒を纏う女のことを思い出した。
そしてそれは、現実のものとなる。
「おい! そないなとこでなにしてるんや!」
東雲の声によって、十六夜の意識が引き戻された。
通路の先、もどきが幽閉されている牢屋の前に誰かが立っている。あれは紛れもなく、海岸で十六夜たちが対峙したフルフェイスだった。いままさに、もどきになにかしようとしたところで東雲に叫ばれ、フルフェイスは伸ばした手をそのままにしながらこちらに顔を向ける。
嫌な予感が的中した。九重があの場で眷属を凍らせたとき、フルフェイスがいなくなっていたことをもっと気にかけておくべきだった。
「そこでなにしてるって訊いてるんや。答える気がないんならそれでもええで。ぶん殴って縛り上げてから、じっくりと話してもらうからな」
そう言って東雲は右腕を持ち上げる。東雲の右腕は義手だ。義手であろうとなんだろうと、失われていないのであれば五十嵐の能力で元に戻すことは可能だ。状態を九十九志乃にやられる前に戻したため、このように動かすことができる。
じりじりとフルフェイスとの距離を調整する。
フルフェイスも東雲を無視して作業に取りかかることは難しいと判断したのだろう。向き直り、構えとも言えないような小さな構えをとる。
間合いの計り合いは刹那のみ。ほぼ溜めのない体勢からスピードをトップギアに上げた東雲は、全身の関節を総動員して勢いを左手に乗せると、飛び出した速度をも使ってフルフェイスのメットを貫いた。無慈悲な一撃を喰らえば確実に即死していただろうが、この相手にはそれはない。
頭部から引き抜かれた腕が、今度は胸へと突き立てられる。手を潜らせた先に、手のひらに納まる程度の物体を握る。心臓だ。力強く脈動し、東雲から逃げようと必死に足掻いている。そんなことを許すはずもなく、牙を剥き出しにした東雲はそれを容赦なく握り潰した。
どろりとした液体を気持ち悪く思いながら、フルフェイスの顎に爪先を振り上げる。コンクリートすらもやすやすと砕く脚力が、いとも簡単に顎を破壊する。そのまま軸足のバネだけで背後に回り込むと体を回転させ、踵と爪先で挟み込むように両足を閉じた。
骨の粉砕する不快な音が失落牢に木霊する。フルフェイスを挟み込んだまま逆立ちをするように両手を床につけ、体を勢いよく逆方向に動かし、その黒い体躯を叩きつけた。
悲鳴は上がらない。声を出すための器官がないのだから当然だ。
見境なく破壊を施した東雲はフルフェイスから離れ距離を置き、溜め込んでいた息を盛大に吐き出す。
東雲は顔を上げ、ほとんど人としての原型を留めていないフルフェイスに眼光をほとばしらせる。視界がその一点に集中していき、ほかの全てがフェードアウトしていく。これから起こる一切を見逃すまいと、東雲は神経を研ぎ澄ませる。
再生が始まる。『吸血鬼』の回復力によって潰された脳や心臓、肉体が元通りになっていく。だが、その速度は実に緩やかだ。骨が形成されて神経が繋がり、皮膚に包まれ最後に主要な箇所が作られる。時間にしてみれば一分以上も要していた。
柊の、本家の『吸血鬼』の再生力を目の当たりにした東雲からしてみれば、フルフェイスの再生はあまりにも遅すぎた。これならば万全となる前に、いくらでも殺すことができるだろう。
肉体は殺して死ななくとも、殺し続けて精神が死なない道理はない。これが複数にやるなら使えない戦術だが、ひとりを相手になら有効な手段だ。
そう判断し、行動を起こそうとした、その瞬間――
「………………………………え?」
フルフェイスが壊れたメットを外し、素顔を露にした。まとめられていた髪がゆっくり流れ落ちてくる。下げられていた顔が、東雲に向けられた。
その顔を見た東雲は、思考がフリーズするのを実感しながらも止めることができなかった。目の前に広がる光景が信じられなくて、受け入れることができなくて。
おっとりとした優美な顔立ち。撫子を彷彿とさせるような雰囲気のなかにある悪戯でもしそうな、五感に直接訴えかけてくる不思議な感覚。その面影は、ある人物と重なった。
「なんであんたが生きてるんや……」
東雲の呟きに、翔無智香は笑みを深めた。
翔無智香――その名前は思い出に古く、記憶に新しい。
つい先日、東雲は彼女を救えなかったことをその娘である雪音に打ち明け罪を償い、関係性を和解に持ち込んだ。救えなかったという事実は、たとえ許されようとも消えてなくなることはない。一生、それと向き合っていかなければならないのだ。
そしてもうひとつ――。
「あなたに殺された恨みを晴らすため、地獄から這い出て来ただけよ。雪音は許してくれたのかもしれないけど、私は許さない」
実際に殺された人間が、それを許すはずもない。
素顔を見せた智香は柔和な笑顔を怒りに染めると、東雲を睨み付けた。その行動はわずかに幼さを感じさせる。それもそのはずで、東雲の記憶にある智香の容姿とは、いまのものと違っていたのだから。
おそらく東雲と同じくらいの年齢だろう。それくらいまでに、智香の容姿が若返っていた。
威圧感のある視線ではない。しかし、東雲は無意識に後ずさっていた。さっきまでの威勢もなにもかもが削ぎ落とされ、目の前の光景にただただ唖然とするしかない。
「どうやって、生き返ったんや」
かろうじて言葉を絞り出す。知りたいのはそこだ。どうやって生き返ったのか――それだけが気がかりだった。
あのとき、東雲がようやく手が届くといったところで、智香は双弥に殺された。そのときのことは目に焼きついて離れようとしない。心臓を貫かれ、確実な即死を迎えたはずだった。
けれど智香は生きていた。本来であれば、喜ぶところだろう。しかし、この状況では喜ぶに喜べなかった。
なにせ智香が敵側についているのだ。東雲や『九十九』、そして翔無雪音の敵となる志乃側にいて、どう喜んだらいいのだ。
「私は死んだあと、志乃に会っているの。死体を置き去りにして戦いに趣き、帰ってきたときにはもういなかったでしょう?」
「…………」
たしかにあのとき東雲は死んだ智香を置き去りにして翔無を助け、そのまま戦乱のまっただ中に飛び込んでいった。そして帰ってきたときには、その死体はどこにも見当たらなかった。だから東雲は、戦いに巻き込まれてなくなってしまったものだと思っていた。
もし智香の話が真実ならば、志乃は死体を持ち去ったことになる。自分に余裕のないところで、どういった理由で動けない智香を連れていったのかはわからない。最初からこうして眷属として使うのが目的だったのだろうか。なんにしろ、不可解な行動であることには違いなかった。
「志乃の能力で生き返った私は、あなたと双弥君を殺せる機会を待っていた。あなたたちは手練れの能力者、一筋縄でいかないことは明白ですから」
「……それで、こんときにってわけか」
「そう――戦いで弱ったところで、確実に殺す。戦術としては、当たり前のことでない?」
そう言ったところで智香が懐に潜り込んでくる。完全に不意を突かれた東雲は防御することさえ間に合わず、渾身の一撃をその身にまともに受けた。
大砲でも喰らったような思い衝撃が全身を叩き、通路を逆方向に放り投げられる。何回も床を跳ねるが勢いは弱まることを知らず、ついには鉄格子を掴むことで強引に体を止めた。関節がイカれる痛みが意識を覚醒させたが、その痛みは余計なだけだ。
十六夜の悲鳴にも似た叫びが耳に入る。反射だけで防御の姿勢をとると、次の瞬間には世界が回っていた。……違う、これは、自分が回っているのだ。
そう気がついたものの、それを止めるだけの力を込めることさえ間に合わない。時間にすれば秒にも満たないなか、東雲はさらなる痛みを受けた。
ひたすら耐える。奥歯が砕けるほど食い縛り、東雲は衝撃に次ぐ衝撃に耐えた。反撃は間に合わない。ならば攻撃と攻撃を繋ぐわずかな隙を狙い定めるしかない。
だが――それでいいのだろうか。
東雲が直接手を下したわけではないにしろ、智香を殺してしまったのは自分のせいだ。『九十九』に反旗を翻し、戦争を仕掛けなければ智香は死ぬことはなかったのだから。東雲がそうしたことで、智香が死んだ。これは東雲が殺してしまったも同然だ。
だとすれば、それは報いを受けるべきだ。
目には目を、歯には歯を、罪にはしかるべき死を――。
そう東雲自身が己に課した言葉であり生きざまであり、そしてこれからの人生でもある。
東雲によって人生を狂わされた人間は少なくはない。六年前の戦いで東雲派について死んでいった者たち、翔無を含めた戦いの余波に巻き込まれた者たち、当主派について東雲たちに殺された者たち。数えても数えきれないほどの人生を狂わせた東雲は、一生かかっても償えはしないだろう。
しかし、しかしだ。
死んでしまった相手が生き返り、それに大して死んで罪を償うというのは、違うのではないだろうか。
死人は口を聞かない。東雲がやろうとしていることなど、ただの自己満足に過ぎないのだ。もちろんそれは東雲も理解しているし、意味のないことだというのも承知している。それでも東雲は、六年前の戦いで背負うべきものを、背負わなければならないものを持ってしまった。
だからこんなところで、たかがひとりのために、ほかの全てを無視してまで死んでやることなどできるわけがない。これから一生背負っても償いきれないのであれば、死んで償うことなど絶対にしてはならない。どんなに泥にまみれようと、どんなに蔑まれようとも、頭を下げて、生きていかなければならないのだ。
だから東雲は、吠えた。
「悪いけど、あんたのために死んでやることはできん。私はな、まだ死にたくないねん」
「……そう」
智香は満足そうに頷くと、攻撃の手を止めた。
「いいのね? あなたは一生、罪を背負って生きていく」
「ああ、そう決めたんや。――否、そないなこと、もうとっくに決めとった。あんたの言葉で思い出しただけや」
東雲は固めていた拳をほどくと、だらりと下げた。
「よかった、それを聞けて安心したわ」
呆気にとられるとはこのことだろう。さっきまでの殺気が嘘のように散っていき、人のよい、それこそ翔無の母だと主張するような柔らかい笑みを浮かべた。
東雲があんぐりとしているのもお構いなしに、智香は頬に手をあて、言葉を紡ぎ始める。
「私があなたや双弥君を殺したいというのは……うん、間違いじゃないの。志乃に生かされてるだけのやつが何様なんだって言いたいかもしれないけど、私は普通じゃないから」
智香が言いたいのは超能力的なことではなく、自身の体質についてだろう。八雲の殺人衝動を植え付けられて成熟させ、雪音を出産した。おそらくその後も、殺人衝動は体内に定着し続けた。
それが体質として変化し、超能力や波導とはまた別の、第三の異能として効力を発揮しているのだろう。
「それに私は志乃に生かされてても、眷属になったわけじゃないの。だからこうやって、自分の意思で行動することができる」
「はえ?」
どこから出したのかわからない、解読不可能な鳴き声に東雲は羞恥に顔を赤く染めた。はっと後ろを振り向き、微笑ましげに見つめている十六夜に中指を立ててやる。
頬を軽く二回ほど叩いて気を取り直し、東雲は言う。
「自分の意思で動けるって言うたけど、ならどうして失落牢に来たんや? わざわざ危険を省みて来る場所やないで」
「あなたたちに伝えないといけないことがあったから。もしかすると、もう知っているのかもしれないけど」
智香の言葉に神妙な顔つきで頷き、続きを待つ。
それから東雲はようやくどういう状況になっているか、また敵の正体がなんであるかを知ることとなった。
だが改めて知ってみると、敵との戦力が桁違いだ。『吸血鬼』の眷属は柊がスキルドレインを行った者に加え、志乃がなにかしらの手を加えた能力者たちだ。いまでこそまだ『吸血鬼』に馴染まず、暴れているだけに過ぎないが、それも時間が解決してしまうだろう。
『吸血鬼』の爆発的な攻撃力と回復力、それに加えてもともとの能力のことも考慮すると、最低でも双弥や十六夜クラスの実力が必要になってくる。だが『九十九』や『組織』の総力を合わせたとしても、圧倒的に数が足りない。
しかも最強戦力の一角ともいえる柊や一葉を欠き、揺火や九重や来夏がまともに動けないため、太刀打ちするのは絶望的だった。
とはいえ、その全てを相手取る必要はない。いまのところ、眷属は活動を停止している。
その間にどうにかしなければならない。
「眷属の動きを完全に停止させるには、原動力のベースとなってる詩織ちゃんを助け出すのが一番。それが難しいなら、司令塔になっている眷属を行動不能にするのがいいわ」
ここら一帯の眷属は智香が率いている、つまり智香が司令塔になっているということだ。司令塔となっている眷属は下僕として動きを制御することができる。それで動きを止めることもできるが、智香が率いていた眷属は九重に凍り付けにされている。そのため、智香が指示をする必要はなかった。
「でもそれも急がないと」
「……どうして?」
「『吸血鬼』の力が眷属に馴染んでしまうように、詩織ちゃんの『吸血鬼』を使ってる志乃も馴染んでしまうの。そうなっちゃうと詩織ちゃんを助け出すんじゃなくて、志乃を倒しきらないといけなくなる」
――そうなってしまっては、勝ち目がなくなる。
東雲が言おうとしたことを智香は先に述べた。勝ち目がなくなるというのは勝てなくなる、という意味ではない。勝つことができたとしてもその代償となるものが多すぎる、という意味だ。
志乃は波導を持つ冬道しか倒すことはできない。ならばそれ以外は東雲たち超能力者の役目であり、成さねばならないことだ。せっかく冬道が勝てたとしてもそうなっていてはあまりにも酷すぎる。
すれば東雲のやるべきこと、それは一刻も早く柊を救い出すことだ。
「あの……詩織ちゃんがどこにおるか知ってるか?」
「塔の最上階のさらに上。外部からしかいけないようになってるところなんだけど、そこに詩織ちゃんはいるわ」
「そっか。ありがと、恩に着るわ」
「いいのよ。だって私、あなたのお義母さんじゃない」
携帯電話を取り出そうとした東雲は息が詰まり、盛大に噎せ返った。
目尻に涙を浮かべながら、わなわなとしたがら智香に接近する。
「なんでそれを知ってるんや!? あんた死んでたやろ!?」
「あなたは東雲、『死乃の目』でしょ? 私はずっと志乃の側にいたんだから当然よ」
「……ちょいタンマ。なんやそれ、どないいうことや」
智香の言ったことに東雲は疑問を覚えた。その台詞はまるで……、と内心であたってほしくない予想を立て、それがあたっていると確信しながらも、聞き返さずにはいられなかった。
「言葉のまま。あなたが視界を通して得た情報は、そのまま志乃の情報としても送られるの。だから志乃は昏睡状態にありながら、現状を把握することができている」
「…………」
やはりそうか、と東雲は機械的に受け入れる。真名が『死乃の目』ということは死を見るだけではなく、直訳として志乃の目になるということには気がついていた。
いままではそれを見ないようにしてきたが、こうやって突きつけられると、なかなかに堪えるものがある。
ならこの会話も志乃に筒抜けになっているかもしれないと危惧したが、あくまで共有感覚にあるのは視覚だけで、聴覚や嗅覚は含まれていないので大丈夫のはずだ。それに冬道との戦闘の最中、そんなものを見ている暇はないだろう。
そもそもここに智香が来た時点で、それは解決されていたと考えていい。
だがこれでようやく合点がいった。『九十九』が反逆した東雲を殺さず、各地を放浪させることでよしとしたのは、このときのための準備だったのだ。
未来への一手の布石として東雲にそう提案させるような状況を作り上げ、各地を放浪させる。そしてそのなかで自分の手駒になりそうな能力者に目をつけておき、このタイミングで動き出した。
六年前の戦い、志乃はほぼ負けることはなかった。だというのに負けたときのことさえ計算に入れて行動を起こしていたのだ。
志乃の手のひらで踊らされていたと思うほかない。
でも、どうして自分を殺す可能性のある冬道がいるときを選んだのか……。
脇に逸れかけた思考を戻すと、東雲は携帯電話を開く。
ワンコールほどで、双弥は電話に応じた。
◇◆◇