5―(13)「暗転③」
部屋に二人の姿はなかった。床にひれ伏す東雲さんと九重、壁に寄りかかっている五十嵐だけが、この部屋に取り残されていた。
爆散した天井から降り注ぐ雨粒が、俺たちを濡らす。
目の前の光景をいち早く飲み込んだのは俺だった。
うつ伏せに倒れる東雲さんに駆け寄ると、体を起こす。
「東雲さん、大丈夫か」
「うっ……かしぎか……?」
意識を取り戻した東雲さんは、うわごとのように俺の名を呟く。しかしすぐに思考が切り替わったのか、俺の肩を掴んで揺さぶってくる。
「一葉は!? 一葉はどこにおる!」
「それは俺が聞きてぇよ。柊もいないみたいだし、ここでなにがあったんだ」
「……わからん。私はすぐにやられてもうたから、そのあとのことは覚えてへんねや。九重はどないしたんや?」
「そこで倒れてるよ。たぶん東雲さんと同じようにやられたんだろうな」
あたふたと慌てる揺火に介抱されている九重を見て、東雲さんは安堵の息をついた。
二人とも気絶していたこと以外には怪我らしい怪我はなく、しいて言うならば、東雲さんの義手が使い物にならなくなっているということくらいだろう。
せっかく時間をかけて直した義手は、こうも簡単に破壊されてしまっている。これで東雲さんの戦闘力は半減したと言っても過言ではない。
東雲さんは首を振って辺りを見渡し、舌を打った。
「まさか、『あれ』に連れていかれたっていうんか……」
「連れていかれたって……柊も一緒にか?」
いや、ここにいないということは連れていかれたと考えていいだろう。戦わないで東雲さんと九重を倒した『あれ』から、一葉を連れて逃げることはまず無理だ。
俺は壁に寄りかかる五十嵐に向き直る。
「なにがあったか、説明頼めるか?」
この部屋に来たときから五十嵐だけは意識があった。もしかすると、もしかするかもしれない。案の定、五十嵐はこくりと頷いた。
五十嵐からある程度の説明を受けると、改めて『あれ』の実力が規格外であることを実感させられることとなった。
力は完全に戻っていなくとも、話を聞いた限りではかなりの余裕があったらしい。それはこの状況を見れば一目瞭然だ。
俺は柄を強く握りしめ、唇を噛み締める。
どうすればいい。『あれ』がどういう目的で柊たちを連れ去ったのか見当さえつかないが、なにか嫌な予感がする。助け出そうにも『あれ』がどこに行ったか手がかりすらない。打つ手が完全に断ち切られてしまった。
「だけど、どうして『あれ』は東雲たちを殺さなかったんだろうね。あいつは能力者を片っ端から殺すのが目的なんでしょーに」
「それは東雲や九重が『九十九』だったからだろう。やつは『九十九』の能力者には手を出そうとしないんだ」
来夏先輩の質問に揺火が答える。
「なんで?」
「さぁな。そもそも気まぐれで動いているようなやつの思考など理解できん」
「気まぐれで殺されるなんてたまったもんじゃないでしょーに……」
吐き捨てるように来夏先輩は言うと、ふと携帯電話を取り出して顔をひきつらせた。
どうしたのかと携帯電話を覗いてみると着信が二三回、メールが十六通も届いていた。そのほとんどが同じところからのもので、携帯電話を開いているいまも着信がかかってきた。
来夏先輩は苛立ちを隠せないまま呼び出しに応じると、隣の部屋に入っていった。
すると、タイミングを見計らったかのように俺たち全員の携帯電話が鳴り始めた。ディスプレイには『真宵後輩』の文字が表示されている。
俺は着信ボタンを押し、携帯電話を耳にあてる。
「真宵後輩、どうしたんだ?」
『先輩、単刀直入に聞きます。そちらでなにがあったのでしょうか?』
真宵後輩の声には珍しく切迫つまるものがあった。
俺は五十嵐に説明してもらったことを、そのまま真宵後輩に伝える。
『なるほど、つまりいまは「九十九」の屋敷にいるということですか。どうにかしてテレビを見ることはできませんか? 先輩にとって有益な情報が手に入ると思います』
「まどろっこしいのはいらねぇよ。さっさと教えてくれ」
『わかりました。つい先ほど、おそらくそちらで柊さんが拐われたくらいの時間に、突如として塔のようなものが海に現れたんです』
「塔?」
『はい。台風の中継をたまたま見ていたのですが、そこにちょうど現れたんです。それだけでしたら私も電話をしたりしませんでしたが、映っていたものに見覚えがありましたので』
「まさか、そこに柊が……!?」
『先輩の察した通りです。塔に入っていく柊さんの姿がありました。といっても柊さん自身がではなく、白髪の女に担がれていましたが。そのほかにも特徴を合わせてみたところ、「あれ」で間違いないでしょう』
天井の穴から外に出、視力を強化して遠くを見渡してみるものの、それらしきものは見当たらない。さすがに距離がありすぎる。
「どの辺りにその塔は現れたんだ?」
『京都から行くとなりますと少し遠いかもしれませんが、どうせ止めても行くつもりなのでしょう?』
「あぁ。柊をほっとけねぇからな」
俺がそう言った電話の向こうで、真宵後輩が小さく笑ったような気がした。
真宵後輩から教えてもらった場所は、たしかに京都から行くには遠かった。到着するまでに二時間くらいはかかるかもしれない。しかもこの台風のおかげで、移動する手段も絞られている。
時間があるかどうかさえわからない状況で、あまり時間をかけるわけにはいかない。
『先輩、気をつけてください。あの女は危険です』
「わかってる。もういままでみたいに実力を鼻にかけて戦えるような相手じゃねぇからな」
『大丈夫です。先輩なら、柊さんを絶対に助け出せます』
真宵後輩の言った意外な言葉に、自然と頬が緩んだ。
「ありがとよ。大好きだ」
『え……? せ、先輩! いまなにを……!』
ぱちんと俺は真宵後輩の言葉を遮るように携帯電話を閉じ、おもわず口走ったことに自分でも赤面しているのがわかった。熱を帯びた頬は当分の間、冷めそうにもない。
すっと出てきたとはいえ、なんでこんなことを言っちまったんだ。帰ってから真宵後輩にどう言いわけしたらいいんだ。
「マズイな……」
同じくして携帯電話を閉じた東雲さんは、形のいい眉をしかめた。
「どうやらみんなで同じこと聞いたらしいね。私も『組織』の上層部からの連絡ぶっちしてたからかなり怒られた。九重はどう?」
「俺もだ。偶然だろうけど、双弥とか十六夜が『あれ』が塔に入っていくところを直接見たらしい」
部屋の奥に立て掛けてある刀を腰に差した九重は、ふらつく足取りで敷居を跨ぐ。
「場所はもうわかってるんだ。一葉ちゃんを、助けにいかねぇと……」
「こ、九重!」
ぐらついて倒れそうになった九重を、揺火は慌てて後ろから支える。
「そんな体では無理だ。私がお前の代わりに一葉を……」
「だめなんだ、それじゃ。俺は一葉ちゃんに言ったんだ。なにがあっても、どんなことがあっても、俺だけは一葉ちゃんの味方でいるって。絶対に守ってやるって」
揺火を押し返して部屋を出ていこうとする九重にため息をつくと、
「まともに動けねぇやつがなに言ってんだ。邪魔だからついてくんじゃねぇ」
俺はそう言った。
「……なんだって?」
「どうせ超能力者じゃ『あれ』には勝てねぇんだ。だったらなおのこと、戦力にすらならないお前はここにいろ」
「なら、お前に一葉ちゃんを任せろっていうのか?」
「そうは言ってねぇよ。会って間もない俺のことなんか信用できねぇだろうからな。そこんとこは弁えてるっての」
首を縮めて飄々とした態度で俺は言う。
それが気に入らなかったのか、九重は鋭く睨んでくる。その視線を受け流して東雲さんに向き直り、高さを合わるためにしゃがみこむ。
「東雲さんと九重はこっちで待っててくれ。俺に一葉ちゃんを任せるのは心配だろうけど、ついてこられても足手まといになるだけだ」
「……ま、こんな腕じゃ戦われへんしな」
東雲さんは肩に風穴の空いた義手を見て、自嘲じみた笑みを浮かべて目を伏せた。
「もともと『あれ』と戦うんはかしぎの役目やったしな。……一葉のこと、任せてもええか?」
「姉ちゃん!」
「しゃーないやろ。私もあんたも戦えん。そもそも『あれ』にはかしぎしか対抗できへんかった。こうなるのは必然だったんや」
「でも……!」
「――九重」
小さな呟きだったけれど、どこか力強いものがあった。
九重は押し黙ると、爪が食い込むほど強く、拳を握りしめていた。
「……わかったよ。一葉ちゃんのことはお前に任せる」
だからな、と九重は顔を上げる。
「絶対に、一葉ちゃんを助けてくれ」
「おう。任せておけ」
鈍い輝きを放つ二つの刀身は互いに螺旋を描き、剣戟を奏でながら十字に重なった。
豪雨が降り注ぐ車道を赤色の閃光が駆け抜けていく。時速制限をぶっちぎってなおも加速を続けるバイクは、ひと筋の閃光と呼ぶに相応しいものとなっていた。
空気の抵抗を受けて顔に張りついてくる赤髪を鬱陶しく払いながら、現代の技術で駆ける獅子に叫ぶ。
「もう少しまともな移動の方法はなかったのか」
「悪いが私は双弥のようにテレポートは使えん。いまはこれが最善だ」
翔無先輩と対峙した双弥は、よくわからないがテレポートを使えない状態にあるらしい。
俺は揺火の腰に掴まりながら、後ろを確認する。
このバイクにはサイドカーがついているわけではなく、また三人乗りもできないため、来夏先輩だけが他の手段で移動することになった。
それがキックボードに縄を結び、バイクに引かせるというものだった。言われたときは冗談だと思ったのだが来夏先輩は至極真面目だったらしい。
気の抜けた声を出しながらバランスを保ち、俺の視線に気がつくとのんきに手を振ってくる。
それにしても、と俺は来夏先輩の周囲に目を凝らす。これが能力を使って起こしている現象だというのはわかるが、実際のところ、俺はまだ来夏先輩の能力がどういうものかを知らない。
二つの回転軸を作って逆方向に回したり、雨粒の軌道を曲げたりしていた。
いまも能力を使っているのだろう。でなければ、こんなスピードのバイクに縄を一本結びつけたくらいでついてこれるはずがない。
さらに深いところに潜ろうとした俺の思考を、不意にスピードを上げた揺火によって強引に引き戻された。
「かしぎ、しっかり掴まっていろ。誰だかわからないが、私たちのことを追尾している」
「敵か?」
「おそらくそうだろうな。……だが、敵になる相手に心当たりがない。お前はどうた?」
「同じく。俺たちの敵はついさっきまでは『九十九』だったからな」
成り行きとはいえ、いまの俺たちと『九十九』は協定を結んだような関係にある。当主である一葉を拐われ、助けにいくという目的が一緒であるならば、敵対する意味はない。
そもそも敵対していたのは『あれ』がそのように仕組んできたからだ。両者に戦う意思はなく、ただ助けるという一点でのみ協力している。
『九十九』にとって、一葉を助けるには俺は欠かせない駒だろう。それなのに俺たちを襲う『九十九』がいるとは思えない。
となれば、こいつは俺たちや『九十九』とは違う、第三の勢力ということになる。
「もうちょいスピードあげて! なんか変なやつに攻撃されてるから!」
「ちっ……。これ以上は無理だ!」
スピードの速度の限界ではなく、場所的な問題だ。こんなところでこれ以上スピードを上げるのはかなり危険だ。
来夏先輩は巧みにキックボードを操り、敵の攻撃を避けている。
フルフェイスのメットに黒いライダースーツ。それ以外に特徴のないそいつは、手にした銃で来夏先輩を狙い撃ちにしている。
能力を攻撃に回せない来夏先輩は避けるのが精一杯のようで、表情にあまり余裕がない。
「揺火さん、ちゃんとハンドル握ってろよ」
「お、おい、なにをするつもりだ?」
俺はそれに答えず、大きく息を吸い込む。
『嵐声』
「かぁっ!」
喉の奥から風系統の波動をフルフェイスに向かって放つ。雨粒を巻き込みながら放たれたそれは小型の台風のように渦を生み、フルフェイスに直撃した。
さらに押し上げられたように加速したバイクは、フルフェイスを大きく引き離していく。
「……やりすぎじゃないのか?」
「こんなときに襲ってくるようなやつが、こんなんでくたばるわけねぇよ」
『嵐声』をまともに喰らったというのに、フルフェイスは怪我ひとつしていなかった。きわめつけはあのスピードから放り出されて、平気そうにしていたことだ。普通ならあれで死んでもおかしくない。
フルフェイスのことが気にかかったが、俺はそれを無理やり忘れることにした。
バイクは京都の街並みを抜け、徐々に人気のない場所に向かっていく。
「……あそこか」
空を穿つように伸びた塔。無駄な部分を全て削ぎ落としたような円柱の形をしたそれは、異様な雰囲気を纏い、そこにあるだけで吐き気さえわき上がってきそうだった。未だに勢いを弱めることのない台風と相まって、不気味な風貌となっている。
沿岸のところまで来ると、見たことのある人影がそこにはあった。
「双弥、十六夜。あれで間違いないんだな?」
ゴーグルを押し上げた揺火は、二人にそう訊ねる。
「あぁ。ちょうど一葉を連れた女が飛んでくのを見たよ。……ったく、俺が仙台に言ってる間になにが起こってんだ? つかなんであんたがここにいるんだ?」
「それはこっちのセリフだ。お前こそなんでここにいる」
俺はバイクから降りると、双弥の正面に立った。
「あんたたちのせいだろ。俺はただ翔無を倒しに行っただけなのに、次から次へとわけのわっかんねぇことになりやがって」
「そんなの知るか。いまはそんなことより、どうやってあそこに行くかだ」
塔の入口はどこにも見当たらない。ずいぶん高いところに扉のようなものが見えるが、あそこまで行くのは難しいだろう。
一瞬だけ双弥のテレポートに期待したが、いまは能力を使えない上、何よりも信用できない。
「私が連れていってあげよーか?」
「できるんですか?」
「そりゃあね。できなきゃ言わねーだろ」
真ん中から折れたキックボードを捨て、来夏先輩は乱れた髪を手直す。
「ですが、あの塔の近くで能力を使えるかどうかわかりませんよ?」
「そうだな。俺と十六夜が一葉を助けようとしてあの塔に近づいたら能力が消えやがったんだ」
話によれば、柊と一葉を抱えた『あれ』が塔に行くのを見つけ、追いかけたらしいのだが、塔の付近で突然能力が消えたらしい。使えなくなったのではなく、消えたのだ。
その反動でいまも能力を使えない二人は、仕方なく俺たちの到着を待っていたらしい。
「もしかしたら揺火の能力も消えるかもしんねぇ」
「……そうなると、私は行かない方がよさそうだな」
揺火は沈んだ声で言う。
「なら行くのは俺と来夏先輩ってことでいいんだな?」
「そっちのお嬢さんの能力も消えるかもしれねぇんだから、この場合はあんたひとりで行くべきだと思うがね」
皮肉めいた双弥の言い分にカチンと来た。
俺に勝てない腹いせか? 器の小さい男だ。
「……いえ、おそらくそれはないでしょう」
十六夜に俺たちの視線が集まる。
「あの塔はおそらくある特定の条件を満たした能力のみを消すものでございましょう。それに該当しない来夏様は、問題ないと思われます」
「その条件とはなんなんだ?」
「――『九十九』の血を引く能力者」
十六夜のその言葉に揺火と双弥がぎょっとする。
「『あれ』は我々、すなわち『九十九』だけは傷つけないようにする傾向が見受けられます。実際のところはわかりかねますが、反抗をさせないようにするためでございましょう。敵対すれば、戦うことになりますゆえ、それを避けるためにあのような仕掛けがあるのかもしれません」
「つーことは殺しても構わねー能力者である私たちには、それが効かねーってことか」
頷いて十六夜が肯定する。
十六夜の推測が当たってるにしろ外れてるにしろ、超能力者ではない俺には影響はない。心配なのは右腕の痛みくらいのものだ。まだ耐えられる痛みだが、それもいつ越えてくることか。
やることが決まり、それを実行しようとしたところで――俺たちはほぼ同時に反応した。
「さっきのやつか……」
揺火の警戒する先には、さっき襲ってきたフルフェイスが佇んでいた。ライダースーツにはところどころに切れ目があるが、そこから覗く肌にはやはり怪我ひとつない。
しかし、フルフェイスだけならばそこまで警戒することはなかっただろう。周りに意識を巡らせてみると、複数人が接近してきていることがわかった。
およそ三〇人。いくら雑魚とはいえ、いちいち相手にしてたら日が暮れてしまう。
「あいつらの相手は揺火たちに任せて、私たちは塔に向かいましょーか」
そう言って来夏先輩は袖を引っ張ってきた。
でも……、と俺が渋っていると、
「そうだ。こいつらは私たちに任せてお前らは早く一葉を助けに行ってくれ」
揺火が一歩だけ前に踏み出し、俺の前に立った。
「……俺、いまは能力使えねぇって言ったはずなんだけどなぁ。どう思うよ、十六夜」
「それはわたくしも同じでございます。ですがわたくしは一葉様の執事であり、『九十九』の執事でもあります。ゆえに、揺火様が戦うのであれば退くわけにはいきません」
「まっ――揺火にばっかいいとこ持ってかせるわけにはいかねぇってこった」
まんざらでもないように笑みを浮かべた双弥は、腰に差してあった銃を抜き放つ。十六夜も執事服の袖からナイフを取りだし、指の間に挟みこむ。
「ほら、行くよ」
来夏先輩に手を引っ張られ、俺はよろけそうになりながらも走り出す。
背後で爆発音が響き渡ったのと同時に、戦いの火蓋が切って落とされた。意識せずとも耳に入る戦いの音。俺はそれを振り切り、前に集中する。
「それで、どうやってあそこまで行くんですか?」
走りながら来夏先輩に訊ねる。
「私の能力のことは話したっけ?」
俺は首を振って否定する。
「見たことはあると思うけど、改めて言うと私の能力は念動力、すなわちサイコキネシスなんだ。どういうのかは、超能力としてはメジャーだからわかるよね?」
「まぁ、だいたいは」
世間一般に知られている超能力としてのサイコキネシスならば、モノを手を使わずに動かしたり浮かしたりするもののことだ。
来夏先輩のはその強化版、もしくは応用版だ。
捻るなんていう使い方は二つの支点が必要になる。それを別々に動かしたりするのは意外にも難しい作業だ。それを難なくこなす来夏先輩の実力は、見たままではないだろう。
「浮遊酔いするかもしれないから気をつけるよーに」
ふわりと地面から体が浮き上がった。だんだんとその高度を上げていき、あっという間に視界が俯瞰的になっていく。見上げれば塔に唯一ある入口がすぐそこにまで近づいてきていた。
だが、俺はそこに誰かがいることに気がついた。
『あれ』ではない。奇抜な格好をしている奇妙な道化師がそこにいたのだ。遅れて来夏先輩もピエロを見つけ、怪訝そうに眉をしかめている。
不意にピエロが顔をくしゃりと歪めた。
『……っ!?』
すると突然、来夏先輩の能力が不安定になった。体が落下を始め、入口が遠くなっていく。いくら手を伸ばしても届くことのない距離に歯噛みしながら、俺は天剣を復元させた。
来夏先輩の手を掴む。天剣に波動を封入し、膨大なエネルギーの塊となったそれを体を捻りながら塔に叩きつけた。一瞬だけ押し返される感覚が手のひらに広がるも、それをさらに力で押し返し、塔の一部を崩落させる。
そのまま残った勢いを利用して体を塔に滑り込ませ、なんとか事なきを得ることに成功した。
「くそ、寿命が縮むかと思った……」
悪態をつきながら、上に被さるように倒れた来夏先輩を退かそうと、ぐっと力を込める。すると俺の右手に、なにやら柔らかい感触が伝わってきた。
思考にして一秒としてかからない。目を開けてその正体を見るまでもなく、俺は来夏先輩の胸を鷲掴みにしているのだと悟った。
どうしたものだろう。あんな窮地に立たされていたというのに俺はそれを綺麗さっぱり忘れ、二回、三回と右手を開閉させる。
手に収まるサイズだというのに弾力があり、その中心にある硬い突起が自己をアピールしていた。このまま手を動かし続ければどうなるか考えたくもないというのに、俺の右手は俺の意思を無視して来夏先輩の胸を揉み続けている。
「かしぎ君、お前は本当におっぱいが好きなんだな。私の慎ましい胸をそんなに揉んで楽しいんですか?」
来夏先輩の笑顔が怖い。顔は笑ってるのに目は全然笑っておらず、むしろ殺気さえ宿っているように見えた。
「あ……いえ、どちらかと言えば楽しい、ですけど……」
「けど?」
「胸、ちっちゃいんですね」
重なる後頭部への衝撃で意識を失いかけたのは、もはや自業自得としか言えないだろう。
「……ったく。お前はどさくさに紛れて女の子のおっぱいを揉みすぎだ。少しは礼儀というものを知りなさい」
嘆息しながら俺の上から退いた来夏先輩は、腰に手を当ててそう言った。
上半身を起こして天剣を杖代わりに立ち上がる。
塔の途中から侵入したことにより、当たり前だが、まだ上に階層があるようだった。階層ごとに区切られたフロアは階段以外にはなにもない、殺風景なところだった。円形のフロアには上に行くための階段が設置され、それが長く螺旋を描いている。外観と違って内装は純白で統一されているためか、気持ち悪さが格段に増したような気がした。
来夏先輩の方に向き直り、俺は口を開く。
「来夏先輩、能力は使えますか?」
俺のいま一番の危惧はそこだ。もしも来夏先輩が能力を使えないのであれば、大きなハンデを背負うことになる。
能力者などと言っても、その能力がなければただの大学生だ。『あれ』は彼女を守りながら切り抜けられるほど、たやすい相手ではない。
「ばっちり。問題なく使えるよ」
自らの体を浮かせ、能力が使えるのを見て俺はほっと安堵の息をつく。
十六夜の予測は的中だ。『九十九』はこの塔では能力を使えないが、それ以外の能力者は問題ないようだ。
「それなら急ぎましょう。この上に、柊がいるんだ」
もうじっとなんてしていられない。
真宵後輩がいなかったらきっと、俺は柊に惚れてたんだと思う。――いや、こうして必死になる辺り、もうとっくに惚れてたんだろう。
誰とも関わろうとしなかった俺に、柊はずっと話しかけてくれた。そのおかげで、わずかながら友達ができた。彼女のおかげで、いまの俺がある。
「恋する男の子はカッコイイね。でも、二股はやめておきなよ? 後ろから刺されるから」
「大丈夫ですよ。愛してるのはひとりだけですから」
「ならよろしい。ところで――どうやらお出迎えが来たみたいだ」
かつん――と、階段を踏む音がフロアに反響する。
けたけたと不気味な笑い声をあげながら、奇抜な格好に奇怪な化粧の、奇妙な道化師が降りてきた。
「これは展開的に私があいつの足止めをしなきゃならねーみたいですね」
ピエロは螺旋階段を一段一段ゆっくりと、煽るように踏みしめる。
「ベタなセリフは言いたくねーんだけど――ここは私に任せて、先に行け」
体が軽くなった気がした。もしこの世界がゲームであったならば、俺のパラメータは限界値ギリギリまで高まっているに違いない。それどころか、そんなものはもうとっくに振りきってしまったのかもしれない。
足を曲げ、一歩目を踏み出す――その瞬間、俺の体は風となった。螺旋階段の中央を突き抜け、飛翔する。
どうも俺は他人を信用するということができていない。だから来夏先輩があのピエロと戦って、負けてしまうのではないかと考えてしまった。けれどそんなことを考える必要はない。
来夏先輩は、絶対に負けないから。
最上階から差し込む風が俺の頬を撫でた。そこへと続く道は、もうすぐ目の前にある。壁を蹴るように走って勢いをつけると、俺は弾丸のごときスピードで飛び込んだ。
「…………」
体勢を立て直し、遥か前方を睨み付ける。
最上階はこれまでとは違い、装飾のなされた部屋だった。豪華とまではいかなくとも、客を招くような落ち着いた雰囲気があった。
フロアをなぞるように取りつけられたランプのようなものに、青白い炎が灯った。入口から少し離れた壁の両端から、連続音と共にたちまち炎のサークルが出来上がる。最後に一際大きな火柱が吹き上がり、それを背景に白髪の女が姿を現した。
「初めましてだの。ゆかりの息子よ」
俺は白髪の女の言葉を無視して周り見渡す。……どこにも、いない。
「柊と一葉はどこにいる」
このフロアには人を隠せるようなスペースはどこにもない。最上階であるのだから、別のところに閉じ込めているということはないだろう。
「少しは落ち着け。心配せずとも、あの二人の無事は保証しよう。もとより妾は詩織と一葉に手を出す気はない」
「柊と一葉はどこにいる――俺はそう訊いたはずだ」
鞘の属性石を取りだし、復元言語を唱える。まばゆい光と共に復元された鞘を腰まで持っていき、天剣を納める。
こいつとの対話を許してはだめだ。少しでも隙を見せれば、瞬く間に呑まれてしまう。
「答えるつもりがないなら、力ずくで聞きだすまでだ」
「そちも母親同様、戦いというものを知りすぎておる。安心せい、不意を打つような真似もしなければ、威圧で呑むなんて真似もせぬよ」
「――最後だ」
全身から右腕を伝い、天剣に波動を走らせる。
その際に激痛が伴うが、それを歯を食い縛り堪える。
「柊と一葉は――どこにいる」
抜刀された天剣から、斬撃が駆け抜けた。
「やれやれ、自己紹介をする暇さえくれないとはのう。まぁよい、勝手にやらせてもらうわい」
白髪の女が両手を背中に持っていく。口が小さく動いた。斬撃に掻き消された呟きだが、しかしそれがどういったものかわかり、俺は目を見開いた。
フロアを満たすほどの光が斬撃を跳ね返す。二乗増しの威力になったそれを、刀身を滑らせるように受け流した。
「なんでお前が、それを持っている」
白髪の女の両手には、純白と漆黒の剣が握られている。しかしその剣というのは、この世界には絶対に存在しないはずのものだ。
異世界で鍛えられた剣――それも俺が最も信頼できる鍛冶屋が鍛えた、かつて天剣の代わりに俺の刃となった最高峰の二振り。
だがその剣は返したはずだ。譲り受けたものではなく、一時的に借りていたものだったから。
それがなぜ、こっちの世界にあるんだ。
「療養中に拾った、と言っても信じてくれぬだろう? この二振りはそれだけの力がある」
「ふざけんなよ。だったらどうやってそれを復元させた」
「そちのやり方を見て真似しただけだが?」
「できるわけがないだろ。属性石を復元させるには、波動と波脈が必要なんだ。お前にはそのどっちもないはずだ」
「波動? ふむ、波動とはこれのことかの?」
白髪の女から放出された波動が俺の体を貫いた。いや、そう感じただけで、実際はなにもなってなどいない。
けれどそれは俺を貫いたような衝撃を与えるには、十分すぎる事実だった。
「ならば改めて自己紹介だのう――九十九志乃。『九十九』の創設者だ」
白髪の女――九十九志乃の二刀流による剣舞が、俺に襲いかかった。
◇◆◇