5―(12)「暗転②」
「来夏、かしぎ! 手ェ伸ばせや!」
東雲が伸ばした手は虚しく空を切るだけだった。
大口を開けた床に飲み込まれていく冬道と来夏を助けるために身を乗り出すが、それは柊と九重に羽交い締めにされてしまう。
無理やりにでも動こうとするが、そうしてしまえば最悪、二人の腕を引きちぎってしまうかもしれない。
闇に飲まれていく二人を見送ることしかできなくて、東雲は己の無力さを恨むしかない。
それでも必死に助けようとしていると、落ちていく冬道と視線が交錯した。
『大丈夫。心配するな』
冬道が口だけを動かしてそう伝えてくる。
こんなときにそう言われても安心できるはずがない。
腕を振り払い、東雲は九重の胸ぐらを掴みあげた。その形相は鬼をも連想させるもので、殺気すら帯びているそれに、直接あてられていない五十嵐でさえ恐怖を覚えた。
「九重、あんたなんの真似や?」
どちらかと言えば穏やかな、抑揚のない声だった。
しかしそれが嵐の前の静かさだということに気づけないはずもない。
「なんでこないなことしたんや!」
東雲の咆哮は空気を振動させ、地響きさえ起こしそうなほどだった。
「……こうするのが最善だったんだよ。一葉ちゃんを助けるには、あの二人は邪魔だったんだ」
「あ? 一葉を助けるためやて?」
怪訝そうに顔をしかめるが、東雲は胸ぐらを掴みあげていた腕を離した。
「一葉を助けるのになんで来夏たちを『失落牢』に落とす必要があったんや」
「失落牢……? なんなんですか、それ」
柊にそう訊かれ、東雲はおもわず口を滑らせてしまったことを悟った。
失落牢のことは柊に聞かせるのは憚られた。少し間違えていれば柊もそこに入れられていたのだ。
そこに入れられる人間には共通する特徴がある。
その特徴というのが……
「『九十九』の失敗作の能力者だよ、詩織ちゃん」
「え……?」
「あの場所には『九十九』でありながら『九十九』になりきれなかった能力者が閉じ込められた牢獄。それが失落牢なんだ」
柊は目眩にたたらを踏んだ。意識を繋いでいただけでもまだいい方だろう。
柊もかつてはここにいた。『九十九』に生まれ落ちた能力者として。そして失敗作だという理由から、彼女は柊家に引き取られたのだ。
皮肉にも柊は助けられたと言うべきだろう。そのようなところに閉じ込められたのなら、いまのように生活することなんでできなかったのだから。
「あのような場所にお二人を閉じ込めて大丈夫なのでございましょうか? あそこには失敗作であるがゆえに暴走した実力を持つ能力者がたくさんいます」
五十嵐が把握している範囲ではその数は数十を越えている。『九十九』の能力者でもそれらを相手取るのは苦しいはずだ。
「それについては大丈夫や」
「それについては大丈夫だよ」
九重と東雲は同時に言い切った。
お互いに顔を見合わせると、まずは東雲が口を開いた。
「とりあえずかしぎがおるからな。私を倒した人間や。来夏もおるし、負けるってことはないはずやで」
「あ、なるほど」
それだけで納得できてしまう。たとえどんな敵が来ようと、冬道ならどうにかしてしまえると思うのだ。
「俺の理由は揺火姉ちゃんがそこに行くからだよ。あいつら、揺火姉ちゃんに逆らえないからさ」
「揺火か……」
赤髪の獅子を思い出して東雲は浅い息をつく。揺火とは会えば喧嘩するような仲だったし、いい思い出がない。
しかしそれで安心してしまったのも事実だ。認めるのは癪に障るから、それは間違いだと内心で否定しておく。
「となると、失落牢に落ちたお二人は大丈夫、ということでございますか」
「せやな。……それでも、落としたことには納得してへんけどな」
「だから仕方なかったんだよ。一葉ちゃんを助けるには必要な手順なんだ」
それでも落としたのはやりすぎだと思っていたらしく、素直に頭を下げた。
そして九重は話を聞いてからの二日間になにがあったかを語り始めた。
「俺はただ無駄に二日も消費したわけじゃない。まず東雲姉ちゃんたちと別れてここに帰ってきてから、一葉ちゃん含む『九十九』のみんなに話をしたんだ」
話とはもちろん東雲たちとした会話のことだ。
『あれ』という存在のこと。一葉が『あれ』に利用されていることや、裏切り者とした東雲や五十嵐が一葉を助けようとしていること。そのためにはみんなの協力が必要だということを話した。
『あれ』という存在を知っているのは一葉以外には数人しかおらず、その事実を知ったとたん、自分たちが利用されていることに憤りを抱いたようだった。
これならいける。意見は半々に分かれたものの、それでも『あれ』から一葉を救うことができると思った。
けれどそれはただの希望に終わることとになった。
「そこに『あれ』が現れたんだよ」
「でてきたんか!? どんなやつやったんや!」
「どんなやつかって訊かれても……正直、どんな風に言えばいいかわかんねぇんだ」
『九十九』の能力者全員が集まったところを見計らったように『あれ』はそこにいた。
どのように現れたのか、いつからそこにいたのか――それすらもわからないのに全員が全員、その存在を認識していたのだ。
そのことを疑問に思い、驚愕したのは九重や揺火くらいのものだった。ほとんどの能力者はそれをあっさり受け入れ、そして見蕩れていた。
「ほほう。妾のことで盛り上がっているようだが、妾を差し置いてなんの話をしているのだ?」
その声を聞いた九重は、本能的に恐怖に陥った。
『あれ』に視線が釘付けになる。ただ微笑んでいるだけのその佇まいが、どうしようもなく恐怖を加速させる。その恐怖は一様に感じたもので、誰しもが抵抗しようという気持ちを破壊された。
「ただ言えることは、俺や東雲姉ちゃん、一葉ちゃんに詩織ちゃんが協力して戦っても……勝てる気がしない」
諦めにもとれる言葉だが、しかし九重の声色からはそんなものは微塵も感じられない。むしろどんなことをしてでも助けだそうという気構えが、熱風となって伝わってくる。
「だからまずは『あれ』に従う」
『あれ』が命令をした……わけではなく、やってくれとやんわりと頼まれたのだ。
頼まれたのは二つだけ。
これから侵入してくる『九十九』を自分のもとにつれてくること。もうひとつが、侵入してくる外部の能力者を始末することだ。
「悪いんだけど三人には人質になってもらわないといけない。もちろん見かけだけのな」
「見かけだけって、どう見かけだけにすんだよ」
「それはこう……縄で縛ったりとか?」
「そないなことで人質になったことになるんか……」
大まかな策は練ったものの、時間がなく細かいところまでは考えていなかった。
「その方があとあとやりやすいだろ? あ、でも五十嵐は本当に縛るからな」
「どうしてでしょうか?」
「これから『あれ』と戦うことになるのに、五十嵐まで巻き込めねぇよ」
というのは建前で、本当のところは五十嵐が『あれ』と戦っても相手にならないというところにある。
東雲や柊はかろうじて戦えるとしても、五十嵐では戦うのは無理だ。なら本当の人質とした方が『あれ』を騙すこともできるだろう。
その程度で騙されてくれるとは到底思ってはいないが。
「あくまで俺たちが戦うのは一葉ちゃんを助け出すためだ。『あれ』を倒しきる必要はないし、そもそも倒しきれるわけもない」
「……なら一葉を助けたら、どうするつもりや?」
おそらく一葉を助ければ『あれ』が取り返しに来るだろう。そうなれば誰かが足止めをしなければならない。
『あれ』の機嫌を損ね、しかもそんなやつをひとりで相手にするということはすなわち、死すら意味することになる。
「俺が戦うよ」
「ふざけんな」
自分を犠牲にしようとした九重に、東雲はすぐさま言葉を返した。
「一葉を逃がすくらいなら詩織ちゃんだけでも問題ない。五十嵐だっているんや。だから、私も戦うで」
「おいおい……申し出は嬉しいけど、東雲姉ちゃんを危険な目に逢わせるわけにゃ……」
九重の顔の真横を風を切る音が通りすぎた。それが東雲の拳から発せられたものだというのは考えるまでもなかった。
「ね、ねねね姉ちゃん!? いきなりなにするのさ!」
「あんたが阿呆なことぬかすからや。あんたに気ィ使われるほど、私は弱くなった覚えはないわ。あんまふざけたこと言うてるとマジで殺すで?」
さらに拳を振り抜こうとする東雲を慌てて止める。
これはなにを言っても無駄だ。
「わかったよ姉ちゃん。でも、無理だけはしないでくれ」
「あんたもな」
そう言葉を交わすと、九重はさっそく縄を取り出した。
一葉を助けるためとはいえ、嬉々として女の子を縛る九重を殴り飛ばした東雲はおそらくもっとも正しい選択をしただろう。
◇◆◇
「よう一葉ちゃん、連れてきたぜ」
着物を身に纏う少女は軽薄そうなその声に、沈ませていた顔をあげた。
まるで人形のように精巧な顔立ちの少女だった。淡い青色の着物はその白い肌を際立たせ、さらにその白い肌は彼女の黒髪を美しく見せていた。
九十九一葉は朧な目を九重に向けた。
「――――」
一葉は口を開き、九重に言葉を投げかける。けれど声は聞こえなかった。
いや、聞こえないのではなく、そもそも声がでていない。空気ばかりが喉から押し出され、宙に散っていく。
「え? 揺火姉ちゃんはどうしたのかって? さすがの俺も姉ちゃんの突発的な行動までわかんねぇよ」
一葉は首を横に振る。
「あり? 違った?」
いくら九重でも読唇術までは使えない。わざとらしく後頭部を掻きながら、目だけで天守閣内部を見渡した。
『あれ』の姿はどこにもない。東雲たちを迎えに行く前は一葉を抱き枕にしていたのだが、いったいどこに行ったのか。
いまのうちに助け出そうかとも考えたが、まだ動くには早いかもしれない。
一葉の黒曜石のような瞳が、東雲に向けられる。
「久しぶりやな、一葉。元気そうでなによりや」
「……!?」
東雲の敵意もなにもない、ただただ優しい声に一葉は目を見開いた。
覚悟していた。いくら仲間を助けるためだったとはいえ、東雲ひとりを犠牲にしたことは当然、憎まれていると思っていたからだ。
どんな言葉だって受け入れるつもりだった。なにを言われようと仕方がないものだった。
それなのに東雲は罵倒するどころか、一葉のことを心配していたのだ。
六年前、一葉は東雲をズタズタにした。それは意思に反したものだったとはいえ、行った事実は覆らない。
「――――」
「あぁ、この腕か? こいつは義手や。さすがに千切れた腕はくっつかんからな。でもこっちの方が使い勝手はええから結果オーライってやつや」
縛られて見せることはできないが、視線だけで腕は大丈夫だということを伝える。
「……ん? 一葉?」
一葉の頬をひと筋の滴が流れた。とめどなく溢れる涙は床を濡らし、染みを作っていく。
それを見た東雲はぎょっとしてしまう。泣かせてしまうようなことをした覚えはない。一葉の方も自分が泣いていることに疑問を抱いているほどだ。必死に涙を拭うが、どうにも止まりそうにない。
「おい東雲姉ちゃん! いくら東雲姉ちゃんでも一葉ちゃんを泣かすのは許さねぇぜ!」
「私だってなんで泣いてんのかわからんわ!」
東雲はいがみ合う演技をしながら、九重に問う。
「いまなら一葉を助け出せるんと違うか?」
東雲が小声で言ったことを九重は首を振って否定する。
「『あれ』から逃げるには正面からじゃないとだめだ。『あれ』はそういうのを極端に嫌う傾向にあるんだ。そんなことしたら一葉ちゃんもろとも、皆殺しにされる」
「ならどうするんや。この機会を見逃せっていうんか?」
「……見逃すもなにも、おそらく俺たちの行動はもう筒抜けだよ」
九重の苦虫を噛み殺したような言葉に東雲は絶句する。
ここまで慎重に行動してきた意味はなんだったのか。わざわざ冬道たちを失落牢に落とし、人質になった真似までしたというのに、それがすべてバレていたのだ。言葉を失うのも無理はない。
それならば、なぜこのような芝居を続けなくてはならないのだろうか。
「コソコソやられるのが嫌いなんだよ。だからバレてるとわかってても、それをやれば『あれ』は乗ってきてくれるはずだ」
九重の確証のない言い分にかっとなるが、しかしすぐに冷静になることができた。
東雲も『あれ』を目にしたことがあるとはいえ、遠目でその実力を捉えたにすぎない。間近で見、そして会話までした九重を疑う根拠がない。
そうなればやはり『あれ』と戦わなければならない。
だが――。
目を動かし、後ろにいる柊に視線を移す。
屋敷に入る前から柊は体調が悪かった。それはてっきり雨のなかにいたからだと、東雲は考えていた。しかし屋敷に入ってもなお柊の体調は悪化し続け、立っていることすら困難になっている。
これではいくら時間を稼いだとしても、一葉を連れて逃げることなど到底できはしないだろう。
ならばいっそ、このまま一葉を助け出した方がいいのではないか、東雲はこれからの道筋を考慮してそのような結論を弾き出す。
「……九重。やっぱいまのうちに逃げるで」
「俺の話ちゃんと聞いてたのか? 確実に一葉ちゃんを助けるためには、ここで動いたら……」
九重の言葉を遮るように腕を縛る縄を引きちぎると、東雲は一葉を抱き上げた。
不意に抱き上げられた一葉は涙を溜める目を白黒させながら、東雲に戸惑いの眼差しを向ける。
「確実もくそもあるか。どうせ私らじゃ『あれ』には勝たれへんねん。せやったらここで動かんでどこで動くっちゅうんや。それに詩織ちゃんの体調も悪いみたいやしな」
「……?」
見上げた小さな少女は心配そうに東雲の顔を覗いている。そんな一葉の頭を優しく撫でた。
「心配はいらん。私が一葉を助けてみせる」
にかっと笑ってみせる東雲に、九重は毒気を抜かれたように肩をすくめた。
仕方ないか、と九重は呟くと五十嵐と柊の縄をほどき、正規ルートでの出口に足を向けた。
脱出する前に揺火姉ちゃんたちに言っておかないとな、などと考えながら、ふと柊を見る。
「だ、だめだ……」
膝から崩れ落ちた柊は、頭を抱えて蒼白になった唇を動かした。真紅の瞳は焦点が合っていない。しきりに危険をうながしていた柊は、東雲の背中のさらに奥を睨んで吠えた。
「――後ろだ!」
おかげで致命傷を回避することができた。
ほぼ反射的に踵を返して後ろに跳んだ東雲の右肩からきゅぽん、という間抜けな効果音が鳴った。けれどそんな東雲の右肩は、くり貫かれたように穴が空けられている。
「憮然たるその物言い。よもや妾に向けたものではなかろうな、妾の劣種よ」
心臓を直接鷲掴みにされたらこうなるのだろうか。東雲はすぐそこにある死を精神に刷り込まれ、瞬く間に正常な思考を放棄せざるをえなかった。
脳からの電気信号を受け取り、送り込む信号素子はあっけなく破壊され、直したはずの義手は再びただのガラクタへと退化した。
東雲は顔をあげ、凝視する。
「しかし……巫女と違ってそこの眼帯とポニテは可愛いのう。素直さが滲みてでおるわ」
そう言ったのは『あれ』と呼ばれる存在であろうことは、この場にいる全員が瞬時に悟った。
色素の抜けきった真っ白な長髪は、いくつにも折り畳まれているというのに床垂れるほどだ。大きな瑠璃色の瞳は禍々しいほどの光を放っている。スッと通った鼻筋の下に彩られた桜色の唇。柔和な物腰のなかにある狂気の渦が、見事な調和を奏でていた。
『あれ』という存在が立っているだけで金縛りにでもなったかのように動きが封じられ、指一本すら動かすことができない。脳からの電気信号を遮断されでもしない限り、こんなことにはならないのだろう。
東雲は無我夢中で手足に力を込めるが、しかしそれすらもままならない。
ゆっくりと歩み寄ってくる『あれ』から目を外すこともできず、ただただ接近を許すしかないことに、ひやりと首筋を冷たいものが撫でていくのを感じた。
「して巫女、妾の一葉をどうするつもりだったのかの?」
顔をずいと近づけられ、脳裏に心臓を貫かれるイメージがよぎった。
マズイと思いながらも体が動かない。枝のように細く、曲げれば折れてしまいそうなしなやかな腕が、東雲の頬に触れ、首から肩へと下に落ちていく。
すらりと伸びた指が胸に触れようとした直後、動かしていた腕が急に真下に打ち付けられた。
鮮血が噴き出した。赤い水は東雲の体を濡らし、ようやく正気に戻った彼女は大きく飛び退いて距離を広げた。
「はっ――いきなりなにをする一葉よ。いくら妾でもびっくりするであろう」
『あれ』は白髪を紅に染めながら、無理やりもぎ取られたように失われた肩から噴水のように血を撒き散らしながら、子供を諭すようにそう言った。
その表情には笑みすら浮かんでいる。
「それと、これは巫女の右腕を潰した妾への仕返しのつもりかのう? 可愛いやつめ。しかし申しわけないの。妾の腕くらいなら、いくらでもくれてやりたいところなのだが……すぐに再生してしまってな」
肩から虫が蠢くように神経のような糸が伸びると、そこから腕が再生を始めた。ビデオテープを逆再生したように元通りになった手を開閉させると、床に落ちた腕を拾い上げる。
「それにしても妾の『吸血鬼』は誠に不便で使い勝手が悪かろうに。進化しないというのも考えものかもしれん」
天井を見上げて耳元まで裂けんばかりに口を大きく開くと、手に持っていた腕を喉に押し込んだ。骨を砕く不快な音を奏でながら、自分の腕だったものを咀嚼する。
ごくんと肉塊を飲み込むと、不味そうに顔をしかめた。
「ゲロマズだの。もう少し美味なるかと思うてたが……やはり炙った方がよかったのかもしれん」
顔をしかめたまま唇の端から垂れる血を拭うと、指についた血を舐めとった。
「ポニテの『吸血鬼』が羨ましいわい。欠損した部分が再生すれば、勝手に千切れたモノが消えてくれるからの。そちは妾の劣種などではないようだな」
荒く呼吸を繰り返す柊を見ながら、『あれ』は嬉しそうに言った。
「しかし偉いのう。ちゃんと妾が来るのを感じておったようでな。さらにはそのように苦しんでおる。同じ『九十九』でもそこまでになるのはおるまいよ」
まさか、と東雲は息をのむ。
柊の体調の悪さというのが『あれ』によるものだったとでもいうのだろうか。『あれ』の気配は感じとることができようと、東雲や九重ではこうはならないはずだ。
五十嵐のように圧倒的な力の差があれば体調不良にも頷けるが、柊の実力は『九十九』でも劣ることは少ない。
だとすれば逆説のページを捲るほか、考えられる可能性はなにもない。
いまは東雲たちに劣る柊だが、経験を積んで戦えるようになれば実力を容易に凌駕するだろう。その才能とスペックは十分に秘めている。それでも届かない領域にまで飛ぶとは思っていなかった。
つまり柊の実力は東雲に思うところにはあらず、遥かな高みにあるということだ。
だからこそ『あれ』を敏感に感じとり、そして対峙できたがゆえにこうなってしまったのだ。いまも柊だけは『あれ』に抵抗しようとしているし、身動きもとることができるのがその証拠だ。
「あまり苦しめるのは趣向に合わんからの。どれ、やるのは久方ぶりではあるが、ちと力を抑えてみるか」
『あれ』はそう言って目をつむる。
するとどうだろう。まとわりついていた嫌な感覚が消え、動かせない体に自由が戻った。
「どうだ? これで少しは楽になったであろう?」
いつの間にか隣にいた『あれ』に柊は体を強張らせるが、ふわりと包むような柔らかな腕に警戒心を削がれた。
「すまんな。まだ力が完全ではないとはいえ、そちらには相当な負担を強いているようだ。許してくれ」
本当に敵なのだろうか。とてもそうとは思えない。演技で身を案じているならば、体調が急激に戻りつつあるいま、接近を許したりはしなかっただろう。
だがこいつは真剣に心配してくれているのだ。
身内にでも向けるようなその優しさに、戦う意思が薄れていくのを柊は感じていた。
「――詩織ちゃんから、離れェや!」
叫びながら、東雲の拳撃が『あれ』に放たれる。
「そちに用はない。大人しくしていろ」
「が――」
無情なる一撃が東雲の頭部に振り下ろされ、抵抗する間もなく床に叩きつけられた。
はっとした柊は『あれ』から離れると、東雲がとっさに放り投げていた一葉を空中でキャッチし、九重のところまで下がった。
真紅の瞳を尖らせた柊は『あれ』を見据える。
「……そのような顔をするな。妾とて悲しくなってくる」
「うっせぇ。なんなんだよ、てめぇは」
一葉を抱く逆の腕をだらりと下に垂らし、肩幅に開いた足を軽く曲げる。『吸血鬼』による肉体補正のおかげで、妙な動きを見せれば即座に噛みつくことができる。
一切の動きを見逃すまいと全神経を集中させた。
「そちらは妾が誰か、もう知っていると思うのだがの」
するりと柊と九重、一葉の間に潜り込んだ『あれ』は小さな声で囁いた。
「――――――」
揃って全員が驚愕に目を見開いた。
ありえない。しかしそうでなければ辻褄があわない。
「驚いたか? ふふん、その顔が見たくてな。いままで黙っていたかいがあったわい」
床についた白髪をなびかせながら『あれ』は言う。
「してどうするつもりかの。そちらは妾から一葉を助けるのが目的であろう? であれば、あとは逃げるのが策ではないのか」
できるのであればとっくにそうしている。
『あれ』がやらせてくれないのだ。出口を塞ぐように立ち、まるで立案した策を実行させようとしている。
『あれ』に計画が筒抜けであるのは予想していたことだった。しかし、だからといってここまで不利な状態で行動したとして――果たして、生き残れるのだろうか。
可能性としては限りなくゼロに近い。
柊が一葉を連れ、九重と東雲が『あれ』の足止めをするはずだったのだが、すでに東雲は戦えそうにもない。となれば九重がひとりで戦わなければならない。
「……ん? よくよく探ってみれば集まりが悪いのう。妾は『九十九』の人間を全員集めるように言ったはずなのだが……」
九重は眼帯を押し上げると、両目で『あれ』を視界の中心に収める。
「それに招かねざる客が二匹、我が根城に潜り込んでおるようだが……これは誰の差し金――」
「詩織ちゃん! 一葉ちゃんを連れて逃げろ!」
九重の悲鳴にも似た叫びが『あれ』の言葉を遮った。
踏みしめた床が脚力に耐えきれずに割れるが、それよりも速く『あれ』を壁に打ち付けた。
「いまのうちに逃げるぞ! 五十嵐、さっさと立て!」
無理やり五十嵐を立たせるとそのまま背負い、『吸血鬼』のたぐいまれなる力で天井に風穴を開けた。
腰を低く沈め、飛び出そうとした――その刹那。
二人を抱える柊の脇を黒い影が駆け抜けていった。
「どうやらそのうちのひとりは、冬道ゆかりの息子のようだな。これはなんという運命か」
柊の背筋に悪寒が走る。ゆっくりとした動作で振り返ると、そこには瑠璃色の双眸が不気味に光っていた。
「すまないのだが、どうやらそちらの余興に付き合っている時はなさそうだ」
とん――首筋に軽い衝撃がかかった。
体から力が抜けていき、意識が遠退いていく。
「ゆかりの息子がいるとなると、妾も少しばかり用意をしなくてはならんのでな。可愛らしいそちらと遊びたいのはやまやまなのだが……許してほしい」
そう言って五十嵐を優しく柊から引き離すと、近くにあった壁に寄りかからせる。
気絶した柊を担ぎ上げ、一葉に手を差しのべた。
「一葉はどうする? 無理強いをするつもりはないが、ここにいてもなにもやることはないのではないか?」
「…………」
一葉の視線は宙をさ迷う。
『あれ』の言葉にたしかに強制力は感じない。だが一葉がそれに従わなかったとしてどうなるというのだろう。
戦ったとしてもあしらわれるのはすぐに想像できた。
ならば『あれ』についていき、少しでも周りへの被害を最小限に留めるのが一葉にできる唯一のことだろう。
一葉は『あれ』の手を掴む。
「そうか、妾についてくるのだな。……悲しいことだ」
最後の小さな呟きの意味は、一葉にはわからなかった。
そして一葉たちを含めた『あれ』の姿は、その部屋からなくなった。




