5―(6)「訪問者」
翔無先輩の家から旅館に帰ってきた俺はお風呂も食事も済ませ、暇な時間を過ごしていた。
俺は、というだけで柊はまだ温泉に入っている。女の子の買い物は長いと言うが、お風呂も長いよなぁ。男はそこまでやることはないけど、女の子は髪の手入れとかがあるから大変なのだろう。
柊もあのポニーテールのさらさら感を維持するために手入れは欠かせないはずだ。
俺、あのポニーテール好きなんだよな。誰でもっていうわけじゃなくて、柊のだからいいんだよ。
あ、もちろん真宵後輩がポニーテールにしたら、一番は確実だけどな。
それにしてもやることがない。戦いになるっていうから暇にはならないと踏んでいたのに、こうも時間を持て余すなんて思いもしなかった。
異世界にいたころなら戦いがなくても、やることはいくらでもあった。俺に余裕なんてものはなかったからだ。
正直いまは余裕がある。誰と戦ったとしても負ける気がしない。
「……暇だなぁ」
携帯電話を開いてみる。着信もメールも来ていない。
人付き合いはするようになっても、相変わらず友達は少ない。まだ避けられてるみたいだし。ただ体育祭を通して、クラス内ではそういうことはなくなったみたいだ。
……そうだ。連絡が来ないなら、こっちから連絡すればいいんだ。
思い立ったらすぐに実行だ。アドレス帳を開き、『真宵後輩』を選んで呼び出しをかける。
「……あれ、おかしいな」
いつもなら電話をかければ一拍もおかずに出るのが真宵後輩だ。なのになかなか出てくれない。
忙しいのか? それならそれで用事があるわけじゃないし、またかけ直せばいいか。
そう思って電話を切ろうとした直後、
『せ、先輩ですか? すみません、私としたことが着信に気づきませんでした』
真宵後輩が息を切らせながら呼び出しに応じた。電話越しにどたばたと騒がしさが伝わってくる。
「忙しかったか? それならまたかけ直すけど……」
『いえ! 全然忙しく……くっ、キョウ、私の邪魔をするとはいい度胸ですね。捻り潰してあげましょうか?』
あれ、火鷹と一緒にいるのか?
真宵後輩の息づかいが聞こえる奥で、火鷹の声も聞こえてきた。よく聞いてみると火鷹だけではなく、アウルは白神先輩、秋蝉先輩の声も聞こえる。
珍しい組み合わせもあったもんだ。
「なんか忙しそうだな」
『全然忙しくありません! 先輩とお喋りする以上に忙しいことなんてありませんから!』
それは喜んでいいところかどうか微妙だ。
『というか本当に邪魔です! 波導で蹴散らしてあげましょうか!』
「落ち着けって!」
なんか悪いタイミングで電話かけてしまったらしい。それに真宵後輩が声を荒げるなんて本当に珍しい。
『私の邪魔をするとどうなるか、教えてあげましょう――この枕をもって』
「枕!?」
盛り上がってると思ったらこいつら、枕投げしてやがったのか!? そりゃあ電話に出れるわけねぇよ。
『先輩はそのまま切らないでくださいね。安心してください、電話をしながらこの程度の相手を沈めるのなんて造作もあり――もふっ』
あ、いま確実に顔面に喰らったな。
『……やりましたねアウルさん。まずはあなたに地獄を見てもらいましょう――か!』
どん、と枕を投げたくらいでは出ないであろう音が電話から聞こえてくる。
ちょっと待ってくれ。枕投げでなんでそんな音が? 部屋の壁は大丈夫なのか!?
『ちっ、撃ち漏らしたしたか。波動なしで狙うのはめんどくさいですね』
「真宵後輩、部屋の壁は大丈夫なのか?」
『大丈夫です、問題ありません。皹が入ったくらいです』
いや、それ全然問題ありじゃね? 波動なしで枕投げて壁に皹が入るってなにやってんだよ。
『ちなみに皹はアウルさんが入れたもので、私はそれに追加でダメージを与えただけです』
「ご丁寧な解説ありがとう。あとアウルには壁直すように言っといてくれ」
『わかりました。……アウルさん、壊した壁を直さないと先輩があなたを殺すと言ってました。ですから私がその手間を省いてあなたを殺します』
「言ってねぇよ! 偽造しないでくれるかな!?」
『後輩からの粋な計らいです。てへっ』
「あ、可愛い」
真宵後輩がやることってなんでも可愛いな。異論は受けつけん。異論したやつは俺がぶっ飛ばす。
『安心してください先輩。私がアウルさんを殺したのは個人的な恨みです。枕を顔にぶつけられましたからね』
「すげぇ浅い恨みだな」
『顔にぶつけられたのはいいんです。先輩との電話を邪魔されたから――殺すんです』
嬉しいこと言ってくれてるんだけど声色がマジだ!?
さすがにやらないだろうけど心配だ。
『秋蝉さん、アウルさんを縛ってください。エロ縛りで。……キョウも賛成ですか。ですよね、このなかで巨乳なのはアウルさんだけですから。そのけしからん胸を……吸ってあげましょうか』
「ちょ、真宵後輩? 吸うって……」
俺が言い切る前に、向こうからアウルの艶かしい声が聞こえてきた。
まさか本当にその……アウルの胸を吸ってるんじゃないだろうな?
俺が戦慄していると、向こうからアウルの声が響いてきた。しかもかなりの大声量で。
『藍霧ィィィっ! いい加減にしろォォォっ!』
「うぉ!?」
耳をつんざくような音ともに、秋蝉先輩と白神先輩の悲鳴らしき声も一緒に拾った。どたばたと暴れる様子を聞くに、ついにアウルが暴走したか。
『すみません先輩。アウルさんが暴れだしましたので、止めたいと思います。先輩の家を壊されでもした大変でしょうから』
「……ちょっと待て。いま、なんて言った?」
『……? 先輩の家を壊されでもしたら大変だ、と』
「俺んちでそんな騒いでたのか!?」
待ってくれよ。マジで勘弁してくれ。家を壊されでもしたら母さんになにされるかわかったもんじゃねぇぞ。最悪、殺されるかもしれない。
「真宵後輩、アウルを絶対に止めろ」
『とてつもなく真剣な声色ですね。わかりました。先輩の頼みということでしたら、全力でアウルさんを止めてみせましょう』
「あぁ、マジで頼むぞ」
返事は帰ってこなかった。いや、しようとはしていたんだろう。それよりも早く携帯電話が通話を切られたのか、あるいは壊されたのか。
どちらにしろ、真宵後輩には頑張ってもらわないとな。
「…………」
無機質な音が流れる携帯電話を閉じて放り投げ、俺は天井を仰ぐ。
やっぱりだ。真宵後輩は俺に依存しすぎている。翔無先輩の言う通りだ。
でも俺にどうしろって言うんだ。また彼女から生きる意味を奪えっていうのか? そんなことをしたら、真宵後輩は今度こそ死んでしまう。
どうして真宵後輩がああなったかは知らない。それでもがらんどうを埋めるものがなくなれば、真宵後輩が真宵後輩でなくなるというのはわかる。
「俺が、わりぃのかな……」
もしあの時点で戦うことを進めなければ、いったいどうなっていただろう。そんな門答をすることに意味はない。しかし、やらずにはいられない。
命が重い。死ぬつもりなんてものはないが、どうしてもそのあとのことを考えてしまう。
俺が死ねば真宵後輩は死ぬ。肉体的にではなく、精神的にだ。かろうじて真宵後輩が生きていられるのは、俺――冬道かしぎという支柱があるからだ。自分では自分を支えられない。だってなにもないのだから。
間違ったことをしたとは思わない。いや――もしかしたら、それこそが間違いなのかもしれない。
「いいんだ。俺が死ななきゃそれでいい」
頭を振って負の思考を追い出す。こんなことを考えたってどうしようもない。進んだ時間を巻き戻すことなんて、もうできない。
前に進むしか俺には残されていない――そうだ。前に、とにかく前に。
「そいつは間違いだぜ冬道!」
「うおぅ!?」
柊はそんなことを口走りながら、襖を思いきり開け放ち、部屋のなかに入ってきた。
まさか、さっきの呟きを聞かれてたっていうのか……?
「だけど、俺にできることなんてこれくらいしかねぇよ。俺にはこれくらいしか取り柄がねぇからな」
「いーや違うね。他にも冬道にできることがちゃんとあるぜ!」
「適当に言ってんじゃねぇのか? 死なない以外に、俺になにができるっていいんだよ」
「は? 死ぬとか死なないとかなに言ってるんだ? よくわかんねぇけど、そんなのはどうだっていいんだよ」
浴衣姿の柊は腰に手をあて、嘆息しながらそう言った。
なんか微妙に会話が噛み合っていないような気が……。
「じゃじゃーん!」
変な掛け声と一緒に取り出したのは、無料で貸し出しされている浴衣だった。俺はゆったりした服装は好きなのだが、なにが起こるかわからないので、いつでも動けるような格好にしている。ちなみに来たときの格好だ。
「せっかく旅館に来たんだから浴衣は着とかねぇとな」
「あぁ、そういうこと……」
間違いって俺の服装のことか。
「ずいぶんのんきだな。いつなにが起こってもおかしくないんだぞ? わかってんのか?」
「わかってるって。でもそれとこれとじゃ話が別だろ?」
「そこで共感を求められても困るんだっての」
もし浴衣姿のまま『九十九』の能力者に襲われたらどうするつもりなんだ。下手すれば戦いの最中にあられもない姿が……はっ!?
「ひ、ひひひ柊さん? いえ詩織さん」
「え、なんだそんなに改まって。あとなんでそんなに動揺してるんだ?」
「つかぬことをお聞きしますが、その……その浴衣の下にはもちろん下着は穿いております……よね?」
「ははーん。なるほど」
にやりと意地悪い笑みを浮かべた柊は、あと少しで見えるか見えないかのところまで浴衣の裾を持ち上げた。
「冬道でもこんなところで女の子と二人っきりになったら、そういうの気になっちゃうわけ?」
「ばっ……! ち、ちげぇよ! そういうことじゃなくて……!」
いや、気になるか気にならないかと言われればもちろん気になるわけで、かといって意識してしまうのもどうかと思うわけだが、実際問題そういうことではなくて、戦いのときのことを想定してのことなんだが……しかし、柊も俺の反応を楽しんでいる節がある、つまりここで俺がやるべき反応は……!
「すごく気になる」
って俺はなにを真顔で言ってやがるんだ!? 結論にまとめればそうなるんだが、短くまとめすぎだろ!? 柊なんかぽかんとしたかと思ったら、顔を真っ赤にしちまったじゃねぇか!?
だよな。好きなやつに下着が気になるなんて言われたらそうなるのが普通だ。……自分で言うとただのナルシストみたいで嫌だな。
「あ、えと……いくらあたしでも、そうストレートに言われると恥ずかしいっつーか、予想外すぎる答えにドキドキしてるっつーか……でも大丈夫! 準備はいつでもできてるから!」
「なんの準備だ!?」
「ゴムとかそういうのも持ってきてるから!」
「ゴム!? そうじゃなくて俺は下着を……」
「冬道はあたしの下着が欲しいのか!? でも冬道が欲しいって言うんならあたしはそれを受け止めるぜ!」
「それも違う!」
話がいい感じにこんがらがってきてるのに、まったく結論に行き着けてないぞ。いい加減下着の話題から……まぁ、離れてもらっても困るけど。
「じゃなくて! 俺が言いたいのは、そんな格好のときに戦うことになったら、浴衣がはだけてその下が丸見えになるかもしれねぇから、下着は穿いてるのかって訊きてぇんだよ!」
「うわ、そんな長いセリフよく噛まないで言えるな」
「誉めてくれてありがとよ……じゃねぇって! 下着はちゃんと穿いてんのか!?」
「しー。そんなデカイ声で叫んだら他の客に迷惑だろ?」
「あ、すまん」
こんな時間に騒いでたらたしかに迷惑だ。こんなことを柊に教えられるなんてなぁ。
「って違う! 話題を逸らすな!」
「そんなにあたしのパンツが気になるのか?」
「下着だよ!」
「じゃあブラか?」
「それも下着だけども!」
「あたしの下着は黒だぜ? どうだ、エロいだろ?」
「色があるってことは穿いてるんだな? そういう解釈をしていいんだな!?」
「そんなに気になるんならたしかめてみりゃいいだろ?」
「あぁいいとも。たしかめてやろうじゃねぇか!」
あ、やべ、勢いに任せて適当な返事しちまった。久しぶりに冷静さを欠いたからな。地の文とセリフとじゃ具合がまるで違う。
そして柊、そんな恥ずかしそうな顔をするのはやめろ。こっちまで恥ずかしくなるだろ。てか普通に恥ずかしい。心臓が爆発する。死にそうだ。
と、そこで投げた携帯電話が鳴り出した。
恥ずかしさを隠すために携帯電話に飛び付くと、ディスプレイは『真宵後輩』の文字を映し出していた。
俺は迷わず応答する。
「はいこちら冬道かしぎ真宵後輩どうしたんだ!?」
『え、あの、先輩? どうかしたんですか?』
「べ、べべべ別にどうもしてねぇけど?」
『明らかにどうかしてるじゃないですか。まるで柊さんが浴衣姿で部屋に入ってきたから、戦いのときにその下が見えてしまうと心配していたのだけれど、その心配が空回りして浴衣の下を先輩が見ることになってしまったみたいですよ?』
ピンポイント! この子ピンポイントで狙い撃ってきてるんですけど!?
まずい……まずいまずいまずいまずいまずいまずい! 俺のキャラ崩壊が凄まじいことになってるが構いやしない! こんなまずい状況ってあるか!?
完璧に追い詰められてる。逃げ場がない。前も後ろも敵だけだ。誰か助けてくれないだろうか。
『見たらいいんじゃないですか?』
「は? いや、冷静に考えてみるとまずいだろ」
『部屋は二人きりなのでしょう? 大丈夫です、問題ありません』
「問題おおありにしか思えねぇけどな」
『帰ってきてから私のパンツを見れば問題ありませんよ』
「そうだな。帰ってからパンツを見りゃ……ん?」
『では忙しそうなので失礼します』
「いや待て! 話は終わってねぇ!」
そう叫んだはいいが、まぁ、当然のごとく電話は切れているわけで、すでに無機質な音しか聞こえてこない。
「誰からの電話だったんだ? ってまぁ、冬道に電話するのなんてあたしか真宵くらいしかいねぇか」
そんな悲しい事実を平然と言うもんじゃない。
「それで……見るだろ?」
「あ? あぁ、やっぱいいや」
「はぁ!? なんだよそれ!」
平然と言った俺に、柊は驚いたように声を上げた。
「真宵後輩と電話して頭が冷えたんだよ。確認なんかしなくたって、柊に戦わせなきゃいいだけだ。なんでそんな簡単なこともわかんなかったんだか不思議だぜ」
どうして戦わせる前提で考えてたんだ。俺は柊になるべく戦わせないつもりでここに来たんだ。
「……お前がそのつもりなら、こうするまでだ!」
「な……っ!」
小さく呟いたかと思えば、柊は俺を押し倒してきた。浴衣をはだけさせ、白い肌に黒い下着を見せつけるように近づいてくる。やっぱり下着はつけてたか。
これで不安は解消された。ならばさしあたっていまやることはただひとつ。
「お前、なにするつもりだ?」
「おっとバトルパート冬道か? ギャグパート冬道ならここであわてふためくところだろ?」
「んなことはどうでもいい。俺が聞きたいのは、部屋で二人きりで押し倒して浴衣をはだけさせて……どうするつもりだ」
「決まってんだろ。あたしは真宵からお前を奪うって決めてるんだぜ? そこでやることと言えばひとつ――夜の運動だぜ」
あぁ、言うと思った。二人きりっていう状況を聞いたときからこうなるだろうことは簡単に推測できた。
だからこうして焦りが一辺もないんだが、どうしよう。さっぱり動けないんだけど……。
両手は押さえ込まれ、両足は使おうにも強弱が極端だ。使えば柊が危ない。そして馬乗りになっている。
「The end of my life……」
「英語で言うほど嬉しいのか?」
「ちゃんと訳してくれ……」
そして英語の成績が壊滅的な俺が、すらすらといまの状況を英語で話せた成長に気づいてくれ。
温泉に入って上気した頬、揺れる真紅の瞳。
「冬道、今日からお前はあたしのもんだ」
「残念だが俺は真宵後輩から乗り替えるつもりは、いまのところはねぇ」
「既成事実さえ作っちまえばそんなん関係ねぇよ」
「そんなお前に問題だ。『吸血鬼』の能力者であるお前だが、人間と同じ繁殖行為を行ってはたして既成事実ができるのか?」
俺が突きつけた疑問に柊が目を丸くした。よし、あとひと押しだ。
「吸血鬼の繁殖行為はその者の血を吸うことにある。不老不死で成長しない吸血鬼が子孫を残すには、吸血行為でしかできないんじゃねぇのか? つまり『吸血鬼』の能力者のお前も、いくらそういうことをやろうと意味はねぇってことだ。はっはー残念だったな。これで既成事実はできねぇ。だからさっさと俺から退きやがれ」
うし噛まずに言い切った。口から出任せとはよく言ったもんだ。これだけ嘘がぺらぺら出てくるんだから、聞き齧ったくらいの知識も侮れないな。
しかし柊は、俺を戦慄させるだけの言葉をさも当然に、こともなさげに平然と呟いた。
「あ、わりぃ。半分くらいしか聞いてなかった」
「…………」
もう、本格的にだめかもしれない。だってこの子、人が必死に話してんのに半分しか聞いてねぇって言うんだぜ?
「あのさ、話しぐれぇはマジで真面目に聞いてくんね?」
「そんな無表情になるくらい悲しかったのか。えと、ごめんなさい」
「謝るくらいなら退きやがれ」
「それは断る」
それは断っちゃうんだ。そうなってくるとそろそろ仕方なくなってくるな。無理やり引き剥がしてやるか。
大きく息を吸い込む。全身に行き渡った空気を波動に変換し、そしてそれを吸い込んだ息と共に全身から放とうとして――部屋の窓を割って誰かが転がり込んできた。
さすがに俺も柊も警戒を高めた。馬乗りになっていた柊はすぐに俺から退き、俺も立ち上がって飛び込んできたそいつに視線を向ける。
「こいつ、この前の……」
たしか五十嵐とかいうメイドだ。高価そうなメイド服のところどころは切り裂かれ、見える肌からは決して少なくない出血をしていた。
「なんでこいつが? 敵、なんだよな?」
「ここに転がり込んだのは偶然だろ。つーかそいつの面倒を見ててくれ。俺は、こいつをこんな風にしたやつらに話を聞いてくる」
「近くにいるのか?」
「すぐそこだ」
俺は短く答えて壊れた窓の骨子に足をかけ、夜空を一気に突き抜けた。気配の数は二つ……いや、三つだったみたいだ。ひとりは俺が来たことを素早く察知し、そこから消えた。
おそらく俺が東雲さんと戦ったあとに現れた十六夜に付き添っていた、空間移動系統の能力者に違いない。
遠くまで消えたやつを追うつもりはない。なるべく手の届くやつを叩き落として、出来るだけ多い情報を引き出すことだ。
「……いた」
屋根の上を駆ける二つの影が目に入った。俺がいままで並外れた『九十九』ばかり見てきたからだろうか。その二人からはそこそこの強さを感じるが、その程度だった。
天剣を復元させる。放たれた光が夜の闇を照らし、その瞬間に俺の居場所がバレたことになるが、すでに射程圏に捉えていた。波動はすでに全身に走らせている。柄を強く握り、二人の前に先回りする。
「こんな夜中になにしてるんだ? 愛の逃避行ってか?」
男と女がひとりずつ。武器はない。能力だけか。
天剣を腕を水平に構え、すでに俺に踏み込んできている男の鳩尾に柄尻を勢いよく押しつける。涎を吐き散らして蹲ろうとする男の顎を蹴りあげて足を払い、浮き上がった体を殴り飛ばした。
「話は大人しく聞けって。悪いことは言わない、俺と戦うのはやめておいた方が身のためだぜ?」
「嘗めんじゃないわよ!」
仰向けに倒れた男を介抱していた女が叫びながら、右腕を横に払う。頬に迫る違和感を感じ、それに合わせて天剣を振った。
「……?」
斬った感触はたしかにあった。だがそこにはなにもない。ただそこには闇が広がっているばかりだ。
「お前なにやったんだ? 大した能力じゃねぇみたいだけど、見えないってのは厄介だな」
「なによあんた……っ!?」
「とりあえず手足の骨を折って動けないようにしとこうか? それとも千切ろうか? 敵にかける情けなんて持ち合わせてねぇしな」
「ひ……っ!」
恐怖に顔を歪ませて後ずさる女に、目一杯の凄惨な笑みを作りながら、俺は告げた。
「いーや、二人もいらねぇよな。なら一人くらい殺したって別に問題ねぇか」
「い、いや……なにが目的なのよ!」
「はぁ? 目的? 話してやるのは面倒だな。どうせ死んでいくやつに説明したって意味ねぇし」
刀身を見せつけるように肩に担ぎ、一歩だけ近づく。
「どうしても死にたくないってなら、お前が話すか?」
「なにを、話せって、いうのよ……!」
あらら、女の子を泣かせちまったか。どうでもいいが。
「とにかく全部だ。お前が知ってる『九十九』について、洗いざらい話してもらおうか」
「わ、わかった、なんでも話すから助け――」
俺が女の言葉を最後まで聞くことはなかった。赤色の生ぬるい液体が俺の顔を濡らし、倒れた女の体が動かなくなったのだ。
これは俺がなにかをした、というわけではない。話そうとした女の頭部が突然弾け飛び、死に至ったのだ。
男の方も言うまでもないだろう。胸のやや左の位置、すなわち心臓がある場所から血が溢れだしていた。
「どういうことだ……?」
驚きと苦しみのままに死んでいった男は、自分が死んだということさえまわからずに逝ってしまった。
「情報を敵に与える裏切り者には死を――ってか?」
その辺りが妥当か。『九十九』は六年前のことを経て、信頼関係は皆無になっていた。殺すことに躊躇いはないのだろう。俺もそのことには共感しよう。信頼もできないやつに情報を漏らされるくらいなら、殺してやる。
だが、誰がそれをやったんだ? 一番の可能性としては逃げていったもうひとりだ。能力の遠隔使用ができるなら、これくらいは容易い。声は盗聴機かなにかで拾えばいい。
どのみち、俺にあった時点でこいつらに生きる道はなかったってことだ。
「恨むなら勝手に恨め。俺はちゃんと、そいつを背負って生きてやる」
同情するつもりも侮辱するつもりもない。
ただそこにある事実を受け入れるだけだ。
俺は人の死を目の前にしながらなにも思わないまま、その場をあとにする。俺の感性なんて、もうとっくの昔に壊れてしまっているんだ。
「あ、お帰り……ってどうしたんだよ!? 血だらけじゃねぇか! 怪我したのか!?」
俺を見た柊は、開口一番にそんなことを叫んだ。
「俺の血じゃねぇよ。ただの返り血だ」
「返り血……? 斬ったのか?」
「殺した」
「え……?」
「だから殺したって言ったんだよ」
現実にあって非現実な言葉に、柊は思考が追いつかなかったみたいだ。噛みしめるように俺の言葉を繰り返し、胸ぐらを掴みあげてきた。
「な、なんで殺したんだ! 話し聞くだけじゃなかったのかよ冬道!」
まだ、わかってないんだな。
「そんなこと言うくらいならいまからでも遅くない。お前はみんなのところに帰れ」
「はぁ!? なんでそうなるんだよ!」
「これは遊びじゃない。殺し殺される戦いだ。いまから何回、人を殺すと思ってるんだ?」
不老不死だし、まだ殺すという感覚がないからだろうけど、いまさらそんなことを言うくらいなら戦わない方がいい。正直に言うと――邪魔なだけだ。
「お前はどんな甘い考えで戦うなんて口にしたんだ」
「覚悟してきたさ! 殺すことだって!」
「……覚悟なんて口にしてる時点で、どれだけ甘いもんだってのかがわかるよ。覚悟は見せるもんじゃなくて、隠すもんだ」
誰かに見せた覚悟ほど安いものはない。場合によってはそれは必要だ。けれどいま、それが必要か? 誰かを殺すことを誰かに言うのが必要なことなのか?
――いらねぇよ、そんなもん。
「まずそれはいい。さっきのメイドはどうしたんだ?」
「……そこで寝かせてるよ」
そんな不機嫌な顔すんなよ。俺だって好きで言ってるわけじゃないんだ。
「できる範囲で治療はしたし、あとは起きるのを待つだけなんじゃねぇの?」
「そっか」
「うん」
柊の言葉に短く答えた。
「…………」
「…………」
空気が重い。あんなことを言ったからだけど、どうしても言う必要があっただろうか。
俺は異常だ。殺人にさえなにも感じない。当たり前に思ってる。だから柊には改めて確認を――いや、事実を受けてもらわなくてはならない。
……はぁ、俺もつくづく甘いよ。
「お前は無理しなくていいよ」
「……?」
「殺す必要なんてない。俺がなんとかしてやるから。だから大丈夫、殺しなんてしなくていい」
「そ、それじゃだめなんだよ!」
すがりつくように、柊は月を見上げる俺の服を掴んでくる。俺は驚きながら柊を見ると、どうしてか泣きそうな顔をしていた。
「冬道にばっか任せてたら、いつかお前がいなくなっちまうよ……! そんなのいやだ……!」
俺の胸に顔をうずくめ、柊は泣き始めてしまった。いきなりのことで俺は頭が追いつかない。なんで泣いてるんだよ。
「なんとなくわかるんだ。勘とかそういうのじゃないけど、でもわかる。このままお前にずっと頼りきってたら、お前はいなくなっちまうよ……!」
「直感、か。たしか『吸血鬼』の能力のおまけみたいなもんだったな」
前に司先生の『吸血鬼』についての資料を見せてもらったとき、そう書いてあったのを覚えている。『吸血鬼』の直感はほとんど予知に近い。まだ柊は使いこなせていないから、感覚としてしかわからないのだろう。
もし柊が直感しているのであれば、もしかしたら俺は、この戦いで死ぬようなことがあるのかもしれない。
死ぬ――か。実感わかねぇな。
「アホかお前は」
泣きつく柊の頭に拳骨を振り下ろす。
「いったぁ!? なにすんだよ!」
「いなくなるとかならないとか、んなこと心配してんじゃねぇよ」
「で、でもわかるん……むぐ!?」
俺は人指し指を柊の唇にあてて黙らせる。
「頼りきりになって俺が死ぬことになるんなら、俺に頼りきりになるな。一緒に頑張ろうぜ?」
太陽のような笑みで頷く柊は、こっちの心まで安らぐようだ。やっぱり俺と柊の関係はこうじゃないと落ち着かない。
……で、俺はいつまでこうしていればいいんだろうか。このままだと柊さん、指舐めてきそうなんですけど。
「あの、そろそろよろしいでしょうか?」
『――っ!?』
俺と柊は同時に声のした方に顔を向けた。敷かれた布団からなんとか上半身を起こしたメイドが、俺たちを苦しそうに見つめている。
「いつから起きてた」
ちょうどいいタイミングだったため、俺は柊の唇から指を離す。
「ついさっきでございます。詩織様がかしぎ様に熱い抱擁をかわしたくらいにございます」
「……で、俺はお前に聞いても大丈夫なんだろうな?」
俺はメイドの言葉を適当に流しつつ問いかけた。
先ほどの光景がフラッシュバックのように蘇ってくる。
「はい。わたくしには枷はついておりませんゆえ、あのようなことになる心配はございません」
「あんなこと……?」
柊が五十嵐の言葉に反応を示したため、俺は余計なことは言うな、と視線だけで言う。
こくり、と五十嵐は頷く。
「お前はどうして仲間に追われてたんだ?」
「わたくしはあのような者たちの仲間ではございません。わたくしはあくまでも『九十九』の現当主である一葉様のメイドでございます」
「質問に答えてねぇぞ。お前が『九十九』のあいつらと仲間かどうかなんて聞いてねぇ。なんでお前があいつらに追われてたかってことだ」
「……わたくしも東雲様と同じく、裏切り者とされたのでございます」
「どういうことだ?」
五十嵐はいまでも『九十九』の現当主である九十九一葉と繋がっている。それだというのに、どうして裏切り者にされているんだ?
裏切り者かどうかを決めるのは頂点にいる人間が決めることだ。ましてやその頂点のメイドとなれば、そこらの『九十九』よりは地位が高いはすだ。勝手に裏切り者なんて決められるはずがない。
「以前、あなた方には一葉様が助けてほしいと手紙を渡したのを覚えておられますか?」
俺は頷く。
「あのときすでに、わたくしは『九十九』を裏切っております」
「だったらなんで俺たちを襲ったんだ」
「……あなた方が一葉様をお救いできるか、失礼ながら試させていただきました。申しわけございません」
五十嵐は俺たちに向き直り、頭を下げてきた。しかしそれには二つの意味が込められていた。
「お願いします。一葉様をお助けください。『あれ』に対抗しえるのは、もうあなた方――いえ、かしぎ様しかおりません」
「話し聞いてたんじゃねぇのかよ! 冬道に頼りきりになったら、死んじまうかもしれねぇんだぞ!」
柊はずかずかと五十嵐に歩み寄ると、怪我人ということも忘れて掴みかかる。
「ですが、いくら詩織様でも『あれ』と戦うのは危険です。わたくしが言うのも甚だおかしいでしょうが、詩織様はやめた方がいいと……」
「うっせぇよ。だいたい『あれ』ってなんなんだ」
「それは……わたくしにはわかりません」
いまの不自然な間はなんだ? 柊になにかを隠したような、知られてはいけないような妙な印象を受けた。
「東雲様は六年前のことを恨んでおられるようでございますが、あれは一葉様も致し方なかったのです。そうしなければ……」
五十嵐はそこで言葉を切って顔をうつむかせた。
「そうしなければ、それこそ全ての人間が消されていたのですから」
「スケールのでかい話をさらに広げるつもりか?」
「冗談と思われるでしょうが事実です。『あれ』はそれだけの力を持っている。六年前のときも、ある方たちがいたからなんとかなっただけなのです」
「だったらまたそいつらに頼めばいいだろ。どうして俺なんだ?」
「……かしぎ様は、あの方と同じ力の持ち主だからです」
俺は目を見開き、思わずその場から立ち上がっていた。
まさか体育祭のときに感じた波動の持ち主は、もうこのときからいたっていうのか? 俺たちよりも早く異世界に行って、還ってきたやつがいる――?
「『あれ』に対抗できるのは超能力以外の力を持つ異能者のみ。お願いします、一葉様を……助けてください」
どうすればいいんだろうな。敵の言葉を信じるつもりはなかったが、六年前のことに俺と同じ異能――つまり波導が絡んでくるとなると、信憑性はさらに低くなるとはいえ、嘘という可能性は低くなる。
「六年前に俺と同じ力を使ったってやつの名前、お前は知ってるのか?」
「……そこまでは、わかりません」
俺は五十嵐から視線をはずし「ならいい」と呟き、柊にいい加減に離すように促す。
「九十九一葉を助けてほしいってことだったが、あいにくとそいつをどうするか決めるのは東雲さんだ。俺はただの助っ人だからな」
「そんな……!」
「まぁ、その『あれ』ってのは俺がなんとかしてやる。そのためにはまず根本的な問題として、『あれ』と九十九一葉の関係性を話せ」
俺は立ち上がって、部屋に置いてあるお茶を淹れる。
それを五十嵐に渡し、テーブルの前に座った。
「『あれ』は一葉様を――というより、一葉様の持つ地位を利用しているのです。一葉様に、能力者を殺すように命令させているのでございます」
「それを知ってるのはどれくらいいるんだ?」
「おそらく、わたくしくらいのものでしょう。偶然、目撃してしまっただけですから」
お茶を口に含み、適当に相づちを打つ。
「六年前に『あれ』は一度、力をほとんど失っているのです。一葉様を利用して能力者を殺させているのはそのためでしょう」
「つーか、六年前のこともそうだが、なんでそいつは能力者を殺そうとするんだ?」
「動機はわたくしにも……。とにかく能力者を殺すことだけに執着しているようで、近ごろではそれも酷くなってきております」
「手当たり次第無差別に……ってわけか」
六年前は、まだ能力をいまほど使えない翔無先輩でさえ殺そうとしたほどだ。
「『九十九』の現当主がそいつに逆らえないってことは、そいつの力はかなり戻ってきてるってことか?」
「……すみません。それもわたくしには……」
どうにもわからないことが多いな。
「まぁ、そういう風に考えておくのが自然か」
「…………」
「お前が九十九一葉を助けたいってのはよくわかった。『あれ』の相手は俺がしてやる。でも決めるのは東雲さんだ。そこのところは頭に入れとけ」
「……はい」
顔を上げないまま、五十嵐はそう答えた。
俺は両手を音を立てて合わせると、五十嵐に言う。
「今日はひとまず休め。東雲さんは帰ってこないからゆっくりしてろ」
「ですがわたくしがここにいてはまた……!」
「雑魚がいくら来ても関係ねぇ」
俺は五十嵐の額を軽くこつくと、その体は簡単に布団に倒れ込んでいく。
「まともに座れもしねぇやつが他人を気にかけんなバカ。お前は黙って寝てりゃいいんだよ」
どうせこいつはなにもできない。側に置いといても大丈夫だろう。
「……ありがとう、ございます」
消え入りそうなその言葉は聞かなかったことにした。
俺はお礼を言われるようなことをするつもりはない。
まったく……めんどくさいことになったもんだ。
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