5―(4)「過去録」
頭を撫でた手を名残惜しく見つめながら、藍霧は冬道を見送った。
京都に向かうと言っていたはずだが、電車の進行方向は逆を走っていった。この時間帯と方向を見る限り、仙台に向かったのだと藍霧は判断した。
いつまでもここにいる理由はない。
藍霧は踵を返し、駅をあとにしようとして、視線の先に見知った顔があることに気がついた。
私立桃園高校の夏服に、夏にも関わらず巻かれたマフラー。キャリーバックを片手にたたずんでいたのは、翔無雪音だった。
あちらも藍霧に気がついたようで、手を振ってくる。藍霧も小さく手を振り返し、翔無の元に歩み寄る。
「おはようございます、翔無さん」
「やぁおはよう、マイマイちゃん。こんなところで会うなんて奇遇だねぇ。なにをしていたんだい?」
「かしぎ先輩の見送りをしていました」
「お、そういえば今日出発だったんだっけ? すっかり忘れてたよ」
京都に行く冬道と柊以外では、このことについては司くらいにしか話していないのだ。
大まかな話はしたにしろ、細かい説明はされておらず、出発する日時すらも曖昧にしか教えてもらっていない。
ならなぜ藍霧が知っているのかといえば、もちろん冬道から聞いたからだ。
二人が一緒にいる時間は長い。それくらいの話なら、いつでも交わすことができるのだ。
「大丈夫かねぇ。かっしーはともかく、ボクとしては詩織ちゃんが心配かな」
「柊さんは戦いについては素人ですからね」
以前に柊と戦ったからこそ言えることだが、柊は戦いに関して知識がない。
『吸血鬼』による身体能力の向上、破壊力、回復力の三つがあるからこそ、あそこまで翔無たちを圧倒することができたというだけだ。
藍霧と戦ったときは、それさえ通用していなかった。
つまり、『吸血鬼』のスペックを上回る敵に対して防戦一方になってしまうということになる。
「ですが、多少のことでやられたりはしないと思います。柊さんにはあの回復力がありますから」
吸血鬼の代名詞でもある不老不死が『吸血鬼』には備わっている。能力として完成してもそれでも不完全な柊は、不老不死になっていないだろう。
それを幸いととるかどうかは判断しかねるところだが。
しかし回復力は目を見張るものがある。東雲と戦ったときに負った傷は即死してもおかしくはなかったが、それすらも一瞬で回復した。
あれ以上の怪我を負うなんてことはまずない。ならば柊が死ぬなんてこともないはずだ。
まぁ、もとより藍霧は柊の心配をしていないのだが。
「それよりも、私はあの女のことが気になります」
「……司先生の友達の『九十九』のことかい?」
翔無の言葉に藍霧が頷く。
「あの人は気にくわないです」
「それはボクも同意だよ。『九十九』なんか全員いなくなっちゃえばいい」
詩織ちゃんだけは別だけどねぇ、と翔無は付け加える。
「首の傷も『九十九』にやられたんでしたっけ?」
「六年前にね。いきなり現れて襲われて、戦ってみたけど歯がたたなくて。司先生が助けてくれなかったらボクは死んでたよ」
「司先生とはそのときに会ったわけですか」
「そうだよ。命の恩人だからお礼くらいさせてって言ってるんだけど、助けたのは私じゃないの一点張りでさ。司先生の性格からして、謙遜なんてしないはずなんだけどねぇ」
けれど嘘を言っているようにも見えなかった。
だとしたら翔無を助けたのはいったい誰だったのか。いまやそれを知るのは司だけだ。
「ところで翔無さんはなにをしているのですか? どこかに旅行にでも?」
「ちょっと近いかな。旅行じゃなくて里帰りさ」
「里帰り?」
「ボクは仙台出身でねぇ。長期の休みのときは実家に里帰りするんだよ」
翔無がわざわざこっちの高校に通っているのは、『組織』によって決められた管轄がここら一帯だからだ。実は黒兎も火鷹もこの町の出身ではない。
アウルがアメリカから来たように、この三人もまた、別々の町からやって来たのだ。
「管轄から離れてもいいものなのですか? その間に能力者が問題を起こさない可能性がないとはいえませんが」
「大丈夫大丈夫。他のところならともかく、ここで騒ぎを起こそうなんてバカはいまはいないよ」
「どうしてですか?」
「並の能力者じゃ入る余地がないからだよ。この短期間でここらの能力者のレベルが一気に上がったからねぇ」
四月の狐の面から始まり、六月の風紀委員と生徒会の抗争、そして七月の九十九東雲との戦い。
そのすべてに関与した冬道かしぎの存在が、能力者たちの抑止となっているのだ。
そして藍霧もまた、その原因のひとつになっている。黒兎でさえ能力者から恐れられていたというのに、その黒兎を藍霧が圧倒した。
ここまで危険になった地帯で、力を誇示しようなどと考える気すら起こらなくなったようだ。
「マイマイちゃんはこれからなにか用事はあるのかい?」
「先輩に頼まれたことがあります」
冬道に言われたことを、藍霧は翔無に話した。
「よく考えるとそうだねぇ。だけどさマイマイちゃん、これをかっしーに頼まれなかったらどうするつもりだったんだい?」
「先輩に頼まれもしないのに、どうしてこんなことをしなければならないのですか? 先輩に頼まれたから守る――それだけです。それ以外にはありえません」
無感動な瞳はなにも映していない。
藍霧は冬道に頼まれなければ、無理にでもついていくつもりだった。頼まれたから仕方なくここに残り、守りに徹することにした。
自分にとって無価値な存在をどうして守らねばならないのか。その意味がわからない。
行動の理由ならわかる。守りたいと思うのは誰にでもある感情だし、藍霧だってそれが理解できないわけではない。
理由もわかるし、理解もできる。
だが、意味はわからない。
なんの利益もないのに守ってどうするのか。感謝なんていらない。見返りも求めていない。
ただ冬道がいてくれるだけでいい。
だから翔無の行動に藍霧は意味を見出だせずにいた。彼女は困っている人がいれば無償で手を差しのべ、最後まで諦めない。
そういう性格だと割りきってしまえばそれまでだ。理解の範疇の外にいるだけだと、理解しないようにすればいいだけだ。
なのに翔無はなかに入ってこようとする。無遠慮に土足で、勝手に引っ掻き回していくのだ。
それがどうしようもなく、藍霧の感情を乱した。
「君はかっしーに生きる意味を預けすぎだよ」
「なにを言ってるんですか?」
翔無の呟きに藍霧は言葉を返す。
「いまの君は死んでるのと同じだよ。他者に生きる意味を預けているだけの死者だ。いいや、押しつけてると言っても過言じゃないねぇ」
「押しつけてなどいません」
「本当にそうかい? 君はかっしーがいなきゃ生きていても仕方ないと思っているんだろう?」
「当たり前です。先輩がいない世界なんかに、意味も用もありません」
「ほらやっぱり」
そう言って翔無はやれやれと頭を振る。
こいつはなにを言っている。どうして当たり前のことを間違っているような態度で聞くんだ。
「もう少し回りに目を向けてみなよ。君にはかっしーしか見えてないかもしれないけど、みんなは君のこと、ちゃんと見てるんだぜ?」
言いきってから翔無は慌てて口をつぐむ。
直したはずの口癖が出てきたのだが、藍霧はそんなのを気に留めた様子はない。それよりも別の、もっと他のことを考えている。
「君がそれでいいなら、ボクは構わないよ。だけどそれがいつかかっしーを、君自身を苦しめることになるって、ちゃんと覚えておきなよ?」
いつの間にか電車のでる時間になっていた。
呆然と立ち尽くす藍霧を心配そうに見つめながら、それでもひとりで歩き出せると信じて、電車に乗り込んだ。
(あんな世迷い言、気にする必要はありません)
藍霧は小さな拳を握りしめ、噛み締めるようにさっき翔無に言われたことを思い返す。
(私が先輩を、自分自身を苦しめる? そんなこと、ありえません)
むしろ冬道を苦しめようとするモノを排除するのは藍霧の役目だ。手加減も躊躇いもなく、ただ無感情のままに叩き潰す。
いったい自分のなにが冬道を苦しめるというのだろう。
翔無は言った――お前は生きる意味を冬道に預けすぎていると。そんなことはないと言うのは簡単だ。
でも……
(どうしてここまで胸が痛むのでしょう)
言われてからずっと胸が痛い。実際に痛みを感じているわけではない。幻の痛みが、藍霧を苦しめている。
こんなことはいままでなかった。
あったのかもしれないが、いままではそれを無視して生きてきた。気にすることもないと自分のなかから追い出してきた。
ならばまた追い出せばいいのに、追い出せない。
そうしてはいけないような気がするのだ。
(わからない……。先輩のために生きて、なにが悪い)
いくら考えようと答えは出てこない。それが間違ったことではないという、揺らぐことない想いがあった。いまもそれが変わったわけではないがしかし、なにか突っかかるものがあるのも事実だ。
藍霧は二度もすべてを失った。心からはなにもかもが抜け落ち、がらんどうとなった。
だけど冬道は、そんな藍霧のがらんどうを埋めてくれた。それが『好き』という感情だと気づくのに時間がかかったけれど、いつの間にかがらんどうは埋まっていたのだ。
もう二度と、失うわけにはいかない。失いたくない。
だから藍霧は、冬道のために生きたいと思ったのだ。
◇◆◇
もうすぐでヴォルツタイン王国に着くというところで日が沈み、やむおえず野宿をすることになってしまった。
視界の悪い状態で魔獣と遭遇してしまえば、こちらが不利だ――と言うことはないが、下手をするということもある。急ぎの用でもないし、ここは野宿をしようということになったのだ。
もちろん女性陣からは不評の嵐だった。特に潔癖症である波導拳士、リーンからは拳が飛んでくる始末だ。
本来なら『土囲』で仮設するのはご法度だが、仕方なく藍霧が作ることになった。
『土囲』のなかにはリーンとエーシェ、チトルがおり、冬道と藍霧が寝ずの番をしている。
冬道は瞼がくっつきそうになり、気を抜けば眠ってしまいそうだった。
それもそのはず。ここ最近は野宿をすることが多く、その度に寝ずの番をしなければならない。くじで誰がやるか決めるのだが、毎回のように冬道が寝ずの番になっていた。おかげでほとんど睡眠をとっていないのだ。
左手の甲をつねり、眠気を飛ばそうとする。痛いだけで全く眠気は飛ばなかった。
「……お前は眠くなさそうだよな」
眠らないように、冬道は藍霧に話しかけることにした。
「眠くないわけではありません。ですが寝ずの番になってしまったのですから、その役目を果たさないといけませんから」
「真面目だな……」
「冬道さんが適当すぎるだけです」
「眠いなら波導をぶちこみましょうか?」と物騒なことを言う藍霧に、冬道は勢いよく首を横に振った。
いくら冬道でも眠気覚ましに死にかけたくはない。
「別に眠いなら戻ってても構いません。もしものときに戦えない人がいても邪魔ですから」
「女の子をひとりにしておけねぇよ……なんてことは言うつもりはねぇが、いまの発言がムカつくから戻らねぇ」
いくらか眠気が飛び、重い瞼を必死に持ち上げる。
「勝手に対抗心を抱くのは構いませんけど、それならそれで私の邪魔はしないようにしてください」
「相変わらず毒舌だな……」
もうこの毒舌にも馴れたものだ。旅を始めたばかりのときはこの毒舌に腹を立てていたが、いまは気にしていない。
これが藍霧のデフォルトだと割りきっている。
「にしても、あれからもう二年と六ヶ月か」
あれから、というのはこの世界に召喚されてからだ。
いきなり光に包まれ、気がつけばヴォルツタイン王国の王室にいた。
皇女のフィリスと出会い、天剣と地杖に選ばれた勇者だと知った。
魔王を倒す旅に出て、いまの自分たちがいる。
「なぁ藍霧。お前、地球に還りたいか?」
「当たり前です。さっさと魔王を倒して還りたいに決まってるじゃないですか」
「……だよな」
藍霧の言葉を聞いて冬道は眠そうながらも真面目な表情になる。顎に手を添え、なにかを考えているようだった。
やがて俯かせていた顔を弾かれたように上げ、
「もう、戦わなくていいよ」
「……はい?」
いま、冬道はなんと言った。戦わなくていい?
藍霧がその言葉を理解するのに、数瞬の時間を要した。
「お前は俺が無理やり巻き込んだみたいなもんだ。還りたいお前を無理やり連れ回してた。だけど、戦いたくないっていうんならもう姫さんに言って地球に還して……」
「お断りします」
今度は冬道が思考を停止させる番だった。
被せるようにして言った藍霧の横顔に視線を向ける。
「いまさらなにを言ってるんですか? ここまできて私だけ先に還るなんてありえません」
「でも……」
「還るときは、一緒に還りましょう」
そう言った藍霧は気恥ずかしそうにそっぽを向いた。
夜だったことが幸いした。紅潮して熱くなった顔を冬道に見られずに済んだのだから。
それに冬道に言ったことは口から出任せというほどでもないが、ここに残ると決めた理由ではない。
(あなたと、一緒にいたいんですよ)
いつのころからか藍霧は冬道に惹かれていた。無意識に冬道を目で追っていたときは何事かと思った。こんな経験をしたことがなく、そのときは戸惑ったものだ。
冬道を見ているとなぜだか動悸が早くなる。目が合いでもしたら顔から火が出そうだ。
いつでも一緒にいたいし、意味もなく触れてみたくなったりもする。
一番困ったのが冬道が女性と話しているときだ。どうしてか苛立ちが募って、物に八つ当たりをしてしまう。
リーンとエーシェにそのことを相談してみると、それは『恋』というものらしい。
(私は、ずっとあなたと一緒にいたい)
いまではそう思うことが当たり前になった。
口にこそださないものの、こうやって一緒にいる時間は藍霧にとって至福のひとときと言えた。
「冬道さん」
「ん……なんだ?」
会話が途切れたときに眠気が一気に襲ってきたのだろう。もう瞼はくっついてるし、頭はふらふらしていた。
「かしぎ先輩、と呼んでもいいですか?」
「あ? それは構わねぇけど、いきなりどうしたんだ?」
「これは私たちが地球から来て、同じ学校に通っている生徒と忘れないようにそう呼ぶんです」
これは嘘だ。本当は、冬道のことを名前で呼びたいがためにこんなことを言い出した。
顔はもう誤魔化しようがないほど真っ赤に染まり、いつもの藍霧を知っている人が見ればいまの藍霧には目を疑わずにはいられないだろう。
「んじゃ俺は真宵って呼ぶか」
「……っ!?」
冬道の何気ない一言に藍霧が驚いた。
「いえ、あの、ですが……そんないきなり……」
もうなにがなんだかわからなかった。冬道の名前を呼ぶことさえ心の準備をしたというのに、まさか名前を呼ばれるとは考えもしなかった。
「いやか?」
「き、聞かないでください。そう呼ばれることは私としてもやぶさかではありませんが、その……まだ心の準備ができていないというか、なんというか……」
矢継ぎ早に言う藍霧だが、抑揚が変わらないために淡々と話している感が否めない。
そもそも冬道の意識はほとんど虚ろなため、そんなことにも気づけていない。
「あの、もう一度呼んでもらえませんか?」
「…………」
「かしぎ先輩?」
「んぁ……? あぁ悪い、寝てた」
冬道は頬を叩いて眠気を飛ばそうとするが、やはり眠気は飛ばなかった。
「で、なんだっけ。お前の名前を呼べばいいんだっけ?」
「できればお願いしたいです」
顔を近づけてくる藍霧を避けることもなく、
「真宵」
冬道は藍霧の名前を呼んだ。
その瞬間、藍霧の顔が一気に真っ赤になった。声も出せずに年相応の反応をしてしまう。
恥ずかしさのあまりに顔を背けた藍霧の心中などいざ知らず、冬道はあくびを噛み殺す。
(ど、どどどどうしましょう。名前を呼ばれただけでこんなにドキドキしてしまうなんて……。これは心臓に悪すぎます。呼ばれるたびにドキドキしていては、私の身がもたないじゃないですか)
嬉しさでいっぱいだというのにその反面、恥ずかしさに耐えられない自分がいる。
地面に『の』の字を何個も書き連ね、藍霧は恥ずかしさを堪える。
(こんなにも私の心を埋めてしまうなんて、あなたは罪な人です……)
少し前まではこんな風になるとは思わなかった。無理やり戦うことに巻き込まれ、こうして生きてきた。
最初は反発をしたが、それでもどうでもよかったのだ。どうせ地球にいてもなにもしたいことはない。
でもいまは、冬道のとなりにいるだけでこんなにも満たされている。
(私を惚れさせたことを、光栄に思わせてあげます)
冬道の背中におぶさるようにしなだれかかった藍霧は、頬と頬を摺り寄せながら、艶っぽく耳元で囁いた。
「大好きです、かしぎ先輩。ずっと一緒にいてください」
ついに言った。目一杯の勇気を振り絞って伝えた言葉はひっくり返っていたけれど、想いは伝わったはずだ。
乱れた鼓動、高まる体温。触れあった肌と肌。めったに見せることのない紅潮した表情。
そのどれもが新鮮で、人間らしいものだった。
「……先輩?」
いつまでも経っても冬道から返事が返ってこない。
おかしいと思った。藍霧は自らの容姿が優れていると知っている。告白すれば少しくらい狼狽してくれると考えていたのだ。
にもかかわらず反応がない。
どうしたものかと顔を覗き込むと、その理由がはっきりして、思わず微笑んでしまった。
「あなたはとことん私の心を揺さぶるんですね」
寝息を立てて眠る冬道から離れ、藍霧は小さく呟いた。
これから起こすのも可哀想なので、仕方なくひとりで寝ずの番をすることにした。
けれど、その見返りがあってもいいはずだ。
藍霧は冬道の肩に寄りかかり、幸せそうに微笑む。こんなときくらい誰かに甘えたっていいだろう。
だからいまだけ、こうしていたい。
「……!?」
背中に刺さる視線を感じ、藍霧は反射的に立ち上がった。地杖の属性石に波動を流して復元し、スイッチを変えるようにして意識を即座に切り替える。
そこにいたのは敵ではなかった。しかし安心できるかといえばそうじゃない。むしろより厄介だと言えた。
「いやー、いいもん見せてもらったぜマヨイ」
『土囲』の壁からチトルが顔だけを覗かせていた。
その上に被さるようにエーシェとリーンまでもがいる。
「……覗きですか?」
「勇者様同士の会話が気になってな。まさか、マヨイがカシギにあんなこと……うぉ!?」
顔を引っ込め、間一髪で藍霧の放った波導を避ける。
チトルの代わりに波導を喰らった『土囲』の壁は跡形もなく消し飛び、それだけで藍霧がどれだけ本気だったかを悟った。
「ちょ、待て待て待て! おれが悪かったって!」
「うるさい黙れ。さっさと消えなさい」
立て続けに放たれる波導を避け、チトルは逃走を開始した。ここまで命の危険を感じたことはない。顔を蒼白にし、チトルは必死に藍霧から逃げる。
「なんでリーンとエーシェにはやんねぇの!?」
「言う必要がありますか?」
「マジで勘弁してくれって!」
チトルの必死の抗議も通じず、傍観するエーシェは苦笑いし、リーンは汚物を見るような目を向けていた。
「……ん……?」
この騒ぎのなかで寝ていられるほど、冬道も熟睡していたわけではない。
むくりと顔を上げると、藍霧に殺されかけているチトルが目に入った。
「……なにやってんだこいつら?」
助けを求めるチトルをどうするか悩んだ挙げ句、冬道はまず根本的なことを訊くことにした。
それがわからなければ、どちらに味方をしたらいいか判断しかねる。
リーンとエーシェは顔を見合わせると、冬道のとなりに腰を下ろした。ちなみに二人とも寝間着姿で、簡単な格好をしている。
「なんでこうなってんだ?」
「チトルが悪いんだよ。あいつがマヨイの嫌がることをしたからこうなってんの。自業自得ってやつさ」
エーシェも頷いて同意を示した。
優しすぎる性格をしているエーシェにしては珍しいことだった。たとえ悪人にでも手を差しのべてしまうエーシェがそういうなら、これはチトルが悪いのだろう。
実際、チトルが全面的に悪いわけだが。
「なんか目、すっかり覚めちゃったな。チトルなんかについてきたアタシらも悪いんだけどさ」
「結局なにやったんだ? あ……真宵後輩があんなことするなんて滅多にないし」
「それは乙女の秘密だよ」
「誰が乙女だ」
拳と拳で会話するような女は乙女とはいわない。
「乙女ってならエーシェみたいなおしとやかで優しい、それでいて一歩引いた位置からついてきてくれる女の子のことを言うんだよ」
「そ、そんなこと、ないですよ」
顔を真っ赤にしたエーシェは、うつむきがちに言う。
「リーンだって、女の子らしいですよ」
「え、どこが?」
「……か、体とか……」
消えてしまいそうなほど小さな声でエーシェは言った。
「アタシが女の子らしいって言ってなんでって聞き返すのもおかしいけど、そこで体っていう君もどうなんだ?」
額に青筋を浮かべたリーンが、脇に冬道とエーシェを挟み込んだ。一撃で巨岩を粉砕する怪力で首を締め上げられ、さすがの二人も苦しげに呻いた。
しかしなおもリーンは力を加え続けている。どうやら結構ショックだったらしい。
「む……」
チトルに波導を撃ち続けていた藍霧は、そんな冬道たちの様子を見て眉をしかめた。
いままでなら仲間だからと気にしないようにしていたけれど、告白してみて(本人は聞いていなかったが)それさえも気にするようになってしまった。
腹が立って仕方ない。
地杖を握る手に力が入り、波脈に走らせていた波動に属性が宿る。
「うぉ!? 待てってお前さん! 八つ当たりならカシギにやれって!」
「大切な先輩を傷つけられないでしょう?」
「だからっておれにやるか!?」
「なにか問題でもありますか?」
「大ありだ!」
チトルのもっともな叫びは誰にも届くことはない。
嫉妬による八つ当たりを冬道にやれない辺り、どうやら藍霧も難儀な性格をしていることは、もはや言うまでもないだろう。
◇◆◇
(なれとは恐ろしいものですね)
初めて冬道の名前を呼んだときのことを思い出し、我ながら初々しかったなと思う。
あのころは肌とはだが触れるだけで顔が熱くなったというのに、いまではそれが当たり前になっている。感覚的には先輩後輩というよりも、家族に近いかもしれない。
それだけの時間と密度が二人にはあった。
(魔王を倒して還ってきて、ようやく女の子との絡みがなくなったかと思えばまたこれです。まぁ、先輩だから仕方ありませんが)
これは冬道がいわゆるフラグメーカーだというわけでなく、魅力的だという解釈だ。都合のいいものだと理解しているが、(藍霧にとっては)事実その通りなのだ。
藍霧は進めていた足を止める。
ドアの脇に取り付けられたインターホンを押す。
『あーいあいあい! どちら様で?』
インターホンから元気な声が聞こえてくる。
「藍霧真宵といえばわかりますか?」
『それでわからない方がおかしいよ。あ、鍵は開いてるから入れるよ』
「そうですか」と藍霧はドアを開けて家に入る。靴を脱いで並べ、真っ先にリビングに行く。
「こんにちは、藍霧さん。来てもらって悪いんだけどさ、兄ちゃんさっき出掛けちゃったんだ」
「ええ知ってます。知ってて来たんです」
「あれ、それじゃアウル姉ちゃんに用事?」
「……まぁ、そういうことにしておきましょう」
こうしてここに来たのはアウルに会いに来たというわけではない。冬道に言われたことをやるために来たのだ。
冬道に関係のある人間で、一番に守らなくてはならないのは、見落としがちだが冬道の妹であるつみれだ。
両親は家にはいないし、冬道と繋がりがあるといっても所詮は他人。ならば守るということで最優先されるのは、血の繋がりのある兄妹だ。
次に幼なじみである両希蓮也。
それ以外は良くも悪くも、等しく揃って皆平等なのだ。
そして藍霧にとっては――そのどちらもがどうでもいい。いてもいなくてもいい。
無意味無価値無感動。
なにも感じない。
冬道かしぎさえいれば、藍霧真宵は藍霧真宵として存在できるのだから。
「アウル姉ちゃんならまだ寝てるんじゃないかな。部屋はわかるよね?」
「大丈夫です。だてに通い続けていませんから」
毎朝冬道家に通う藍霧は、すでにどこになにがあるかを把握している。
二階の角を曲がったすぐ先だ。物置小屋として使われていた部屋だけあってものはいろいろあるが、逆にいえば散らかっている。
私物があるわけではないから、寝る場所があればいい。
「夏休みだからとはいえ、このような状況のときに昼までごろごろしているのはどうかと思いますが、まぁ、やることがないのでしょうね」
「入るならせめてノックくらいしてもらいたいのだが」
ノックもせずに部屋に入ると、アウルが顔だけを起こしてそう言ってくる。
その言葉に覇気はない。原因は簡単だ。この蒸し暑い部屋に隠りきりでいるのだから、こうなって当然だ。
「別にいかがわしいことをしているわけでもないのですから、する必要はないでしょう」
「そういう問題ではないだろう……」
いつもなら声を張り上げるところだが、いまはそんな元気すら惜しい。
我慢せず冷房の利いたリビングにいればいいと思ったが、それを言う義理はないので黙っておく。
「それで私になにか用か? 昨日は『組織』からデータが大量に送りつけられてきて大変だったんだ。眠くて仕方ない。用がないならあとにしてくれ」
「先輩が出掛けたのは知っていますか?」
「知ってる。司先生から連絡があった」
「む……」
おそらくアウルだけではなく、他の能力者にも連絡は回っているだろう。アウルがいままで眠っていたことから、連絡が来てから時間が経っていることが推測できた。
なぜ自分にだけ連絡が入らなかったのかと考え、すぐにやめることにした。
あの先生のやることにいちいち目くじらを立てていたらきりがない。
「藍霧も知ってたみたいだが、着いていかなかったのか」
「私には先輩に頼まれたことがありますから」
「そうか……ん? 冬道に頼まれたこと?」
アウルは司から連絡を受けたとき、だいたいの話とこれから起こるであろう予測を聞いていた。
『九十九』がこちらに赴いてくる。だからその対処をしなければならないと。
その標的にアウルが入っていることも承知している。
司がなんとかすると言っていたが、ひとりでやるにも限度がある。なるべく負担を減らすため一ヶ所に固まるようにも言われた。
「はい――みんなを守るようにと」
ゆえに藍霧がこうもあっさり防衛に回ることを承諾したことに、アウルの眠気は吹っ飛んでいた。
あれだけ考えていたのはいったいなんだったのか、とアウルは嘆息する。それと同時に、冬道や藍霧に頼りきりになっている『組織』の能力者の現状をどうにかしなければならないと思わざるをえない。
「それと私はしばらくここに泊まらせてもらいます」
「つみれに言ったのか?」
「能力者が攻めてくるから泊めてくれなんて言えるわけがないでしょう。中学二年生ではないのですから」
「え……あぁ、そうだな」
超能力という存在が当たり前になっていたからとはいえ、よくよく考えてみると、たしかに藍霧の言う通りかもしれない。これでは痛い子にしか見えない。
これからはもう少し周りを意識して言葉を選んでいこうと決意するアウルだった。
「それとみなさんの予定を把握しておきたいので、連絡を回しておいてください」
いくら藍霧でも知らない場所にいる人間まで守るなんてことはできない。範囲だけを拡大し、その範囲内にさえ入っていれば守ることは可能だ。
だが藍霧は冬道に守ってくれと頼まれている。確実に守り抜くには、不確定要素は取り除かねばならない。
「そんなもの、お前がやればいいだろう」
「いやです。お断りします」
まぁ、やるにしても藍霧にはそんな気は全くないが。
アウルは即答で断る藍霧を恨ましげな目で睨むが、無駄だということは明白なので、しぶしぶ携帯電話を開いた。
◇◆◇




