5―(3)「技術者」
『ASAMI』ちゃんは自律人形と言っていたが、それにしては人間味を帯びていると思った。
表情こそ微動だにしないものの、東雲さんと話す『ASAMI』ちゃんからはどことなく楽しいという感じを受けた。
俺が斬り落とした武装はあの場で全て廃棄し、いまではなんの仕掛けもないただの人形となっている。ただ、こうやって人間と錯覚させるほどの人形をただの人形と称するのは、間違いのような気もするが。
「なにか?」
『ASAMI』ちゃんが振り返る。
「なにかあるのでしょうか?」
「別になんもねぇけど」
「そうですか? それにしては私のことを見すぎだと思われますが。時間にして四十八秒もの間、私の後頭部に視線を感じていました。なにか気になるところでも?」
「だからなんもねぇって」
感知センサーでもついてんのか、この人形は。
「そうですか。なにか気になるところがあればなんでも申してもらって構いません。できる限り最善を尽くすように致します」
「いや、会ったばっかりのお前にそこまでしてもらわなくても……」
「こちらが返り討ちに遭ったとはいえ、客人に無礼を働いてしまいましたから。そのようなときは、誠心誠意尽くすようプログラムされています」
ちなみに、と『ASAMI』ちゃんは着物の裾を捲りあげる。
「私に生殖機能はありませんが、性行為を行えるだけの機能はありますが、いかがいたしましょう?」
「女の子が軽々しくそんなこと言うもんじゃねぇよ」
『ASAMI』ちゃんから視線を外しながら言う。
俺だって健全な高校生だ。耐性がついてるってだけで、そういうのに興味がないわけじゃない。
「女の子、ですか。見た目からすれば私は女性の部類に入りますが、しかし私は自律人形です。気にすることはないと思われます」
「ならお前を作ったやつは、そういうことするのか?」
「……いえ」
頭を振りながら、捲り上げた裾を整える。
「しかし男性は平均五十二秒の間に一度はえっちなことを想像するとあります。先ほどの四十八秒、もしかするとえっちなことを考えていたのではないですか? それとも裾を捲り上げたときに?」
「……考えてねぇから」
若干キャラが火鷹と被ってるんだが。
あいつは単にエロ発言をしたいだけで、『ASAMI』ちゃんは疑問を解消したいという違いはあるが、無表情敬語という共通点がどうしても二人を繋いでしまう。
「そうですか」と呟き、『ASAMI』ちゃんは三編みを翻す。
「『ASAMI』ちゃんってなんかおもしろいやつだな」
「そうか? 俺にはそうは思えん」
対応がめんどくさいんだよ。
「人形とか言ってるけど、妙に人間っぽいし。あんな人間みたいな人形とか見たことねぇよ」
あ、そういや地球の技術で『ASAMI』ちゃんくらいとは言わなくとも、それでもあそこまで対話ができる人形は作れないか。
馴染みすぎててすっかり忘れてた。
「そのわりには驚いてないよな?」
「超能力とかいう異常を持ってるのに、これ以上なにに驚けってんだよ。あたしなんか『吸血鬼』なんだぜ? それだったら人間みたいな人形がいた方が普通だろ」
「『陰陽師』も式神もいることだしな」
いまさら異常に対して驚くことはない、ということか。
異常は異常を引き寄せ、無限の螺旋を作り出していく。その螺旋に一度でも巻き込まれれば、その渦から逃れることはできない。
「お、着いたみたいだぜ」
柊の言葉で顔を上げると、そこには大きな屋敷がそびえ立っていた。
屋敷のなかに入ると、あまりにも奇抜な造りに開いた口が塞がらなくなりそうだった。
『ASAMI』ちゃんが言うには「人感設定は解除していますので、私が言うところ触れなければ大丈夫です」とのことらしいが、それは裏を返せばそこらかしこに罠が張り巡らされているということだろう。
複雑に入り組んだ廊下で罠が作動されたような音を聞くたびに焦らされる。
たまにすれ違う『ASAMI』ちゃんに似た自律人形がいるが、そのどれもが本来の意味で機械的だった。
生きている感じがしない。『ASAMI』ちゃんも生きてはいないが、人間味は感じられる。
『ASAMI』ちゃんと他の自律人形の違いはそこだった。
「東雲さんはここに来たことがあるんだよな?」
「来ただけやなくて、短期間やけど住まわせてもらってたな。腕の手術してもらって、リハビリが終わるまでの間だけやけど」
「そこで『ASAMI』ちゃんと知り合ったってことか」
「せやで。『ASAMI』ちゃんは私の面倒を見ててくれたんや。『ASAMI』ちゃんとあいつだけには、いくら感謝してもしきれんで。……また来たいとは、思っとらんかったけど」
そんな会話をしている間に、大きな襖の前に到着した。この襖もまたなにか仕掛けがあるのか、よく見れば普通の襖とは違う点があるようだ。
「東雲が来てくれました。入ってもよろしいですか?」
『東雲くんが来たのかい? 入ってもらって構わないよ』
襖の奥から聞こえてきたのは軽薄そうな男の声だった。
襖を開けてなかに踏みいると、部屋の中心にひとりの男の姿があった。
『ASAMI』ちゃんと同じような和服に身を包み、髪を短く揃えていた。一見すれば真面目な印象を受けるが、柔和ながらもそれでいて人をおちょくるような表情がそれを台無しにしていた。
「おや? 東雲くんだけじゃないみたいだねぇ。もしかして、君の息子と娘かい?」
「期待を裏切るみたいで悪いけど、私はそんな子供ができるようなこと、まだ一回もやったことないわ」
「おやおや。あぁ、そういえば東雲くんは『九十九』といってもそういうのは拒否してたんだっけ? あの遺伝子分布の好きな連中にしては、珍しいよねぇ」
「あんな連中と一緒にすんなや」
「それでも君のなかには『九十九』の血が、『九十九』の血だけしか、『九十九』の血のみが流れてるんだぜ?」
「相変わらず嫌なやつやな」
「それは誉め言葉として受け取っておくよ」
そう言って男は座椅子から立ち上がり、両手を広げる。
「君たちとは初めましてになるね。僕の名前は翔無八雲。しがない技術者さ」
「翔無……?」
「もしかして娘のことを知っているのかい?」
「私立桃園高校の三年生、翔無雪音先輩のことですか?」
「やっぱり知ってたのかい。僕はね、雪音の父親さ」
まさかの事実に俺たちが驚いていると、東雲さんは「言ってなかったか?」と頭を掻いていた。
そんなの聞いてねぇよ。初耳だぞ。
「となると君たちは雪音の後輩か。うん、いい後輩を持ったんじゃないかな、雪音は。ところで名前は?」
「冬道かしぎです」
「ん? もしかしてゆかりくんの息子かい?」
八雲さんが驚いたように目を見開いた。
「そうですけど、母さんのこと知ってるんですか?」
「そりゃもう。昔から仲良くさせてもらってるよ」
母さん、冬道ゆかりは、俺が知っている限りでは間違いなくダントツの力を持っているだろう。あの母さんには俺でも勝てるかどうか怪しいくらいだ。
そんな母さんと繋がりがあるということは、八雲さんもそれなりの実力者と考えた方が無難だ。
……俺、暇があれば他人の実力の分析してるよな。
「ゆかりくんは元気にしてるかい? 最近はめっきり連絡を取らなくなってねぇ」
「母さんは家にいませんから、俺もわかりませんけど、たぶん元気にしてるんじゃないですかね」
「僕も彼女が元気じゃなかったことは見たことないよ」
やはりこの人は翔無先輩の父親だ。翔無先輩と同様に、するりと内側に踏み込んでくる。
しかし土足で無遠慮にというわけではなく、礼儀正しく踏み込んでもらいたくないところには決して踏み込まない。そんな態度が、気を許してもいいと思わせた。
「そっちの『吸血鬼』のお嬢ちゃんの名前はなんて言うんだい?」
柊が驚きに目を見開いた。
「なんであたしが『吸血鬼』って……っ!?」
「僕は技術者だぜ? 物を見抜く目がないとやっていけやしないよ。それにねお嬢ちゃん、君くらいの能力者になると、見抜くのはそんなに苦労しないんだ」
「…………」
「そんな身構えることはないよ。僕は君が『吸血鬼』だからといってなにかするつもりはないからね。それで、名前は?」
「……柊詩織」
「詩織くんか。なるほど、君が……」
柊の肩がびくりと震える。
畳を蹴りだし、『ASAMI』ちゃんを振り切り、その先の言葉を紡ごうとした八雲さんに、勢いを上乗せした拳を振り抜いた。
八雲さんは動かない。ただ、右手を前に構えるだけだ。
「元気いいなぁ、君は。さすがゆかりくんの息子だよ」
今度は俺が驚く番だった。手加減はしたつもりだが、それでも本気で殴り付けたはずだ。生身で喰らって立ってることなどまず無理だ。
なのにこの男は、片手で受け止め、全くと言っていいほど動かなかった。
感触でわかる。右手の一点に集中させた衝撃を、受けた瞬間に筋肉を動かして分散させたのだ。
だけど、もう一撃までは受けきれねぇよな!
俺は左の拳を握る。右の拳を引くと同時にそれを……
「そこまでや。八雲、あんたもデリカシーないで」
東雲さんが掴んだ。
「ここまで反応するとは思わなくてね。こればかりは僕が悪かったよ。悪気はなかったけどね」
「どうだか。あんたは昔っから余計なこと言うからな」
「おいおい、義理の父親に向かってそれはないぜ?」
は? 義理の父親?
「ちょ、それは言ったらあかん!」
焦ったように、もしくは恥ずかしげに頬を朱に染めた東雲さんが八雲さんの口を塞ぐ。
しかしすでに時遅し。俺たちは八雲さんの言葉をしっかりと聞いてしまっていたのだから。
「恥ずかしがることないだろ? 『九十九』から追い出された君を拾ったのは僕さ。戸籍上は翔無東雲なんだぜ? まぁ、名前縛りは健在みたいだがね」
「つーことは翔無先輩とは……」
「義理の姉妹ってことになるね。だけど雪音には言っていないよ。あの子は『九十九』のこと、恨んでいるからねぇ。これが蓋を開ける鍵になるんだけどさ」
これは驚きだ。司先生もなにも言ってなかったし。
東雲さんは俺の手を離すと、居心地が悪そうに頬を掻いた。
「それで東雲くん、僕が作った右腕はどうしたんだい?」
「やっと本題に入れるわ。簡潔に言うと壊された。せやから作り直してほしいんや」
「おいおい、壊れたものがそう簡単に直るわけないだろう? そんなこともわからなくなったのかい? それにあれほどの義手がなくとも生活はできるだろう?」
「私にはいま、それが必要なんや」
「そうなると、それなりの対価は必要になると、僕は思うけどねぇ」
「…………」
八雲さんがそう言うと、東雲さんは怯んだように一歩後ずさる。表情には困惑が貼り付けられている。
「……いくらや?」
「お金はいらないよ。義理とはいえ娘からはとれないよ」
「前はがっぽりとったやないか」
「あのときはまだ赤の他人だったからね。あの義手をただでやるなんてこと、できるわけがないだろ?」
八雲さんは人差し指を立て、俺たちの後ろを指す。
どうしたのだろうかと振り返ると、そこには『ASAMI』ちゃんの姿があった。
ただし……
「裸エプロンで僕に奉仕すること。それが対価だよ」
裸エプロンの『ASAMI』ちゃんがだ。
自律人形であるがゆえか、恥じらうということを知らないようで、男である俺や八雲さんの前にも関わらず堂々としていた。
「あんた、娘になにさせる気や?」
「義理の娘だからね。そういうのって、萌えるだけじゃないかな?」
「最悪や」
「最高と呼んでもらいたいね」
「義理の娘に裸エプロンを強要してくる義理の父親が最高なんて言う義理の娘は絶対におらん」
『ASAMI』ちゃんはエプロンの下に水着(例に漏れずビキニ)を着ていたので、正確には裸エプロンではない。
てか自律人形を作ってまでそんなことさせんなよ。
「なら作ってやらないけどいいのかい? 東雲くんは義手がどうしても必要なんだろ?」
「……脅してるつもりか?」
「そんなまさか。ただ、僕は義手を作るからその間、裸エプロンで手伝いをしてくれればいいと言っただけさ。強制でもないし、強要しているわけでもないよ」
八雲さんは座椅子に座り直し、『ASAMI』ちゃんに身の回りの世話をするように指示する。
『ASAMI』ちゃんはそれに「はい」と一言答えると、裸エプロンのまま命令をこなし始めた。
俺はそれを横目で見、視線を八雲さんに戻す。
「私みたいなのの裸エプロン見てなにが楽しいんや。からかいたいだけなんと違うんか?」
「全然違うね。僕は君みたいな巨乳な子の裸エプロンを見たいだけだよ」
「だったら『ASAMI』ちゃんを巨乳にしたらええやん」
『ASAMI』ちゃんの胸はエプロンの上から見ても曲線を描くことなく、ほぼ真っ直ぐな軌道を作っている。
けれど『ASAMI』ちゃんは自律人形なのだから、見た目の調整はいくらでもできる。東雲さんの意見は的を射ていると思えた。
「なに言ってるんだい。彼女はあれだからいいんだよ」
「あんたの基準はようわからんわ……」
「それでどうするんだい?」
ひじ掛けに腕を置いた八雲さんは、『ASAMI』ちゃんが持ってきたお茶をお盆から受けとる。
「あーもう! やればええんやろ!」
「オーケー。交渉成立だ」
お茶をお盆に戻した八雲さんは音を立てて両手を打つ。
「それじゃ早速……」
「着替えればええんか?」
「壊れた義手を見せてもらえないかな?」
「…………」
東雲さんが恥ずかしさで赤くなりながら、持ってきていた鞄から壊れた義手を取り出した。
いたずらが成功したような笑みでそれを受けとる。すると八雲さんの表情からは感情という感情が消えた。
その表情はまさに技術者のものだ。
「僕の作った義手をこうもあっさり切断するなんて、なかなかやるもんだねぇ。君の能力のことも考えてマグマにでも突っ込まない限り溶解しないようにしてたし、強度が弱くなったなんてことはないはずだよ。これを斬ったのは相当な曲者だ。いったい誰がやったんだろうねぇ」
小さな呟きは後に俺たちに……いや、俺に向けられた言葉に変わった。
口元に笑みが浮かんでいるが、目は笑っていない。
八雲さんは自らの技術に絶対にして無二の自信を持っている。だから、その技術の結晶である義手が壊されたことが信じられずにいるのだろう。
俺だってそうだ。いままで積み上げてきた戦いの技術が簡単に覆されれば、同じようなことを考えたはずだ。
「そっちも見せてごらん」
手招きをして東雲さんを呼び、切断面を見る。角度を変えながら、あるいは特殊な機材を使って食い入るように観察していた。
「だめだねこれは。もう少し雑に斬ってくれたらよかったんだけど、ここまで綺麗にやられたら直すのは無理だよ。一から作り直すしかない」
「ほなら時間はどのくらいかかる?」
「どれだけ早く見積もったとしても五日はかかる」
「それしかかからんのか? 前んときはもっと時間かかってたやんか」
「そのときは文字通り一からだったからね。いまは資料と材料も揃ってるし、あとは作るだけだからこれくらいで済むってだけさ。それとも君はもっと長い間、裸エプロンで生活したいのかい?」
そう言って八雲さんはいたずらめいた笑みを浮かべる。
「やっぱ嫌なの知っててやらせてたんやな!?」
「人聞きが悪いなぁ。これからやらせるんだよ」
「どっちでも同じやろーっ!」
東雲さんのもっともな叫びが、屋敷中に響き渡った。
「なんか、嫌なおっちゃんだった」
八雲さんの部屋を出た柊の第一声はそれだった。
さっきまで一言も発さなかった柊は、むすっとした表情で廊下を歩く。
「あたしだって今日知ったばっかりのことを、しかも言われたくないし思い出したくもないことを言おうとするなんてさ」
「悪気はないって言ってたけど、あれは悪意以外はなんもなかったからな」
あれは知ってて言おうとした顔だ。わざと挑発するようなことをして、俺と柊の実力を試したんだ。
実力が試したいなら他にも方法があっただろう。それに義手を斬ったのが俺だってわかってたみたいだし、それだけで実力の確認はできたはずだ。
どちらにしろ、気にくわない人だ。
「でも、冬道があんとき飛び出してくれて嬉しかった」
「あ?」
「もし冬道が飛び出さなかったら、あたしはなにもできないままだった。自分のなかでは割りきったつもりだけど、他人に言われると辛くてさ……」
「気にすることねぇよ。九十九志乃だっけ? そんないまはいねぇやつの影に怯える必要はねぇだろ。お前はお前だって、前にも言っただろ」
まぁ、そいつについて気になるところはあるが……。
「柊、冬道、いちゃらぶは終わりましたか?」
俺と柊の間から『ASAMI』ちゃんがぬっと顔を出してくる。
「おわっ!? い、いつからいたんだよ!」
「最初からおりました。最初からお二人のいちゃらぶ、正確には柊の一方通行なデレを録画しておりました」
「録画!? なんで録画なんかしてるんだよ!」
「今後の参考に。ツンデレのツンも見たかったのですが、デレデレもいいものです」
いったい、なんの参考にするつもりなのだろうか。
「デレてねぇしツンデレでもねぇよ!」
「ご謙遜を。柊はツンデレですよ」
「違うって! あたしそんなツンツンしてねぇから!」
そうだったか? 『吸血鬼』のことが解決するまではツンツンしてたような気がするんだが。
柊は見た目と口調からしてツンデレだからなぁ。いまの言動が柊をツンデレだと証明しているようなものだ。
「では冬道のことが嫌いですか?」
「大好き」
「デレデレですね」
「デレデレだな」
顔を合わせて笑う二人(といっても『ASAMI』ちゃんは音声だけだが)を見て、やはり俺は疑問に思った。
『ASAMI』ちゃんは自我を持っていても、それはプログラムされたというだけの人形なのだ。人形がここまで人間のような反応をするのだろうか。
「冬道、柊」
「あ? どうした? つーかなんでその呼び方なんだ」
実は呼ばれたときから気になってたんだよな。
八雲さんや東雲さんのことも呼び捨てだったし。
「お二人がそのように呼び合っていましたので。だめだというのでしたらそうですね……かっしーというのはどうでしょうか」
「いやちょっと待て。なんでそれを知ってる?」
「なんで、と言われましても、そのような電波を受信しましたので」
「受信って……」
自律人形なだけにあながち本当なのかもしれない。このあだ名をつけたのは翔無先輩だし。
そんな会話をしている間に、玄関に到着した。
「あれ、かっしーに詩織ちゃんじゃないか。ボクの家でなにしてるんだい?」
聞きなれた声が聞こえた。そちらに顔を向けると、たったいま帰ってきたらしい翔無先輩がそこにいた。
「京都に行ったんじゃなかったのかい?」
「用事があって立ち寄ってたんだよ。俺がじゃなくて、東雲さんなんだけど」
「……あぁ、あの人ねぇ。お父さんに用事なんだろ?」
あからさまに翔無先輩は眉をしかめた。
「お父さんは技術者だからねぇ。あの人も義手みたいだったし、かっしーに斬られたから直すんだと思ってたけど、まさかここだなんてねぇ」
靴を脱ぎスリッパに履き替える。
鞄を『ASAMI』ちゃんに預けてようやくどんな姿だったかを見たようで、驚きで口をあんぐりとさせていた。
「なんで裸エプロンなんだい? そしてどうして二人は『ASAMI』ちゃんが裸エプロンなのに馴染んじゃってるんだい?」
『なんでだろ?』
「声を合わせて聞かれてもこっちが知りたいよ」
呆れたようにため息をついた翔無先輩は「そうだ」と、なにかをなにかを思いついたように指を立てた。
「これからなにか用事があったりするかい?」
「いえ、これから旅館に帰るだけですけど」
翔無先輩の言葉に柊が答える。
「旅館かぁ。言ってくれれば泊めたのに」
「あたしたち、ここが翔無先輩の家だって知りませんでしたから。あと知ってても泊まりたくないかなぁ……なんて」
さっきのことがまだ尾を引いているのだろう。
若干引き吊った苦笑をし、頬を掻く。
「ふむふむ。お父さんとなにかあったみたいだねぇ」
顎に手をあて、翔無先輩は核心を突いてきた。
「お父さんだから仕方ないよ。お父さんはボクよりもデリカシーってものがないからねぇ」
自覚があるっていうのが、一番質が悪いよな。幸いなのは、なにを聞かれたかを問いたださないことくらいか。
「ところで、さっきなにか言いかけてみたいだったけど」
「そうだったそうだった。これからどうせ暇なんだろ? だったらボクの部屋に遊びに来ないかい? ボクもちょうど暇してたんだ」
「俺たちはあなたの暇潰しか?」
「そのとおり。賢い後輩は好きだぜ? ……おっと、お父さんの真似しちゃったよ。だめだね。気を抜くとすぐにこれだよ」
ちろっと舌を出した翔無先輩は踵を返す。
俺たちも翔無先輩のあとに続き、さっき通った道とは別の道に入っていく。
「翔無先輩の一人称は八雲さんの影響なのか?」
「そうだよ。うちは父子家庭だからねぇ」
「……っ」
こともなさげに翔無先輩はそう言った。
その横顔は特になにか感情を抱いた様子はないが、そんなことを簡単に言っていいのか。いや、言わせてよかったのか。
いいはずがない。軽い気持ちで聞いてみただけなのに、地雷で半身が吹き飛ばされたような衝撃だった。
「気にしなくていいよ。ボクの母親代わりはちゃんといるから。ね、『ASAMI』ちゃん」
『ASAMI』ちゃんが首を縦に動かす。
翔無先輩は、和風な屋敷では違和感すらある洋風なドアの前で立ち止まる。取っ手に手をかけると、ドアを一気に開け放った。
部屋の風景がに網膜に飛び込んでくる。
まるで不思議の国にでも迷い込んだようなファンタジーが、そこには広がっていた。
「ボクがぬいぐるみを集めてるなんて意外だろ?」
くまのぬいぐるみを抱きしめ、普段の翔無先輩からは想像できない可愛らしさを振り撒いていた。
翔無先輩は童顔だし身長も低いから、年齢よりも幼く見える。少なくとも年上には見られないだろう。
そんな彼女がぬいぐるみなんか抱きしめていたら、それは可愛らしく見えてしまうものだ。
「そんなことないんじゃねぇの? 似合わなくはないし」
「そこは似合うって言ってもらいたいねぇ。とはいえ、ボクの収集癖もまた、お父さんの影響なんけどさ」
ベッドの横が定位置なのか、くまのぬいぐるみをそこに置き直す。
いつの間にか『ASAMI』ちゃんが用意していたジュースを受け取り、適当な場所に腰を下ろす。
部屋はぬいぐるみで溢れている。整理されてはいるが、それでも整理しきれていない様子だ。種類は多種多様で、統一性がとれていなかった。
唯一、机の上にだけぬいぐるみが置かれていない。代わりに置かれていたのは、束になっている紙の山だった。
「女の子の部屋をじろじろ見るなんて感心しないねぇ。ボク以外にはやめておきなよ?」
翔無先輩にはやっていいのかよ。
「ボクの実家がこんな屋敷だなんて驚いただろ?」
「まぁな。まさか屋敷に住んでるとは思わなかったし」
そんなことよりも、翔無先輩と東雲さんが義理の姉妹ってことの方が驚きだけど。
「なんか他に驚きがあったって顔だねぇ」
なんでわかるんだよ。そんな表情にだしてたか?
「『ASAMI』ちゃんが裸エプロンになったことの方が普通は驚くだろ? 翔無先輩の順応の早さにも驚きだよ」
「毎度のことだからね。水着を着てるだけまだマシだよ」
え、まさか普段は水着すら着てないのか?
「前はもっと過激なのがあったからねぇ。それに比べたら可愛いもんさ。……聞きたい?」
「結構です」
だからそんなに睨むなよ柊。嫉妬すんなっての。
俺は柊の視線から逃げるために部屋を見渡し、本棚にアルバムがあることに気がついた。
「翔無先輩、アルバム見ていいか?」
「いやん恥ずかしいよ。見ていいよ」
見ていいんかい。体くねくねさせながら言うセリフじゃねぇだろ。
苦笑すら溢せないままアルバムを取り出し開くと、柊も脇から覗き込んでくる。
「これって翔無先輩の小さいときの写真ですか? 可愛いですね」
「ん? あー……うん、そうだねぇ」
ちらりとこちらに焦点を合わせた翔無先輩は、珍しくそっけない言葉を返してきた。
俺も柊が見ている写真に何気なく目を向け、そして思わずのけ反りそうになってなんとか堪える。
「これ、翔無先輩、なのか……?」
「えー……たぶんそうだよ」
ここまで曖昧な返事をする翔無先輩は初めてだ。
でもなんだ、いまの翔無先輩と写真に写る翔無先輩との、ここまでの違いは。写真越しにだって伝わってくる、この殺人鬼のような雰囲気は並のものじゃない。
これだけのものを俺が見抜けないはずがない。たとえ隠していたとしてもその断片くらいは見えるはずだ。
だけど、それがまったく見えない。
「そのころのことって、あんまり覚えてないんだよねぇ。あるときからぷっつりと切れちゃってさ。それがどうかしたのかい? シリアスってるけど」
「本当に、覚えてないんだな?」
「君がそこまで追求してくるなんて珍しいねぇ。ボクの幼いときの写真に化物でも見たのかい?」
「…………」
「ちょ、否定しておくれよ」
否定しようにも、どうも否定することができない。これだけの力があったのに、どうしてそれを失っているんだ?
これなら『九十九』にだって対等、それ以上に戦うことだってできる。
「よくわかんないけど、その話はやめにしようか。わざわざパンドラの箱を開ける必要もないだろう?」
「そう、だな……」
翔無先輩がそう言うなら、俺が詮索するようなことじゃない。アルバムを閉じ、元あった場所に戻す。
「それはさておくとして、かっしー。マイマイちゃんになにか言ったんじゃないかい?」
「あ? あぁ、一言だけな」
俺は仙台に来る前の会話を翔無先輩に教える。
聞いた途端に翔無先輩は苦笑と共にため息を漏らした。
「やっぱりねぇ。かっしーもわかっているだろ? マイマイちゃんは君が、冬道かしぎがいないと生きていけない」
「…………」
「君もそれに頼りきりになっちゃだめだ。わかっているだろうけど、改めて確認しておくといいよ。ボクたちは、いつまでも一緒にいられるわけじゃないんだよ」
言われるまでもなく、わかっていた。
真宵後輩は強い。がらんどうであった心を埋め、よりどころを見つけた。それを守るためにいくらでも冷酷に、冷徹になるだろう。どんな犠牲を払ってもそれを守る。
真宵後輩は弱い。がらんどうであった心を埋めるものがなければ、人間としても曖昧だ。
俺が真宵後輩を束縛している。
彼女は俺がいなければ生きていけない。
死んでいるのと同じだ。人形と同じだ。
それではだめなんだ。
わかってる。ちゃんと……わかってる、つもりだ。
「いまはまだいいよ。時間はまだあるからねぇ」
翔無先輩の言葉に頷き、俺は真宵後輩を思い浮かべる。
いまごろ、真宵後輩はなにをしているだろうか。
◇◆◇