5―(1)「出発」
右腕の違和感はまだ抜けていなかった。使い慣れたはずの天剣が異様に重く、反発するような感覚すらある。
「…………」
目の前に空想の魔獣を召喚する。
ひび割れた硬殻に血管のようなものがいくつも走っている。見上げなければその全貌を視界に納めることはできなかった。全方位を見渡すように忙しく動く三目が、俺を捉えた。
巨大な体躯を引きずりながら魔獣は方向転換する。
天剣を両手で握り、額から流れ落ちる汗を無作為に放出した波動が瞬く間に凍結させた。
地面に氷の粒が滑り落ちる。
それが始まりの引き金となった。
足の裏に擬似的な竜巻を発生させながら、地を這うように直進する魔獣の真上に飛ぶ。天剣を振り回し、その重量で急降下する。全身の速度と勢いを抱えたまま、黒くくすんだ赤色の筋に斬線を走らせる。
硬い甲殻をやすやすと斬り裂き、なおもって失われない勢いで体を回転させると同時に重心を移動させ、地面に着地する。
顔を上げればエメラルドの瞳は怒りで血走っていた。魔獣が咆哮し、空気を振動させる。
戦いの緊張感がだんだん魔獣の姿をリアルにしていく。薄く透けていた魔獣の体から透明感が抜けていった。
細かい魔獣の詳細が見えてきた。胴体がわずかに膨らんでいる。元は飛ぶための翼だったのか、強靭な腕には機能していない翼膜が残っている。代わりに脚部には筋肉が凝縮されていた。
「昆虫竜か。全く、我ながら自分に厳しい選択をしちまったもんだ」
自嘲じみた笑みを浮かべ、俺は呟く。
昆虫竜――その名前に見合わず、どちらかといえば爬虫類のような体躯をしている竜だ。空を飛ぶための翼は地上で生活するうちに退化し、いまでは強靭な四肢が備わっている。
けれど昆虫竜が昆虫竜と呼ばれる由縁が残っている。
膨らんだ胴には幾万もの幼虫が潜んでいるのだ。出産と同時に母体は幼虫の餌となり、その命を次に繋いていく。
出産を控えた昆虫竜の動きは鈍い。だが気性がかなり荒くなり、その狂暴性を何倍にも増幅させていた。
魔獣が動き出した。地面を踏み砕き、真っ直ぐに迫ってくる。
砕けた地面をさらに踏み砕き、魔獣が通り過ぎる一瞬に夜空へと突き抜けた。昆虫竜の全貌が見れる位置にまで上昇し、天剣に属性波動を封入する。限界ギリギリまで波動が封入された天剣から、冷気が放射状に放たれる。
あとは天剣を振り下ろすだけ。幼虫もろとも焼き尽くす氷点下の炎。いま必要なのはそれほどまでの火力だ。
だが、突如として急停止した魔獣は大木ほどもある腕で薙ぎ払ってくる。体を反らし、すんでのところで事なきを得ると、そのまま腕を伝って疾走する。
甲殻のわずかな割れ目に沿って天剣を一気に振り抜く。
昆虫竜は咆哮を上げながら、斬られた場所から緑の血飛沫を散らした。
続けざまに甲殻を斬り崩す。連続して血飛沫を散らす昆虫竜を目尻に、一旦距離を置いた。
対人戦ならそんなことをする必要はなかった。
しかし相手が魔獣となると、戦い方が大きく変わる。
こちらが手数を重ねなければならないのに対し、魔獣はたったの一撃で命を絶つことができる。深追いをしないのが定石だ。
「…………」
昆虫竜の動きが鈍る様子はない。
いくら天剣とはいえ所詮は剣だ。ただのひと振りで魔獣を消し飛ばせるかといえばそうじゃない。担い手と波動、そして属性石が共鳴し、初めてその威力を発揮する。
いまの俺にはそれができるかといえば――正直無理だ。波動と属性石は揃っている。しかし、担い手が足りない。
それを補うためには、大きな波導を連発するしかない。
「――――氷姫よ、天焦がす地獄の花束を」
天剣からいくつも折り重なった氷花が昆虫竜へと降り注ぐ。
『嵐声』
「かぁっ!」
分子構造を崩壊させる振動波を口内から放ち、氷花を粉々に粉砕させる。
飛び散った氷花の破片は雨のように降り注ぎ、昆虫竜の甲殻を砕いていく。さらにその奥にある肉を切り裂き、さらに奥にある血管をも破砕した。
いける――そう思った刹那、昆虫竜に変化が現れた。
波導によるダメージもそうだが、それ以外のなにかに苦しんでいるように見える。巨大な体躯を捻らせ、昆虫竜は地面を転がった。
よく見れば膨らんだ胴が蠢いている。まさか……
俺は最悪の考えを即座に思考から追い出し、もう一度、天剣に波動を封入する。今度は一撃で確実に仕留められるように。
しかしそれよりも早く、昆虫竜は変化を起こした。
胴が弾け飛ぶ。その内側から数えきれないほどの昆虫竜の幼虫があふれでてくる。留まることを知らないのか、どんどんと幼虫は増え続けていく。
「最悪だ」
舌打ちし、俺は昆虫竜から飛び退き大きく距離を取る。
本来、昆虫竜の幼虫は地の底で産まれる。そこで母体を食らい、成虫になったところでようやく地上に出てくる。その頃になると生活に必要のなくなった翼は退化し、強靭な四肢へと進化する。
とはいえ最初から翼がないわけではない。
退化したのはあくまで生活する上で必要がなくなったからであり、産まれた瞬間には翼を持っているのだ。
つまり地上で産まれたということは、退化するはずだった翼はそのまま残ることになる。
当然、地を這うよりも空を飛ぶ方が脅威だ。
いくら幼虫とはいえ、万を越える魔獣を相手にするのはいくらなんでも自殺行為でしかない。
夜空を埋め尽くす幼虫の群れ。地上には腹に幼虫がいなくなり、体が軽くなった昆虫竜の成虫が一体。そのどちらもが腹を空かせ、餌を欲している。
無数の赤い点がこちらに向けられる。なにが引き金になったかもわからないまま、昆虫竜の群れが俺に襲いかかってきた。
「――――風蛇よ、轟く千の罪線を!」
背後に風の矢が形成される。その矢尻に波動糸を括りつけ、一斉掃射する。
弾丸の如き速さで放たれた風矢は幼虫を串刺しにしていく。鼓膜を貫くような断末魔の叫びが連なり、思わず耳を塞ぎたくなる。左手から伸びる波動糸を動かし、その矢先を昆虫竜の成虫に向かわせる。
幼虫の数はまだ半分も倒しきれてはいない。
幼虫を踏み台にしながら他の幼虫を切り裂き、筆立てのように矢が突き刺さっている成虫に飛びかかる。
成虫が牙の羅列した大口を開けた。底の見えない闇のような口内に恐怖心を覚えないわけではない。いかに武に長けた人間であろうと、本能的な部分である『恐怖』に抗うことはできない。
だが、俺はそれに抗うことができる。
感情を押し殺し、本能を捨て――残るのは、ただ殺戮を成し遂げるだけの肉体だけだ。
「レヴァンティン秘伝炎剣技――――鼠花火」
目の前に広がっていた絶望は、一瞬で消え去った。
◇◆◇
すっかり静寂を取り戻したグラウンドで大の字で寝転がりながら、天剣を待機状態に戻した。胸を上下にして息を整え、起き上がろうと体に力を込める。
ぴくぴくと痙攣しながらようやく上半身を起こし、額から流れ落ちる汗を拭った。
「完成度四割……いや、三割五分ってところか」
これだけやってまだその程度だ。完成するまでにどれだけの時間が掛かるか。昆虫竜の幼虫の群れを倒すのにも二閃を必要とした。本家であれば、抜刀するまでもなかったはずなのだ。
右腕に激しい痛みが走る。明日には治っているだろうが、しばらくは動かせそうにない。
「せめて炎剣技が必要にならないことを祈るしかないか」
『九十九』の能力者は強い。いまの俺だと負けないにしても、手こずることは間違いないだろう。肉体の限界値に加え、長期戦闘による不利化が俺を苛立たせる。
もどかしい。どうしてこの程度の相手に考えさせられなければならない。
そう思っていると、俺の頬にひんやりとした感触が伝わってきた。
「不法侵入だぞ、冬道。勝手にグラウンドを使うな」
「あ、司先生……」
「それが異世界で学んできた技術か? 凄まじい威力だな。イメージを相手にしているようだったが、あの鬼気迫る表情と威圧のおかげで、私にもわずかだが、お前のイメージしたものが見えた」
司先生が渡してきたペットボトルを受けとる。
「どうでしたか?」
「あんなものを相手に生き残るのは、いくら私でも少々難しいかもしれんな。時間をかけていいならば、負けるということはないだろう。あれの大体の生態は把握した」
俺は両手を挙げ――ようとして右腕が挙がらないので、肩を竦めて見せる。
「腕が挙がらないのか?」
「体育祭のときからずっと不調でして。常にってことではないんですけど、ある一定のときに限ってこうなるんです」
波導を使った戦いのときだ。
「超能力ならば私でどうにでもなるが、生憎と専門外でな。診てやることはできん」
「大丈夫ですよ。これくらいの不調ならいくらでもカバーできますから」
「頼もしい限りだな」
スーツの内側から煙草を取り出し、オイルライターで火を灯す。
「しかし私たちはお前に頼ってばかりだな」
「はい?」
「秋蝉のときは自らとはいえ、生徒会と風紀委員のときは翔無。『吸血鬼』のときは……まぁ、私だな。そして今回の『九十九』は東雲がお前を巻き込んだ」
「それは仕方ないんじゃないですかね。力ある者の運命ってやつですよ」
「私は運命などという非科学的なことは信用しない」
「超能力があるのになに言ってるんですか……」
俺は呆れるように言いながら立ち上がり、力がまともに入らないことに気づいた。踏ん張っていなければ倒れてしまいそうになる。
炎剣技を使っただけでこうなるのか。たしかにあれは高度な技術と大量の波動を使うとはいえ、ここまでの負荷がかかるなんてな。
ペットボトルを開け、喉に水を流し込む。
「主人公がどうのこうのと言うつもりはありませんが、こういうことに巻き込まれるのは俺が強いからです」
「ずいぶんな自信だな。高慢とも言えるぞ」
「客観的に見た結果ですよ」
「その割りにはかなり怪我をしていたように見えるがな」
「そうですね。ですがいま戦えば、一分とかからずに倒せますよ。うちの生徒会長様も、東雲さんもね」
あのときはまだ肉体がイメージについていけていなかった。ゆえに限界値が来るまでに決着を着けなければならなかった。力を出せない条件付きでな。
だが、いまは全力を出せないまでもある程度なら力を出せる。あの二人くらいなら、手間をかけることはない。
「それとも司先生が俺と戦って確かめてみますか?」
「いや、やめておこう。私は知識だけで戦うほどの力は持っていないよ。――しかし、その状態のお前をというならば話は別だが」
「……遠慮させてもらいます」
嫌な汗を掻きながら水を一気に飲み干し、ペットボトルを氷解させる。
「そういえば夕方のことなんですが」
「なにかあったのか?」
「『九十九』のメイドから手紙が来たんですよ。正確には当主様が書いたものですけどね」
「東雲宛に『九十九』の当主が手紙を書いただと? それで内容はなんだったんだ?」
「助けてくれ――そう書いてあったらしいですよ。手紙自体は東雲さんが燃やしてしまったので、見ることはできませんでしたし」
着崩れた制服を直し、帰る準備を整える。
右腕の痙攣が止まらない。左手で押さえつけるように、右腕を掴んだ。
「いまさら助けを乞うか。まったく……どちらも揃って遅すぎる。腕を壊してからなどと不器用すぎるぞ」
「……? そうなんですか。よくわかりませんが、俺には関係ありませんね」
東雲さんの腕が壊されたのがその九十九一葉のせいだったとしても、それに対して俺がなにかを感じるわけじゃない。
なにも感じない。そんなこと、どうだっていい。
「京都に行くのは明日からだったな。お前と東雲と柊、あとは京都で助っ人がひとり。……ふむ、あいつならばお前らに劣りはしないだろう」
「司先生は助っ人が誰か知ってるんですか?」
「知っているに決まっているだろ。なんだ、お前は東雲から誰か聞かされていないのか?」
「ええまぁ。そこまで興味ありませんし」
誰が助っ人に来ようとどうだっていい。連携を取る気はもとよりないし、そんなやつに背中を預けたくはない。
「知っておいて損はないと思うが、まぁ、あっちに行けば嫌でもわかることだ。わざわざ私が教えてやる必要もあるまい」
「ふーん。あ、そろそろ帰りますね。やっと動けるようになってきましたから」
肩を回しながら、体の調子を確かめる。右腕の違和感がまだ残っているものの、支障なく動けるようだ。
踵を返し、司先生の脇を通り抜ける。
「そういえば司先生、ひとつ訊きたいことがありました」
校門の手前で立ち止まり、司先生にそう問いかける。
「どうして、ここにいるんですか?」
「そんなこと決まっているだろう。お前が校舎を壊したりしないよう、監視するためだ」
そう言ってくわえていた煙草を地面に押しつける。
俺は司先生の隠すつもりのない本音に苦笑した。
◇◆◇
「兄ちゃん、荷物の準備終わったの~?」
「もう終わってるって。つーか昨日も言ったぞ」
鞄を片手に、俺はしつこく訊いてくるつみれに呆れ気味に答える。
相変わらず右腕の違和感は残っているが、もう気にならないくらいには引けていた。手を開閉させながら、時計に目をやる。
集合時間まであと三十分くらいか。
「夏休みに入ったばっかりなのに友達と京都に旅行だなんてどうしたの? 前なら一日中家でごろごろしてるだけだったのに」
「俺も行きたくて行くんじゃねぇけどな」
「へ? そうなのか? まぁいいけどさ、京都にいくんだったらお土産、期待してていいんだよな?」
「なんか適当に買ってきてやるよ」
つみれが朝食をテーブルに運んでくる。つみれにしては珍しく、トーストやハムといった簡単なものだった。
まぁ、作ってくれるだけありがたい。料理ひとつできない俺が文句を言うのはお門違いだ。
「阿闍梨餅とか買ってきてよ。あれ、すっごく美味しいんだってさ」
「あじゃりもち? なんだそれ」
「あたしもよくわかんない。友達が京都に行ったとき食べたって言ってたんだよ。無駄に美味しそうにするから気になっちゃってさ」
「よくわかんねぇもん頼むなよ」
阿闍梨餅か。なんかごつい感じの名前だよな。餅っていうくらいだから柔らかいんだろうけど、阿闍梨の部分がどうしても強すぎる。
「そういえば京都に誰と行くんだ? アウル姉ちゃんは行かないって言ってたから、真宵さんとかこの前来た人とかと一緒?」
「違う」
「じゃあ、詩織さんとか体育祭のときに一緒にいたちっちゃいおねーさんとかと?」
「柊は合ってるけど萩村はちげぇよ。第一に俺、萩村のアドレスとか知らねぇし一緒に来るとも思えねぇよ」
それに常識人・一般人代表の萩村を連れていけねぇよ。
「まさか真宵さんを差し置いて詩織さんを連れていくなんて……。どうしちゃったの? メインヒロインの真宵さんを連れていかないなんてなにがあったの!?」
「メインヒロインとか言うな。ギャルゲーか」
「そんなこと言ったって兄ちゃんの周り、ギャルゲーっぽいじゃん。だってほら、こんなに可愛い妹もいることだし」
「はっ、実際の兄妹で妹が可愛いなんて思うのはな、真正のシスコンくらいのもんだろうが!」
その点、俺はシスコンではないことは明らかだ。
妹の存在に感謝はしても、異性として見たことは一度だってないわ!
「ま、まさか兄ちゃんは義理の妹派だったのか!?」
「そんな派閥はねぇ!」
そしてあえて言うなら俺は真宵後輩派だ!
驚愕しているつみれを差し置いて、俺は朝食を一気に口のなかに掻き込む。手を合わせて「ごちそうさま」とひとり落ち着いて朝食を終える。
ちらりとつみれを見ると、未だに妹派と義妹派について脳内口論を続けているようだった。
「そろそろ行くけど、俺がいなくてもちゃんと掃除はしとけよ? この際だ。掃除もできるようにしとけ」
「うぐ……。掃除だけは苦手なんだよ~……」
「だからいい機会だろ。アウルはそういうことできないだろうし、嫌でもやんないといけないからな。あと、なんかあったら必ず連絡入れろよ? あとは……」
「あーもう兄ちゃん心配しすぎ! あたしは大丈夫だからさ、旅行楽しんできなよ」
俺が心配しているのが家のことだと知ったら、つみれはどんな反応をするだろうか?
とりあえず頷いておき、まだ寝ているだろうアウルのことを思い浮かべる。
もしも『九十九』がこっちに攻めてきたとき、アウルひとりで対処するのはまず無理だ。それについては真宵後輩に頼むか。
「なんだかんだ言ってあたしのこと心配なんでしょ? むっふっふ、素直じゃないな~兄ちゃんは。このツンデレ兄ちゃんめ!」
「誰がツンデレだ。ツンツンした覚えもデレデレした覚えもねぇっての」
「いいよいいよ照れなくて。やっぱり兄ちゃんはツンデレについてわかってるよな~」
「なんで俺がそういうのに詳しいやつみたいになってる」
「え、詳しくないの? 兄ちゃんの周り、いろんな属性の人いるじゃん」
「詳しくねぇよ」
そろそろ家を出ないと集合時間に間に合わなくなるな。俺は立ち上がり、玄関に向かう。
「くれぐれも余計なことはするなよ? もしかしたら誰か遊びに来るかもしれねぇけど、そんときはアウルに任せておけ」
「……誰か、遊びにくるんだ」
失礼な。最近は誰かが遊びに来るくらいには人付き合いはするようになったわ。ほとんどが超能力絡みっていうのが悲しいところだが。
つみれに「行ってくる」と告げ、俺は家を出た。
しばらく歩いていると、コンビニの近くで真宵後輩を見つけた。どうやら真宵後輩は俺を待っていたらしく、わき目も振らずにこちらに駆け寄ってくる。
「おはようございます、かしぎ先輩」
「おはよう。こんな朝からどうしたんだ?」
「決まってます。先輩についていこうとしてるんです。先輩を心配しているわけではありませんが、危険な場所に信用のできない人と行かせられません」
お前は俺の親かとツッコミたいところだったが、それをのみ込んで一緒に歩き出す。
「信用できないって柊と東雲さんのことか?」
「柊さんについては、まぁ……そこそこ信用しています」
お、珍しいな。真宵後輩が誰かを信用するなんて。
拗ねるように口を尖らせる真宵後輩を見ながらそんなことを思う。前なら絶対に信用しなかった。線引きをして、自分の領域に踏み込ませないようにしていた。
それがいまではこうやって誰かを信用するようになった。喜ぶべきことだろう。真宵後輩には、もっと普通の女の子らしい生活をしてもらいたい。
戦いなんて忘れて――もっと普通に。
「ですがあの女は信用なりません。自分のためならなんだって切り捨てるような人です。そんな女の近くに先輩を置けません」
「俺も必要ならなんでも切り捨てるぜ?」
「私だってそうです。それ自体が悪いとは言いません。戦いにおいて余計なものを背負うことは無意味ですから。ですが、切り捨てられるものが先輩であるかもしれない可能性があります。そんなのは許せません」
歩きながら真宵後輩は淡々と言う。
なぜか真宵後輩は東雲さんを過剰なまでに嫌っている。毒舌である真宵後輩だが、それでも人を嫌うなんてことは基本的にはないはずだ。
がらんどうである真宵後輩には、好き嫌いを区別する概念すらも欠落していた。あくまでもこれは過去形でいまはそうでないにしろ、それでも好き嫌いは区別していなかったはずなのだ。
黒兎先輩のことも許せなかったと言っていたが、嫌ってはいなかった。
しかし東雲さんのことは心の底から嫌っている。
存在そのものを否定している。
いったいなにが真宵後輩にそうさせるのだろう。こっちでの真宵後輩を知らない俺には、わからなかった。
「ですからついていきます。先輩が切り捨てられる側になるとは思えませんが、もしかしたらということもあり得ますから」
「そのことなんだが」
「なんですか?」
「真宵後輩にはこっちに残っててもらいたいんだ」
俺がそう言うと真宵後輩が驚いたように目を見開いた。
「なぜですか? 私の力は必要ないと言うのですか?」
前に回り込み、すがるような目で俺を見上げてくる。うっすらと、涙さえ浮かんでいるように見えた。
あぁ、やっぱりそうなのか……
「ちげぇよ。俺にはいつでもお前が必要だ。だからこそ残っててもらいたい」
「…………」
「俺たちが京都に行っている間、おそらく『九十九』の誰かがこっちに来るはずだ。狙いは『組織』の能力者や、俺たちに関係のある人間全員だ。ここまで言えばわかるな?」
「私がその全員を守る――ということですか」
「そのとおりだ。理解が早くて助かる」
問題は、真宵後輩がこれを引き受けてくれるかだ。
「わかりました」
「あ、いいのか? 自分で言っといてなんだが、俺たちが戦い終えるまで気を抜けないんだぜ?」
攻める側と違って守る側は相手に合わせなければならない。タイミングがわからない以上、ずっと警戒し続けていなければならないのだ。
真宵後輩だけならまだしも、守る側が複数人いるとすればその難易度はさらに上がる。
「他でもない先輩の頼みを断る理由が見つかりません。それに私にとってこの程度の範囲内の、この程度の人数を守ることなど造作もありません」
さっきまでの弱みを全く感じさせない、芯の通った瞳で真宵後輩は言う。
「先輩が十万の魔族を倒したように、私には首都防衛を成功させた実績があります。勇者の肩書きは伊達ではありませんよ?」
「…………」
「どうしたんですか? なにか不安でも?」
「いーや。なんでもねぇよ」
これはマズイかもしれない。これまでは俺は簡単に考えすぎていたのかもしれない。
なんとかなる。俺なら、勇者として戦った俺ならなんとかできると……そう楽観的に考えすぎていたんだ。
「帰ってきたら話すことがある」
「話すこと、ですか?」
「大事なことだ」
ここは異世界じゃない。俺たちは地球に帰ってきたのだ。異世界にいたときのままじゃ、いられないんだ。
俺は真宵後輩の不思議そうな表情を見ながら思った。
「なんだその暑苦しい格好は」
「あたしだって好きでやってるんじゃねぇよ……」
駅に到着してまず目に入ったのは黒い物体だった。
袖が肩口からなくなっているとはいえ、この真夏日に生地の分厚いロングコートを着ているのはどうなんだろう。見ているだけで暑苦しい。
「この格好が一番『吸血鬼』として馴染むんだよ……。ほら、なんでか知らねぇけど『吸血鬼』が暴走してたときもこれ着てたし」
「荷物としてまとめてくるって考えはなかったのか?」
「その考えは思いつかなかった!」
柊はいまさら思いついたとばかりにロングコートを脱ぎ、持ってきていた鞄に詰め込む。
「あれ? 真宵も行くことになったのか?」
「いえ、私は先輩の見送りに来ただけです」
どの口がそれを言うんだ、どの口が。
「ところで東雲さんはまだ来てないのか? もう時間になるんだが……」
「もう来てるぜ? あそこで寝てる」
そう言って柊が指差した先には、ベンチを独占して大いびきをかいて寝ている東雲さんがいた。
「あの人はなにやってんだ……」
「あたしが来たときからずっとあんなんだったからなぁ」
「迷惑極まりないな。全員揃ったし、行くなら行くぞ」
「一番遅かったのは冬道だけどなー」
うぐっ……それを言われると返す言葉がない。
「叩き殺しましょうか?」
「殺しちゃだめだろ」
「失礼。噛みまみた」
「噛んだってことを言おうとしてまた噛んでんぞ」
口を開けば物騒なことばかり言いやがって。
俺は東雲さんの前まで行くと、手のひらサイズの氷の塊を作る。それをなんの前置きもなく、東雲さんの頭に落とした。
「いったぁ!? なんや、襲撃か!?」
跳び跳ねるように起きた東雲さんは、眠そうな目をしながら周りを見渡して警戒している。
「なんや、かしぎかいな。驚かせんなや」
「だったらこんなところで寝てんじゃねぇよ」
「ちょっと早く来てもうたからな。あんたらが来るまで休憩しとったんや」
「それは悪かったな、遅くなっちまった。何時くらいから待ってたんだ?」
「五時間ぐらい前からやな」
「早すぎるだろ……」
ぐっと体を伸ばした東雲さんはベンチから飛び降りると、真宵後輩に視線をやった。
「なんでこの子がおんねや?」
「見送りだ。それくらいなら別にいいだろ」
「それくらいやったら構へんけどな」
足元に置いてあった紐付きの革袋を背負う。
「ほなら行くで~。なんやかんやで遅うなったわ」
真宵後輩に目を向けることもなく、まるで誰もいないかのように脇を通り抜け、東雲さんは電車に乗り込んでいった。
「やはり気にくわないです」
「落ち着けって。お互い様じゃねぇか」
「あんな人と一緒にしないでください」
「やれやれ……」
ため息をついて、俺は真宵後輩の頭をぽんぽんと叩く。
「じゃあ、行ってくる」
「行ってらっしゃい」
頭から離した手を名残惜しそうに見つめる真宵後輩の視線を振り切り、俺と柊も東雲さんのあとに続く。
向かうは京都。
お土産は阿闍梨餅だ。