4―(13)「決断」
借り物競争に続いて障害物レースを終えた時点で、俺たち紅組と青組との差はほとんどないというくらいにまで迫っていた。
障害物レースで、白鳥が真宵後輩すらもぶっちぎって一位を獲得したのがよかったようだ。見た目通りすばしっこい白鳥は障害物などものともせずに、二位以下にかなりの差をつけていた。
よくやったと誉めてやりたいところではあるが、玉入れのときの減点のことを考えると、あまり手放しに誉めたりできないな。
『いよいよ目玉である競技が始まろうとしていますが、いま現在の結果を見てみると凄まじいですねぇ』
『紅組と青組が残り二つの組に大きな差をつけ、さらにトップ争いをしているな。おそらく次の競技で優勝が決まるはずだ』
『となると、青組がかなり優位になりますねぇ』
『青組が勝つには紅組以外が勝てばいいのだし、逆に紅組が勝つには自分たちが勝つしかない。選択肢が多いと少ないの差だが、これは決定的な差だと言えるだろうな』
司先生と翔無先輩の解説なんて、改めて言われることでもない。俺たちもそんなことはわかっているからだ。
最終競技――それが体育祭で一番の華であり目玉だ。
それに危険な競技でもある。
いまはその準備のために各クラスの準備係りが忙しく動いており、俺たちは待機しているところだ。
「かしぎ、アウルの調子は……」
大声を出しながら、木陰の下で座る俺に近づいてきた両希を見て、俺は人差し指を立てて顔の前に持ってくる。
両希はその意味がわかったようで、途中で口を閉じる。
「よく眠っているな。よほど疲れたんだな」
両希は寝息を立てて眠るアウルを見ながら言う。
「だろ? こいつ朝からあんま調子よくないのにあんなに頑張ったんだ。今日はもう休ませてやれ。あとは俺たちが頑張りゃいい」
「かれきを相手にアウルを欠くのは少々辛いがな。それにB組にはゆかたもいたな。うん、すっかり忘れていた」
「忘れんなよ」
俺もすっかり忘れてたんだけど。いまでも思い出せん。
あれだけキャラの濃い奴を忘れるなんて、相当なことがない限りできないと思うけどな。そもそも忘れる忘れない以前に、覚えてすらいなかったのかもしれない。
「次の競技はかれきの知略よりも、ゆかたの武力の方がもしかしたら強敵かもしれんな」
「それは柊にでも任しとけばいいだろ」
「なら飛縫はどうするんだ?」
「それを考えるのがお前の仕事じゃねぇのかよ」
まぁ、どうせ俺が対処することになるんだろうけどな。
各陣営で輪を作り、次の競技に向けての口論を交わしている姿がある。青組はともかく、もう優勝の可能性がない緑組や白組が熱を帯びているのには少なからず理由がある。
夏休み明けにある学園祭。
各クラスが出し物をするのだが、その場所取りは体育祭の順位がいい方から順に行う。
優勝ができないにしても、まだ二位を獲得するチャンスは残っている。せめて二位になって学園祭でいい場所を獲ろうという魂胆なのだろう。
「ところでかしぎ、ひとつ訊きたいことがあるのだが」
「なんだよ。改まってどうしたんだ」
「その膝の上、どうしたんだ?」
「…………」
両希は俺の膝を枕にして眠るアウルを指差している。
いや、ここまでスルーしてたんだから最後までスルーしててくれねぇかな。
「さっきまでは普通に寝てたんだよ。寝ぼけてたのかなんなのかは知らねぇけど、枕になるもんを探しだしてな」
「それでかしぎの膝を枕にしたということか」
「ご名答。おかげでこの様だ」
眠るアウルの頭を撫でる。風を受けて揺れる髪はとてもさらさらで、気持ちいい触り心地だ。
いつもは凛とした雰囲気のアウルも、眠っているときは年相応の女の子の表情をしている。こいつは肩に力入れすぎなんだよ。もう少し気楽にしててもいいだろうに。
「初めて見たな、膝枕」
「俺も膝枕なんてやったの初めてだっての。やってもらったことはあるけど」
「誰にやってもらったんだ?」
「誰だっていいだろ」
ここで真宵後輩にやってもらったなんて言えば、絶対に暴れだすはずだ。両希はわけのわからない団体に加入してるからな。
借り物競争で真宵後輩の手を握ったときも、あちこちから殺気混じりの視線を感じたし。
「おーい冬道、両希!」
『しっ』
「お、おう。声揃えてどうしたんだ……ってアウル?」
やってきた柊は、いち早く俺の膝を枕にして寝ているアウルに反応を示す。
なにやら複雑そうな表情をしているのは気のせいではないだろう。俺もそこまで鈍くない。
「なんでアウルばっかにそういうことやるんだよー」
「やりたくてやったわけじゃねぇんだけどな」
「真宵だけじゃなくてアウルもあたしの敵かっ!」
びしっとアウルに指を突きつける柊。だから静かにしろって言ってんだろ。
ていうか真宵後輩? なんでそこで真宵後輩の名前が出てくるんだ? もしかして……いや、まさかな。
「さっきからうるさいぞ……」
「ほら、起きちまったじゃねぇか」
アウルは眠そうに目を擦りながら上半身を持ち上げる。
両手を上にして伸びをし、体をほぐしていた。
「ん、なんだかゴツゴツとしたものを頭にしていたような気がしたのだが……」
「人の膝を枕にしといてずいぶんな感想だな」
「私はお前の膝を枕にしていたのか?」
「そうだよ。おかげで痺れちまった」
立ち上がり、痺れた足を伸ばす。
「アウルも起きたことだし、飛縫を倒すために俺たちも作戦会議でもしとくか?」
「いまさらだな。僕たちがやるべきことは決まっている。それはもうみんながわかっているはずだ。あ、かしぎはかれきの相手を頼むぞ」
ほーら予想通りだ。俺は片手を挙げて「任せておけ」と簡単に答えておく。
「詩織はゆかたの相手を……」
「ちょっと待ってくれ」
両希の言葉にアウルが言葉を重ねるように声を発する。
「深崎の相手は私に任せてくれないか?」
「別に構わないが、しかしアウルは体調が優れないのではなかったか? 無理をしなくても、詩織がいるから大丈夫だぞ?」
「案ずるな。いまのいままで寝ていたから体調は万全だ」
それにと、アウルは言葉を続ける。
「私もA組の一員だ。皆が頑張っているのに私だけ休んでいるなどということはできん」
「そっか。ならゆかたはアウルに任せるとして、詩織は遊撃だな。そこらへんにいる奴らを片っ端から潰していってくれ」
「任せとけ!」
胸を張って答える柊に両希が頷いたところで、ちょうど翔無先輩のアナウンスがかかった。
『準備が整いましたので、競技に参加する生徒はいますぐ指定の場所に整列してください。なお、遅れた場合は一秒につき一点減点になるので、注意するように』
それを聞いた俺たちは顔を見合わせたあと、急いで集合場所に向かった。
整列が完了した俺たちは、競技のために必要な手順をこなしていた。頭の上に紙風船を乗せ、手には発泡スチロール性の剣を携えている。
天剣に比べるとリーチも短いし軽すぎるそれは、正直言って使いにくい。
ただ、全力でやるわけでもないので、このくらいでちょうどいいのではないかと思う。
『ただいまより最終競技にして我が校の目玉――「合戦」を行いたいと思いまーす!』
グラウンドに本日最高潮の喝采が響き渡る。思わず耳を塞いでしまいそうになるほどの喝采は、みんながどれほどこの競技を楽しみにしていたかが手にとるようにわかった。
『競技説明をします。まず各組には紙風船と発泡スチロールの剣が渡されていると思います。それを使って競技を行います。
ルールは至って簡単で、その発泡スチロールの剣で相手の頭の上の紙風船を叩きまくるだけです。制限時間は五分で、いかに敵側の紙風船を叩けるかが勝敗を左右します。
あぁそうそう、各組にひとつずつ色の違う紙風船が渡されているよねぇ? それは大将の証で、それが叩かれた時点でそれまで叩いた数の差に関係なく、叩かれた組が負けになるので要注意だよ』
紅組の大将は両希だから、色の違う紙風船は両希がつけている。
周りに何人かの生徒で両希を守るように配置している。
戦力的な差で勝つことができないのであれば、ちまちま点数を稼ぐのではなく大将を倒して勝つしかない。たとえ戦力が同じくらいだとしても、それが最も有効的な手段だ。
おそらく開始早々から両希を狙い撃ちしてくるだろう。
俺たちの役目は、割り当てられた相手を撃破することと、そこにたどり着くまでに少しでも戦力を削ることだ。
「準備はいいか?」
「ばっちりだぜ」
「あと一戦くらいなら問題ない」
静かながらも、それでいて台風のような二人の闘争心が伝わってくる。
そして――体育祭最後の競技の幕が切って落とされた。
◇
(かれきっち、どうしたんだろ?)
『合戦』が始まる少し前に戻る。
準備を整え、整列していた深崎は飛縫の浮かない顔を思い出していた。
戦力的に劣りのある青組が勝つにはよく作戦を練り、戦力差を覆す必要がある。飛縫にはそのための案をだしてもらおうと思っていたのだが、なにやら思い詰めたような顔をしていた。
一年生のときからの付き合いである深崎には、なんとなくだがそれがわかってしまった。
どうしたのかと訊いてみても、頭を振るだけでなにも教えてくれない。けれど、それに藍霧が関わっているだろうことだけは飛縫の態度を見てわかった。
「深崎」
「およ? かれきっちじゃん。どうしたの?」
「お前にはウィリアムズの相手をしてもらいたいけど」
「おーけーおーけー。そんなの全然おーけーだよ。願ったり叶ったりだね」
それを聞いて深崎はより一層のやる気を見せる。
騎馬戦では負けてしまったものの、そう何回も負けてやるつもりはない。最初から対等な条件下で勝手こそ、汚名の返上ができるというものだ。
「それでかれきっちはどうする? 大将やるんでしょ?」
「それについては考えがある。まぁ、わたしが大将をやると考えていいけど」
「じゃあ、あとは冬道と詩織っちはどうしようか。うちの戦力的に考えると、あの二人を抑えられるような奴なんていないし」
いままで勝ち上がれたのは飛縫がいたからだ。
飛縫がいなければ、いまごろは最下位の道を進んでいたかもしれない。
「大丈夫。柊の方はたぶん遊撃に回ると思う」
「冬道は?」
「間違いなくわたし狙い。でもわたしを狙った時点で大将を潰すことはできなくなるから、抑えたも当然だけど」
「大将を潰せなくなるって、どこからそのすごい自信が沸き出てくるのか不思議さ~」
間延びした話し方で深崎は疑いの眼差しを向ける。けれど、信じていないわけではない。
「だったらかれきっちの考えに任せてみよっかな。あたしはウィリアムズを倒す。そいでもって詩織っちを倒す。さらに冬道を倒して、優勝ゲットさ」
「頼もしい限りだけど」
飛縫の称賛に深崎は後ろ頭を押さえながら「まーねー」と、柄にもなく照れたように言う。
「でさ、かれきっち、ひとつだけ訊いていい?」
「どうぞ」
「なんでそんなに思い詰めたような表情してるの? 昨日までは全然普通だったのに今日の朝、学校来たらそんな感じだったから気になっちゃって」
指摘されるまで気がつかなかったとでも言わんばかりに、飛縫は反射的に顔に触れていた。
だが、そんな表情をしていた理由には心当たりがある。
「深崎が気にすることじゃない。大したことじゃないから、心配しなくても大丈夫だけど」
これは個人的な問題だ。深崎に打ち明けるべきことではないし、第一に誰かに話したい内容ではないのだ。
(言われなくたって……わかってる)
穏やかな水面下に滴を落としたかのように、飛縫の心は揺れ動いていた。突きつけられた、これ以上にはない事実に、動揺を隠しきることができない。
どうするべきなのか。いったい、どうすればいいのか。
飛縫のなかで答えが出ないまま、最終競技が始まった。
時計の針は、今朝に飛縫と藍霧が冬道の部屋にいたときまで巻き戻される。
冬道がこっそりと部屋を出ていくのを横目で見ていた藍霧は、ドアが閉まったことを確認するといままでの口論を中断させた。
「先輩もいなくなりましたし、本題に入るとしましょう」
そんな切り出し方だった。
さっきまでとはまるで雰囲気が違うことに、飛縫は言い知れない恐怖を感じていた。
底冷えするような無感動な瞳。立っているだけで呑まれてしまいそうな息苦しい威圧に耐えきれず、飛縫は後ずさった。頬から顎を伝い、汗が滴り落ちる。いますぐにでも逃げ出したい衝動を抑え、飛縫は藍霧を睨む。
「わたしはお前と話すことなんてなにもないけど」
「あなたになくとも、私にはあるんですよ。改変を望みながらも不変を望む、矛盾を抱いた存在であるあなたに」
「なにを言っている……?」
「わかりませんか? そうでしょうね。わからないからこそ、あなたはこうして先輩にまとわりついている。単刀直入に言いますと、不愉快ですからそういうの、やめてください」
藍霧の視線が体を貫く。これが心臓を握り潰される感覚なのではないかと、飛縫は半ば本気で錯覚した。
それでも怯むわけにはいかないと、本能が悟った。
「まとわりついている覚えはない。そう言うお前こそ、あいつにまとわりついているんじゃないのか?」
「面白いこと言いますね。否定はしませんよ。なら言い方を変えましょうか。あなたは先輩に寄生しているだけの害虫です」
もはや飛縫でさえ絶句してしまった。
なんなんだこいつは。遠慮というものがまるでない。
「どうしてこんなことを言われてるか、わからないみたいですね。あなたがわかるはずもありません」
「なら、お前になにがわかる」
「話を聞いただけでわかりますよ。先輩は優しいですから言わないかもしれませんが、私は目障りなものを消すためならなんでもします」
「だから、なにが言いたい」
虚勢を張るのが精一杯だ。年下で身長も低い、いまにでも押し倒せそうな少女を前にしてこの有り様だ。
「最初に言ったでしょう? あなたは改変を望みながらも、不変を望む矛盾している存在だと。あなたは変わろうとしながらも、変わることをしない」
「そんなことない。わたしは、変わろうと……」
「していないですよね?」
どちらかと言えば静か呟きだった。
しかし、飛縫の言葉を掻き消すだけの強さがある。
「していないでしょう? 先輩から聞きましたよ。麻雀のプロに誘われたらしいですね。すごいじゃないですか」
藍霧の思いがけない称賛には素直に驚かざるをえない。
「ですが、どうして誘いを受けなかったのですか?」
「…………」
「いいチャンスだったじゃないですか。あなたは麻雀が得意なのでしょう? プロになるなんてほんの一握りの人間だけです。変わるには十分なチャンスだったでしょう?」
藍霧の言い分はもっともだ。自分を変えたいなら、麻雀でプロになることができれば劇的な変化になるだろう。
だが、飛縫はそれを断った。それはどうしてなのか。そんなもの、答えは出ている。
「あなたは変わることで孤独になることが怖いんです。ですからあなたは、プロになるチャンスを潰した――違いますか?」
ぎりっ――と飛縫の歯が軋む音が口から漏れた。
「ですから先輩につきまとった。改変をしながらも孤独とならなかった先輩にあなたは嫉妬したんです」
「わかってる!」
藍霧と壁を挟むように、飛縫は迫る。
「そんなこと、わかってる……」
「わかっているなら、なぜ前に進まなかったんですか?」
淡々と機械的に藍霧は言う。いまの藍霧にさっきまでの威圧は感じない。興味を失ったものでも見るように、つまらなさそうにしていた。
「お前にはわからないんだ! 孤独がどれほど寂しいか! わたしは、あんな孤独にはもうなりたくない!」
いつもの飛縫からは、声を荒げて叫ぶ様子は想像もできないだろう。肩を震わせ、怒りを剥き出しにしている。
螺の外れた突飛な思考のせいで、飛縫はいつでもひとりだった。気味悪がられ、あるいは畏怖された。
それが高校に入学してようやくなくなった。
そんな生活を手放してまで自分を変えたくはない。
「自分を変える方法なんて探せばいくらでもある。わたしは、わたしが決めた道を行く」
「そうですか。勝手にしてください」
藍霧は、いつまでも覆い被さるように迫っていた飛縫を押し退ける。あまりの力に飛縫はたたらを踏む。
この小柄な体のどこからこんな力が出るというのか。
「自分の道を行く――聞こえだけはいいかもしれませんが、私にはただの逃げるための口実にしか聞こえません」
「逃げてなんかない」
「私にはと言ったでしょう? もっとも、そう言った時点で逃げていると自覚しているみたいですが」
「…………」
そうだ。こんなのは逃げだというのはわかっている。
言われるまでもなく、自分は逃げているのだ。
『真宵後輩、飛縫! 俺たちはもう行くけど、遅刻しないようにちゃんと時間見ろよ!』
『冬道急げ! 間に合わなくなる!』
『わかってるっての!』
慌ただしく冬道とアウルが家を飛び出していく。
部屋の窓からそれを見ていた藍霧は、もう用はないとばかりにドアに手をかける。
「ああ、そうでした。ひとつ言い忘れていました」
ドアを開け、藍霧は背を向けたまま飛縫に言う。
「私が孤独を知らないような言い方をしていましたが、必ずしもあなただけが知っているわけではありません」
飛縫が憎々しげに藍霧の背中を睨み付ける。
「悲劇のヒロインを語りたいなら、よそでやれ」
有無を言わせない絶対の言葉は、熱風となって飛縫の肌を焼いた。
この少女にだけは勝てる気がしない。いや、勝てる勝てないの前に戦うことが根本的に間違っているのだ。
それでは彼女はまるで……
「魔王」
その呟きは、元勇者であった彼女には皮肉でしかなかったであろうことは、飛縫は知る由もない。
発泡スチロールの剣を構えた生徒たちが自陣に向けて一斉に押し寄せてくる。仕掛けを済ませた飛縫は、大将であるにも関わらず戦場へと身を投じた。
飛縫らしからぬ強引な動きで敵を叩き潰し、しかし飛縫らしい奇抜な動きで襲いかかる斬線を避ける。
動きと動きの関節に地帯はない。完成されたひとつの舞のように、世界を観客にしたように舞狂っている。それは美しくも儚げで――そして脆そうだった。
上段から振り下ろされた剣が紙風船を叩き潰す。どれだけ力を込めても大怪我を負わせることがないためか、一撃一撃に手加減がない。
思考の片隅に残る今朝のことを払拭するように、飛縫は剣舞する。
目線の先では深崎がアウルと激戦を繰り広げている。少し視点ずらしてみれば、そこでは柊が次々に青組の生徒を撃破していた。
だが、それに負けないくらいに飛縫も倒している。
相手の動きなんて手にとるようにわかる。わざわざ考えるまでもない。動き始めの筋肉のわずかな動き、さらに軸足の向きさえ見れば大抵のことには対処ができる。
でも、あの少女にはそれが通じない。そんな相手は生まれてから初めてのことだった。
初めてであるがゆえに困惑し、恐怖した。
(プロの世界には、こんな相手がごろごろいる……?)
もしそうなのだとしたら――とても楽しそうだ。
孤独になるのはもう嫌だ。だがそれとは対照的に、そんな相手と麻雀を打ちたいという自分がいるのもまた事実だ。
(戦ってみたい。まだ見ぬ強敵たちと――っ!)
後ろから迫る言い知れない感覚に、無意識のうちに剣を薙ぎ払っていた。
同時に腕にかすかな衝撃が走る。これがもし本物の剣であれば、痺れて片腕が使いものにならなくなっていただろう。
「不意打ちなんてずいぶん卑怯なことをする」
「卑怯? 違うね。戦いに卑怯もくそもねぇんだよ」
冬道は剣の軌道を手首をすばやく動かすことで修正させ、振り下ろしから振り上げに変化させる。状態を後ろに反らすことでそれをかわし、反撃の一閃を胴目掛けて薙ぐ。剣が触れるよりも後ろに跳んで、冬道は距離を置く。
飛縫はすかさず距離を縮める。開いた距離をたったの一歩で埋め、剣を振り下ろす。
その刹那、胴に衝撃が駆けた。一瞬だけ息が詰まる。
『合戦』のルールはあくまでも頭の紙風船が割られない限り負けにはならない。つまりいくら打ち込んだとしても問題はない。それはわかっているのだ。
だが、そこにいたはずの冬道の姿がどこにもない。
「リーチ――だな」
「わたしの土俵で戦うつもり? 命知らずもいいところ」
「さっきの役満を返済しないといけないからな」
いきなりだ。なんの前触れもなく、冬道の右腕が跳ね上がってきた。限りなく挙動のなかったその一撃に飛縫は硬直するも、すぐに体を退く。
「……っ!」
だが、冬道の右手には剣は握られていない。振り上がってきた右手はただただ素通りしていく。
ならば剣はどこにあるのか。答えはすぐに見つかった。
素通りしたはずの右手は、宙にある剣に伸びていく。
冬道は飛縫の胴を穿ったその瞬間、こうなることを予測して剣を放り投げていたのだ。弧を描きながら、剣は冬道の右手に納まる。
反応が間に合わない。剣を握った右手は、今度こそ紙風船を叩き潰した。
冬道は勝ちを確信した。だが、飛縫の表情にはしてやったりと言わんばかりの笑みが貼り付けられている。
「ちっ……っ!」
舌打ちしながら冬道は飛び退く。まだ終わっていない。このくらいで飛縫に勝てるはずがなかったことに、冬道はいまさらながら再度認識した。
たしかに飛縫の頭の上にある紙風船は叩き潰した。しかし、それは大将の証である色の違う紙風船ではなかった。
お互いの大将は競技が始まる前に伝えられることになっている。途中での変更は認められていないため、大将が変わることはない。
なのに、飛縫がつけていた紙風船は大将用のものではなかった。
「大将を変えることはできない。だけど、それを必ずしも大将がつけていろというルールはなかったけど」
「じゃあ他のやつが大将用の紙風船をつけてるのか?」
「それだとルール違反になる可能性がある。だからわたしの紙風船は、別の場所にある」
こんな屁理屈めいたことをやっている時点でルール違反のようなものだが、司会および解説の二人がそれを認めるはずがない。
楽しいという理由だけで飛縫の奇行は容認されている。
正式なルール以外ならば、今回に限ってはどんなことでも通用するようになってしまっているのだ。
「ならお前を倒すためには、この会場のどこかにある大将用の紙風船を探さないといけないわけだ……」
冬道は目を覆うように手を置き、空を仰いだ。
「おもしれぇ。だったらこっからは――全力だ」
目を見開いた冬道の瞳は真紅に染まっていた。
その姿はどことなく今朝の藍霧と重なるものがある。
腰を低く沈め、地につけた両足に力が籠る。限界まで溜め込まれた力が一気に爆発し、閃光を錯覚させるような速さで戦場を疾駆する。
「く……っ!」
飛縫は即座に踵を返して追いかける。冬道は大将用の紙風船がどこにあるかわかっているかのように、真っ直ぐにその場所に向かっていく。
距離は開いていくばかりだ。どれだけ頑張っても、冬道に追い付くことができずにいる。
まるで――いまの冬道と自分のようだ。
冬道は変わった。やるべきことを見つけ、前に足を踏み出した。だからこそ冬道は変わったのだろう。
だけど、飛縫はどうだろう。目先のことに囚われて、前に進めずにいる。
それが悪いことではない。けれど飛縫は変わりたいと思っている。ならば――ここで一歩を踏み出さずして、いったいいつ踏み出すというのだろうか。
「冬道っ!」
ようやく、名前が呼べた。
藍霧が言った通り、飛縫は冬道に嫉妬していたのだ。
だから名前を呼ぶことができなかった。躊躇ってしまったのだ。こんな自分が、呼んでもいいものなのかと。
だが、もうそんな憂いは必要はない――前に進むと、決めたのだから。
「お前だけには、負けない!」
「いい顔するようになったじゃねぇか。なら、俺もお前の全力に応えよう」
冬道は振り返り、剣を構える。
どこにも隙はない。けれど止まる気はなかった。
いまは、とにかく前へ――!
飛縫の突き出された剣を、腕を弾くことで無理やり打ち上げる。剣を手離した飛縫は前のめりに体勢を崩した。
剣を腰の脇まで下げる。居合いの構えだ。
刹那、風が飛縫の胴を撫でた。力強くも暖かい、そんな優しい風に肩をすくめるしかなかった。
「あーあ……わたしの負け、か」
負けたことは悔しい。だけど清々しくもあった。全力で取り組み、それでも負けてしまったのは力が足りなかったからだ。
きっとこれからは、そんな想いを何回もするのだろう。
だからこれはその初めの一歩なのだ。
飛縫はそんなことを思いながら、意識を闇のなかに落としていった。