4―(7)「嶺上開花」
「おい嬢ちゃん、いかさましてんじゃねぇだろうな!」
ジャンヌさんから麻雀を教えてもらうこと一時間。学校が終わってからここに来たこともあってか、空は漆黒の闇に無数の光が散りばめられていた。
教え方が上手く、俺が麻雀のルールの大半を理解するのには時間がかからなかった。暇そうにしていた人たちに試し打ちを頼み、後ろからジャンヌさんにアドバイスを受けながら東風戦をやってみた。
やってみてわかったことがある。四連続大三元がどれほど難しく、それをやってのける飛縫がどれだけ異常であるかが。
まだまだ素人の域は抜けないにしろ、常連の優しさに触れながら、ある程度は打てるようになった。 そんなとき、飛縫がいた雀卓を囲うひとりが怒鳴った。いまにも殴りかかりそうな形相で、飛縫を睨み付けている。だが当の飛縫は動じた様子はない。まるでいつものことだという風な態度だ。
「あらら、また始まったみたいね~」
ジャンヌさんは頬杖をつき、楽しそうに口元を緩めて飛縫を見ていた。
「楽しそうにしてる場合ですか。あれ、かなり興奮してるみたいですけど」
外見は四十代後半くらいだろう。けれどそれに不相応なほどに鍛え上げられた筋肉は、シャツの上からでもわかるほどのものだった。そんな男が目を血走らせ、興奮して飛縫を睨み付けている。
のんきに構えているものの、ひとつ間違えば大惨事になりかねない。
「大したことないわよ。あんな見せかけだけの筋肉じゃどうってことないわ」
「そういうことを言いたいんじゃないんですけどね」
というか、それってどういう意味なんだ?
「あれって大丈夫なんですか? なにか起きる前に止めないと……」
俺は席から立ち上がり、動こうとするが、それはジャンヌさんによって制される。
「暴力はだめよ。それはあくまでも最終手段だからね」
「だったらどうするって言うんですか? あの様子じゃ、話し合いで決着をつけるのは難しいと思いますけど」
「話し合う気なんてさらさらないわ」
「は?」
「ねぇ、かしぎくん。君のいるここって、どこかしら?」
「…………」
なるほど、そういうことね。麻雀で生まれた問題は、麻雀で解決しろってことか。
「でも飛縫にやらせたら意味ないでしょう」
あの男は飛縫の異常なまでの引きの強さがいかさまじゃないかと思い、激昂している。麻雀の問題は麻雀で解決しろっていうが、飛縫に打たせたらまた同じ結果にしかならないはずだ。
「それもそうね」
「そうねって……。ならどうするつもりですか?」
「決まってるわ」
ジャンヌさんは頬杖をついていない逆の手で、俺を指差しながら言う。
「君が打てばいいのよ」
「……はい?」
俺が、打つ? ああ、なるほど。飛縫の問題を解決するために、飛縫の代わりに打てってことか。なるほどなるほど……って、
「無理に決まってるでしょう」
ルールを覚えたばっかりの俺が、飛縫の代わりをやれなんて無茶を通りすぎて無謀だ。いままで後衛だったのに、いきなり前衛で戦えって言ってるようなものだ。
「問題ないわ。実際に打つのはかしぎくんでも、実質的に打つのはかれきちゃんだから」
「あ? それってどういう……」
「だから、牌を直接雀卓に打つのは君で、どの牌を切るか指示するのはかれきちゃんってこと」
そうすればいかさまをしてないって証明になるからね。ジャンヌさんはそう言って、指で手元の牌を弾いた。
詰まれていた牌にぶつかり、こぼれた牌がちょうど並べられた牌の端に落ちる。
それは偶然か、はたまた必然だったのか。並べられた牌は、ひとつの役を示していた。
「どう? 手っ取り早く済ませるなら、これが一番おすすめだけど?」
「……わかりましたよ。やってやりますよ」
「それでよし。ちょっとちょっと~! なにやってるの」
ジャンヌさんはわざとらしく声を上げながら、雀卓に近づいていく。それに俺も続く。
「ジャンヌ」
「わかってるわよ。ねぇ、あなた。かれきちゃんがいかさましてるんじゃないかって、疑ってるんでしょ?」
ジャンヌさんは飛縫を庇うように前に立つ。
「あたりめぇだろ。連続で大三元、国士無双、大四喜、九蓮宝燈で和了るのなんざ、いかさましてる以外、あり得ねぇだろ」
麻雀を覚えたからこそわかることだが、確かにこれはいかさまをしてるとしか思えない。比較的やりやすい役満の国士無双はさておき、九蓮宝燈なんて簡単に揃えられるようなものじゃない。
「そうね。だけど彼女、いつもこうなのよ? 誰も彼女がいかさまなんてしてないって知ってるし」
「んなこと知るか! 揃いも揃っていかさまに加担してんじゃねぇのか!」
「あらやだ。私たちも疑う気?」
ジャンヌさんの後ろに立っているから表情はわからないが、たぶん笑ってるんだろう。背中を見るだけで楽しそうな雰囲気が伝わってくる。
「なら、彼がかれきちゃんの代わりに打つわ」
「そのガキが?」
「ええ。それでいままでと同じなら、かれきちゃんがいかさまをしてないって証明になるでしょう? ちなみに、彼はいまさっき麻雀を覚えたばかりの素人で、いかさまなんてできないわ」
ガキと言われたことに苛立ち、毒を吐いてしまいそうになるがそれを呑み下し、一歩だけ前に出る。睨むように見据えて俺は言う。
「雑魚が意気がるなよ」
「あらら」
どうやら呑み下したと感じたのは錯覚だったらしく、思いきり毒を吐いてしまった。
「意気がるならそれなりの結果を見せろよ。大した実力もねぇのに、いかさまがどうのこうの言うんじゃねぇ」
「てめえ……」
額の血管が浮かび上がる。見た目のとおり沸点がかなり低いらしい。
「はいはい。喧嘩をするなら麻雀で喧嘩なさい。あなたとかしぎくんと私と……あとは適当にもうひとり、席に着いて。さぁ――始めましょ?」
その刹那、暖かい風が頬を撫でた。風が吹くはずのないこの部屋で、たしかに感じた。それは俺だけでなく、飛縫も感じたのだろう。わずかに目を見開き、ジャンヌさんを見つめている。
席につき、全自動麻雀卓から吐き出された牌を手元に持ってきて、それを打ちやすいように並べ直す。
「……っ!」
俺はそこで驚愕する。
「おいおい……お前、マジでいかさまじんじゃねぇよな」
「全自動やったのにどこにいかさまできる余地がある。だいたい、手元に持ってきたのはお前のはずだけど」
「あぁ、そうだったな」
わかっていたけど、聞かずにはいられない。
手元にある牌は一巡目から国士牌。しかも、すでにリーチがかけられる手牌だ。これじゃいかさましてるんじゃないかって言われても仕方ない。
親はジャンヌさんで俺は北。つまり俺が親になるのは東場の最後ということになる。
「あ、言っておくけどこれは東風戦じゃなくて半荘でやるから。かしぎくんは初めてになるけど、まぁ気負いしないでがんばって」
牌を切りながら、ジャンヌさんは言う。
「別に気負いなんかしませんよ。――リーチ」
他の二人が牌を捨てたことを確認すると、俺は叩きつけるように牌を切る。
ジャンヌさんの楽しげな含み笑いが、嫌に胸に突っかかるようだった。
「ツモ。悪いわね~、また和了っちゃって」
リーチに使った点棒と一緒に、親のせいで多く取られる点棒がジャンヌさんに吸い込まれていく。これでいったい何回目だ。
一番最初の対局、リーチをかけたはいいがすぐにジャンヌさんに和了られ、国士無双は不発に終わった。その後もリーチをかけるがとことん和了り牌に見放され、現在、ぶっちぎりの最下位を疾走中だった。
「東場はこれで終わりね。かしぎくんはまだ慣れてないだろうし、五分くらい休憩してから、残りの半分を打ちましょう」
ジャンヌさんは立ち上がり、俺と飛縫の肩を叩いて厨房に入っていった。
「悪いな。全然役に立ってねぇや」
「そんなことないけど。他人に指示して打ってもらうなんて初めてだから、まだ上手く感覚が掴めてないだけ」
「……そうなのか?」
「そう言ってるけど。それに、もう準備運動は終わり」
飛縫はそう言って、まだ詰まれていない牌のひとつを指で宙に弾く。弾かれた牌は宙で螺旋を描く。
「ここからは、わたしの咲かせる花の独壇場だけど」
手元に戻ってきた牌を、思いきり雀卓に叩きつけた。
「大丈夫。ここからはジャンヌにも和了らせない。この勝負だけは――負けられない」
あの飛縫が、何事にも興味を示さない飛縫がそう言った。俺は自分の耳を疑ってしまった。まさか、飛縫が勝負にこだわるなんてな。
「お前、変わったな」
「えっ……?」
「前ならそんな風に勝負にこだわったりしなかったろ? いまのお前、いい感じじゃん」
俺は右手を飛縫に突き出す。
「いいぜ。勝とうじゃねぇか。お前がいかさましてないってことを、お前の咲かせた花で思い知らせてやれ」
「そんなの、当たり前だけど」
こつんと、飛縫は俺の突き出した右手に自分の右手をぶつけてくる。
「あら、仲がいいのね二人とも。お邪魔だったかしら?」
「そんなことないですよ」
ちょうど戻ってきたジャンヌさんの言葉に、俺はそう答える。
「ジャンヌ、お前はわたしの無実を証明してくれるんじゃなかった?」
「ん? そんなこと言ってないわよ。ただ一緒に打つって言っただけよ?」
「そんなのへりくつ」
「違うわよ。かれきちゃんが勝手に勘違いしただけじゃない。私は、手加減なんてするつもりは全然ないわ」
「…………」
飛縫は無言でジャンヌさんを睨むように見る。だがやがて、口の端を凄惨に吊り上げて――笑う。
「それでいい。せいぜい全力で打て。それでも、わたしは負けないけど」
やれやれ。飛縫がそこまで言ったんだ。俺も負けてられないな。
誰が言うわけでなく、全員が自然に雀卓の周りに座る。
放出された牌を、手元に揃えた。
◇
時間が止まったような静寂が流れる。存在するのは牌を打つ音だけだ。
南場二局目。ジャンヌ、桐島舞の親番は飛縫の仕返しとばかりの一手により簡単に流された。さらに、舞の手牌はいままでになく悪いものだ。まるで飛縫の意思がそうしたように、求めた牌が入らない。
舞はこれに覚えがあった。
飛縫がここに訪れ、一番最初に打った対局がそれだ。
(四連続大三元……。懐かしいわねぇ。今度はなにを見せてくれるのかしら)
だが四連続大三元が、飛縫の異常性を垣間見る程度でしかないことを舞は知っている。たかが四連続大三元くらいならやってのけて当然なのだ。
「カン」
冬道が舞の捨てた牌でカンする。雀卓に四枚を寄せると、不足した牌を補充するために嶺上牌を引く。
(かれきちゃんがここで本領を発揮するならきっと……)
ここで――なにかが起こる。
「ツモ。嶺上開花」
(やっぱり。ついに来たわね、かれきちゃんの嶺上開花)
この麻雀荘では責任払いのルールを適応している。それはよく嶺上開花で和了がる飛縫に振り込まないようにするためでもある。けれど、それはあまり意味がない。大明槓ではなく、暗槓をするからだ。
いまは責任払いが適応され、舞がひとりで点数を払うことになる。ただ、点数は大したことなく、痛打には至らない。
舞はすっと目を閉じる。
(私もそろそろ――全力で打とうかしら)
ゆっくりと見開かれた目からは、雷さえほとばしりそうだった。麻雀をやる者の威圧が、舞から放たれている。
自分の全力程度でつまずくようでは、いかさまをしてないことの証明をするに足りない。牌に愛されているのであれば、圧倒的な実力差で捻り潰すべきだ。
それに、話さなければならないこともある。
(かれきちゃんが勝てたら、話すことにしましょうか)
理牌された牌に目を落とし、どうしようかを考える。
もちろんここからは全力だ。一切の私情は持ち込まない。徹底的に捻り潰す。もう二度と麻雀をやりたいとは思えないほどに、八つ裂きにする。
嵐の前の静けさは、もう去りすぎた。
『……っ!』
舞の殺気ともいえる、突き刺すような威圧を冬道と飛縫は感じた。
これが麻雀だというのか。つい先ほどまで麻雀に関わる気のなかった冬道は、戦いにも似た空気をにわかに信じられずにいた。気を抜けば殺される。そんな感覚は、まだ記憶に新しい。
異世界の戦いとも、地球に帰ってきてからの戦いとも違う。麻雀だけの独自の感覚。
体育祭の練習を終えて引いていたはずの汗が頬を伝う。まさか舞の威圧に呑まれているとでもいうのか? 冬道は考え、切り捨てる。
たとえそうだとしても関係ない。自分にできることは飛縫の手となり、牌を打つことだけ。それしかできない。
舞が冬道の敵となり得ても、冬道が舞の敵になることはない。
舞が見ているのはただひとり、飛縫だけだ。
「…………」
飛縫が小さく冬道に指示を出す。
どれが最善で、どれが最良なのか。冬道にはそれはわからない。見ている景色がまるで違うのだ。進もうとしている道が違う。彼女は、自分だけの道を歩んでいる。
「ポン。いただき~」
さっきからペースが乱される。東場四局は和了れないながらも、自分のペースで打つことができていた。
しかしこの対局に入ってから妙にペースが乱されるのだ。まるで飛縫に『カン』をさせないため、場を支配しているかのようだ。
舞が牌を引く。口元が不敵に歪んだ。
「――カン」
冬道の肩に添えられた飛縫の手に力が込められる。
なにも『カン』は飛縫だけの専売特許というわけではない。麻雀をやるならばその可能性が必ず存在する。ならばいまここで舞がカンをしたとしても不思議ではない。
明槓し、嶺上牌に手が伸ばされる。
(……流れからして、これはジャンヌの和了り牌じゃないはずだけど。なのにどうしてジャンヌはカンを?)
飛縫が嶺上牌やカンの流れがわかるように、舞は牌の流れを読むことができる。故にここでカンをする必要がないことくらいわかっているはずだ。なのに舞はカンをした。それにはどんな意味があるのだろうか。
そんなのは明白だ。この嶺上牌が飛縫の和了り牌だったのだ。
「やっぱり難しいわね、嶺上開花で和了るなんて」
「お前もその牌でできないのはわかってたはずだけど」
「私はそこまでわからないわよ。せいぜい、この牌が私には必要のないものだってくらいしかわからないわ」
「ならどうして」
「簡単なことよ。かれきちゃんの嶺上開花を潰せるときに潰すためよ。ほら、カンしてこれを引けば和了っていたでしょう?」
自分の手牌に加えることなく切った嶺上牌は、まさしく和了るためのものだった。
「言っておくけど、やらせないわよ、嶺上開花」「それができるかは別として、言うのだけは自由だけど」
「そうかもしれないけど私、こういった場面でできなかったことってないのよね。だから今回も有言実行させてもらうわ」
「できるのなら、止めてみろ――カン」
捨てられた牌を見逃すことなく、飛縫はカンをかける。一度は捨てられた嶺上牌だが、感じる流れはまだ変わっていない。ならば――引けるはずだ。
「ツモ。嶺上開花」
「あれま、言ったそばからやらせちゃったみたいね。私の腕も錆びたのかしら?」
その言葉には、その言葉たる感情が込められていないように思えた。いや、実際になにも思っていないのだろう。減った点数は、やはり痛打にはならない。
飛縫をいかさま呼ばわりした男はといえば、自分が蚊帳の外であることに腹を立て、さらに連続で嶺上開花で和了ったことでさらに拍車をかけた。
すでに男など眼中になかった。見えているのは強大な壁だ。それを乗り越えた先にはいったいどんな景色が広がっているのだろう。
(知りたい。それを知ればきっと……っ!)
わたしは変わることができる。
自分の手となって打つ彼が変われたように、これがきっかけで変われる気がする。確証なんてない。けれどここで変わらなければ、もう一生変われないままかもしれない。
そんなのは――絶対に嫌だ。
「これでオーラスね」
「…………」
超える。己の限界を。そして見つけるのだ――この道の先にある頂を。
「勝つぜ、飛縫」
「そんなの、当たり前だけど」
並べられた牌を見、すぐさま捨てる牌を指示する。もう勝つためのイメージはできている。間違いなく舞は妨害してくるだろう。あとはそれを掻い潜り、より早くイメージにたどり着けるかどうかだ。
巡ってきた牌はいままでにない最高の牌だ。それは舞も同じのはず。条件は対等。ならばなにが勝負の決め手になるのか。そんなもの――決まっている。
『どちらがより、牌に愛されているか』
二人の視線が交錯する。雷が弾ける。指からほとばしる光は、まさに牌に愛された者のみが発するものだ。
(……っ!)
次に自分に渡ってくる牌。それに異様な威圧を感じた。あの牌を引けば、舞を一気に叩き落とすことができる。直感した。魂が振動した。
しかし、それに舞が気づかぬはずもない。
「ポン。さすがにこれだけ大きかったら気づくわよ」
このポンが舞にとって意味のないことだったのは明白だ。けれど、そのせいで飛縫に回るはずだった牌は他者に渡ってしまった。
「…………」
唇を噛む。なにを焦っている。これくらいなら予想済みだったではないか。それでも悔しがらずにはいられない。他ではない、冬道が協力してくれているというのに。
「焦んなよ。俺はいつだって、お前の味方なんだぜ? いくらでも支えてやる。いくらでも踏み台になってやる。だから代わりに見せろよな」
「見せろって……なにを?」
「決まってんだろ」
冬道は言う。
「お前の咲かせる、大輪の花をさ」
まだ飛縫は指示を出していない。だというのに冬道は牌を切った。そしてそれは飛縫の描くイメージを外れ、さらなる道を示した。
いける。このままいけば、舞を出し抜き、未知なる領域へと踏みいることができる。
その瞬間、目つきが変わる。彼女らしからぬ気合いに満ちた瞳から、いつもの気だるく人生に絶望したようなダウナーな瞳に。
(まだ終わってないみたいね~。それほど大きいのは感じないけど、かれきちゃんのあの目……。これはちょっと危ないかも)
さしもの舞も、この瞳の飛縫には警戒を高める。そもそも舞が飛縫のペースを乱すことができていたのは、彼女が知らず知らずのうちに気合いに満ちていたからだ。
気合いの抜けた飛縫は、通常運転の奇妙で奇怪な奇人だ。予想など不可能。なにせそれが――それだけが彼女の異常性だ。
舞が牌を投げるように雀卓に叩きつける。
(……来た!)
ようやく訪れた起死回生のチャンス。掴まないわけがない。これで終わらせる。
枯木に花を咲かせるために。
「カン」
(あらら)
飛縫の奇人ぶりには慣れていたはずだ。安全圏などどこにもない。全てが彼女の射程圏だ。和了らせないためには、他人を蹴落とすしかなかったはずなのに。
「もうひとつ、カン」
(――っ!? 発をカン……!)
嶺上牌を加え、さらにカンする。まだ和了らない。勝つためには――いや、こいつを凌駕するにはまだ足りない。
「さらに――カン」
飛縫は中を雀卓の端に寄せる。
「だめ押しの――カン」
(白までカン……!)
舞は目を見開く。
飛縫の手が嶺上牌へと伸ばされる。もしも飛縫が舞以上に牌に愛されているのだとすれば、他者を寄せ付けない究極の運の持ち主であるならば、
(ここで――奇跡を起こすはず)
誰もが息を呑んだ。彼の――彼女の右手に視線が集まる。その一手にどれだけの可能性が込められていたことだろうか。それは誰にもわからない。
ただ言えるのは、彼女の行動は予測不可能ということだけだ。
『ツモ。嶺上開花っ!』
麻雀荘に四度目の花が咲き誇った。
◇
「大三元、四槓子、字一色の大役満直撃……ね。お見事だわ、かれきちゃん」
ジャンヌさんは天井を見上げながら、純粋な称賛を口にしていた。あくまでも嶺上開花にこだわった飛縫は、最後にとんでもないものを叩きつけてくれやがった。
実際に麻雀を打っていた俺にはなにがなんだかわからなかった。でも、これが飛縫の全力であることは間違いなさそうだ。
「完敗ね。あれなら和了られても大丈夫だと思ったんだけど、四回連続のカンをしたあとに嶺上開花をするなんて全然予想できなかったわ。おかげで逆転負けよ」
「だから言ったけど。負けないって」
「そうね。……あーあ、久しぶりに全力で打ったのに負けちゃった。負けるのって、こんなに悔しかったのね」
目を隠すように手を被せ、投げやりにそう言う。
その言葉に偽りはないのだろう。ジャンヌさんのいまの姿からは、本当に悔しそうな気持ちが伝わってくる。
「楽しかった。うん、とっても楽しかったわ」
「わたしも楽しかったけど。ここまで手こずったのは、ジャンヌが初めてだけど」
「嬉しいこと言ってくれるじゃない。次に打つときは負けないわよ」
「また返り討ちにするけど」
今日はいい勝負を見れた。でもなんでこの二人が打つことになったんだっけ?
「こんなのあり得るか!」
雀卓を怒鳴りながら蹴り倒し、男は立ち上がった。
そうだった。こいつが飛縫の引きのよさをいかさまじゃないかと疑ったから、打つことになったんだった。途中から飛縫とジャンヌさんの戦いになってたから、すっかり忘れてた。
「四回も嶺上開花が出せるわけねえだろ! しかも大役満だぁ? てめえら揃いも揃っていかさまに荷担しやがってたんだろ!」
「いかさまなんかしてないし、第一お前みたいな相手にいかさまなんてする必要はない」
その言い方はいかさまができるみたいな言い方なんだが、そこのところはどうなんだ?
「このやろう……。嘗めんじゃねえっ!」
男は腕を振りかぶり、飛縫を殴ろうとした。飛縫は動く素振りを見せない。避けられないのか、それとも避ける必要がないと思っているのか。どちらにしろ最終手段に移行してくれたなら、ここからは俺の独壇場だ。
しかしそう考えていたのは俺だけではないらしい。
飛縫と男の間に割り込む影が俺の他にもうひとつ。振り抜かれた腕を勢いだけ受け流し、体勢が崩れたところで同時に拳を叩き込んだ。
「暴力はだめよ。危ないじゃない」
「あなたが言っても説得力ありませんよ」
「それは君にも言えることでしょ」
「否定はしません」
倒れて気絶した男に目も向けず、ジャンヌさんとそんな会話をする。
どこかで聞いたことある名前だと思ったらこの人、つみれの空手の先生だ。それだけじゃない。
桐島舞。プロの麻雀の世界で至高と呼ばれるほどの打ち手だった。ジャンヌさんが勝った対局は全てがツモで和了し、ほとんどが海底撈月だったらしい。
後にも先にも彼女ほど牌に愛された者はいない――そう言われていた桐島舞は、突如としてプロの世界から姿を消した。
理由は聞いてみないことにはわからない。もしかすると、自分が勝つことに飽きてしまったのかもしれない。当たり前に勝てる勝負を淡々とこなすことほどつまらないものはない。
だけど、飛縫と打つことで変わったのだろう。
自分と同じか、それ以上の打ち手。心が踊らないはずがない。
飛縫とジャンヌさんは似ている。故に惹かれあったのだろう。こうして麻雀を打つのは、運命だったのかもしれない。
「なかなかいい筋してるけど、誰かに習ったのかしら?」
「まぁ……そんなところですね」
俺が師匠から習ったのは剣術だけで、武術の方はただの経験なんだけどな。いや、あれは教えてもらったっていうより、染み込まされたって方が正しいか。
『覚えねば殺す。生きたいならばさっさと覚えろ』
師匠はそう言って白銀の炎剣を突き刺してきた。思い返せばいい思い出だが、それを身に受けていたときはそんな悠長なことは考えられなかった。……マジで死にかけたし。
「それより、かれきちゃんに話があるのよ」
「なに?」
雀卓を直そうとする気は毛頭ないのか、飛縫は他の雀卓の周りにある椅子に座っている。
「わたしの知り合いから話してみてくれって言われたんだけど、かれきちゃん――プロになるつもりはない?」
「ない」
ジャンヌさんの言葉にも驚きだが、飛縫が即答したことの方が驚きだ。プロから誘いがあったのに、それを即答で断るなんて驚かない方が不思議だ。
「わたしはいまの生活が気に入っている。そんなことにかまけている時間はないけど」
「そ。ならいいわ」
あっさりと引き下がったジャンヌさん。この人の性格からして、こんなあっさりと引き下がるなんて裏があるとしか思えない。
俺がそう思うのだから、ずっと一緒にいる飛縫はよりそう思っているはずだ。
「なぁに、その裏があるんじゃないかって顔は。別に裏なんてないわよ。かれきちゃんにその気がないっていうなら、強制する気はないもの。引退した身だしね」
「…………」
「でもいいの? こんなチャンス、掴もうと意識して掴めるものじゃないわよ?」
「…………」
飛縫は無言で踵を返す。それからは一度も振り返ることなく、麻雀荘をあとにした。