4―(2)「枯木」
私立桃園高校。総勢六百人ほどの高校だ。
体育祭はそれを四つのチームに分けて競わせる行事だ。一学年のA組から三学年までのA組がひとチームで、それがB組からD組まで続いている。色は毎年、組頭たちによるくじ引きによって決定するため、決まった色はない。
たしか去年の体育祭で俺たちは、赤組だったような気がする。あのときのことはもう思い出したくもない。『異例の四重奏』なんて呼ばれる由縁となった出来事を、誰が好き好んで思い出してやるものか。もう二度と思い出さんぞ。
それはさておき。
学年別の同じクラスがチームになるということは、もしかすれば先輩や後輩で知り合いと一緒になるということもあるかもしれない。
彼女とは異世界で常に一緒にいて、戦いでも必ず背中を預けることができた。だから無意識に心のどこかで、仲間であることが当たり前だと思っていた。
けれどここは異世界じゃない。
ここは――俺たちの世界だ。
「先輩、たかが体育祭が同じチームじゃなかったからといって、そんな人生に絶望したような顔で落ち込まないでください」
「……いや、別にそこまで落ち込んじゃいねぇよ」
「つまりある程度は落ち込んでいると?」
「そんなの当たり前だろ」
だから真宵後輩と違うチームになるってことも、あるんだよなぁ……。
真宵後輩は一年B組に在籍している。そう、B組だ。体育祭ではあの、奇人である飛縫と同じチームということだ。ここに来て最悪の誤算だ。
「弁当でも食べて少しは立ち直ってください」
「……あぁ、それもそうだな」
こんなことでいつまでも落ち込んでるのも馬鹿らしい。
俺は真宵後輩が差し出してきた弁当を受け取り、屋上のアスファルトの上に腰を下ろす。真宵後輩はちょこんと、俺の隣に座った。いちいち可愛いな。
「かしぎ先輩、訊きたいことがあるのですが、私は飛縫かれきさんと同じチームなんですよね?」
「ん? そうだな。あいつも真宵後輩も同じB組だから、同じチームだろ。つーかそれがどうかしたのか?」
「いえ、大した意味はありませんよ。……なるほど、彼女と同じチームでしたら訊く機会はいくらでもありますね」
最後にぼそっと何か呟いたようだが、俺に対しての言葉ではないようだ。
それにしても、真宵後輩の手料理は相変わらず美味いな。俺の他にも自分の分も作ってるみたいだし、朝は大変なのではないだろうか。どれもこれもが手が込んでいて、とてもじゃないが手抜きには見えない。
「俺も、弁当作ってみっかな……」
「……っ!」
何気なく呟いた一言に真宵後輩の眉がぴくりと動く。
「先輩、それは私の手料理に飽きてしまったということでしょうか? 私の手料理はいらないということでしょうか?」
「あ? そんなわけねぇだろ。お前はなに言ってんだよ」
「でしたら何故、そんなことを思ったのですか? ちゃんとした理由を聞かせてくれなければ納得しません」
「真宵後輩に任せてばっかりってのも悪いと思っただけで、他意はねぇよ」
今さらだがそんな毎日毎日、後輩に弁当を作ってもらうわけにもいかないし。少しくらいは先輩らしいところを見せておかないとな。
「毎朝ふたり分も作んの大変だろ? 毎日とまではいかなくても、俺がお前の分の弁当を作ってやりてぇって思ったんだ」
「……すみませんでした」
「なんで謝るんだよ。なんか謝るようなことでもしたのか?」
「いえ。違いましたね。この場合は、ありがとうと言うところでした」
真宵後輩の横顔を目尻で見つつ「それでよし」などと言い、箸を動かす。
そう言ったはいいが、真宵後輩に食べさせられるようにはどれくらいの時間が必要になるのやら。正直なところ、料理スキルなんて皆無に等しいし。
「よかったら私が料理の仕方を教えましょうか?」
「あー……それは遠慮しとく」
て言うか弁当を作りたい相手から料理を習っててどうするよ。全然意味ねぇだろ。
「俺には専属料理師がいるからな。そいつから教わるさ」
「先輩の妹のつみれからですか?」
「おう。安心しろ、あいつはあれでも冬道家の家事担当だからな。料理の腕前は一級品だ」
「……まぁ、妹ということでしたら問題はないでしょう」
何かを言いたそうにしていた真宵後輩だが、言わないということは大したことではないのだろう。わざわざ言いたくもないことを言わせることもない。
おかずの唐揚げを頬張る。うん、やっぱり美味い。
そういえば、今日は珍しく屋上には俺たちしかいない。超能力に関わってからは、屋上に来る人数が多くなった。最近はずっと五人くらいだったから、物足りなさが……、
「兄貴はここかぁっ!」
物足りなさが……、
「……かっしーさん、やはりここにいましたか」
も、物足りなさが……、
「やっほー、遊びに来たよー」
間違いなく気のせいだっ! 物足りなさを感じてたなんて断じてあり得ないっ! どたばた喧しいんだよっ!
「翔無さんにキョウに瑞穂ですか。何の用ですか? せっかく先輩と二人きりでしたのに、邪魔しないでください。首を捻切られたいんですか?」
「うわぁ……相変わらずの毒舌だねぇ」
何故かカメラを片手にしていた翔無先輩は、いつもの笑みをひきつらせていた。
「久しぶりの登場なんスから、兄貴のところに来るくらいいいじゃないッスか。心が狭いッスね~」
「瑞穂、どうやら貴女が一番最初に死にたいようですね」
「うぇっ!? 真宵ってそんな短気だっけっ!?」
「斬殺と圧殺、絞殺に焼殺に氷殺、雷殺に狂殺くらいですか。……さて、どれがいいか特別に選ばせてあげます。どれがいいですか?」
「ひぃぃっ! ま、真宵の目が据わってるっ!? 兄貴、助けてほしいッスーっ!」
意識化から騒ぎを遮断していたのだが、白鳥が駆け寄ってくる音が聞こえて弁当を守るように上に持ち上げる。
波動で腕を集中的に強化。おそらく来るだろう衝撃に備える。全ては弁当を守るためだ。
次の瞬間には腹部に衝撃が走る。さっきまで食べていたものが喉の奥まで出かけたが、気合いを総動員して何とか事なきを得た。
「あ、兄貴っ! 真宵が危険ッスっ! 止められるのは兄貴しかいないッスっ!」
「どうでもいいがさっさと離れろ。弁当が食えねぇ」
「ウチと弁当、どっちが大事なんスか?」
「真宵後輩の弁当に決まってんだろ」
「既に買収済みだったぁっ!」
頭を抱えて叫ぶ白鳥を無視しつつ、強化に使っていた波動を息に乗せて吐き出し、再び箸を動かす。
「……はむ」
動かそうとして、思わず動きを停止してしまった。いつの間に近づいたのか、さっきまで真宵後輩が座っていたところには火鷹が座っていた。それだけならまだいい。
こいつ、俺の弁当を頬張ってやがる。しかもバレてないと思ってるのが腹立たしい。口の端に食いカスがついてんだよ。
「……おやおやかっしーさん、私の顔を見てどうかいたしましたか?」
「お前、昼飯食ったのか?」
「……いいえ。ですがかっしーさんのお弁当をいただきましたので、多少は空腹が紛れました」
小首を傾げながら火鷹は言う。隠そうとする気が全然ないぞ、こいつ。
バレないようにため息を吐こうとして、前に言われたことを思い出す。ため息を吐くと幸せが逃げていくんだったか? それだったら俺の幸せは現在進行形でガンガン逃げていってるだろうよ。
やっぱりため息が出てきてしょうがない。
「今度から昼は食ってくるか持ってこい」
「そうだよキョウちゃん。彼のお弁当はマイマイちゃんが作ったものなんだ。いくらキョウちゃんでもそれはいただけないねぇ」
「……いえ、おかずはいただきましたが」
「はっはー、そういうことじゃあ、ないんだよねぇ」
翔無先輩がちらりと、白鳥を怯えさせている真宵後輩へと視線をやった。その目はどことなくだが、真宵後輩を心配しているような印象を受けた。
二人に何かあったのか? 真宵後輩が俺以外の相手と話すとは思えないんだけどな。
「……ふむ。何があるのかは分かりませんが、雪音さんが言うのでしたら仕方ないです」
「俺が言ってもやめないつもりだったのか?」
「……えぇまぁ。そうでもしなければ私の出番が削減されてしまいそうなので。具体的には二章分ほど」
何この子、具体的すぎる数値を言ってくるんですけど?
「ところで『異例の四重奏』のかっしーや。君はたしかA組だったはずだよねぇ?」
「その二つ名で呼ぶんじゃねぇ。……そうだが、それがどうかしたのか」
「うん? いやいや、ボクもA組だからかっしーたちとは同じチームだと思ってねぇ。まぁ飛縫かれきちゃんはB組で、マイマイちゃんと一緒だけど」
そういえば翔無先輩もA組だったっけ。学年が違い、どうせ飛縫対策には関係ないからとすっかり忘れてた。
ちなみ火鷹と白鳥は一年のA組だ。残念ながら戦力としてはあまり期待できそうにもない。
「で、なんで翔無先輩が飛縫のこと知ってんだ?」
「あのねぇ、彼女は去年の体育祭で有名になってるんだよ? 無知なかっしーならともかく、風紀委員長のボクが知らないはずないじゃないか」
俺が無知なのは、もはや全学年共通の認識なのか?
「惨敗した三年生は、今年は彼女にひと泡吹かせようと躍起になっているわけさ。所詮モブキャラじゃ無理だっていうのにねぇ」
「そういう発言、やめてくれないか?」
「おっとこりゃ失敬。何にしても、今年の体育祭は例年にも増して盛り上がるだろうねぇ。最後の体育祭だから、ボクとしては嬉しい限りさ」
そうか。三年生にとってこの体育祭が最後の体育祭になるんだった。
だったら最後の体育祭くらい、派手に勝利で飾ってやりたいよな。悔いの残らない体育祭にするためにも、後輩である俺たちも頑張らないといけない。
「そうかい。それはよかったな」
でもそれは口にしたりしない。そんなことを言ったら、翔無先輩にどんな反応をされることか。からかわれるのが目に見えている。
「ずいぶん投げやりだねぇ。でもまぁ、今回の体育祭でボクは選手としては参加はしないよ」
「……超能力絡みか?」
「違う違う。そういうことじゃないよ。ただ単に他にやることがあるってだけさ。まさかこの時期に動こうなんてバカはいないよ」
『九十九』の連中を除けばだけどねぇ。翔無先輩は表情を一瞬だけ強張らせながら言った。
けれどその『九十九』もおそらく動かないだろう。
夏休みに罠に自分たちの方からかかりに行くのに、そんな面倒なことをしたりしないはずだ。
「……かっしーさんは夏休み、『九十九』の拠点に行くのですよね? 大丈夫なのですか?」
「たかが『九十九』に行くのに、心配する必要はねぇ」
「高慢だねぇ。それが命取りにならなきゃいいんだけど」
それが事実だ。たしかに肉体的には普通のキャパシティだけど、技術的には俺と並び立てる相手は真宵後輩を差し置いて他にはいない。
イメージに体がついていかない。肝心なところで機能を停止する。今までの戦いもその欠陥さえなければ、あそこまで苦戦することもなかった。
「いいかい? 『九十九』は君が思っているよりも簡単な相手じゃない。この前の一件からそれは分かっているだろう?」
「翔無先輩こそ何をそこまで弱気になってやがる」
「ボクが弱気になっている? そんなこと、あるわけないじゃないか」
「あるね。ならどうして、首を押さえてんだ?」
そう言われて翔無先輩は、首を押さえていたことに気づいた。おそらく前に『九十九』に怪我を負わされたことを思い出して、無意識にそうしていたのだろう。
ただ、翔無先輩の言い分も一利ある。負ける気はさらさらない。けれど簡単な相手じゃないのはそのとおりだと頷くしかない。
東雲さんほどではないとはいえ、あの人に準じた実力者たちが一斉に群がってくるんだ。警戒をするに越したことはない。
「……ですが、『九十九』に向かうのは三人しかいないというのは、心許ないですね」
「あんまり多い人数で行っても足の引っ張り合いにしかならねぇからな。このくらいの人数がちょうどいい」
俺たちは基本的に単騎型だ。こちら側が複数でいるよりも、敵側が複数いてくれた方が戦いやすい。それに付け焼き刃の連携なんかしても無駄なだけだ。
そういう風にしか戦うことができない俺たちに、連携なんていう技能は必要ない。
「……あちらでひとり、助力を頼むと聞きましたが」
「そんなことも言ってたな。こっちから三人で行って合流するんだったら、最初から四人で行った方がいいだろうによ」
「全くです。おかげで私は戦力外通告を受けました」
白鳥といたはずの真宵後輩が話に割り込んできた。その声色からは隠すつもりのない不満の色を聞き取れた。
「人数合わせで外されるなんて、非常に不愉快です」
「東雲さんは真宵後輩の実力を見てないからな。連れていきたくないのも仕方ないさ」
「ですから不愉快だと言っているのです。それに――あの人の能力についても、憎たらしいばかりです」
真宵後輩の人嫌いは今に始まったことじゃないが、こうもきっぱりと拒絶しているのを見るのは初めてだ。
そういえば俺、こっちでの真宵後輩のこと、全然知らないんだよな。
「そうだ、真宵後輩。ちょっと頼みたいことがあるんだけど、いいか?」
「別に構いませんけど。頼みたいこととは?」
真宵後輩の方に向き直りながら、軽い調子で言う。
「俺と戦ってくれ」
昼休みの終わりを告げる予鈴が、響き渡った。
◇
放課後、夕暮れに染まる教室でひとり、校庭の先にあるテニスコートを眺めていた。たとえ視力検査で二.〇だったとしてもコート内までは見えないが、波動で視力を強化した俺にはそれがよく見える。
真宵後輩も俺に気づいているのか、しきりに「あっちを向いていてください」と口を動かして伝えてくる。
別にいいだろ。後輩の部活姿を見るくらい。
頬杖をつきつつ、真宵後輩のリクエストに答えて視線をテニスコートから黒板へと変える。そこには体育祭への意気込みが書かれていた。
「打倒飛縫、ねぇ」
あえて口に出してそれを読み上げる。どうやら今この高校では、体育祭で優勝するよりも飛縫を倒すことの方が目的になっているらしい。目的を完全に見失ってやがる。
まさか本気で飛縫を打倒する気でいるのだろうか。もしそうなのであれば笑うしかない。
翔無先輩じゃないが、モブキャラくらいにしか個性のない人間じゃ、飛縫の突出した個性の塊のような思考に勝てるわけがない。
しかもそこに真宵後輩までいるんだ。誰でも立てられるような並の作戦で勝てるなら、苦労はしない。
「柊やアウル、両希もいるし、なるようになるか」
生憎、俺は体育祭で飛縫に勝とうなんていう気は微塵も、それもう欠片ほども持ち合わせてはいない。
飛縫に勝つというのは、それすなわち、少なくとも戦うような姿勢で立ち向かわなくてはならない。せっかく楽しむ気で参加するのに、そんなことはしたくない。
そうやったとしても勝てると決まったわけじゃないし。
だったら俺はまったりさせてもらうさ。夏休み前の、最後の行事としてな。
俺はテニスコートへと視線を戻すが、途端に真宵後輩に気づかれる。波動の流れを感じ取ってるみたいだ。
こっちには大気中に含まれる波動が存在しない。俺と真宵後輩しか波導を使えないということはつまり、どこにいても波導を使えば大体の位置は分かってしまうということだ。距離による限界はあるだろうが。
「……帰るか」
いつまでもここに居続ける理由はない。カバンを持って立ち上がり、教室を出る。
A組っていうのは何かと不便だ。下駄箱や購買に一番離れた位置にあるし、移動するにも時間がかかる。といっても何秒と変わるわけじゃない。気持ち的な問題だ。
「あ?」
教室を出てすぐ、B組を通りすぎようとして思わず立ち止まる。
どのクラスも放課後は部活に行ってしまうため、今くらいの時間帯で教室に残っているのは珍しい。そんな空いているはずの教室で、そいつは机に突っ伏していた。
「何やってんだ、あいつ」
俺は呟いて勝手にB組に入る。近くに寄って改めて確認してみるが間違いない。こいつ、飛縫だ。
「……なに?」
いきなりむくりと顔を上げた飛縫に、ついつい間抜けな声を出して驚いてしまう。
ダウナーで死んだ魚のような瞳が、「いったいそこで何をしているんだ」と雄弁に語っている。
「何か用でもあるの?」
切らないでいたらこうなったのではないかという、無造作に伸ばされた漆黒の髪を揺らしながら訊いてくる。
「用がなかったら会いに来ちゃ悪いかよ」
「会いに来たわけじゃないのはわかってるけど。どうせ通りかかって、わたしが寝ているのを見つけて、勝手に入ってきたってところだと思うけど」
「あぁそのとおりですよ。かれきさんの言うとおりでございますよ」
やれやれと頭を振りながら、相変わらず他人を見透かしたような態度にため息を吐く。
「まぁ、元気そうでよかった」
「これが元気そうに見える? そんな風に見えてしまうのは明らかにお前だけだろうけど」
「そんなことねぇっての。両希と柊も同じこと言うだろ」
「言うだろうけど。わたしには関係ないけど」
「クラスが変わってひねくれ度もアップしたか。このへそ曲がりめ。無理やり治してやろうか」
「お前だけには言われたくないけど。てか、そんなことで治せるようなものでもないけど」
否定しないってことは、へそ曲がりの自覚はあるんだな。自分のことを分かっていてくれて何よりだ。
「それでお前はなんで残ってるんだ?」
「別に残ってるわけじゃないけど」
「じゃあなんでここにいるんだよ。部活に入ってねぇだろお前。いる意味がねぇだろうが」
「寝過ごしただけだけど。同じクラスだったんだから、それくらい察してもらいたいところだけど」
察するも何も、普段の学校生活で寝過ごす場面なんて、そうあるはずじゃないんだけどなぁ。
飛縫だから仕方ない。そしてその言葉だけで納得してしまう自分と、納得させてしまう飛縫に驚きだ。
「睡眠学習は健在みたいだな。そのやり方をぜひとも教えてもらいたいもんだ」
「なに言ってる。睡眠学習なんてしてないけど」
「寝ながら学習してんじゃねぇか」
「あれは学習してるわけじゃない。てか、テストなんかちょっと考えれば分かるようなものばかりだけど。数式なんか考えるまでもないけど」
独り言のように「分からない理由が分からないけど」とか呟いていたが、お前の思考で物事を語らないでくれ。
そんなみんながみんな、あり得ない思考回路をしてるわけじゃないんだ。
「それより、どうしてお前はここにいる?」
「ん? それはだな……」
「眠い。帰りたい」
「おーい、お前の方から訊いてきたくせに何なんだ、その切り返しは。嘗めてんのか?」
「その出だしで話そうとする人間は、大した理由がないから訊かないだけだけど」
なら最初から訊くんじゃねぇ。しかしそのとおりだから何とも言えわけだが。
「つーか眠いならさっさと帰りゃいいだろ」
「……めんどくさいけど」
「救いようがねぇな」
俺もめんどくさいってよく言うけど、帰るのもめんどくさいなんて言ったことないぞ。
「かっしー、家まで送ってほしいけど」
「お前らはその不名誉なあだ名をどこで知ってくるんだ」
どいつもこいつも俺のことを『かっしー』などと呼びやがって。そんなあだ名で呼ぶんじゃねぇ。
「いや、知ったわけじゃなく言ってみただけだけど」
「まさかそう来るとは思わなかった」
さすが飛縫、知らないくせに的確に痛いところを突いてきやがる。やはり侮れんな、この女。
「呼ばれていたのは知っていたけど。たまに聞くから」
「えっ? なに? そのあだ名って、俺の知らないところでそんな普及してんの?」
俺が戦慄しているのをよそに、飛縫は一向に動こうとしない。帰るんじゃなかったのか?
「ねぇ、早くして準備してほしいんだけど」
「あ? 準備って、俺はお前を待ってんだぜ? そいつは俺が言うべきセリフだと思うがな」
「送ってほしいって言ったんだけど」
「だから不本意だが、家まで送ってやるって。早くしろ」
「それこそわたしのセリフだと思うんだけど」
……おかしいな、話が噛み合ってないぞ。
「送って言ってるんだから、早くおんぶしてほしいけど」
「送ってほしいってそういうことかよ……」
誰が家までおんぶして送ってほしいなんて思うかよ。一緒に歩いて帰るっていうなら分かるけどさ。
「歩きたくないからって俺を使おうとするんじゃねぇ。寝言は寝てから言えっての」
「寝ながら言うのは割りと難しいんだけど?」
できんのっ!? 意識的に寝言言えんのっ!? ちくしょう、こいつには驚かされてばっかりだ。
「さぁ、早くおんぶをしてくれ。わたしは早く帰って、もう一眠りしたいところなんだけど」
「自分で歩いて帰れバカ。なんで俺がそんなことしねぇといけねぇんだっての」
俺は呟いて踵を返し、B組の教室を後にする。背中に飛縫の突き刺さるような視線を感じていたが、誰がおんぶして家に送るようなことするもんか。
靴を履き替え、さっさと校門を通り抜けて帰路に着く。
柊もそうだが(まぁ、あいつはわざとやってるらしいが)、飛縫も異性っていうのを考えてくれ。いくら俺だって、美少女をおんぶすることになったら恥ずかしい。
それにしても、飛縫はあのまま居続ける気なんだろうか? 俺が見る限りだと、動く素振りが全くなかったし。
「いやいや、関係ない。なんでデメリットしかない選択をしなければならないんだ。甘やかしちゃいかん」
自分に言い聞かせるように呟く。
まさかここまで歩いてきて、戻るようなことをするはずもない。俺はそこまで優しくないんだ。
まぁ優しくないっていうだけで、甘い性格なんだけど。全く、自分でもどうにかしたいと思ってるんだが、なかなか上手くいかないみたいだ。
「なんで戻っちまったかな……」
「うん、お前なら戻ってくると思ってたけど」
「動かなかったのは戻ってくるって分かってたからかよ。人の性格読んでんじゃねぇ」
俺は飛縫をおんぶして歩きながら、そんなことを言う。幸いなことに他に誰も歩いていないため、見られるということはない。
「あのさ、こんなことやらせて嫌じゃねぇの?」
「嫌ならやらせないけど。てか、お前的には女の子のやわこい体を堪能できて嬉しいと思うんだけど。……柊で満足してるとは思うけど」
「ぼそっと核を言い当てるんじゃありません」
たしかに柊で胸成分は保管できてるけど、今はそんなことは言わんでいいだろ。て言うか俺の周りの女の子はどうしてそんなところばかり気にかける。
「ライトノベルの主人公の周りには美少女がいるが、それと同じことだけど。見て思わない? どうして彼女たちはそこまで主人公を慕うのか、と」
「ぶっちゃけるな。それはたしかに何回も思ったけど」
「つまりそれと同じ原理。よかったね、お前はわたしに好かれてるってことになるぞ。ハーレム要員ゲット」
「自分で自分のことをハーレム要員って言うヒロインもどうかと思うぞ?」
て言うかハーレムなんぞ作ってねぇし。俺は真宵後輩一筋だっての。ハーレムエンドには絶対にならん。
「最近流行りの鈍感じゃなくてよかったろ。お前が鈍感というより、周りが気持ちを隠すのが上手いだけだけど」
「お前は何を知っている」
こいつなら何でも知ってそうで恐ろしいんだが。
久しぶりに会ったっていうのに、そう思わせるこいつは何者だ。飛縫かれきだ。突拍子もない、斜め上の思考回路を持つ奇人だ。
「お前の家って遠いのか?」
「重いなら重いってはっきり言ってほしいところだけど。残念なことにまだまだ距離はある。頑張れ十七歳」
「誰も重いなんて言ってねぇし思ってもねぇよ」
お前は話を飛躍させすぎだ。家までの距離を訊いて、重いってことを遠回しに言う奴なんているわけないだろ。
どう思考回路を巡らせたらそんな考えに行き着くんだ。
正直なところ、重かったら波動で強化しようと思ってたが、その必要がないくらいに飛縫は軽い。負担がほとんどないくらいだ。
「ん……」
「おいっ! 変な声出すんじゃねぇ!」
「お前がわたしの敏感なところを触るからだけど。もう少しで指が挿入りそうだったんだけど?」
「……それにはどう反応すればいいんだ」
「素直になればいいと思うけど」
「いや、意味が分かんねぇよ」
そういうのは火鷹だけにしてくれ。今さらだが、あんまりそういうのは得意じゃないんだ。
俺は飛縫の肌に触れないように手の位置を移動させつつ、目的地を目指す。
「そこは右に曲がってくれ」
首に巻き付けるようにしていた腕を伸ばして、すぐそこの路地を右に曲がるように指示してくる。それに従って路地を曲がり真っ直ぐに進むと、どこか見たことある場所に出た。
「……おい」
「なに?」
「なんでわざわざ遠回りするような道を教えやがった」
俺は飛縫を降ろしながら訊く。
見たことがあるなんてものじゃない。この場所は学校の近くの路地を抜けてすぐのところにある。歩けば五分もかからないのに、二十分も歩かされたぞ。
目尻で俺のことを見つめながら、
「わたしは知りたかっただけだけど。いったい何が、お前をいい方向に変えたのかをね」
飛縫はそう言った。その言葉に俺は驚くしかなかった。
あの飛縫が、決して他人に興味を持つことのない飛縫が、俺の変化に興味を持ったのだから。
「なにをぼさっとしている? 早くしてほしいんだけど」
家に入ろうとして立ち止まった飛縫が、言葉を投げかけてくる。これ以上俺に何を求めていやがる。
「お礼。せっかく送ってもらったんだから、それくらいさせてもらいたいんだけど」
「別にいいよ、そんなの。お礼が欲しくて送ったわけじゃねぇんだからよ」
「お前の意思は関係ないけど。ただ単にわたしの気が収まらないだけだから。さっさと上がって」
我先にと飛縫は上がっていってしまった。
さてどうしよう。女の子の家にそんなほいほい入ってもいいものだろうか。飛縫は気にしてないだろうが、こっちは気にするんだよなぁ。
「はぁ……」
後ろを向き「さっさと来い」と目で催促してくる飛縫を見てため息を吐き、お邪魔することにした。
仕方ないか。特にやることがあるわけでもないし、せっかくの飛縫のお誘いだ。無下に断るわけにもいかない。
「お前んち、誰もいないのか?」
「どうしてそんなことを訊く? 他意はないんだろうけど。安心していいよ、ちゃんと母がいるから」
いったい何に安心しろと言うんだこの子は。
視線を下げながら階段を上っていると飛縫が首を傾げていたが、それくらいは察してくれ。その角度だとスカートの中が見えるんだよ。
「スパッツを穿いているから大丈夫だけど」
「お前の用意の良さにはもう驚かねぇぞ」
「いや、これは用意が良いとかそういうことじゃなくて、普段から穿いているだけのことだけど。わざわざこのためだけに穿くわけないけど」
そう言って飛縫は立ち止まった。ぶつかりそうになってしまうが、咄嗟に反応したことで何とか踏み止まる。
どうやら体は徐々に元に戻りつつあるらしい。今までならこれだけ気を抜いた状態で虚を突かれれば、反応することなんてできなかったはずだ。
「お前にひとつだけ聞いておきたいことがあるんだけど、いいかな?」
「なんだよ」
「掃除は得意だったりするか? もし得意ならお前には掃除を手伝ってもらいたいんだけど」
「お礼がしたくて呼んだんじゃねぇのかよ」
「わたしが本当のことを言うとでも?」
澄まし顔でろくでもないこと言ってんじゃねぇ。
「お前に素直に従った俺が間違いだったぜ。……で、どこの部屋を掃除すりゃいいんだ? 自慢じゃないが、掃除だけなら得意中の得意だ」
「それは助かった。掃除してほしいのは……」
がちゃり、と目の前にあった扉が開け放たれる。
「わたしの部屋だけど」
そこには想像を絶した、それでいて俺を絶句させるような光景が広がっていた。
あり得ない。俺の頭の中にはその言葉だけが無限リピートされていた。どうすれば部屋をここまで汚くできるんだ。もはや文字では表現できない散らかりように、ため息すら忘れていた。
「なんだ、この部屋……?」
「わたしの部屋だと言ったはずだけど。聞いてなかったのか? ちゃんと聞いててもらいたいんだけど」
「そういうことじゃねぇよ。女の子のくせにこの部屋の汚さはなんだって訊いてんだ。あり得ねぇだろ、これ」
「女の子の部屋が綺麗でいい匂いだなんていう幻想は、さっさとぶち壊された方がいいと思うけど。男の部屋の固定概念と同じこと」
たしかにそうだが、それにしたってこの部屋の汚さはあり得ない。どこで生活してるんだ。床が全然見えないんだが……。
「掃除だけは得意中の得意なんだっけ? それならわたしの部屋の掃除を一緒にやってもらいたいんだけど」
「……いいぜ分かった。やってやろうじゃねぇの。二時間だ、二時間だけ俺に時間をくれ。こうなりゃ徹底的に掃除し尽くしてやる」
俺は腕捲りの仕草をしつつ、どこから手をつけるかを考える。これは骨が折れそうだ。
◇
飛縫は冬道に部屋の掃除を半ば押しつけるように頼んだが、それはついでてしかない。
(何がお前をいい方向に変えた)
知りたいのはそれだけだ。ついこの前まで――三ヶ月ほど前まで、冬道と飛縫は似た者同士だった。他人に興味を持たず、常に日常にめんどくささを感じていた。
それは今でも変わっていない。
やろうとすればなんだってすることができる。人間はできないからこそ挑む生き物だ。しかしできると分かることに、誰が自分から挑むだろう。
それがめんどくささを感じる由縁だ。
冬道はそれとは違うだろうが、それでも自分と似ていたことには変わりなかった。だから他人に興味を持たない彼女も、気まぐれにすぎないものの、冬道にはわずかな興味を抱いていた。
けれど冬道は変わった。まるで別人かと思わせるような変化に、珍しく驚いたのは記憶に新しい。
(……見ていれば分かるかと思ってたんだけど)
分からない。掃除をしている冬道に品定めするように目をやり観察するも、何が彼を変えたのか。それを見極めることはできなかった。
わざわざ遠回りし、家にまで招いたというのに、これでは意味がない。
飛縫は自分の思考が螺の外れたものだと、今では自覚している。物事をあり得ない視点から見つめ、思考するのは昔から好きだった。
それが普通だと思っていたし、周りもそうだと思っていた。しかしそれが普通ではないと知ったのは中学に入学した頃のことだ。あまりの並外れた考えを気味悪がれ、あるいは畏怖された。
幸いだったのは誰も手を出そうなどとは考えなかったことだ。手を出したら最後、どんな手段で往復されるか分かったものじゃない。
だからこそ、今の生活は居心地がいい。
誰も自分を気味悪がらない。むしろ尊敬や好意を向けてくれるから。
故にこの思考の行き届かない領域に心惹かれる。その先に何があるのか、それを知りたくてたまらない。
(わたしも変われるだろうか……)
そしてそれを知れば、自分も変わることができるかもしれない。
いつまでもこれでいいとは思ってはいない。いつかは変わらなければならない。
冬道が変われたなら、わたしだって変われるはずだ。
枯木に、花を咲かすことだってできるはずだ。
「おい飛縫っ! 洗ってない下着まであるってどういうことだっ! 何日放置したら変色するんだっ!」
そのためにはとりあえず、掃除の仕方から覚えなければならないようだ。




