3―(9)「柊詩織(前)」
あたしは自分の部屋のベッドの上で、まるで現在進行形で焼かれているように熱い体の痛みに耐えるため、唸り声を上げながらシーツを握りしめていた。
歯を食い縛り、無理やり意識を保とうとしなければ、今にも意識を失ってしまいそうなほどだった。どうしてもあたしは、意識を保ってないといけない。じゃないとあいつが――もう一人のあたしが、出てきてしまうから。
ここであたしは自分について、つまり柊詩織について話したいと思う。
ついこの前っていうには昔すぎるんだが、三年くらい前のこの時期から――あたしの誕生日の五日前くらいになると、こういう風に体が熱くなった。
あたしが覚えている限りでは、数年前まえまではこんなことはなかった。
いきなりだった。
何の前触れもなく襲った痛みはあたしの意識を根こそぎ持っていった。
気がついたときにはもう夜が開けていた。意識を失ったのが夜だったから、あたしはたった数時間程度しか、寝ている程度にしか気を失ってなかったってことだ。
だけど、それについてはどうでもいいんだ。問題なのは、自分の部屋にいたあたしの格好だった。見たこともないロングコートを着ていた。肩の辺りからばっさりと、まるで刃物で切り落とされたように袖がなくなっている、奇妙なデザインのロングコート。
こんな時期にロングコートなんか着たりしないし、そもそもあたしはこんなのを持ってない。でもそんなことが気にならないくらい、それを見たときのあたしは動揺していた。
血だらけだったんだ。
他でもない、あたし自身が。
いや、あたし自身がっていうのは言い間違いだった。血だらけだったのは、あたしが着ていた服がってことなんだ。それでも十分におかしい。痛みで意識を失って、起きてみたら血だらけだったなんて状況が異常じゃないわけがない。異常じゃなきゃいけないんだ。
でも、どうしてあたしはこんな血だらけになっているのか――それは、どうしても分からなかった。怖くなった。何があったか分からないのに、こんな状況になることそのものが、あたしの恐怖を煽った。
でもそのときはそれだけで、後は何事もなく時間は流れていった。
そしてそれが、あたしの異常性の始まりだったんだ。
あれから意識を失うほどの熱さにうなされるなんてことはなく、ちょうど一年が経った。そんなこともすっかり忘れて生活していると、またあの熱さがあたしを襲った。記憶がフラッシュバックするように、唐突に体がその痛みを思い出したかのようだった。
痛い――それしか考えられなくなって、あたしは意識を簡単に手放した。
誰だって痛いのは嫌だし、楽になる方法を知ってるならそれにすがり付きたくなる。それにどうせ、また明日になれば目を覚ますのだろう。
と。
あたしはそんな楽観的な考えを頭の隅で考えてしまってたみたいだ。
しかしそれは大きな間違いだったことをすぐに知ることとなる。気がつけばあたしは知らない場所に、知らない相手とそこにいた。あのロングコートを羽織り、その相手の首筋に噛みつくようにしながら。
わけが分からなかった。こんなところにいることも分からないし、自分がどうしてこんなことをしてしまったのかも分からない。
ごく自然に、それが当たり前であるように、けれどあたしの意思はどこにもなく、体が勝手に動いていたんだ。
最初は夢なんじゃないかと思った。でもそんなことはないと、これは夢でないと言わんばかりに感覚が残ってるんだ。恐怖に顔を歪ませる瞬間も鮮明に覚えてる。水を流し込んで喉を潤すような感覚なんか、なおも鮮明だった。
あれが夢だったら現実とまるで区別がつかないけど、夢だったらどれだけよかったことか。どれだけ夢であってほしいと願ったことか。
それでもあれは夢じゃない――現実だ。
その頃からだったかな。吸血鬼の噂が広まったのは。
間違いなくその噂はあたしが原因だ。あたしが、あたしの意思ではないとはいえあんなことをしたから、この噂は広まった。
吸血鬼――化物。
あたしは、怖くなった。
自分自身が怖いと言うのもそうだけど、何よりも、友達に自分がそんな化物だと知られてしまうことが、とてつもなく怖くなった。
だからあたしは、友達を作らなくなった。無意識に周りとも壁を作ってしまって、中学校を卒業する頃には、友達なんて誰ひとりとしていなくなってた。
けれど、それでもよかった。友達がいなかったら、自分が化物だと知られることもないから。
あたしは地元の高校ではなく、少し離れた私立桃園高校に入学することにした。そこはあたしの中学の生徒が誰も入学しなかったから、ちょうどよかったというのもある。
友達なんて必要ない。あたしが化物だと知ったら、どうせみんなが離れていくんだ。だからあたしは距離を置くと決めた。
誰とも関わらない。孤立して生きる。そう決めた――決めたはずだったのに、その決意は簡単に崩れ去った。それは一人の男のせいだった。
冬道かしぎ。
前髪で片目を隠して、制服を着崩したり装飾をしたりしてないというのにも関わらず、根っからの不良というような雰囲気がそこにはあった。
クラスではいつも孤立していて、周りと距離を置いている。荒れているとも暗いとも言えない奴で、単に交流をしようとしない無愛想な感じだった。
友達なんて必要ないと思ってた。だけど不思議なことにあいつとは、冬道とは話してみたい――友達になってみたいと思えた。自分と同じような感じだったかもしれない。
「なんだよお前、しけた面してるじゃねぇか」
「…………あ?」
馴れ馴れしく、図々しく、あたしは冬道に話しかけた。
ぼんやりと外を見ているだけだった冬道は、隠れていない方の目で睨み付けてくるように(本人にはその気はないんだろうけど)あたしを見てくる。
「どうしたんだよ、お前。なんでそんなしけた面してんだよ。男ならもっとびしっとしろよなー」
「…………」
がん無視だった。いやもう、清々しいほどの無視っぷりで逆に気持ちよかったくらいだぜ。なんでこんなに華麗に無視できるんだよ、ってくらいに。
でもそんなことじゃ、あたしはへこたれない。それからもあたしは、ずっと話し続けた。無視されてるっつーか、眼中にないって感じだったけどそれでもよかったから。
そしてある日、いつものように話していると(話してたっつーより、一方的に話しかけてただけだけどさ)、冬道が口を開いた。
「……お前、なんで俺のとこ来るんだよ」
あくまで無愛想に、さして興味なさそうにだったけれど、それでも冬道が話してくれたことが純粋に嬉しかった。
「なんでって、冬道と話したいからに決まってんだろ? そんなしけた面してねぇで、あたしとぐらい話したらいいじゃねぇか。……お前さ、何となく、あたしと似てるからさ」
自分で言っておいて今さらだけど、本当にそうなのか?
あたしは冬道が自分と似てるって理由だけで、話しかけてたのか?
……違う。そんなの、全然ちげーよ。
そんな綺麗な理由で冬道に話しかけてたわけじゃねぇだろ。あたしは、誰とも関わらないって決めたのに、それでも繋がりが欲しかったから、誰とも繋がっていない冬道とだけ関わろうとした。
だってそうしたら、あたしから離れていかないから。化物だってバレたとしても、他に繋がりのない冬道は逃げる場所がないから、あたしの前からいなくなれないから――だから、冬道を選んだんじゃねぇか。
そうやって、勝手に孤独感を紛らわそうとしてただけじゃねぇか。自己満足のためだけに、冬道に話しかけてただけじゃねぇか。
けれど。
それでも。
純粋に話してみたいとも思ってた。
冬道には惹かれる何かがあった。
結局あたしは、冬道を利用してただけなんだ。
繋がりがなくなるのが怖いから、それでも繋がりがほしいから、なくなってもいいような繋がりを作った。
それが冬道だ。
でも冬道から見たらあたしなんて、どうでもい存在だ。ただただ鬱陶しいと思われてるだけなのかもしれない。
今のあたしは、冬道がいないとだめだ。いつの間にか冬道は、あたしの中で大きく、かけがえのない存在になってたんだ。
「なぁ、冬道」
だから言おう。あたしの気持ちを。
「あの、さ。えっと……友達に、なってくれないか?」
言うと冬道は、始めてぽかんとした表情を見せた。
意外だったというよりも、お前は何を今さら言っているんだと言いたげな表情だった。
「……俺もう、友達だと思ってたんだけどな」
「え……?」
「聞いてなかったのか。俺はお前のこと、とっくに友達だと思ってたって言ったんだよ」
それを聞いたあたしは、初めて冬道に抱きついた。
冬道に抱きつくようになったのはこれが切っ掛けなんだけど、本人は気づいてねぇんだろうなぁ。胸押し付けてるのだってわざとなのに。
新しい友達もたくさんできた。両希や飛縫や他にもたくさんの友達が。
あたしは化物だけど、それがバレなかったらみんなが友達でいてくれる。あたしから離れないでくれる。だから――出てこないでくれ。
まるで神様にすがり付くように願った。もう誰とも離れたくないから。
――けれどそれは叶わなかった。
去年の六月。再び現れた。もう一人のあたしとも呼べる化物が。
今度は意識がはっきりしていた。自分の意思で動くことはできなくても、風が頬を撫でる感覚や、地を踏みしめる感触は明らかに現実のものだった。
やっぱり、あたしは化物なんだ。
私立桃園高校の校庭に誘き寄せられたあたしの目の前には、三人の生徒が待ち構えていた。
現風紀委員長、翔無雪音。
現生徒会長、黒兎大河。
そして前生徒会長――臥南来夏。
あたしは初めて殺し合いというのを経験した。意識はあるのに体が別の意識を持って動いているみたいで、まるで別人のようなのに痛みも感触も伝わってくる。
化物じみた腕力で、
化物じみた存在が、
化物じみた残虐を行った。
翔無雪音も黒兎大河もあっという間にやられて、残ったのは臥南来夏だけになった。
驚くべきは、こんな行動をしたというのに、動揺もなければ罪悪感もなかったことだ。それがさも当然であるように、やることが当たり前のように感じられた。
誰かあたしを――あたしを止めてほしかった。
どうしてこんなことになってしまったのか、それは全然分からないけれど、もう殺してでもいいからあたしを止めてくれ。自分の意思に反して動くこの化物を。
「まーた、面倒なことしてくれちゃってますね。これだから『九十九』は嫌いなんだよ、全く。あー、嫌だ嫌だ。本当に嫌になる」
臥南来夏はそう言って、あたしを止めてくれた。無理やりには無理やりを行使して。圧倒的な力の暴力を圧倒的な歪曲を持って往なした。
「お前もお前だよ。こんなんに振り回されるなし。自分で止めることも覚えないとだめでしょうが。いつまでも他人に甘える気なんですかー?」
苛立ったような口調で臥南来夏は言ってくる。
「頼ってもいい。それでも、自分で止めることも大事だ」
来年は私もいねーんだし、後輩に任せるけどね、お前は自分で自分を止めないと止まることなんて無理だから、そこんとこは覚えておくよーに。
それがあたしと臥南来夏の最初で最後の会話だった。
自分で止めるって、そんなのどうすればいいんだよ。どうすりゃいいんだよ――!
臥南来夏に言われたことを理解できないまま一年が過ぎた。何も分からないまま、また六月を迎えた。
六月。
あたしの中の化物が出てくる。
臥南来夏は言った。自分で自分を止めないと、止まることなんてできないんだ――と。だったらやるしかない。でもどうすればいいのか。この化物を止めるにはどうすればいい。
動けないように縄で縛っておくか? ――だめだ。臥南来夏と殺し合いをしたときのあの力があるんだったら、縄くらい簡単に引き千切っちまう。
物理的に止めるなんてことは、圧倒的な力の前じゃ無理なんだ。
そうしたら、残るは精神的に止めるしか方法はない。
けれど止められる自信はない。止めるための方法が思い付かないまま、時間ばかりが過ぎていく。刻々と、あたしが化物となるまでの時間が迫ってきている。
だんだんと体の芯から燃えるような熱さを感じてきた。意思に反して、体が別の意識を持ったように動こうとする。止めようにもどうすることもできないまま、化物は出てきた。
もう意識ははっきりとしている。普段と何も変わらず、ただ違うことは体が勝手に動くということだけ。
苦しい。ただひたすらに苦しい。心臓を締め付けられるような感覚。今にも倒れてしまいたいのに、それすらもできない。
「姉ちゃん、こないな時間にどこに行く気なんや?」
そんなところに、いきなりそいつが現れた。
◇
タンクトップに剣道で穿くような袴、それに下駄という風変わりした格好をしている女性が、柊家の玄関の石壁に腕を組ながら寄りかかっていた。
腕を組む行為というのは、無意識に防御の体勢を取っているのだということを、どこかで聞いた覚えがある。両腕を組むとちょうど心臓を隠すようになるようで、防御の体勢を取ると共に安心することができるらしい。
でもこの人はそんな風には見えない。安心するためにしているわけでもなければ、ましてや防御の体勢を取っているというわけでもない。どちらかといえば癖みたいなものだと思う。
じろりと、あたしを見てくる。肌を突き刺すような攻撃的な眼差しで、頭のてっぺんから爪先まで、舐め回すというよりも観察するというような感じにだ。
気味が悪い。そんなことをあたしが言えた義理じゃないんだろうが何だろうか、生物として気味が悪いというか、同族嫌悪をしたらこんな感情になるんじゃないだろうか。
「初めましてやな、私は九十九東雲って言うんや。よろしゅうな、九十九詩織ちゃん――っと、今は柊詩織ちゃんやったな」
「なに、言ってんだよ」
「ほっほぉ。喋れたんやな。あんたの中の『吸血鬼』があんたに馴染んできた言うことやな。通りで見た瞬間襲って来ないはずやわ」
九十九東雲と名乗った女性は、勝手に何かを納得したらしく、腕を組みながら何回も頷いていた。
「せやけど関係ないな。どっちにしろ殺すんやし」
あまりにも自然に出た言葉に反応すらできなかった。
殺す? あたしを? どうして?
疑問が浮かんでは膨らんでいく中、いつの間にか状況が変わっていた。東雲さんの姿が目と鼻の先にまで迫ってきて、あたしは何かを弾いていた。
どうやら目で追うことはできていたらしい。東雲さんの槍のような拳を受け流していた。けれど――思考が追いきれていない。視界が情報を整理できていない。認識が遅れている。理解が行き届いていない。たったそれだけに気付くのに、何秒も必要とした。
それまだいい。それよりも、あたしの中の『吸血鬼』って何のことなんだ? この化物の正体が『吸血鬼』だっていうのか?
「なんや。訳が分からんって感じやんか。なんも知らんねやなぁ、あんた」
「お前は何を知ってるってんだよ」
「何でも知っとるわ。ちょうどええ、何でも答えたるわ」
「…………」
「つっても何も知らんわけやし、私が説明しよか」
あたしは超能力なんてものは信じていなかった。どうせインチキをしているだけだと思っていたから。どんなマジックにも仕掛けがあって、それを巧妙に隠すことで、あたかも超能力みたいに魅せているだけだと思っていた。テレビなどで放送しているマジックはそうらしい。
でも、超能力は存在する。臥南来夏などがいい例だ。とんでもない力を使うと思っていたが、まさにそれが超能力のようだ。
そしてあたしや東雲さんも、超能力者の一人。
だけど超能力者としての意味が違う。
「何だよ……あたしは、そんなことのために……」
生まれたっていうのかよ。
九十九家の勝手な事情で超能力なんて異常を持たされたのに、失敗したからって捨てられたって、そんなのふざけてる。命を生み出しておいて、勝手な事情で捨てるのかよ。
あたしだって生きてるんだ。玩具じゃないんだよ――!
憤りをこの人にぶつけるのは甚だおかしいけれど、そうしなければ自我が保てそうにもない。それともいっそのこと、それすらも手放してしまおうか。
つい、そんなことを考えてしまう。考えてしまった――からなのだろう。あたしの体は、あたしの意思を無視して動き出す。否――意思を持って、目の前のこの人を壊してしまいたいという確固たる意思を持って、まるで枷が外されたように動き出していた。
「があっ!」
体が軽くなったような気がする。そう錯覚してしまうほどに景色が違っていた。見えなかったものが見えるようになったのだ。体だけで動いていたはずの意識に、視界が、理解が、認識が連動する。
他人のようだった動きはぎこちなさを潜め、それこそ流れるような動きで、なおもってそれ以上の速さで中段蹴りが突き出される。
視界が情報を整理する。
理解が行き届いている。
認識と動きが直結する。
そうか――これは、あたしの意思がそう望んだから。認めようとしていなかったあたしの意思がそれを認めて、身を委ねてしまったからこその結果なんだ。
今まで他人のように思えていたのはあながち間違いじゃなかった。意思という最後の枷が外れたのであれば、もうあたしと化物は一つだ。
一つの――一人の化物だ。
ならば認めよう。目を背けるのをやめよう。
あたしは化物だ――『吸血鬼』だ。
だったら化物は化物らしく、化物じみた行動をする。
生きるために。
死なないために。
こいつを――殺す。
「ようやっと、繋がったか……。でもそれだけじゃあかんねん。――それだけじゃ、足りないんだ、あんたには」
何かを呟いて、自ら後ろに跳ぶようにして衝撃を拡散させた。その様子には焦りなどは伺うことはできない。これくらいなら予想済みなんだ。
筋肉を一気にトップギアに上げる。踏みしめたアスファルトが脚力に耐えきれずに陥没するが、それよりも速く回し蹴り叩き込む。
東雲さんはしゃがみこんで避ける。空振りに終わった回し蹴りの勢いに振り回され、背中を電柱に強かにぶつけた。それでも痛いと感じないのは、やはりあたしが化物だからか。
「一つになった途端これかいな。振り回されとるわ。少しは自分で止める努力を――せぇやっ!」
怒ったというわけではないだろう。ただ右腕に振り抜くときに、声を張り上げてしまっただけのことだ。女性にしては武骨な腕が肩に文字通り突き刺さる。焼けるような痛みってこういうことか。なるほど、これは痛い。だけどそれだけの話だ。
「があぁっ!」
「うぇっ!?」
前者があたしで後者が東雲さん。無理やり腕を引き抜いて投げる。そのままのあたしの腕力じゃどうしようもならないだろうが、今のあたしなら違う。大人ひとりを投げ飛ばすなんてわけがない。
馬鹿げた力で投げ飛ばされ宙でもがくその姿を捉え、一足で詰め寄る。その頃には肩の穴も塞がっていて、遜色ない動きができそうだ。
拳を振り抜く。その軌道の外側に、レールでも敷くように手のひらを添えてくる。それだけで拳の力は外側に逸れ、またも空振りに終わる。
されど勢いは残り続ける。身を捩るようにして回転させると、がら空きの左半身へと拳をねじ込む。
「甘いっちゅうねん」
「……っ!」
膝の皿で受け止められた拳の指の骨が何本か折れ、甲からは血が噴き出す。
読まれていた――わけじゃない。誘導されただけのことだ。そのように攻撃を加えられるように動いて、単にカウンターを仕掛けようとしただけ。どこに攻撃が来るかが分かっていれば、対処も簡単だ。
どうして通用しない、前よりも強くなってるのに。
「あんた、『どうして通用しない、前よりも強くなってるのに』――って思ってるやろ?」
「……っ!」
なんで分かってるんだよ……っ!
まさか思考が読まれてるんじゃ――
「ぶっぶー、大はずれや。私は思考を読むなんて器用な真似はやれんし、そういう能力を持ってるわけでもない」
「――――っ!」
「っと。簡単なことや。あんた、顔に出てるで? あと人が話してる最中に殴ったらあかん。舌噛んでまうやんか」
叱りつけるように言い、額を中指で弾かれた。いわゆるデコピンって奴だ。ただのデコピンだっていうのに、首が捻れ切れそうになる衝撃で、きりもみ状態で宙を舞う。
込み上げてきた嘔吐感を気合いだけで押し込み、瞬時に回転軸とその方向を理解し、即座に逆の回転を体に加えて停止する。同時に嘔吐感は消える。
「馴染んできたか? それじゃ、リハビリやな」
「うるせぇっ!」
お互いに拳打を叩き込もうと攻めぎ合う。腕が交差する。あるいは避ける、弾く、凌ぎ合う。格闘技とは全然違った、ただの喧嘩のような攻防。後先を考えていない、繋がりようのない一挙手一投足だというのに、予想外の、あり得ないような方向から繋がってくる。
連鎖は連鎖を呼び、大きな事象となる。筋肉の回転率が加速してきている。あたしのではなく、相手の。
だんだんと動きについていけなくなるあたしに、いくつもの拳打が叩き込まれていく。一息つく暇も与えない矢継ぎ早に突き刺さる拳からは、ありがたいことに痛みを感じない。
痛覚が痛みとして神経に伝えることができるキャパシティを超えてしまっているようだ。おかげで痛みは何も感じない。
それでも、一撃一撃で体の形が粘土のように変形していく感覚は味わわないといけないようで、ぐねぐねと虫が体内を彷徨くような気持ちの悪さがある。
壊れては再生するこれはまさに不老不死――吸血鬼。
この程度じゃあたしは死なない。
一年の期間で最も吸血鬼に近づいているあたしを殺せる奴なんて、この世には存在しない――っ!
「自惚れんなや! 自分を殺せる奴がいないやて!? あんまり調子に乗ると、殺してしまうかもしれんなぁ!」
「やれるもんならやってみろよ!」
拳同士が鈍い激突音を奏でた。あたしの指の骨は砕けたってのに、こいつのは砕けた感触がない。喧嘩馴れしてるってことか。
ボクシングのようにグローブをするか、プロの格闘家ならまだしも、素人が安易に拳で殴り合うようなことはしてはいけない。拳を痛めてしまうからだ。やるなら手のひら――掌底でやった方が拳を痛めることがない。あたしには関係ないけどさ。
壊れても、
千切れても、
吹き飛ばされても、
気づけば治ってる。再生している。元に戻ってる。認めてしまえばどうということはない。むしろ高揚感すらあるくらいだ。人間を超越し、並々ならぬ存在として君臨した。圧倒的なまでの支配欲が、あたしの中の化物を駆り立てる。
「ここで問いや! あんたはこのまま化物として生きるんか!? それとも、人間として生きるんか!?」
拳を放つ度に語調が荒くなる。
「そんなの分かんねぇよ!」
化物として生きるか、人間として生きるか。
そんなことを訊くんじゃねぇよ。
「目ェ逸らすなや! あんたには、あんたを待ってくれてる奴がいるんとちゃうんか!?」
「ぐ……っ!」
何なんだ、こいつの気迫は。威圧感なんてものじゃない。単なる気迫だっていうのに、気を強く持っていないとそれだけで殺されてしまいそうだ。
それにどうしてそんなのを気にかける。
あたしを待ってくれてる奴がいる?
いったい誰があたしなんかを待ってるっていうんだよ。
――まさか、冬道?
そんなはずない。あいつが、あたしなんかを待ってるはずがない。
「――っ!」
思考が強制的に遮断される。空中で攻めぎ合うあたしたちの間に誰かが割り込んできた。この場合、斬り込んできたという方があるいは適切かもしれない。
電柱を足場の代わりにして体勢を整え、斬り込んできたそいつに、右半身を削ぎ落とすような勢いで飛びかかる。
「……っ!?」
だがそいつはあたしが来るのを予想していたかのように振り向き、胸ぐらを掴みあげてくる。
その腕を握り潰しかねない力で締め上げる。
耐えかねたのかどうかは分からないが、そいつはあろうことかあたしを投げ飛ばそうとしてきやがった。上体を後ろに反らし、体のバネを使った全力の頭突き――いわゆるヘッドバットを仕掛ける。
誰だか知らねぇけど、邪魔するんじゃねぇよ!
そいつは間一髪でヘッドバットを避ける。
立て続けに打撃を打ち込んだのだが、しかしそれさえも受け止められる。
「悪いな。お前の相手はまた今度だ」
――え……?
投げ飛ばされたという事実すらどうでもよくなるような、そんな衝撃を受けた。雷に打たれたら、もしかしたらこんな感じかもしれない。
何の変哲のない、前髪を隠すように伸ばされた黒い髪。
その奥から光る真紅の瞳。
聞きなれた、安心できる声。
右手に携えられた、光を具現化したような神々しい剣。
間違いない、あいつは――
あたしは爪先を振り上げ、その勢いに逆らわずに体の向きを入れ換え、そのまま着地する。
「――……冬道」
東雲さんと競り合いながら、違う場所へと降りていく冬道を見つめながら、あたしは呟いた。
どことなく雰囲気も違ったし、見た目も少し違ってた。でもあいつは冬道だ。ずっとあたしが一緒にいて、自分と似てると感じていた冬道だ。
化物――冬道にそれが、バレた。
さらには殺そうとまでしてしまった。
手足が震え出した。喉が異常なまでに渇き、力を抜いてしまったらそのまま倒れてしまいそうな気がした。
これで、終わりだな。化物を認めた時点で終わってたんだ。もう、今までのようではいられない。きっと冬道との関係はこれまでだ。
あたしの中で積み上げてきたものが音を立てて壊れていくような気がした。虚無感が心を支配していく。
それだというのにカチリと、何かが填まった。
「――――Ⅰ」
綺麗に透き通る声が聞こえた。無意識に右手が何かを弾いていた。スローモーションで砕けていく氷塊。
硝子を割ったように綺麗に、小さい氷の粒が舞う先には、現代では見ることがないようなファンタジーで出てくるような杖を構えている真宵がいた。
なんだ……お前もかよ、真宵。
「今だよ!」
翔無雪音が叫ぶと、体を何かに縛られた。綱糸か。こんなのであたしを縛りきれると思うな。腕を強引に開いていた綱糸を千切り、向かってきた翔無雪音の顔面に手を伸ばす――それは呆気なく避けられる。
左腕が振り抜かれる。首だけを動かしてそれをかわす。続けざまに翔無雪音が拳打を打ち込んでくるが……遅い、遅すぎる。止まって見えるくらいに。顎を狙って爪先を蹴り上げる。
わお、などとふざけた声を漏らして避けた翔無雪音の鎖骨に、そのまま踵を降り下ろした。
が、それが当たることはない。
その場から姿を消した翔無雪音は、既に後ろに回り込んでいた。……テレポートって奴か。それは去年、飽きるほど見たよ。
降り下ろした足を止めることなく、後ろ蹴りのように突き出す。
「ボクは囮だよ」
「……っ!」
左右から二つの人影が飛び出してくる。
アウルと三年生の女子生徒(確か白神紗良とかいう人だった気がする)が両側から挟み込むように、拳を振り抜いてきていた。
そうか……アウルもそっち側なんだな。別に構わないけどさ。こうなったらもう、誰が相手だって関係ない。向かってくるなら迎え撃つまでだ。
翔無雪音を蹴り飛ばし、後ろ蹴りの軸足を曲げて屈む。
人間は対応しきれない状況を前にすると、硬直して隙を生み出してしまうものだ。避けられないだろうと思っていた攻撃が避けられ、二人は互いの拳を殴る形になってしまった。
痛みでうめき声を漏らす二人を、一息で翔無雪音を蹴り飛ばした方向に投げ飛ばし、標的を変えて走り出す。明らかな雑魚に構ってるほどあたしは優しくない。
距離を埋めると共に右足を振り抜いた。予備動作も何もなく、ただ無心にでたらめに、本能のままに振り抜いた足は、しかし真宵には当たらない。避けられたわけじゃないだろう。真宵が動いた様子はないのだから。
それならばどうして何もない空間を蹴り抜いたのか?
考えるよりも一拍だけ早く、真宵は動いた。
鎌のように見立てた足で軸足を刈り取り、宙に浮いた体を打ち上げてきた。追随を許さないという感じで、あたしの背中に爪先を突き刺してくる。受け流すように体をぐるりと回転させ、勢いを乗せた踵を叩きつけるように降り下ろす。
「――――Ⅱ」
ハウリングするように響いた声と共に、氷壁が現れる。
唐突に現れたそれに何かを思うわけでもなく、当たり前のようにそれを蹴り砕いた先には、真宵の姿はない。
「――――Ⅲ」
コンクリートにあたしの型が取れるほど、思いきり叩きつけられた。めきめきと骨が軋む音が聞こえる。際限なく真上から加わる衝撃は、あたしを押し潰そうとしている。
脱け出そうにも、先ほどまでは体の底から溢れてくるようだった力が感じられない。あれほどまでにあった一体感も、今ではない。
まるで何かを引き摺っているような、まだ諦められない何かがあるようだ。
だったらあたしは、何を諦められない。
もうあたしには何もない。
帰る場所も、待ってくれてる人も――――
『目ェ反らすなや! あんたには、あんたを待ってくれてる奴がいるんとちゃうんか!』
さっきの東雲さんの言葉を思い出した。
でも、いないよ。あたしを待ってくれてる奴なんて。
冬道はあたしのことなんか待っててくれてない。化物であるあたしのことなんか、待ってるはずがないよ。それなのに、それを思うだけでとても悲しい。
あたしは甘いんだ。たったひとつの言葉で固めた意思も揺らぐ、たったひとつ心残りがあるだけで、決心することができない。
冬道は待ってくれていないと思っていても、心のどこかで待ってくれてるんじゃないかと思う自分がいる。それだけで化物になるのを躊躇っている。
まだ、人間でいたいと思っている。
冬道と離れたくないと思っている。
人間として生きるか、化物として生きるか。
「そんなの、やっぱり……」
「ふむ」
「わかんねぇよ!」
そんなの簡単に決められることじゃない。一度自覚してしまった化物を無視して生きていくなんて、あたしにはできない。
器用じゃないんだ。簡単に割りきるなんてできない。化物だって自分の一部だ。認めないといけないところだ。
ならもう迷わない。あたしは、どっちも認めて生きていく。
「なるほど、そうですか。いいと思いますよ?」
「……は?」
「いいえ。なんでもありません、柊さん」
逃がしてあげますよ、先輩の友人ですからね。
真宵はそう言いながらもあたしと戦った。場をわざと掻き乱すようにしながら、わざと味方同士を鉢合わせにするように誘導しながら、あたしを逃がすために。
なんだ。
化物だって、認めてくれるんじゃないか。
悩んでた自分が馬鹿馬鹿しいや。良いところも悪いところも、認めてくれるのが友達なんだ。
◇
これが昨日あったことだ。真宵が巧みに場を掻き乱してくれたおかげで逃げることができたのだが、そのせいで仲間割れがひどかった。
真宵って何食わぬ顔してあんなことするんだなぁ。意外な一面を知った瞬間だった。
「はぁ……、っ!」
だめだ。どうしてもこの時期の日中は体が熱い。化物がやっぱりあたしに対応しきれていないようで、反発しているに違いない。昨日の夜も気づいたら寝てたし。
冬道に『ごめん』ってメールを送ったのは覚えてるんだけどなぁ。
ピンポーン。
と、インターホンが部屋に響き渡った。
こんなときに誰が来たんだと思いながら、ベッドから起き上がり、玄関を開ける。
「なんだ。思ったより元気みたいだな」
その先には、冬道かしぎが立っていた。