1―(3)「学校」
綺麗に掃除され、春休みにワックス掛けをされた廊下を歩く。
踏みしめる度に内履きと廊下の表面が擦れる音が俺の耳に届いてくる。
それを不快に思ってしまうような繊細な神経はしていないが、「自分はここにいるよ」と強調しているようなこの音は何だか考えようによっては、注目してもらいたい人が発してるように思える。
しかしあいにくと、この廊下を歩いていたのは俺ひとりだったため、誰ひとりとして注目するような人間はいない。
教室のドアの上に取り付けられたクラスが書かれたプレートを確認し、廊下の一番奥にあたる「2―A」のドアの前に立った。
ドアに手をかけ開くと、俺の目の前にはクラスの光景が広がっていた。
学年がひとつ上がってクラスメートが変わってしまったが、二週間近くの時間は仲良しグループを分けるのには十分すぎる時間だ。
一学年のときから仲のよかった奴ら。
新しく仲のよくなった奴ら。
そんな奴らがいくつかのグループを作って、それぞれの話題で盛り上がっている。
そして俺もまた、仲良しグループっていうのに漏れずに入っていたりする。
俺の席は窓際の後方から二番目という、みんなが欲しがる居眠りをするための特等席だ。
窓際なだけに窓から空を見上げることも、外の風景を見ることも出来るから、授業に飽きたときはそうやって時間を稼いだりできる。
ただ、俺は教室じゃなくて屋上でサボることの方が多いから関係なかったりするのだが。
俺は会話をするグループの脇を通り抜け、自分の席に着く。
と同時に、後ろから体重がかけられた。
「おはよー、冬道。今日も相変わらずの重役出勤で何よりだぜ」
「重役出勤ってなんだよ。重いから退け、柊」
「いいだろ? スキンシップだよ、スキンシップ。こうやって愛情を育むのさ」
「気持ち悪いぞ、バカ。お前となんか愛を育みたくはねぇよ。さっさと退け、重い」
「うっわ、ヒデェ。その言葉は普通に傷つくぜ?」
絶対に本心からは言わなそうな妄言を口にしながら、柊詩織は俺の背中から退く。
口調のとおりの奴で、男勝りな性格をしている。
だというのにポニーテールにまとめられた髪とその顔立ち、女性的なメリハリがあるため、柊が女であるということを忘れずに済んでいる。
しかし本人はそれを全く意識してないのか、さっきのようなことは割りと日常茶飯事だ。
背中にあたる二つの山は、男の夢が詰まってるのか非常に柔らかい。
「だいたい、女の子に重いなんて言うもんじゃないぞ?」
「……そんなこと言うなんてお前、変なモンでも食ったのか? 手術してこいよ」
「なんで自分を女扱いしただけで手術をしないといけないんだっ!」
「普段から男みたいな振る舞いをしてる奴を、今さらどうやって女に見ろってんだ。無理にも程がある。寝言は寝て言え」
窓の外には、遅刻しそうになっているのか、急いで学校に駆け込んでくる生徒の姿が見える。
別にそこまで急がなくてもいいだろうに。
「ぐっ、それを言われると何も言えないぜ……。で、でも一応あたしだって女らしくしてるつもりなんだよっ!」
「……どこら辺がだよ」
「髪を纏めるゴムはしっかり選んだりしてるし、休みの日だってそれなりにオシャレするようになったし……」
「そんなのやる前に、口調と行動を直した方が女らしくなれると思うぞ?」
「その手があったか!」などと喚き散らしているが、なんでその考えが最初に出てこなかったのかが不思議だ。
まさか、口調と行動は女らしくしてるとでも思っていたのだろうか?
仮にそうだとしたなら、目が曇ってるとしか思えない。一度、眼科に行くことをおすすめする。
「で、なんでまた女らしくなりたいなんて言い出したんだ?」
「ん? 特に意味なんてねぇって。ただ、もうちょっと女らしくなりたいって思ったんだよ」
「ふーん。別に今のままでもいいと思うけどな」
その方が話しやすいし、変に女らしくなんかなられてもこっちの調子が狂っちまうからな。
「そうか? お前が言うなら、そうなのかもしれねぇけど」
「正直、どっちでもいいけどな」
「適当かよっ!」
適当とは失礼な。俺は今のままの方が話しやすいが、女らしくなりたいならそうした方がいいって意味で、どっちでもいいって言ったんだ。
適当なんて言ってもらっちゃ困る。
「……ったく。お前、変わったよな。去年は話しかけても今みたいに返してくれなかったのにさ」
「それ、妹にも言われた」
「あたしやお前の妹だけじゃなくて、みんな口を揃えて言ってるよ。『あいつ、なんか変わったよな』って。何があったんだよ」
「異世界で勇者やって、魔王倒してきたんだよ」
それを聞いて柊はため息をつく。
「またその話かよ。国語の評定が二のお前にしたらよくできた話だと思うけど、そんなのじゃ小学生も騙せないって」
高校の評定は五段階評価で、五が最高で一が最低。
つまり、俺の国語の成績は最低を何とか逃れることが出来た程度のものでしかない。
「本当だっての。異世界に召喚されて、魔王を倒す旅をしてきたんだよ。結構辛かったぜ……」
「まだ言ってるし……。話す気ないなら無理には聞かねぇよ」
諦めた風に息を漏らして、柊は自分の席に座る。
自分の席っていっても、俺の後ろの席だ。
……まぁ、こんな反応でも仕方がない。
異世界に召喚されて勇者になって、魔王を倒すなんていうのは、柊からしたら小説や漫画の中だけのことでしかないんだ。
だから呆れられても文句は言えない。
これを分かってくれる人なんて、ひとりいれば十分だ。
「おはよう。相変わらずかしぎと詩織は仲がいいな」
俺がそんなことを思っている最中、上から唐突に声をかけられた。
見知った声だったため、後ろに座っていた柊がいち早く反応を示した。
「おはよー、両希」
「自分から俺に話しかけてきてくれんのは、柊とお前くらいのもんだからだよ、両希」
実際、俺に自分から話しかけてきてくるなんていうのは、このクラスには二人しかいない。
柊と、目の前にいる両希蓮也だ。
前のクラスはあと何人かいたが、クラス替えになってそいつらとはバラバラになってしまった。
両希は俺の斜め後ろ、柊の隣の席に座る。
「そうだな。だが、幼馴染みに話しかけるのは当然だろ?」
「そんな風に平然と言えるとこがカッコイイよ、お前は」
なんの不幸か、俺の幼馴染みは美少女でなければ女の子ですらない、この男である両希蓮也なのだ。
長く伸ばした髪は無造作というよりも整えられた長さという感じで、かけているメガネがクールな感じを引き立たせている。
簡単に言えばイケメンだということだ。
容姿端麗、成績優秀スポーツ万能。おまけにルックスがいいなんて、男からしたら嫉妬の対象になるだろう。
だが、そんな両希にも欠点がないというわけではない。出来れば、なかった方がよかった欠点があったりする。
「まさかとは思うが、今日もかしぎは藍霧真宵と一緒に登校してきたのか?」
「……まぁな」
「くっ、羨ましいぞ!」
立ち上がり、拳を握りしめながら叫ぶように言ってきた。
欠点というのはこれだ。
両希は一途というかなんというか、良くも悪くも一直線に進んでしまうような性格をしている。それのくせに、方向音痴だから質が悪い。
一直線にしか進めないだけに、間違った方向に進んでしまっても切り返すことが出来ないのだ。
なんというか、凄く残念なイケメンなんだよな。
「かしぎ! お前は今や『藍霧真宵ファンクラブ兼精鋭部隊』から狙われている身分だ!」
「だから『藍霧真宵ファンクラブ兼精鋭部隊』ってなんなんだよ……」
学校のアイドルなんてものが存在するのはそれこそ想像上の話だけかと思ってたが、それにファンクラブや精鋭部隊があるなんてもう、引くしかない。
俺の話を聞いて馬鹿にしない柊ですらも苦笑いをしてるくらいだ。
結構、ヤバイのではないかと思う。本気で。
しかもそれが幼馴染みとなってくると尚更だ。
「『藍霧真宵ファンクラブ兼精鋭部隊』というのはだな――――」
「いや、俺が聞きたいのはそんなことじゃなくて……」
「黙って聞くんだ! かしぎ!」
「……」
諦めるしかなさそうだった。
なんで今日もそのことを聞かされないといけないのだろう。
俺たちが異世界から還ってきてから、毎日聞かされている。
最初こそ、その『藍霧真宵ファンクラブ兼精鋭部隊』とやらが気になったが、こう毎日聞かされてるんだから忘れられるはずがない。
もしかしたら、魔王と戦ったときよりも過酷かもしれないぞ、これ。
「んんっ、気を取り直して。『藍霧真宵ファンクラブ兼精鋭部隊』というのはだな、この私立桃園高校に舞い降りた藍霧真宵を称えるための会だ。
精鋭部隊として、変な虫がつかないように露払いなどもしているんだ」
「へー、そうなのかー」
「聞いているのか? かしぎに詩織!」
「あたしも!?」
驚いたような声を上げた柊に「当たり前だ!」と一喝している両希の姿を見て、もうため息しか出ない。
いつもは傍観者である柊もいきなり巻き込まれて大変そうだ。
俺としてはひとりからふたりになったことで、負担が半分になったから喜ばしいことだ。
「全く……。かしぎよ、お前はいったい我らが藍霧真宵に何をしたのだ?」
「異世界で一緒に勇者してきた」
「嘘をつくな!」
バン、と机を叩きながら鬼気迫る表情で叫ぶ。
注目されそうな行動をしてるのに誰も気に留めないのは、毎日の恒例行事になっているからだ。
このときばかりは俺に話しかけてこないみんなが頑張れ、という眼差しを送ってきてくれてる――――ような気がした。
「異世界で勇者をしてきたなんて、幼稚園児でも騙されないぞ!」
小学生から幼稚園児に格下げされていた。
「正直に白状したらどうだ? そうすれば尋問をする必要はなくなるんだ」
「尋問って、おい。つーかよ、別に何もねぇって。朝だって俺の家に迎えに来んのは家が近いからってだけだろうし……あ」
言ってから気づいてしまった。自分で暴露してしまったという事実に。
そういえば『藍霧真宵ファンクラブ兼精鋭部隊』の奴らは、真宵後輩が俺を迎えに来てることを知れないようにされてたんだ。
「かしぎ! なんて羨ましいことを!」
「ちょっ、泣きつくな! 鬱陶しいだろバカ!」
「これが泣かずにいられるか! お前には分からないだろ、この悔しさが!」
分からねぇよ。俺は心の中で吐き捨てた。
とりあえず泣きながら抱きついてくる両希を押し返して、席に座らせて息をはく。
「俺と真宵後輩は別に恋人とかじゃねぇし、あっちにもそんな気はねぇだろうから安心しとけ。当分は彼氏が出来た、なんていう噂は出ねぇよ」
「そうは言ってもだな? 我々が調べたところによると、こうやって藍霧真宵が他人と話してるなんていうのはかしぎ、お前が初めてなんだ」
この世界のプライバシーは、俺がいなくなってた空白の五時間にでも改訂されたのだろうか。
こんな怪しげな団体に簡単に調べられるなんて、真宵後輩も迷惑しているに違いない。
「二週間前までは何の接点もなかったかしぎと彼女がいきなり話すようになるなんて、何かがあったとしか思えないんだ。さぁ、さっさと白状するんだ!」
「何もねぇっての。この前から言ってんだろ?」
「あくまでも答える気はないみたいだな」
答えるも何も、本当のことを話しても信じてないのはそっちだろ――――という言葉を俺は飲み込む。
信じてもらえないのは百も承知だからだ。
とはいえ、そうなると言い訳が思い付かないのが現状だ。
今までまるで接点がなかった俺たちが、いきなり一緒に行動するようになった理由。
そんなものがパッと思い付くはずもない。
「なら、夜の道は背中に気を付けることだ」
「おぉっと、脅迫でもする気か?」
「これは脅迫じゃない。近々、我々『藍霧真宵ファンクラブ兼精鋭部隊』は容疑者・冬道かしぎに闇討ちをかける!」
「闇討ち!? て、テメ、冬道になにする気だよ!」
「いや、闇討ちって言ってんじゃん。落ち着けよ、柊」
「これが落ち着けるかーっ! ……ってなんで闇討ちされる本人が一番落ち着いてんだよ!」
両希の胸ぐらを掴みあげた柊は、そのまま見事なノリツッコミを繰り出してくる。
どうでもいいけど両希が青い顔してるから離してやってくれ。
「と、とにかく! 夜はあまり外を出歩かないようにした方がいい」
「……お前って『藍霧真宵ファンクラブ兼精鋭部隊』の一員なんだよな? なのに、なんで俺に闇討ちのこと教えてるんだ?」
「なんでって、そんなの僕とかしぎが幼馴染みだからに決まってるだろ」
俺は両希の発言に呆気にとられてしまった。
闇討ちを企てるような団体に入ってるくせに、やっぱり俺のことを心配してくれるんだな、こいつは。
「やっぱりカッコイイよ、お前」
「でもさ、忠告するくらいなら止めてやれよ」
言われてみると、確かに柊の言う通りだった。
「……」
おい、なんでそこで顔を逸らすんだ、両希。忠告はしてくれるくせになんで止めてはくれないんだよ。
「まぁ、気を付けておくよ。なんせ、幼馴染みの忠告だからな」
「次に会うときは『藍霧真宵ファンクラブ兼精鋭部隊』の両希蓮也だからな。覚悟しておけ!」
「それでも忠告はしてくれるんだ?」
「……」
そこは「しまった」みたいな顔をするような場面じゃないと俺は思う。
とりあえず、夜に出歩くときは背中に注意しておくか。この怪しい団体なら本当に闇討ちもやりかねん。
このあと担任の教師が教室に入ってきたため、話は一時中断することになった。
◇
中世の欧州のような宮殿。その王室に、一組の異界より召喚された男女の姿があった。
男は今の状況がまるで呑み込めていないのに対して、女は周りの状況など意に介した様子はまるでなかった。
無表情な顔の無感情な瞳。
それが、ヴォルツタイン王国の皇女の体を貫く。
「……ここはいったいどこでしょうか? どうして私はこんな場所にいるのか、説明してもらいますよ」
凛とした声が広い王室に響き渡る。
周りには武装した兵士がいるというのに、毅然とした態度のまま、皇女の元へと歩み寄っていく。
カツカツと響くブーツの音は、自分の存在を明確に示しているようにさえ思えるほど、堂々としたものだった。
皇女の目の前にくると女は立ち止まる。
王座に座る皇女を見下ろすように位置取りながら。
「いきなりこのような場所に喚んだことには、お詫びを申し上げます。ここはグリタニア大陸のヴォルツタイン王国です。私はヴォルツタイン王国の皇女です」
「…………」
「何を言っているか分からないとは思います。我々は、異界より貴方達を喚び出したのですから」
「貴方達?」
皇女に言われてようやく男の存在に気がついたのか、女は後ろを振り返り男に視線を向けた。
しかし、すぐに興味をなくしたのか皇女に向き直る。
「喚び出したとはどういうことですか。異界、と言いましたが何故私たちを喚び出すような真似をしたんですか」
威圧的な口調に皇女はわずかに圧倒されながらも、冷静を保つ。
皇女が圧倒された理由など、単純明快だ。
喚び出した、なんていう魔法のような言葉を口にされたにも関わらず、あたかもそれを信じたかのように状況把握に努める冷静さ。
もしも自分が同じ立場に置かれたら、このように振る舞うなんてことが出来るわけがない。
何もかもが分からない、何が起こるか分からない恐怖によって、そんな余裕は削られている。
息を呑み、慎重に言葉を選ぶ。
「あなた方にお願いがあって、喚び出しました」
「……なんですか、お願いとは」
「我々の世界を、救っていただけないでしょうか? 我々の世界を救えるのは、あなた方だけなのです!」
「嫌です。お断りします」
「えっ……?」
「どうして私がそんな真似をしなければならないのでしょうか? いきなり喚び出されて世界を救えだなんて……意味が分かりません」
感情の籠っていなかった瞳に、鋭さが現れた。
女の言い分はもっともだ。いきなり見ず知らずの場所に連れてこられ、それで自分達の願いを聞けなんていうのはおこがましいにも程がある。
しかも願いが世界を救えというものだ。馬鹿げているとしか言いようがない。
「そんなものはあの人にでも任せておけばいいんです。私には関係ありません。元の世界に還してください」
「で、ですが、我々の精鋭部隊は魔王に全く歯がたたず、もう異界の勇者に任せるしか――――」
「だからなんです?」
女の声が、焦る皇女の声の途中で割り込んだ。
「他人任せも甚だしいですね。魔王に勝てないから、異界から喚び出した勇者に丸投げですか? 第一に、私には勇者なんて呼ばれる力は一切ありません。ただの一般学生に何を求めてるんですか?」
「……」
皇女は女の言葉に答えることが出来ない。
一般学生という言葉が理解できないわけじゃないだろう。
ヴォルツタイン王国と呼ばれるここにも、学業を学ぶ場所がないわけではないだろう。
いくら世界が違えど、一般学生が何を意味するかは分かる。
選りすぐりの精鋭部隊が勝てない魔王と戦わせても、結果なんてものは考えるまでもない。
「分かりましたら早く還してください。もう一度言いますが、勇者ならあの人にでも任せておけばいいんです」
「……私たちの国の言い伝えにあるんです」
ぽつりぽつり、と皇女は呟いていく。
「『天剣』と『地杖』に導かれし勇者が舞い降りるとき、混沌とした世界に光をもたらす。金の刃と銀の杖、現れし勇者に授けるべし――――と」
「よく有りがちな設定ですね。聞こえは良いように聞こえますが所詮は、他の世界から来た人間に丸投げしてるのと同じですよ?」
女は決して首を縦に動かそうとはしない。
悉くを否定し、皇女の期待をどんどんと削ぎ落としていく。
「『天剣』と『地杖』、でしたっけ? そんなものがあるなら最初から使えばいいじゃないですか」
「……『天剣』と『地杖』には意思があるんです。この二つが選んだ者でなければ、使うことは出来ません」
「それは残念でしたね」
「あなた方は『天剣』と『地杖』に選ばれました! あなた方しか……世界は救えないんです……」
拳を強く握りしめ、唇からは血が一筋流れ出ている。
強く噛み締めた証拠だ。
この皇女も魔王から世界を救うために最善を尽くし、出来る限りのことをしてきたのだろう。
それでも、駄目だった。
だから最後の手段として、『天剣』と『地杖』に選ばれたこの二人に世界を救って欲しいと願っているのだ。
そのことが分からないわけではない。
だが、それでも――――。
「だからなんですか?」
皇女の胸に、言葉が突き刺さる。
「何故私が見ず知らずの他人のために、そんな危険を犯す必要があるのでしょうか? 何のメリットもなく、デメリットしかない願いを聞く理由は――――ありません」
これとないくらいに、女の言葉は止めとなった。
心臓が止まる思いだった。
最後の手段として『天剣』と『地杖』によって選ばれた者を召喚し、懇願した結果がこの様だ。
一概に召喚するといっても、無数に存在する異界から、たった二つを見つけ出して召喚する。それは砂漠の砂の中から小さな真珠を見つけ出すようなもの。
苦労して、ようやく見つけ出した希望は、淡い泡として消え去った。
皇女や、周りの兵に絶望の色が見え始める。
「さぁ、早く還してください。あの人なら置いていきますから。勇者なら、ひとりいれば十分でしょう?」
皇女は答えられない。もう、言葉が出てこない。
女の言葉の通りであるならば、言い方は悪いがこんな女に頼みはしない。しかし、それでも頼み続けた。
すなわち、勇者は必ず二人いなければならないのだ。
『天剣』と『地杖』に選ばれた、二人の勇者が。
「何をしてるんですか、早くしてください」
「……しばらく還ることは、出来ません……」
かすれた声で発せられた皇女の言葉に、女は形の良い眉をしかめた。
「どういう意味ですか」
今までにないくらい鋭い声だった。
感情が籠っていなかった声に怒気が宿ったのが分かる。
「……あなた方二人を喚び出すには、大量のエネルギーが必要でした……。還すにしても、同じくらいエネルギーの充填が必要となります」
「何とかならないのですか?」
「こればかりは、時間をかけなければ……」
「どのくらいかかりますか?」
「貴女ひとりを還すにしても、二年以上はかかります」
「二年!? ふざけないでくださいっ!」
ここに来て女は初めて感情と言えるほどの感情をむき出しにして、皇女に向かって掴みかかった。
「明らかに丸投げする気だったんじゃないですか! ふざけないでください!」
「…………」
掴みかかられた皇女の目には、まるで光が宿っていない。
頭を垂れ、女のなすがままにされている。
皇女がこんな風にされているというのに、護衛として周りに立っている兵は動く気配は一切ない。
絶望に支配され、誰もが動けないのだ。
最後の希望が泡のように消え去ろうとしている事実は、絶望を与えるには十分すぎるほどに十分だった。
だが、まだ消えたわけじゃない。
「おい、お前。還れねぇからって皇女様に当たっても意味ねぇだろ」
今まで声を発することがなかった男の声が、絶望に満ちる王室に響き渡った。
◇
午前中の授業はしっかりと夢の中で受けていたため、あっという間に過ぎていった。
両手を上に上げて、凝り固まった体をほぐす。
黒板を見る限りだと今の授業は物理だったみたいだが、俺の机に置かれている教材は数学だということは気にしない。
ちなみに数学があったのは一限目。
……ずいぶんとよくお眠りになってたんだな、俺。
「やっと起きたのかよ、冬道。どんだけ寝りゃ、気が済むんだ?」
黒板に書き記された授業内容を、柊は綺麗にまとめながら呟くように俺に言ってきた。
その性格に見合わず、綺麗な文字は見やすく丁寧にまとめられている。
「若いから眠くなるんだよ。それにあれだ、授業で聞いてる先生の話って子守唄みたいで眠くならねぇ?」
「あっ、それはあるな。特に分からねぇところって『あー、もうやってらんねぇ』って感じになってさ」
「よく分かってんじゃん。俺の場合はそれが全部だ」
「勉強しろ」
驚くほど冷たい声で言われてしまった。
高校の授業で習ったことなんて社会に出たら何の役にも立たないのに、なんでこんな苦労して学ばないといけないんだろう。
数学や国語ならまだしも、物理なんか学者にでもならなきゃ使う場面なんてない。言い切ることが出来る。
……なんていう、中高生ならありがちな思考をシャットアウトする。
意味がないのは分かってるけど、高校を卒業できないと就職とか厳しいからな。やるときはやらないといけない。
その点、柊は真面目だと思う。
男勝りな性格のくせに、こういうところは真面目なんだよな。
ふと、腹の虫が抗議をあげていることに気づいた。自己主張の激しい腹の虫をなだめるために、俺は購買部へと向かうことにする。
俺は料理なんて出来ないから、弁当なんか作ったりしない。
妹のつみれに任せてもいいけど、さすがにそこまでやらせるわけにはいかないから、いつも昼飯は購買部かコンビニで済ませてる。
俺の家は親が共働きで、普段は家に帰ってこない。
仕送りはちゃんとされてるけど、金の管理はつみれに任せてる。妹に小遣いをもらう兄って、物凄いシュールな光景だと思う。
「冬道かしぎ先輩はいますでしょうか?」
廊下の方から、聞き親しんだ声が耳に入ってきた。
声をかけられた生徒は、学年が下の生徒が相手だというのに、圧倒されているように見えた。
そいつは俺のことを見つけると、教えてもらった生徒に礼を言うことなく、堂々と俺の方に向かってきた。
「また来たのか、真宵後輩よ」
「またとはなんですか。嬉しくはないんですか?」
「嬉しい嬉しい超嬉しい。大好きだぜー、真宵後輩」
冗談で言った言葉に両希を含めた何人かのクラスメートが反応していた。
なるほど。お前らが俺に闇討ちを仕掛けようとしてる『藍霧真宵ファンクラブ兼精鋭部隊』か。顔は覚えたぞ。闇討ちしようものならお前らには手加減しないからな。
「先輩が口先だけなのは分かってます。早く行きましょう。ここは不快です」
「はいはい、分かったよ。購買部に寄ってからでいいだろ?」
「行く必要はありません。先輩の分のお弁当は、私が作ってきましたから。足りないというならば構いませんけど」
……俺に突き刺さる重圧が五倍増しになった気がする。いや、間違いなく五倍増しになっただろう。
『藍霧真宵ファンクラブ兼精鋭部隊』の奴らにとって、真宵後輩の手作り弁当というのはどんな高級料理にも勝る一品だ。
それを俺がもらうもんだから、嫉妬してるに違いない。
俺はこの重圧に気づかないフリをしながら、真宵後輩の背中を押して教室から出ていく。
二学年の廊下を通ると嫉妬の重圧はさらに重いものとなり、そこを抜けて屋上へと行くための階段まで来るとようやくそれはなくなった。
「どうしたんですか? そんなに急がせて。そこまで空腹だったんですか?」
「そうじゃねぇよバカ。分かってるくせに訊くんじゃねぇよ」
「大変ですね」
「……おかげさまでな」
他人事のように言う真宵後輩に若干の怒りを感じながら、屋上の扉を開け、中に入る。
そこは落下防止用に鉄格子に囲まれてるだけで、何もない殺風景な場所だ。
屋上なんて高校にあっても使う人なんてほとんどいないから、俺たちがサボったり飯を食ったりするにはうってつけの場所だったりする。
「どうぞ」
「おう。サンキュー」
真宵後輩が持っていた二つの弁当のうち、青色の包みに包まれていた方を受けとる。
弁当を開けてみれば、見かけによらず可愛い中身をしていた。それに美味そうだ。ひとつひとつが手作りのようで、冷凍食品がないみたいだ。
「ずいぶん手のこんだ弁当だな。俺のために時間をかけてくれたのか?」
「残念ながら違います。今日はたまたまです」
ですよねー。頼んだわけでもないのになんで作ってきたんだろと疑問だったが、どうせそんなことだろうと思ったよ。
真宵後輩が俺のために弁当なんか作るわけがない。
「ですが」
「むぐ?」
「……手をつけるのが早いですね。いいですけど。もし先輩が私の手作り弁当を食べたいのでしたら、毎日作りすぎますがどうしましょう?」
直接作ってくるって言わないのが、真宵後輩らしいな。
「じゃあ毎日作りすぎてもらうとするかな」
「分かりました。では、楽しみにしておいてください」
楽しみにすると同時に、嫉妬の重圧を受けることになるんだろうけど、気にしないでおくとしよう。気にしてたら埒があかない。
見た目通り味が美味かったため、会話をすることなく弁当を平らげてしまった。
真宵後輩はまだ半分も食べてないが。
「そういえば、さっきだな」
「なんですか? ……むぐ」
「お前が俺の家に迎え来てるの、バレちまった。スマン」
「別に構いませよ。バレたからといって、私には何の害もありませんから」
そうだったよ。こいつは自分に害がなかったら、自分のことでもどうでも思う奴だったよ。
「前々から気になってたんだけどよ、なんでお前、わざわざ俺と弁当を食おうとするんだ? 迎えに来んの面倒じゃね?」
「その程度なら面倒だとは思いません。それに、食事は楽しくとりたいですから」
「クラスで友達とかいねぇの?」
「……いますよ」
どうやら、クラスには馴染めていないようだった。
この性格じゃ、馴染めないのも仕方ないか。
でも、食事を楽しくとりたいっていうのは嘘偽りのない本心からの言葉なのだろう。それは俺も共感できる。
「クラスで食事をするよりも、癪ですが先輩と一緒の方が楽しいですし、楽ですから」
「クラスの連中と一緒でも俺は楽しいが、やっぱりお前と一緒の方が楽しいし楽だな」
普通の話題で話してもいいが、真宵後輩と異世界での話をしてた方が楽しく感じる。それ以外でも楽しく感じるけどな。
別につまらないってわけじゃない――――けど、満たされないっていうこともまた事実。
正直にいうと、真宵後輩には気を使う必要がなくて楽だ。お互いに家族みたいに接しても何の問題もない。
「お前ってスゲー人気だよな。ファンクラブとかも出来てさ」
「いい迷惑です。付きまとわれたりもしますし、この前なんてストーカーまでいましたから」
「……アイドルかよ。で、そいつはどうしたんだよ」
「あまりにもしつこいので、少しだけ懲らしめたらついてこなくなりました」
「使ったのか?」
「少しだけです。『地杖』は使ってませんから、そこまでの効力はありませんよ」
弁当を頬張る様子は非常に可愛いのだが、言ってることが危険だった。
それに真宵後輩の言い方からすると、こっちでも普通に使えるみたいだ。
「そんなに使う場面があるわけじゃないし、たまになら使っといた方がいいかもしれねぇな。……いつ喚ばれても、いいようにな」
「そうですね。また喚ばれるとしたら、魔王が現れたときくらいでしょうから」
そのときに戦えませんなんて言えないからな。
元勇者っていっても、あっちの世界に行ったら勇者になるんだ。使い方を忘れるわけにはいかない。
……まぁ、忘れることなんてないだろう。あれだけ必死に鍛練したんだ。簡単に忘れられるはずがない。
たまになら『天剣』を使ってみてもいいかもしれない、そんなことを思う昼休みだった。