9―(2)「変化②」
始業式も滞りなく終わり、実に一ヶ月ぶりに自分の席に座った。
窓際後方から二番目。日当たりもよく、授業中に居眠りしていても気づかれにくいベストポジションだ――などと言ってみたが、触るな危険の俺がそうしていても注意されることはないし、そもそも話しかけられることがない。
体育祭でいくらか馴染めたのではないかと思ったが、ただの思い過ごしだったようだ。
だってクラスの輪がいつになく俺を拒絶してるし。男女が仲睦まじくわいわいしてるし。
なんだよ。俺の知らないところでクラス会でも開いてたのかよ。
俺たちはわりと本気で世界の危機を救ったというのに呑気なもんだ。……まあ、実際にあったかどうかはさておき、参加したいとは思わない。
「かしぎ、僕にはお前の考えてることが手に取るようにわかるぞ」
「……あんだよ」
眼鏡を知的に光らせ、両希蓮也が頬杖をつく俺の眼前にやって来る。
「みんなが変わったのではなく、かしぎがいつになく近寄りがたくなってるんだ。そんなに威嚇してお前はなにがしたいんだ?」
「俺、なんにもしてねぇんだけど」
「なるほど、無意識に威嚇するとは。これが夏休みデビューというものか」
「してねぇっての。お前はなんも変わってねぇよな。……ああ、眼鏡変えた?」
「うむ。苦し紛れなら言わないほうがいいぞ」
両希が椅子を引けば、ワックスの利いた床が不快な音を奏でる。
そういえば司先生が言ってたっけ。夏休みを利用して全部の階の床にワックスを塗るとか。
この校舎は『組織』のメンバーである司先生が管理している。そのせいで能力者と統括する『組織』の、いわば子機といえる桃園高校は標的にされやすい。なにせここを落とせば、目障りな敵の一部を吸収できるのだ。
だが、ここを落とすのははっきり言って不可能だ。
『組織』の幹部より、桃園メンバーを相手取るほうが圧倒的に厳しい。
俺や真宵を除いてもここには魔王と超越者がいるのだ。
『吸血鬼』の眷属によって生徒会室の壁を含んだ校舎の正面が破壊されたと聞いていたが、ついでに直したらしい。
「まったく……休み中、呑気に旅行などに行きおって。みんなが団結しているように見えるのなら、それは学園祭の準備を進めていたからだろうな」
「へぇ」
「他人事みたいな返事をするな。今年は場所の確保もできているし、修学旅行のお金を稼がなくてはならないのだからな」
九月半ばには桃園高校の名物である学園祭が行われる。この学園祭はニュースでも紹介されるほど有名だ。なにせ地域を上げての大騒ぎが一週間も続くのだ。そこらの祭りよりも祭りらしい。
最初は学園祭と地域の祭りが同日に行われていたものらしいのだが、当時の校長と区長がどうせならまとめてやればいいのではと話し合った結果、こういう形に収まったのだ。その名残として地域と協力するようになっている。
土日を挟んだ一週間のうち三日間は学生のみ。残りの四日は一般解放される。
学園祭の出し物で稼いだお金は学年で使う経費に回されるのだが、二年生だけは違う。十月の半ばには修学旅行があり、ここで稼いだ分は自分たちで好きに使うことができるのだ。
出費の多い高校生としては、なんとか稼いでおきたいところである。
「なにやるんだ?」
「……本当になにも聞いていないんだな」
ジト目で見下ろされ、俺はついっと顔を背ける。
「うるせぇな。悪かったよ。それでなにやるんだ?」
「喫茶店だ。といってもただの喫茶店では面白味がないからということで、男女ともにコスプレをすることになったのだ」
「はぁ? よくそんな結論になったな」
コスプレってオタクっぽいイメージが先行して好まれそうではないのに。
異世界で本物の鎧とかドレスを見てきたし、なにより俺が着流しを愛用していたのだ。いまさらコスプレに拒否反応はない
王道といえばメイドや執事だろうか。
王宮に招待されたとき、メイドと執事の行列にお出迎えされたが、あれには絶句せざるを得なかった。世話係りとか掃除とかで人員を増やさなければならないのはわかるが、なにもそんなことに数をかけることはないだろ。
『勇者』の機嫌を損ねたくないのだろうけど、中身が庶民の俺には逆効果だ。下手に気を遣われてやりにくいったらない。
「腹に背は変えられないということだろうな。それに案外、反応はいいみたいだ。衣装を作ってるときなど生き生きとしていた」
「どんなの作ったんだ? コスプレっていうくらいだからいくつかあるんだろ?」
「いまのところ男子は執事や戦士風、女子はメイドやチャイナ服、ナースやチアリーディングなどが完成しているな」
「そ、そうか」
おそらく俺は顔を思いっきり引き攣らせている。間違いない。
両希が言うと別次元の単語に聞こえてしまう。
「かしぎはやりたいコスプレはあるか?」
「……あのなぁ、喫茶店ってことは接客するやつがコスプレするんだろ。俺にそんなのできると思ってんのか? 無理に決まってんだろ」
「わかっている」
「断言すんじゃねぇよ」
自分で言う分にはいいけど、他人にあっさり言われると納得しがたいものがある。否定したいわけではないけど、あまり気分はよくない。
「まあ、準備を手伝わなかったのは悪かった」
「僕もああ言ったが、むしろ来なくて正解だった。どうせ来てもなにもできないだろ?」
「だからお前、素直に言い過ぎだろ。さすがにヘコむぞ」
たしかに衣装を作ったり喫茶店のメニューを考えたりできないからいても邪魔だが、それにしたってやれることくらいあるだろ。荷物運びとか。
どっちにしても来れなかったんだけどさ。
「…………」
背凭れに体重を預け、後ろの席を見やる。
そこには、いるべき少女の姿はなかった。柊詩織の姿は、どこにもなかった。
両希はクラスでも俺と言葉を交わす数少ない友人で幼馴染みだ。俺がこんなふうに孤立して、両希は優等生で、一緒にいれば悪い噂が立つというのにそんなのお構い無しに近くにいてくれる。けれど用もなしに馴れ合う関係ではないのだ。
こうして前置きして話しかけてくるということは、両希も俺と同じことが気になっているのだろう。
その証拠に穏やかさが消え、表情は真剣そのものだ。
「詩織はどうしたかわかるか?」
「わかんねぇ。あいつが理由もなしに休むとは思えねぇんけどな」
だから心配で仕方がないのだ。
思い出されるのは六月のことだ。
柊が超能力に本格的に関わることになったのは、東雲さん――九十九東雲が『九十九』を潰すための戦力として彼女を選んだからである。
柊詩織――旧姓、九十九詩織。
『九十九』の勝手によって産み出され、そして欠陥品という理由から捨てられた少女。
柊は『吸血鬼』の能力者だ。その名の通りの吸血鬼。
欠陥品だったころの柊は誕生日が近くなると、扱いきれていない『吸血鬼』が暴走し、能力者を無差別に襲っていた。それがいつからだったのかは本人もわからないらしいが、意識を保つことができるようなったのは一昨年からとのことだ。
今年も『吸血鬼』の暴走に振り回されることになったが、俺たちも協力することにより、なんとか制御できるようになった。
だからこそ、もう休む理由がないのだ。
『吸血鬼』の超回復力で病気にもかからないし、全身を切り裂かれても一瞬で再生する。家庭の事情があるなら学校に連絡があるはずだ。
両希が知らないならその線はない。
――そうなると考えられるのは、面倒事を抱え込んだというくらいだ。
「かしぎ? なにか思い当たることがあったのか?」
「……いや、特にねぇな。ただのサボりじゃねぇのか?」
「お前ではないのだから無断欠席などするわけがないだろう。前もこんなことがあったし、そのころには妙な噂もあったからな」
「気にするようなことじゃねぇだろ」
あえて強めの口調で言い、都市伝説・吸血鬼の話題を切り離す。
両希ならこれと柊の関係性を結びつけかねない。真実で受け取りはしないだろうが、それを柊に話してしまおうものなら、うっかりボロを出してしまうかもしれない。超能力が露見してはならない以上、どんなに信頼していても無関係な人間にも尻尾だって掴ませるわけにはいかないのだ。
表沙汰にできない能力者の戦いは情報が生命線の一つといえる。
もちろん第一は己のステータスだ。だがそこに能力を持たない人質を加えることで、戦況を圧倒的に有利に進められる。そうなれば確実にアウトだ。
俺はこいつをあんな戦いに巻き込みたくない。
できることなら柊だって巻き込みたくなかった。
いまさら言っても、遅すぎるのだが。
「とりあえず帰りに柊のとこ行ってみるよ。風邪引いてぶっ倒れてるのかもしれねぇし」
机の脇に引っ掻けた鞄を掴み立ち上がり、両希がついていくなどと言い出す前に教室を出る。廊下には久しぶりに会ったクラスメートと談笑する人垣に溢れていた。その合間を縫って突き当たりまで逃げ、ついてきてないのを確認して下駄箱に走る。
今日は始業式だけの午前カリキュラムだ。帰りのホームルームが終わってからだいぶ経ってるし、クラスで話し相手のいない真宵は待ちぼうけを喰らってるはずだ。
一年廊下をざっと見た感じではどのクラスも帰り支度は済んでいる。
こりゃ絶対待ってるな、と流れ落ちる冷や汗を袖で拭い、 急ぐ。
靴を履き替え、玄関を抜ければ案の定、真宵は校門のそばに立っていた。
明らかな不機嫌オーラを放つ真宵に圧倒されつつ、控えめに声をかける。
「ま、待ったか?」
じろりと俺を一瞥。思わず喉を鳴らしてしまった。
「いま来たところです。ずっと待ってたりしてませんから」
むー、という感じで唇を尖らせる真宵は黒髪を翻す。
「ちょっと待ってくれ。寄ってくところあるんだ」
「別に構いませんよ。予定があるわけではありませんし。どこですか?」
なんだかんだ言いつつ待っていてくれた真宵の隣に並び、歩き出す。
「柊の家だ。学校に来てなかったからちょっと心配でな」
「そうですか。たしかに不真面目なかしぎさんと違って、柊さんが無断で休むはずがありませんからね」
「事実なだけに言い返せねぇけど、まあそのとおりだ」
並木道を抜け、商店街に差し掛かる。
この町には人が集まるエリアが大きく分けて二つある。一つがショッピングモールだ。飲食店は和食から洋食まですべて揃っている。衣服に至っては量販店から一流ブランドまで網羅されている。加えてゲームセンターから本屋など、娯楽施設も充実していた。
ショッピングモールは若者をターゲットした施設が多く導入されているのだ。
もう一つが商店街。こちらは八百屋や魚屋など、食材などを安く売り込む店舗が多い。ほかにも日用品や雑貨なども種類が豊富で、主婦層をメインとしている。
ショッピングモールと商店街は直前の並木道で分かれ、隣接して作られている。
駅前ということもあり、いつでも賑わいのある場所だ。
学園祭の一般解放日には商店街チームと協力することになっているらしい。
ただし今回はどちらにも用はない。素通りし、切符を購入して電車に乗り込む。
柊は隣町のマンションの一室に居を構えている。前回は急ぎだったから跳んで移動したが、ただの確認のためにそんなことをするわけがない。
「ところでお前のクラスは学園祭でなにやることにしたんだ?」
乗り込んですぐに電車が動き出す。
がたごとと揺さぶられながら、到着までの暇潰しに訊ねた。
「一年生はどのクラスも大したことはやりませんよ。案としては演劇やお化け屋敷などがありましたが、演劇部が本格的な公演をしますし、お化け屋敷も三年生がやるとのことでした」
「だろうな。去年、俺たちもお化け屋敷やろうって案にはなったけど、無理だって言われたし。直談判までやってもダメだったからなぁ」
「よく覚えてましたね」
「あんな暴挙に出られたら忘れたくても忘れられねぇよ」
直談判なんて表現したが、あれはそんなものではない。ただの脅しだ。
飛縫は付き添いとして俺を連れていきたいなどと言い、無理やり叩き起こすものだから不機嫌にならざるを得なかった。ただでさえ目付きが悪いと自負する俺が不機嫌になったのだ。目を合わせただけで悲鳴を上げられたのは当然だろう。
三年生の教室に乗り込んだ飛縫は巧みな話術で連行した俺を巻き込み、ちょっとした問題になったのである。さすがにやりすぎたと反省したからか、その年のクラスの出し物は記憶にも残らない平凡なものとなった。
去年のはクラスの出し物より、それまでの話し合いのインパクトが強すぎた。
「あの人らしいですね」
真宵は窓の外の景色を眺めながら呟く。
「それでかしぎさんのクラスはなにを?」
「コスプレ喫茶だとさ」
膝の上に抱えた鞄が床に落ちる音を耳が拾った。どうしたのだろうと振り返ってみれば、立ち上がった真宵が驚愕に目を見開いていた。
乗客は少ないが、それでも誰もいないわけではない。
ただでさえ人目を惹く美しさの真宵だ。いやに注目が集まってくる。
愛想笑いの一つでも浮かべられればよかったが、俺がやったでも逆効果でしかない。睨みを利かさせて威嚇しておく。
「どうしたんだよ。なにかあったのか?」
落とした鞄を拾い、真宵を座らせる。
「こ、コスプレ喫茶ということは、かしぎさんもやるのですか?」
「うっ」
キラキラと目を輝かせ、真宵が俺の顔を覗いてくる。
そんな期待に満ちた眼差しで見ないでくれ。
「どうなのですか? やるのですか? 執事は見飽きたので……そうですね。逆に現代社会にファンタジーな格好はどうでしょうか? ギャップがあって私としてはポイントが高いです」
「執事は見飽きたってのもどうかと思うぞ」
「仕方ないではないですか。祝祭に招待されて、ずっと執事やら王子やらに言い寄られてたのですから嫌にもなります」
「ああ。そのたびにぶった切ってたっけ」
異世界では俺も『勇者』の地位や名誉、そして功績から様々な女性から言い寄られることが多かった。お互いの領土を奪い合っていたというのに戦果を上げれば祝杯と、王家は揃いも揃って呑気なものだった。
そのとき王様は『魔王』を滅ぼした暁には、我が娘を婿にどうだろうと、内心では薄汚い平民がと罵りながら愛想笑いを作って寄ってきたのだ。
『魔王』を滅ぼしたあとの政治で有利に立ちたかったのだろう。
『勇者』の所属はやはり召喚したヴォルツタインと思われていた。しかし俺自身はどこにも属してないと公言していたし、姫さんも縛っているわけではいと言っていた。
それでも召喚したという事実は大きく、信用されることはなかった。
だから内政ではヴォルツタインの発言力は絶大だった。
もちろん『勇者』のネームバリューだけではない。それ以前から積み上げてきた信用と信頼が顕著に表れただけのことだ。
それでも『勇者』を召喚したことにより、その積み上げは崩された。
そのせいで祝祭と称して、水面下で『勇者』及びその一味の争奪戦が行われていたのだ。
なかでも真宵へのアプローチが多かった。
どうやら前線に出ない真宵はほとんど面識に残らず、招待された祝祭でも話さないことから、男性が苦手な奥手な少女と思われていたらしい。実際は相手の機嫌を窺ってばかりの会話が気に入らなかっただけである。
しかし勘違いした貴族たちは、真宵に次々に刺客を送ってきた。
それが執事や王子だったのだ。
「裏での会話を聞いたときは、らしくもなく殺したくなりました」
「お前ってけっこう頻繁に殺したくなってただろ。だけどあんなこと言われたらそうなるのも仕方ねぇか」
「当たり前です。あれは絶対に忘れられません。私腹に肥えた豚の分際にあんなことを言われるなどあり得ません。次に会ったら爪先から徐々に摩り下ろしてやります」
「痛覚二倍にしてか?」
「十倍です。しかも気絶もショック死もできないようにしてやります」
「うわぁ……それはさすがに同情するわ」
発想がバイオレンスすぎる。俺だってもう少し軽めにするぞ。
でも真宵には許せなかったのだ。直接聞いたわけではないし、当時は真宵に恋心の欠片すら抱いていなかった俺は聞いたところで下らないと切り捨てたはずだ。
あの貴族は幸運だった。
さっきは真宵より軽めにするなんて思ったけどいまからならというだけで、いまの俺が当時の言葉を聞いていたら、それ以上の地獄を見せてやる。
――あのような小娘、男の一人でも知れば容易く堕ちる。
思い出したら俺も腹が立ってきた。
なかには本気で真宵に好意を寄せるのは何人もいた。求婚された数は俺を遥かに凌駕する。政治の駆け引きだけでなく、広告塔の役割もあったからだ。
『勇者』の知名度は俺より低くとも、容姿でカバーしようという魂胆だろう。
でも嫌な出会いだけだったわけではない。
本気で好きになって情熱を必死に伝えるバカなナルシストだったり、腐った国の内政を変えようと強引に拉致しようとした不器用な堅物だったりと、真っ直ぐな奴らがいた。あとは無類の戦闘狂とか。
「ほかの女の子がどんな幻想を抱いているにしろ、実態を見てしまった私は執事や王子はこりごりです。それでかしぎさんはどんな格好をするんですか?」
「えっと……」
言いづらい。真宵は俺がコスプレするのが当然だとしてるけど、戦力外通告を喰らっちまったんだよなぁ。
この場は話題を切り替えてやり過ごす。
「大したことはやらねぇって言ってたけど、お前のクラスはなにやるんだ?」
「覚えてません」
こいつ、平然と言い切りやがったぞ。
「話し合いに参加すらしていませんでしたから。ぼんやりとしてたら決まってました」
「クラスに友達とかいねぇの?」
「かしぎさんに言われたくありませんよ」
「俺はちゃんといるぞ。三人もいるぞ」
両希は幼馴染みだけど友達にカウント可だ。あとは柊と萩村。そのほかはほとんど名前も覚えてないし、覚えてても顔と一致しない。
「数えることができるというのも悲しいですね」
「……だな」
わかってたけどね。どっちも大差ないことくらい。
クラスに馴染めなすぎだろ。こんなのでよく『勇者』なんて務まったものだ。
「あ」
真宵が唐突に呟く。
「そういえば私、学園祭の準備に誘われました。断りましたけど」
「なにやってんだよ」
「かしぎさんと一緒に帰ると言ったらあっさり解放されました」
俺を魔除けみたいに使うんじゃねぇよ。
「せっかく誘われたんだからやってくればよかっただろ。そいつ、クラスに馴染めないお前のために世話やいてくれたんじゃねぇの?」
「いえいえ。それだけでなく、今日は代わる代わる話しかけられたんです。なんでも話しかけやすい雰囲気になったとかで」
たしかに真宵の雰囲気はだいぶよくなった。以前は黙っていても構うなオーラが全開だったが、いまはそんなことはない。和らいで――和らぎすぎてぽわぽわしているくらいだ。
よほど嫌いな相手でなければ突き放すような受け答えもしなくなった。
ずっと近くにいると見落としてしまいそうな変化。
どうしてだろうと真宵も首を傾げている。自分でも気づけないにも関わらずこうなのだから、俺がわざわざ言わなくてもいいだろう。
どうしてだろうな、と笑いながら相槌を打つ。
「そんなことよりいい加減に答えてください。どんな格好をするんですか?」
ずいっと顔を近づけてくる。距離にすればおよそ十センチ。電車が揺れれば唇がくっついてしまいそうだ。甘い香りが鼻孔をくすぐっていく。
どうあっても逃げ切れない運命なのか。
真宵の額を人差し指で押し返し、嘆息する。
「俺はやらねぇよ。コスプレするのは接客する連中だけだからな」
「そ、そんな……がっかりです……」
しょぼんと落ち込んでしまった。
そこまで落ち込まれるとすげぇ罪悪感が込み上げてくるんだが。
「あっちではずっとコスプレしてたみたいなもんなんだから、いまさら見れないからって落ち込むことないだろ」
「かしぎさんはわかっていません。異世界ではコスプレではなく正装なんです。こっちであの格好をするのとでは意味合いが全然違います。こういった行事でしかできないから見てみたくなるんです」
「そ、そんなもんか?」
「そんなものです」
そんな力いっぱい言われてもなぁ。コスプレ――というか、学園祭で着流しを着るのは構わないのだが、そうなると接客もやらなくてはならなくなるわけで。下手に俺が参加すると評判を下げかねないし。
それに、たぶん俺には荷物運びの役割があるだろう。コスプレ喫茶といっても喫茶店に変わりないのだから材料の買い出しがある。ただでさえ準備に役立っていないのだ。それくらいやらなければ。
そんなことを思っていると、電車が目的地に到着した。
「じゃあ行くか」
「本当に体調を崩していると悪いので、一応お見舞いを買っていきましょう」
「ん? あー、そうだな」
手ぶらで行くのも悪いしな。
電車を降りる。
照りつける日差しに、目を細めた。
隣町から桃園に通う生徒は実はほとんどいない。桃園高校は学園祭に力を入れているものの、学業については中の下。受入数もそれなりに多いが、上の高校を受験するためのキープでしかない。なにより交通の不便さがそうさせるのだ。
この町にも桃園より若干難しくなるが、ほとんど同列の高校がある。学園祭を楽しみたいとか、どうしても行かなければならないと理由がある生徒以外はこちらの高校――私立紅葉高校に入学する。
紅葉でも今日が始業式だったようで、帰宅する生徒の姿がちらほらとあった。
そうなると当然、柊が一室を借りたマンションに帰る生徒もいる。
エレベーターでばったり出会したときは、ついつい胸元の校章を凝視してしまった。いや、決して胸が大きくて脊髄反射で見入ったわけではない。
「柊さんの部屋はわかるのですか?」
「前に両希に教えてもらったからな。一回来たこともあるし」
「『吸血鬼』のときですね」
そうだ、と真宵に返事をし、部屋番号が間違っていないか確認する。
うん。大丈夫そうだ。
インターホンを押す。すると部屋のなかからドタバタと暴れる物音が聞こえた。いなかったらどうしようかと不安だったが、杞憂だったようだ。
しかしなかなか出てこない。ドアを開けてみれば、鍵は掛かっていなかった。前に来たときもそうだったけど、こいつには鍵を掛ける習慣がないのか。
いい機会だ。柊に鍵の重要さを身をもって体感してもらおう。
すっと腕を持ち上げ、
「ゴーだ」
「らじゃ、です」
真宵に突撃命令を発行した。
鞄と買ってきたお見舞いを俺に手渡すと、目にも留まらぬ速さで部屋に侵入した。俺は柊があられもない格好だったときに備えて外に待機だ。
これまた前に来たときのことになるが、目のやり場に困る格好だったのだ。
あのときは急いでし俺だけだったから指摘したけど、今回は真宵が同伴だ。その役目は女の子に任せるに限る。
『ぎゃああああ!? な、なんで真宵がここにいんだよ!?』
柊の悲鳴がドアを貫いてきた。あまりの声量に周囲を見渡してしまう。幸いなことに、人影はなかった。両隣の住人が帰ってきてたら大迷惑だろう。
『暴れないでください。脱がせにくいでしょう』
……真宵。お前はなにをやってるんだ。
『ちょ、待てって! ブラはともかくパンツは洒落になんねぇってば!!』
『問題ありません』
『あるわ! どうせ冬道も来てんだろ!? お前は自分の恋人にほかの女の裸見せてもいいのかよ!?』
『大丈夫です。かしぎさんは待機してますから』
『そういう問題じゃ……ちょ、やめぇぇぇぇいっ!!』
しばらくそんな暴れっぷりが続いた。
最初は不意を打った真宵が攻勢だったようだが、体勢を整えた柊の逆襲が始まる。
下着を脱がされた仕返しとして、真宵の制服を脱がしにかかった柊。強化なしで島を沈められる腕力の持ち主に抗えるはずもなく、制服はあっという間に脱がされた。外に俺がいるとわかっているからか、柊が律儀に実況付きで教えてくれた。
その後、下着に手をかけられた真宵の波導が発動。ドアの隙間から青白い光が漏れていたことから、俺は雷系統だろうと判断した。
物理法則を無視した柊の反応速度がそれらの悉くを躱す。
だんだんと真宵にも火がついてきたのだろう。詠唱までも聞こえてきて、部屋のなかの模様は激化の一途を辿っていく。
鍵の大切さを教えるだけだったのにどうしてこうなった。
いたずら心にしてはやり過ぎたと反省していると、不意に静かになった。
ゆっくりとした足取りが近づいてきて、ドアが開く。
「ミッションコンプリート、です」
制服が乱れに乱れた真宵が疲弊たっぷりに顔を出した。
「……なんか、ごめん」
「いえ、いい運動になりました。脱がされたのは悔しいですけれど」
そう言って真宵は頬を赤らめる。
「私の下着について、聞きましたか?」
「ああ、そういうこと」
柊は真宵の下着についても事細かに解説してたっけ。
いくらなんでも聞くのはマズいと思ったからな。
「しっかりと聞かせてもらったぜ」
勢いよくドアを閉じられそうになって、慌てて足を挟む。いいところに当たって悶絶するはめになった。
思いっきり閉めすぎだろ。
「今日のは偶然ああいうのだっただけです。いつもはもっとあれなんです」
「いや、全然わかんねぇよ。あと本当は聞いてないから安心しろ」
足を挟んだままのドアを開け、靴を脱いで部屋に入る。
柊の解説内容がどんどん過激になっていくものだから、途中からは風系統で空気の振動を操って音が漏れないようにしていたのだ。
ところどころにある焦げ目になんとも言えない気持ちになる。
柊は暴れて物が乱雑した部屋で大の字に寝そべっていた。衣服は気直していた。
「冬道……真宵になにやらせてんだよー……」
がばりと上半身だけを起こすと、瑠璃色の双眸が俺を睨んだ。
「お前こそなにしてんだよ。学校サボったから心配して来てみりゃ鍵も掛けねぇで呑気に寝やがって」
「心配してくれたんだ」
「当たり前だろ。元気だけが取り柄のお前が休むなんて、それこそなんかあったとしか思えねぇし」
「なんだ、そんな理由かよ」
立ち上がった食器棚の前まで移動するとコップを二つ取りだし「麦茶でいいよな?」と肯定する暇すらなく薄茶の液体を八分目まで注いだ。
一つは真宵に渡し、俺にもくれるのかと思いきや、直前で飲み干された。
行き場を失って手を開閉させる俺を見下ろし、柊はしてやったりとほくそ笑んでいる。
さっきの仕返しのつもりのようだ。
俺が胡座の膝でだらしなく頬杖をつけば、柊は笑いながら「冗談だって」と今度こそ麦茶を用意してくれた。一気に喉に流し、潤わせた。
「あたしだってサボりたくてサボったんじゃねぇよ。いまのあたしってこんなだろ?」
ポニーテールをほどいてその場でくるりと回る。
背中の中心ほどの長さの髪が回転に合わせて広がった。
純白に近い銀色の絹糸。瑠璃色の二つの宝石は彼女の顔立ちに馴染み、違和感を感じさせない。一年程度の付き合いしかない俺だが、しかその一年で黒髪黒目見慣れていたはずなのに、それは遠い昔のように思えた。
たしかにこれでは登校したくともできないか。
「髪は染めればいいけど、目はどうしようもなくてさ」
「『吸血鬼』のように目の色を変えられないのですか?」
「やってみたんだけどダメだった。あれってただの副作用だし、あたしが変えようと思って変えてたわけじゃねぇしさ」
「元の色に戻らねぇのか? あとこれ、お見舞い」
「おっ、サンキュー。剥いてくるからちょっと待っててくれ」
買ってきた果物を抱え、柊は台所に向かう。
果物ナイフの代わりに包丁を取りだし、器用に皮を剥いていく。
「時間が経ったらいつもみたいに戻るんじゃねぇかってあたしも思ってたんだけど、あれからずっとこの調子なんだよ。……はむ」
柊は超越者になり、超能力を使うのでなく体質として昇華させた。いまは『吸血鬼』を発動させているのではなく、常時発動のアビリティとなってしまったため、副作用までもそうなってしまったのだろう。
「つまみ食いですか。私もいただきます」
「あ、こら、行儀悪いぞ。真宵は待ってろって」
「お断りしまふ」
果物を頬張った真宵が帰ってくる。
柊も等分した果物を乗せた皿を持って戻って来、それをテーブルに置く。
「とりあえず髪は竜一さんとこで染めればいいとしても、目はなぁ」
「カラーコンタクトでもしたらいいんじゃねぇか?」
果物に手を伸ばすも、それを目敏く見つけた柊に甲を叩かれた。無言で差し出されたフォークを受け取り、改めて口に放り込む。
「やっぱそれしかねぇかー。コンタクトって付けたことねぇから心配だぜ」
弱々しいため息とは対象に、言葉以上の感情はなかった。
「そういや学園祭の準備とかどうなった? って冬道に訊いてもわかんねぇか」
事実だから言い返せないのだが、そう何度も無知だと言われるのはいい気分ではない。妙に勘に障った。
心を落ち着かせるため、果物をやけ食いのように口に突っ込む。
「衣装作りも順調だとさ。メニューも考えてるって言ってたし、クラス内でも受けはそんなに悪くないみたいだ」
「そっか。……順調、なんだな」
素っ気ない態度の柊の表情に陰りがよぎった。窓の外に意識を投げ出し、遠くを見つめる彼女の儚さは、まるで影に闇が絡み付いているような、手離せば二度と会えなくなってしまうような――そんな不吉な予感が胸元から込み上げてきた。
気づけば俺は柊の腕を掴み、激しく動悸を繰り返している。
驚いて俺を見つめる四つの瞳も気にならないほど、不安が押し寄せていた。
しかし冷静になってみれば、さっきまでの柊はどこにもいない。目を丸くしている彼女の姿だけが、そこにあった。
「び、びっくりするなぁ。どうしたんだ? もしかして真宵がいんのにあたしが恋しくなったとかじゃねぇだろうな?」
誤魔化している――わけではなさそうだ。
真宵もなにか気づいた様子はないし、俺の見間違いだったのか?
「そんなんじゃねぇよ」
「じゃあなんなんだよー。正直に言ってみろよ。あたしが恋しくなったんだろ?」
「違うって言ってんだろ」
しつこく言う柊にチョップを喰らわせる。間抜けな悲鳴を上げて後ろに倒れこんだ。
「そういえばあたしの衣装のこと、なんか言ってなかった?」
「特に言ってなかったけど。デザインの注文でもしたのか?」
ホームルームが終わり、教室を出る前に傍目で見た限りでは様々な衣装があった。
たまたま試着していた生徒がその場にいたのだが、明らかに男受けを狙った際どいものだった。スカートの丈が異様に短く、短パンを履いていなければ下着が見えていただろう。
まだ完成してないから失敗してそうなったのかもしれない。まさか公共の場であんないかがわしい格好はするまい。
「そうじゃなくてさ。あたし、一年の女子に人気あるらしいんだよ」
哀愁を漂わせながら言う。
真宵も「そうですね」と頷く。
「柊さんは一年の間ではすごく人気はあります。サバサバして話しやすいからでしょうね。容姿もどちらかと言えばカッコいいの部類に入りますし」
「……よく言われんだけど、あたしってほんとにそんなんなの?」
げんなりとしながら訊ねてくる。
柊の言うそんなんとは、自分の容姿が言うほど優れているのかということだろう。
「評判だけでしたら二年生で一番だそうですよ? よく耳にしますから」
「……マジかよー。あたし、なんでそんなことになってんだよー」
「素材がいいからではないですか? 人気者は辛いですね」
「他人事だからそんなふうに言ってるけど、下駄箱に手紙が入ってたときなんか本気でどうしようかと思ったぜ」
最後の一欠片を食そうとフォークを伸ばすが、それは柊によって遮られた。
一瞬の視線の交錯。火蓋は気って落とされた。
三ツ又の槍の間に敵の得物を捉え、手首を返して弾き飛ばそうとする。しかし柊は素早く引き下がる。わずかに生まれた隙を突いて、そして文字通りそれを突き刺した。
柊に勝利の笑みが浮かぶ。甘い。その油断が命取りだ。
果物を口に運ぶにはフォークを引かなければならない。しかしその瞬間こそ、もっとも隙だらけになるのだ。
「な……!? 二刀流、だと……!?」
柊の目が驚愕に見開かれる。
視野の広さも駆け引きの一つである。真宵がフォークを使っていないのを視界の端に確認済みだった。俺は柊が手を引く直前に彼女の銀槍を抑え込み、空いた手でもう一つの武器を確保していたのだ。
そしてこれで幕引きだ。
柊のフォークから最後の一欠片を奪い――そこで予想外の事態が起こる。
悪あがきのつもりか、あろうことか奪うために生まれた一瞬の無干渉状態に、それを真上に叩き上げたのだ。高く突き抜けたそれは、俺たちの中間の距離で落下してくる。
ここからは余計な小細工はなしだ。真の実力者が栄光を手にするのだから。
伸びる両者の刃。
そこに、一陣の風が吹き抜けた。
「わらひに、かへるとおもいまひたか?」
「ごめん。なに言ってるか全然わかんねぇ」
勝ち誇る真宵に冷水のごとき一言を浴びせる。
無言で最後の一欠片を咀嚼すると、
「私に勝てると思いましたか?」
改めて言い直すのだった。
なんだか落ち着いて話す空気でなくなってしまったので、麦茶を啜って落ち着く。
「それで、お前の人気と衣装ってどんな関係なんだ?」
「……あたしの衣装、執事なんだってさ……」
「嫌なのか?」
「嫌に決まって……るわけじゃねぇけど、あたしだって女の子っぽいほうがいいなって。採寸もされちまったし、言っても無駄だろうけど」
「予算もそんなにあるわけじゃねぇからな」
学園祭に向けて学校から予算は降りるものの、それほどの高額ではない。もちろん普通の出し物をするなら十分すぎる金額だが、俺たちは喫茶店をやるのだ。教室の飾り付けや小道具の準備、なによりも衣装を作るための布代や当日の材料費がある。
修学旅行のために稼ぐのに、余分な衣装を作る予算はない。
おそらく衣装は最低限の数で済ませ、交代で着回すのだろう。
男物のため採寸したと考えると、これは柊専用だと思われる。
それに夏休みの準備に参加しなかった後ろめたさもあって言えないのだ。
「執事服なんてめったに着れるもんじゃねぇしいいんじゃねぇの?」
「そうです。かしぎさんなんて衣装すらないのですから」
「冬道だからなぁ」
「それだけで納得するんじゃねぇっての」
俺だからってなんでもかんでも頷きやがって。戦いしか脳がねぇとでも思ってんのか。
……ないな。俺、戦うくらいしか取り柄ねぇや。
衝撃の事実に項垂れるしかなかった。
「なーに落ち込んでんだ?」
「うっせぇ。なんでもねぇよ」
ぶっきらぼうに言い返し、麦茶を飲もうとコップを傾ける。
しかしキンキンに冷えたそれが喉を通ることはない。
いつの間のか、空になっていたのである。
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