8―(18)『うさぎと狼』
外の騒がしさはまだ続いていた。おそらく夜通し飲むつもりなのだろう。元気なものである。
俺は内心で皮肉りながら疲れた体を引き摺って歩く。一度アルコールが入ってしまったせいかあるいは抜けたせいか、足元がおぼつかない。気を緩めてしまえば膝から崩れ落ちてしまいそうだった。
……これってまだ酔っぱらってるのではないだろうか?
これでもかってくらい飲まされたからな。当分というか今後一切、酒なんて見たくもない。
いまは一刻も早くベッドに潜って休みたかった。
ドアを開けて部屋に入る。相変わらず乱雑に転がった家具にうんざりする。
「おかえりなさい、かしぎさん」
「ああ、ただいま……って悪い。着替え中だったか」
室内にあるシャワーを浴びていたのだろう。俺に声をかけてくれた真宵はバスタオル一枚という扇情的な格好をしていた。肌にぴったりをくっついたバスタオルは体のラインを浮き彫りにし、上下共に大事なところがギリギリで隠れる様にはつい喉を鳴らしてしまう。
黒曜石のような長髪は毛先から雫を滴らせ、むき出しになった肩に弾けて滑り落ちていく。鎖骨を伝って控えめな胸の隙間に落ちていくそれに、疲れも忘れて釘付けになっていた。
「あの……着替えるので、少し後ろを向いていてもらえますか? み、見たいと言うのでしたら、構いませんけれど」
「わ、悪い!」
恥ずかしげにバスタオルを伸ばす真宵はもったいなかったが、いつまでも布一枚では色々と安心できないだろう。俺としてはいつまでも見ていたい。
慌てて百八十度回転して背を向ける。真宵が残念そうな声をもらしていたが、あえて聞こえなかったことにした。
床にバスタオルを落とす音が聞こえた。それだけで鼓動が激しく脈打った。なにせ密室で真宵が裸になっているのである。振り返ればそのすべてを我が目に焼き付けられる状況に、彼女を好きだと認識した俺が耐えられるわけがない。
死に物狂いでほかのことを考えようにも、続いて耳に届く衣擦れの音がそれを遮るのだ。
ぱちっ、とホックをはめる音。するすると下着を上げる音に、全身の血が沸騰していく。
次第に頭がぼうとし始め、なにも思考できなくなる。
このまま振り返って、真宵を襲っていいのではないかと思えてくる。
――いいや落ち着け! 事を急ぐんじゃねぇ!
拳を額に思いきり叩きつけ、ポンコツになった思考に檄を飛ばす。なんとか気持ちを落ち着かせることができた。
「すみません。お待たせしました。……見てもよかったんですよ?」
パジャマに着替えた真宵は蠱惑的に見上げてくる。
上から二つ目までボタンを開けてるくせにそのアングル。黒のレースがついた下着がもろに見えてしまっているではないか。わざとか。
「そうしたら最後まで止まれなくなりそうだったんだよ。ったく、惜しいことしたぜ」
「ふふっ、そうですか。私は構いませんでしたよ?」
「最初は痛いっていうからな。あんまり大きい声出すと、みんな集まってくるかもしれないだろ」
「……ばか。私をそこまで喘がせたいのですか?」
「ち、直球で言われるとさすがに恥ずかしいぞ」
一本取りました、と舌をちろっと見せる真宵の頬もわずかに紅潮している。
いわずもがな、真宵も恥ずかしかったということだ。
ひとまず俺もシャワーを浴びて寝巻きに着替える。その間に真宵はスクラップとなった自室から荷物を運んできていた。煤を被っていたものの、自分の荷物だけは無事だったらしい。
「すみませんでした」
ようやく落ち着き、どうやって話を切り出そうと試行錯誤していると、真宵の方から沈黙を破ってくれた。
「『夢のような現実』でかしぎさんを殺めてしまったことを引き摺って、距離を置くようなことをしてしまって。ですが怖かったんです。……私はいつか、本当にあなたを殺してしまうのではないかと思ってしまったんです」
「謝まるなよ。俺だって一緒だ。ありもしない現実に惑わされて、俺はお前と敵対するんじゃないかって不安になってた」
「絶対にありません。私がかしぎさんの敵になるわけがありません」
「だろ? なに下らねぇこと考えてんだってアホらしくなったよ」
肩を竦めて言ってみせれば、小さく微笑みを返してくれる。
「俺とお前は二人で一人だ」
「はい」
「敵対するなんてあり得ねぇ」
「はい」
「俺はお前が好きだ」
「……こんなときにさらりと言わないでください。恥ずかしいでしょう」
拗ねたようにそっぽを向く真宵。
乾かし終えてさらさらになった黒髪を撫でれば、嬉しそうに体重を預けてくる。
言葉にしたほど嫌がっていないようだ。
「私だって好きです。ずっとずっと好きでした。異世界は勇気を出して告白までしました!」
「え、俺知らねぇんだけど」
記憶をいくら遡っても、思い出されるのはたわいない会話ばかりである。大した内容でもないのに盛り上がり、それを嗅ぎ付けたチトルやリーン、エーシェを巻き込んでおおはしゃぎしていた。
真宵は表情の変化はなかったけれど、楽しんでいるのは雰囲気から伝わっていた。
断言できる。異世界で告白なんてされてないぞ。
「当たり前です。私は勇気を振り絞ったというのに、あろうことか寝落ちしてたのですから」
「……それは悪かった。面目ない」
ヤバイな。鈍感を装ってたってレベルじゃない。真宵から告白してくれてたのに寝落ちして聞いてなかったとか、どんなフラグ回避の仕方だよ。
けれど呆れる反面で聞けなくてよかったと安堵する自分もいる。
異世界にいるうちはどうあってもそういうのは強引にでも受け流していただろうし、仮に告白されたとしても受け入れることはしなかっただろう。
アイリスのことを引き摺って、それを理由にして自分の弱さを認めようとしていなかった俺では誰かの気持ちを背負うことはできなかった。
いまでこそ俺は自分の足で立って、歩き出せている。
成長した。戦いを重ね、人の気持ちを重ね――冬道かしぎという『勇者』は人間に戻ったのだ。
「いいですよ。私は恋人関係になるよりも、かしぎさんといられることがなにより嬉しいんです。もう二度と、遠くに行ったりしないでください」
「重いなぁ」
「嫌ですか?」
「嫌だったら好きになったりしねぇよ」
「……もうっ」
可愛いなもう。俺の天使だよもう。
「ところで少し気になったことがあるのですが、いいですか?」
「まあ、二人でしか話せないこともあるか」
竜一氏とレンがいても話せなくもないのだが、できることなら『勇者』として召喚された俺たちだけで大まかな予測を立てておきたい。聞いた直後は内容に放心してたけど、改めて考えてみると思い当たる節があったのだ。
魔獣が一斉に召喚されたとき現れた『門』を通って、『魔王』の配下にして『勇者』のコピーである人工生命体のカザリが地球にやって来た。
理由――こちらの世界に『魔王』がいるから。
信じたくはなかった。異世界の住民は死力を尽くして対抗した末に『勇者』の召喚に踏み切ったというのに、あろうことか『魔王』も召喚された立場だったのだ。
『魔王』側にどんなやり取りがあったのかは知るよしもない。なぜ異世界で破壊の限りを尽くしたのかなど、理解したくもない。
ただ言えるのは。
元々は異能を知りすらしていなかった人間同士が異世界に召喚され、そこで手にした天災で殺しあったということだ。舞台を変えて、醜い争いを繰り広げたということだ。
『勇者』と『魔王』と仰々しく呼ぼうと、真実を知った俺たちにすれば身内のいさかいをよそに持ち込んだだけなのだ。
過ぎたことだと割りきれはしない。
その傷跡はいまも残されているのだから。
俺の心象を読み取った真宵が手を重ねてくる。
「気にするなとは言いません。ですが、それはかしぎさんだけでなく私も背負うべきものです。さっき言ってくれたではないですか。私たちは二人で一人。――後悔も無念も、一緒に背負います」
「ありがと。じゃあ本題に入るか」
「はい。――カザリの言っていた、『勇者』の役割は終わっていない、でいいんですよね?」
「ああ。同じところが気になっててよかった」
こちらにやって来たカザリは二つの不吉な情報をもたらしてくれた。
一つが『魔王』が俺たちと同じく召喚されていた人間だったこと。これについてはすでに問題なく処理することができる。というよりは処理する必要がないが適切だ。
カザリは『魔王』に会いに来たと言っていたが、あの女が戦力が整うまで行動を起こさないなどという良く言えば戦略的、悪く言えば臆病なことをするわけがないからだ。基本的に単独行動を好んでいた『魔王』の性格が帰ってきて劇的に変わるとは思えない。
俺たちが力を失っていなかったように、おそらく『魔王』も健在だろう。
それなのに力を示さないということは、そうする気がない――希望的観測を含めればそういうことでいいはずだ。
もし行動を起こそうと、勝算はある。
『雷天』と『水天』に加えて二人の超越者。
カザリが『魔王』のところに行っても、『魔王』がこちらの人間でも処理する必要がないのはそういうことである。
そして問題の二つ目だ。
「カザリ程度がなにか知ってるとは思えねぇけどな……」
「私も同感ですが、『夢のような現実』のこともありますし、無視すべきことではないでしょう」
「だな。カザリがなにか知って『魔王』のところに行ったか、『魔王』がカザリを喚んだかはさておくとしても、あの女が動いてるのはたしかだ」
真宵はこくりと頷く。
しかし『魔王』はなにを知っている。『夢のような現実』が再現されることはほぼない。あれは俺たちであって俺たちではないのだ。
それに『夢のような現実』は真宵が視たから俺たちも存在を知ることになった。しかも視点は真宵だったのだ。その世界の状況を網羅している真宵ではあるが、『魔王』の駒を口にしなかったのを鑑みるに、その場に、あるいはその戦場にいなかったと仮定すべきだ。
つまり『魔王』が『夢のような現実』を知るには、俺たち以外に存在を知る人間から聞き出さなければならない。
しかし真宵以外に誰がわかるというのだ。
こんな奇異な体験をした人間が二人といるものか。
なら『魔王』は別物件で動いているのか?
「『魔王』のやりたいことがさっぱりわからん」
「こればかりは本人に聞くしかありませんか」
「そしたらわざわざ頭を捻ることもねぇんだけどな」
素直に口を割ってくれるとも思えないけど。
「カザリのほかに誰か協力者がいるのでしょうか」
「俺もそれは考えたけど、その線は薄いんじゃねぇか?」
「そうですね。状況を呑み込んだ上でそこまでできるのは、おそらく私だけだと思います。ですが断片的にでも知り、『魔王』に協力を申し出たとしたら?」
「あり得ねぇな。仮に知れたとしても普通なら俺か真宵に接触してくるはずだ。それでも『魔王』のところってなると、たぶん真宵とは違う視点の『夢のような現実』になると思う」
「ふむん……そういえばあの変態が言っていました」
真宵が言う変態ってことは八雲さんか。
「『アカシック・レコード』――神の書いた脚本を自由に閲覧できる能力者が存在すると。もしかしたらその能力者が関係しているのでは?」
「四人目ってことか……」
「どういうことですか?」
俺は火鷹に教えてもらった四つの禁忌について説明した。
すでに三つは判明しているが、最後の一つだけが不明瞭になっていること。
黒兎先輩の妹が『時間漂流』の能力者だったこと。
そして『アカシック・レコード』こそが四つ目なのではないかということ。
「そいつなら、異世界のことを知らなくてもこの世界のことはなにもかもわかる。そんで俺たちっていうイレギュラーが混じったことで断片的に異世界――両世界の結末が見えた。それを変えるために『魔王』に接触したってんなら、それなりに筋は通るか」
「私たちではどうにできないというつもりなのでしょうか」
「それはわかんねぇ。なにしろ全部見透かされてんだ。それで『魔王』にあたってたとしたら、そっちはそっちに任せるしかねぇ」
「不愉快ですね」
「言うな。まだ決まったわけじゃねぇんだ。こんなの絵空事もいいところだ」
予測に予測を掛け合わせて導きだした答えだ。決定的に外してることはないだろうけど、だからといって当たっている保証もない。
「もしそうだとしても『魔王』は敵じゃなくて味方だ。俺も嫌だけど、敵に回られるくらいならこの方がずっといい」
「かしぎさんが言うのでしたら構いませんけれど……」
それでもしぶしぶといった感じだった。
「これからなにかが起こる。『夢のような現実』に酷似したものか、もしくはまったく別のことか。警戒するに越したことはねぇってことだ」
「やらせません。あんな夢魔を現実にしてたまるものですか」
俺に預けている真宵の肩が小刻みに震えている。
やはり恐怖は簡単に抜けてくれないか。
「大丈夫だって。俺はお前を信じてる。なにがあっても一緒だ」
「はい!」
当面は周りに気を配っておくべきだろう。実態が掴めない敵に対抗しようとすれば、どうしても後手に回らなくてはならない。
少しでも尻尾を掴み、無理やりにでも引き摺り出す。
「そろそろ寝るか。枕一個しかないけど、どうする?」
「私はかしぎさんの腕枕にします」
ちくしょう、俺もひそかに狙ってたんだけどな。
でもやっぱり腕枕は男がやるべきか。
部屋の電気を落としてベッドに横たわる。夏でも夜は冷える。シャツ一枚で眠れるほど図太くはない。
薄手の毛布を肩まで持ち上げると、もぞもぞと真宵が顔を出した。
「明後日……つうか、明日から学校かぁ」
なんだかとてつもなく久しぶりだ。一ヶ月くらい休んでただけなのに、最後に登校したのはもう何年も前のように感じられる。
それなのにクラスメートや教師、同校の生徒と一緒だったものだから、いざ学校で顔を会わせるというのはどことなく気恥ずかしい。騎士としての俺しか見せてなかったから、学生の姿を見られるのにはもはや抵抗すらあった。
「今年の夏休みは夏休みではありませんでしたね」
「俺なんて何回殺されかけたって話だ」
「私だって仮死状態まで追い詰められましたよ。怪我の多さならかしぎさんが一番でしょうけど」
腕も吹っ飛ばされて内蔵のほとんども消されて一番じゃなかったらおかしいだろ。
というか自虐ネタにしてもハードすぎるだろ。世間話じゃねぇんだよ。俺もだけど。
「おやすみなさい、かしぎさん」
「ああ、おやすみ」
こうして俺たちの夜は、何事もなく過ぎるのだった。
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