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氷天の波導騎士  作者: 牡牛 ヤマメ
第八章〈夏休みの終わり〉編
112/132

8―(14)『ヒダカカガミ/過去閲覧③』

 

 一年と少し前のことである。

 私は――火鷹鏡は突然、人間を超越した力を手にすることになった。


『……え……?』


 目の前の光景に思考が追いつかない。脳が理解を拒む。その現象は、人間をやめた火鷹鏡からすれば至極当たり前のことであるけど、私にしてみれば目を疑うしかないそれだったのだ。

 狭く暗い野路裏。まともな神経をしていれば誰も寄り付こうとすらしないそこに連れ込まれた私に、彼らは下卑た笑みを浮かべながら手を伸ばしてくる。

 その手際のよさから察するに、彼らは何度もこういった行為に及んでいるのだろう。素行の悪そうな格好に相応しい、とでも皮肉を言ってやるべきか。

 しかし私はその光景の異常さと、これから行われるはずだった行為への恐怖で体の震えが止まらずにいた。

 数分か数時間か。ヤり捨てられ、誰にも言えることのない傷を背負うことになるはずだったのだ――そう、はずだった。

 伸ばされた腕は壁にでも阻まれるように止まっている。それを不思議に思った彼らは様々な手段で私に近づこうとするも、不可視の壁がそのすべてを防いでいた。

 助かったとは、思わなかった。――思えなかった。


『お、おい、なんだよこいつ。なんかやべぇって……』

『だ、だよな。気味悪ぃ。もう行こうぜ』

『ちっ……』


 彼らはの中心的存在の男が唾を私に吐きかけてくる。相も変わらず健在な不可視の壁はそれを防ぎ、ねっとりとした唾液が薄気味悪く流れ落ちていく。

 こちらに背を見せ、立ち去っていく際、彼らが私に向けた視線。まるで――――ではなく、そのものとして私を見ていた。

 この化物め――と。

 私も、そう思った。



 当時、私は県内でも有名なお嬢様学校である白鱗はくりん学院に通っていた。物心ついた頃から父親と関わりをほとんど持っていなかった私の生活は、幼いときから女子校に通っていたこともあって、『男』という存在はお伽噺のようなものになっていた。

 全寮制で、しかも膨大な敷地を有する白鱗学院の生徒は、めったなことがない限り外出することはない。なにせ敷地内は街のように洋服点や喫茶店、生活必需品を買うための店舗が揃っている。

 ほかにも娯楽のための施設もあり、もはや学院から外出するがないのだ。

 お嬢様学校ということもあってお金はたくさんあるし、設置された店舗も『外』と同じように更新される。品揃えが単調で飽きることもなければ、店内の配置もよく変わるので、同じ場所でもほかの店に来たように思える。

 それほどまで徹底された楽園。

 余計な影響を与えるものから隔離した、完全なる箱庭。

 そんなところに、私はいた。

 不満があったわけではない。学院にいるだけで大抵のことはできてしまう空間でなにを不満に思うことがあるのか――きっと、あったから私は学院を飛び出したのだ。

 ちょっとした反抗心のつもりだった。裕福な空間での生活に慣れきっていたことから生まれた、『外』の世界への憧れが私に行動させたのだ。

 ――その結果がこれだ。

 私だけが取り残された路地裏で、不可視の壁に触れる。するそれは、当たり前のように溶けていった。

 埃と汚れにまみれた制服を申し訳程度に綺麗にして、歩を進める。

 初めて『外』に出たわけではない。小中高一貫の白鱗学院に入学する以前は、私だって普通の生活していたのだ。人生の半分以上、加えて記憶のもっとも濃い最近まで箱庭にいたこともあり、『外』の世界の記憶はない。

『外』への憧れと好奇心、そして小さな街に閉じ込められているように感じてしまったゆえの反抗心。

 ――正直、絶望させられた。

『外』の世界は、これほどまで無秩序で腐りきっているのかと。

 白鱗学院の生徒が『外』にいることは珍しい。しかも私の容姿は、周りから言われていたこともあって優れていると自覚している。さぞかし目もつけやすかったことだろう。

 あっという間に捕まり、路地裏連れ込まれた。


『……なんですか、これは……』


 私の憧れた自由な世界は、こんなところだったのか。


『やあ、こんにちは』

『……っ!?』


 たったいま同じような手口で連れ込まれたこともあって、声をかけられた瞬間、それが誰であるのかも確認せず走り出していた。

 怖い――怖い――怖い――怖い――っ!!

 まだ抜けきれていない路地裏をでたらめ走る。目も口塞がれて強引に連れ込まれたせいで、どうやって脱出したらよいかわからない。

 だがそんなことよりも恐怖が先行し、なにも考えられないまま逃げ回る。


『いきなり話しかけたのは申し訳ないと思うけれど、相手が同性か異性かの確認もしないで逃げられるのは傷ついちゃうなぁ』

『ひっ……!』


 そこに、すでに彼女は立っていた。

 黒のショートカット。八重歯を覗かせて表情に笑みを添える彼女からは、危険な印象はない。そんな季節でもないというのにマフラーを巻くのは、見られたくないなにかを隠しているようだった。


『連絡にあった通りだねぇ。能力に目覚める予兆は前々からあって、それがちょっとばかり大物だから監視するように言われてたんだけど、これはこれは凄い。ボクの能力なんかゴミ屑同然、どんな大物でも霞んで見えちゃうよ。大物じゃなくて、超大物と訂正するべきじゃないかい?』

『な、なん、ですか……?』


 能力? 監視? もしかしなくとも、この人はいろんな意味で危ない人だ。

 厨二病的なこと――ではない。

 本気で危ない。関わってしまえば、二度と後戻りできない。断言できる。

 逃げなければならない。全神経のリミットが外れたかのように逃げることだけに特化した感覚で、彼女から逃走を試みる。

 けれど気づけば私は空を仰いでいた。その視界の隅には、私を見下ろす彼女の顔があった。


『危ない危ない。報告にあった以上じゃないか。ボクのことを出し抜いて逃げ出そうとできるなんて観察力もかなりのものだよ』

『……っ!?』


 驚きがキャパシティを越えすぎて、声を絞り出すことすらままならなかった。

 この人からは逃げようと思っても逃げられない。どれだけ速く走ろうとも先回りされ、彼女の用が済むまで解放されることはないと直感できた。

 だってこの人、瞬間移動ができるのだから。

 ぞくりと悪寒が駆け抜けていく。わけがわからない。

 学院を抜け出そうと思ったことが間違いだったの? 行動を起こさなかったらこんなことにはならなかったの?

 でも彼女は私を監視していたと言ってる。

 私が動かなくても、近いうちにこうなることがわかっていたの? そもそもどうして私がこんな力を手にするとわかっていたの? わかっていたなら何故忠告の一つもしてくれなかったの?

 わからない。わからない。わからないわからないわからないわからないわからないわからないわからないわからない――!

 いったいこれは――私はなんなの!!

 どろどろと溶けていく思考のなか、それを断ち切ったのは額への衝撃だった。


『いい感じに混乱しているみたいだけれど、というより本当は最初に言っておくべきだったんだろうけど、ボクは君みたいな人たちの味方だよ』

『み、かた……?』

『そうそう。味方だよ』


 幼い子供にでも言い聞かせるように彼女は言う。

 みかた――味方? そんなの、いまの私にどうやって信じろというのだ。


『さてと。今日はいろいろあって大変だっただろう? 話さないといけないことはたくさんあるけれど、それはまた後日ってことで。寮まで送っていくよ』


 どうして、また会うことが決まっているの?

 私の疑問をよそに彼女は楽しそうに名乗る。


『ボクは翔無雪音。よろしくね、火鷹ちゃん』


 これが私と翔無雪音さんとの初めての出会いだった。



 それから翔無さん・・・・は頻繁に私のところに訪れるようになった。特別な行事があるときを除き、関係者の立ち入りの一切を禁止にしている白鱗学院に入り込み、しかも寮にまで上がって来るものだから、全生徒が目を丸くしていた。

 さらに言えば、白鱗学院では生徒会長を務め、女子しか通わないここでは盲目的な信頼を得ていた私のところにだ。変な噂が立つには時間はいらなかった。


『……どうやって入ったんですか』


 部屋まで上がり込まれて、同居人まで無理やり追い出されれば不機嫌にもなる。


『ちょっとしたコネがあってねぇ。それを使わせてもらったよ。まあでも、ボクの能力があれば許可なんて必要ないんだけど、学院側に不法侵入がバレたら社会的に危ないからねぇ』

『……こんな力があって、なにが社会的なんですか』

『世間には公表されていない秘匿された力なんだから、たとえそれを持っていても周りからはフツーの学生にしか見られないんだよ? そんなボクみたいなフツーの学生がお嬢様学校に不法侵入してたら警察沙汰じゃないか』

『……だったら言えばいいんじゃないですか? 私は超能力を持っていて、瞬間移動して入ってきましたって』

『あはは! そんなこと言ったって信じてもらえるわけないじゃないか。仮に実演して見せたとしたら、たちまち糾弾され、迫害されることになるよ? だからボクたちみたいのがいるのさ』


 ようは危険因子である超能力者になった私を隠蔽しよう、ということだった。

 この力は世間にはバレてはならないものだ。現在保たれているパワーバランスを一気に崩壊させ、能力を持つ人間による独裁が始まる。力を持たない人間は異能者に怯えて暮らすことにも繋がるし、スケールを広げれば国同士の戦争にだって発展することもあり得る。

 そうさせないためにも、翔無さんも所属している超能力者を管理する機関――『組織』が創設されたとのことだった。

 そのかいもあって表向きは平和そのものだ。裏ではその限りではないらしいが。

 私の力は、個人だけでそれを引き起こせるものらしい。

 境界線を敷く――と言われてもよくわからない。

 翔無さんの例え話を交えての説明を聞いて理解したとき、とんでもない力を手にしてしまった恐怖から、気を失ってしまうほどだった。

 境界線を敷く――すなわち、世界から隔絶する力。

 使い方次第では個人で国を滅ぼしかねない能力を有する『組織』のメンバー全員を完封できるほどのものだった。

 とてもではないが信じられなかった。『組織』は世界を相手にできるほどの機関なのに、それすら完封できてしまう力を、こんなどこにでもいる平凡な人間が手にすることなどあり得て・・・・いいわけがない・・・・・・・


『しかも君の力は発展途上。いまの有効範囲は、せいぜい自分を中心に半径五メートル前後といったところだろうけど、成長していけば国ひとつ、いや――水の星である地球すら、隔絶することもできる』

『――っ』

『かも、しれないねぇ』


 息を呑んだ私に、一拍遅れてそのように繋げた。

 イタズラが成功した子供のようににやりとした翔無さんに、途方もない怒りが込み上げてくる。

 いきなり人類の命運を左右できるほどの力を手にしてしまった私に、まだ実感こそそんなにないけれど、冗談で済まない冗談を言うのはあまりにも無神経だ。


『ん? 怒った? でもあながち冗談ってわけじゃないんだよねぇ』

『……どういうことですか?』

『能力は生活環境とか潜在意識とか、そういったもろもろの要因で大きくも小さくもなる。君の場合は、この白鱗学院という名の監獄とが最高にして最悪の環境なんだよ。この前のあれも悪かった。これは完全にボクのミスだよ』

『……だから、どういう……』

『待って待って。焦らなくてもちゃんと説明してあげるから』


 翔無さんは自前してきた炭酸飲料を一気に煽る。

 炭酸のしゅわしゅわに顔をしかめ、大きく一息つくと空になったペットボトルをコンビニ袋にしまった。


『君の境界線を敷く能力は、言ってしまえば隔絶する――つまり閉じ込めるって意味合いがかなり強い』

『……そうなんですか?』

『そうなんです。例えばこの部屋だけど、ボクと火鷹ちゃんの間に境界線を敷いてしまえば、それだけでどちらかを閉じ込めたことになるだろう? 出口は一つ。まさか窓から飛び降りるわけにもいかないしねぇ』

『……あなたは瞬間移動できるから関係ないじゃないですか』

『ただの例え話だよ。で、この学院なんだけど、どことなく閉じ込められてるような感じじゃないかい?』


 それはそうだ。だってこの学院はそういうふうに作られているのだから。

 かといって無理強いして閉じ込めているだとか、そういうことではない。単に生徒が『外』に出る必要がないだけなのだ。


『それが君の境界線の閉じ込める部分を強化している』

『……強化』

『さらに、火鷹ちゃんは憧れていたよね? ――学院の外側に』


 ドキリとした。まるで私の内側を直接覗いて答えを得ていたような、断定的な言い方に鼓動だけでなく全身が震えた。


『けれど、火鷹ちゃんが見た世界はあんなのだった。それで絶望した――って言ったら大袈裟かもしれないけど』

『……あってますよ。私は、憧れた世界に絶望した。でも……』

『憧れは捨てきれない。もう一度外に出てみたいけれど、また絡まれるんじゃないかと怖くて動けない、ってところだろう?』

『……翔無さんは本当にわかったようなことを言いますね』

『それがボクだからねぇ』


 皮肉もものともせず、翔無さんはベッドに寝転がる。

 それ、私のではないのですからぐちゃぐちゃにしないでください。


『本題はここから。君にはこれから、できる限り外出してもらうことになる』

『……え?』

『そうじゃないと君の能力、加速に加速を重ねてボクが冗談で言ったことが現実になっちゃうよ?』

『……え!?』

『この環境はマズすぎる。できることなら転校させてフツーの学生生活を送ってもらうのが、能力を加速させない一番の近道なんだけど、さすがに君の家庭事情までにはコネなんかないからねぇ。こうやってボクと頻繁に外出して、学院に閉じ込められてるって意識と、外の世界への憧れと絶望を捨ててもらうよ?』


 そう言った翔無さんに、私が抱いた感情はただひとつ。

 外の世界――私の世界は、とうに暗闇に閉ざされているということだった。



 翔無さんは言った通り、私を『外』に連れ出すようになった。毎週土日の二日。高校生は土曜日も予定があると思っていたけれど、どうやら表向きにはただの風紀委員であるらしく、委員長ならともかく下っ端に仕事はないとのことだ。

 そうでなくとも、いまの翔無さんの優先事項は私の能力をこれ以上危険レベルを上げないことだ。その辺りは優遇されているらしい。

 なんだか爆弾扱いされている気分だ。

 あの日以来、私が能力を使える兆しはない。あのときだってどうやったか覚えていないのに、意識して使おうなんて無理だ。

 ……いや、使おうとしてもできないのは、翔無さんが私を連れ出してくれたからだろう。ようは使えないということだ。

 だとしても、私の世界は闇に包まれている。

 能力があるのなら、いっそのこと使えるようなってしまえばいい。いつまでも私の監視をしているわけにもいかないだろうし、能力発現の予兆があった人間はその時点で逸脱した存在になる。

 監視がなくなったときに能力が発現すれば、私ではどうすることもできない。

 でも私が言いたいのは、そうなったときの周りの目だ。

 どんな過程を辿ろうとも最終的にたどり着く結果を、私はすでに開示された。

 あのときの男たちの言葉――そしてそれ以上のものが、言の刃として突き刺さってくる。

 それだけならまだいい。

 どこぞの物語の主人公が言っていた。肉体的な傷は癒えるし痛みもなくなってくれるけど、心の傷は時間は解決してくれないしいつまでも残り続けると。


『……アホですか。現実の痛みも知らない紙媒体のくせに』


 誰もいない・・・・・のをいいことに私は呟く。

 むしろ心の傷みとかいう幻痛の方がマシだ。本物の痛みはどうやったって痛い。

 どんな罵詈雑言も無視すればいい。でも体に刻まれた傷は痛みを覚え、無意識のうちに痛みを逃れるすべを画策しようとする。

 そうなれば、私は彼らがやろうとしていたことや、それより下劣な行為に走ることになる。まっぴらごめんだ。

 だから私は翔無さんの誘いを断り、彼女が監視をしているうちに能力を発現させるべきだ。なのに翔無さんは私を強引に連れ出すものだから、嫌々『外』に出ている。出されている。アフターケアまでしてくれるならいいけど、その見込みは薄い。

 どうして私がこんな目に遭わないといけないのだろう。

 世界はこんなにも不条理で理不尽で、どこかしらに欠陥を抱えている。

 だとしたら、どこかにいないだろうか。

 こんな力があっても平然と笑い飛ばし、どうでもいいと心の底から思ってくれる主人公が。暗闇に閉ざされている私に、手を差し伸べてくれる光が。


『……いるわけ、ない』


 立ち上がり、寮に向けて歩き出す。

 今日は翔無さんと出掛ける約束をし、珍しく待ち合わせをしていたのだが、直前になってお断りの一報が入ったのだ。


『ごめん火鷹ちゃん、どうしても外せない仕事が入っちゃったんだ。いまからそっちに行って寮まで送るから少し待ってて!!』


 電話越しに聞こえてくる翔無さんの声音だけで、それがどれだけ重要な仕事なのか容易に想像することができた。背景で爆発音やら打撃音があることから、危険なことに首を突っ込んでいるはずだ。

 自分だって余裕がないはずなのに私を気遣うのは、仕事だから仕方なくなのだ。

 わざわざ抜けて送ってもらうまでもない。


『……別にいいです。一人で帰れますから』

『そ、そんなこと言わないでよ。すぐに着くから待――』


 最後まで聞くことなく通話を切り、立ち上がって寮に向かって歩き出すところに戻ることになる。

 噴水広場を出たところで、翔無さんが私のいたところに走ってきた。やはり瞬間移動で人目のいるところには来られないようだ。しばらく走りっぱなしだったのか、大粒の汗が浮かんでいる。

 周囲を見渡し、私のことを探している。いないことがわかると爪を噛み、ミスをしたと言いたげな表情を作った。すぐさま足を駆動させ始めると、私のいる方向といま来た道の中間を突っ切っていく。

 機械的に見届けると、遠回りの道で寮に帰る。

 翔無さんのことだから、いつもの道を行くと思った。どんぴしゃである。

 しかし監視任務とはそこまで大変なのか。別に仕事があるのに継続させようとする『組織』とやらがブラックなのか。

 どちらにしろ、監視対象としてしか私と接していないのであれば、不要な負担を強いるのも強いられるのも好みじゃない。

 所詮私たちは、仕事と能力が絡んだ一時的な繋がりでしかないのだ。

 そんなふうに考えていると、不意に肩をなにかにぶつけた。


『ってェな……あ? こいつ、この前のやつじゃね?』

『うわ、バケモン女じゃねぇか』

『……っ』


 バケモン女――そう言われて反射的に睨み上げると、そこにいたのは私が能力を発現する切っ掛けになった彼らと、その友人らしき柄の悪いのが何人も控えていた。

 能力を発現させてしまえばいいと思っていたくせに、いざそれを目の前にしたらすくんでしまうのは人間の摂理だ。逃げるように身を翻し、二の句を紡がれる前に去ろうとする。

 だが背後より伸びてきた腕が妨害してくる。壁に叩きつけられ、息が詰まったところに男が顔を近づけてきた。


『この前は妙なことになったが、この人数相手じゃどうにもなんねぇよな?』


 脳裏に焼き付いていた下卑た笑みを再現され、爪先から脳天まで寒気が貫いていった。意思とは関係なく足が震え、立つことすらままならなくなる。

 なんで……? どうしてこんなことになるの? 私がなにをしたっていうの?

 私がなにかをした罰というなら甘んじてとまでいかなくとも、それなりに受け入れられただろう。自業自得で首を絞められるのは仕方のないことだ。

 でもこれはなに? 私がなにをしたの?

 ぐるぐると渦巻く思考が闇を孕んでいく。

 翔無さんが近くにいてくれたことを、いまになって有難いと実感した。翔無さんがいてくれたから、『外』の世界への絶望を薄めることができていたのだ。

 でも――もう無理だ。

 世界には絶望しかない。

 力によって捩じ伏せられ、力なき者は見て見ぬふりをするしかない。

 こんな世界のどこに希望を抱けというのだ。

 こんな世界でも救いがあるのだと檻の中から憧れるのをやめろというのだ。


 ――――――ぱきり、と。


 私のなかで、決定的な格が砕け散った。

 発芽した種は瞬く間に根を張り上げ、養分を欲して暴れまわる。

 全身から力が失われ、満ちていく感覚。

 すべてが作り替えられ、生まれ変わるような高揚感が恐怖を打ち消していく。

 うつむくのをやめ、私を捕まえている男と、その取り巻きを順に見やる。


『んだ、その目は。嘗めてんのか?』

『……能天気なアホ面を見せつけておきながら、嘗めてるのかとはずいぶんな物言いですね。自分の顔を見つめ直したらどうですか? あと息が臭いです』


 あれだけ恐かった彼らからは、もうなに感じない。人を強引に押さえつけて何様なのだという苛立ちだけが募っていく。

 男は私の言葉を耳にして、言い返すのではなく拳を振るうことで立場をはっきりさせようとしているようだった。

 向かってくる拳を無機質に見つめ、嘲笑する。

 頭に血が上ったからと暴力を働くとは、どこまでもおめでたいおつむだ。そんなことで支配できるのは、せいぜい気弱な性格人間だけだ。

 私にような化物・・・・・・・に通用すると思うな。

 右手を動かし、首と胴を切り離すよう境界線を敷こうとする。いまの私なら、能力を使うことができる。

 数秒後の私の足元には血の海が広がっていることだろう。私は異常者として畏怖の象徴とされ、世界から拒絶されることになる。構うものか。絶望しかな世界など、元よりこちらから願い下げだ。

 しかし私が行動することなく、その男は血を流すことになった。

 ぐりんと首を捻り、鼻血を撒き散らしながら倒れこむ。

 取り巻きたちはなにが起こったのかわからないとばかりに目を白黒させ、倒れた男を見やっている。


『はぁ……』


 檻から抜け出した猛獣を彷彿とさせる刺々しい雰囲気を纏う男が、ため息をつきながら手を軽く振っている。

 いきなり飛び込んできたこの男が殴り飛ばしたのだ。

 視界の片方を遮断するよう伸ばされた前髪。私が見てきた人のなかでもずば抜けて悪い目付きで、周囲を睨み付けている。

 肩にかけてあるブレザーにはほとんど皺がない。襟につけられた桜をイメージした校章からして、彼は私立桃園高校に入学したばかりの生徒だ。


『……あなた、なにをして……』

『君、こっちだ』

『……っ!?』


 いつの間にか近づいていたもう一人の桃園高校生が私の手を掴んだ。反射的に振り払いそうになるも、彼らのような女の体を目的とした気持ち悪さはない。

 眼鏡の桃園高校生は私に一声かけると、未だ呆けている彼らを置き去りに走り出した。ようやく我に返ったらしく、背後から怒声だけが追いかけてくる。


『……あ、あの、あの人は……』


 運動は苦手だ。走り出してすぐに息が上がり、たった一言でも絞り出すのがやっとのことだった。


『心配しなくてもいい。僕の幼馴染みは少しばかり喧嘩なれしすぎているからね』

『……そ、そういう問題では……』


 ありませんとは続けられなかった。

 私はまたしても連れ込まれてしまったからだ。

 ただし今度は健全である。落ち着いた色合いを施した外観、ガラスの向こうに映る景色はとても楽しそうだった。

 そう、ただの喫茶店である。



 適当に空いた席に腰を下ろすと、眼鏡男子が口を開く。


『僕は両希蓮也。いきなりで混乱しただろう? それはすまなかった』

『……い、いえ、とんでもないです。ありがとうございました』


 年上の人に深々と頭を下げられれば誰だって慌てるというものだ。

 条件反射で私も頭を下げ、お礼を述べる。


『……ですが、どうして助けてくれたのですか?』

『うむ。つい先程なんだが、同じの高校の上級生に鬼気迫る表情で言われてしまってな。知り合いの女の子がいなくなってしまったから、探すのを手伝ってほしいと。黒髪が綺麗ということと、幸薄そうな顔立ちだという情報があったからすぐに見つけられた』

『……さ、幸薄そうな……』


 人の知らないところで好き勝手に言ってくれますね、翔無さん。


『すまない。初対面なのにそのまま伝えすぎてしまったようだ』

『……とんでもないです。この幸薄そうな顔立ちおかげで助けてもらえたわけですから』


 文句はあとで翔無さんに直接言うことにする。……いや、これくらいは流そう。

 翔無さんが両希さんとあの人に話を伝えてくれたおかげで、私は能力で過ちを犯すことがなかったのだ。むしろ同じ高校の生徒というだけで面識のない彼らにまで助けの手を借りてくれたことに感謝しなければならない。

 あと一歩で私は、人殺しになるところだった。

 からん、と鈴の音が店内に響く。


『思ったより早かったみたいだ。見かけ倒しだったらしいな』


 心なしか、両希さんは楽しそうに呟く。

 その直後である。私の隣にどっかりと誰かが座った。さっきの彼だ。


『あーくそ。一発もらっちまった』

『あの人数を相手にしてそれくらいなら大したものじゃないか。どれ? どこをやられたんだ? ここか、ここか?』

『いってェよ!! 無意味に触んじゃねぇ!!』


 両希さん頬を触られた彼は、周りに迷惑をかけないくらいの声で器用に叫ぶ。

 不機嫌そうに頬杖をつくと痛めた方を下にしてしまったらしく、短く苦悶を洩らして腕を組んで背もたれに体重を預けた。


『それでこいつでよかったのか? つーかなんで俺らがこんなことやらねぇといけねぇんだよ。デメリットしかねぇじゃねぇか』

『人助けは損得でやるものではないぞ』

『そうかもしれねぇけどさ。……そういやあいつら、変なこと言ってやがったな』

『変なこと?』

『ああ。なんでバケモン女なんか庇うだとかなんとか』


 びくりと全身が痙攣した。自分にどう言い聞かせたとしても、やはり化物と言われるのは辛いものがある。

 望んだわけでもないのに与えられて化物呼ばわりされて、否定しようとしても一度はそれに身を委ねてしまった私には資格が失われていた。


『くだらねぇこと言ってるなって思ってな。こいつがバケモン女だってんなら、なんでバケモン女を襲ってんだって話だ』

『お前なぁ……本人を前にしてズバズバ言い過ぎだぞ』

『あ? 俺はこいつがバケモンだっていってるわけじゃねぇぞ。だいたいなにが見えない壁を作るだ。そんな力があったところで俺には関係ねぇよ』


 彼は超能力のことを信じていない。だからそんなことが言える。きっと実際に目にしてしまえば、私のことを化物としてしか認識できなくなる。

 中途半端な悪を往くのなら、私に関わらないで。

 私を気遣って言ってくれているのなら、中途半端な優しさをかけないで。


『……よく、そんなことが言えますね』

『あ?』


 彼は私に鋭い視線をぶつけてくる。


『……どうせあなたも実物を目にしたら言うんです。化物だって。虚勢を張ることが格好いいと思っているのだとしたら、ほかではともかく私に対してはやめてもらえませんか?』

『助けてやったのにずいぶんな物言いじゃねぇか』

『……誰も頼んでません。助けてくれたことは感謝しますが、一方的な善意を押しつけて思い上がられるのは不愉快です』


 立ち上がり、二人に頭を下げる。

 彼らは優しい。翔無さんに頼まれずとも、あの場面に遭遇していれば同じことをしていたはずだ。

 だからこそ苦しい。善意から助けてくれた彼らの前で私が化物である事実をさらしてしまうと思うと、どうしようもないほどに胸が締め付けられた。こんな化物を助けたのかと思われてしまうことが、とてつもなく恐かったのだ。

 顔をあげ、二人に背を向ける。


『おい、どこ行くんだ』

『……帰ります。もともと帰る途中だったものですから』

『あっそ』


 彼はそう話を切ってメニューを広げた。

 これで話は終わりだと思った私は改めてその場を去ろうとする。


『お前さ』


 誰に投げ掛けられた言葉なのかはすぐにわかった。足を止めて振り返る。


『辛いなら言えばいいじゃねぇか。勝手に一人で溜め込んで、勝手に潰れるのは俺の知ったことじゃねぇ。でもよ、お前には、お前のことを思ってくれてる奴がいるじゃねぇか』


 どこか投げ遣りでぶっきらぼうな言い方であるのに、不思議と聞き入ってしまうのはだけのものが込められていた。

 まるで自分もそうだと言いたいかのような、自分と似たような境遇の相手を見つけてしまったからか、自分にはできないことをやってくれと願望めいた後押しをしている印象を抱いた。


『周りのやつはどう言おうと、少なくともお前の味方でいてくれる奴が一人はいるってことだろ。だったら気にしてんじゃねぇよ』

『……その人は、ただ仕事だからと私に付き添ってくれてるだけ――』

『バカかお前は』


 半分ほど振り返った彼は気怠そうに半開きになった眼で私を捉える。


『仕事で付き添ってるだけの奴があんな心配するわけねぇだろ。あいつ、泣きそうな顔してたぞ』

『……え?』


 あの翔無さんが泣きそうな顔をしたいただなんて、とてもではないが想像できなかった。いつも人をからかって楽しんでるような人が私を探して?


『少しは心開いてやったらどうだ? 死んだ魚みてぇな目ェして世界に絶望してますって面してるけどよ、世界にはまだまだ救いってもんがあるだろうが。勝手に見限ってんじゃねぇ』

『かしぎがそんなことを言っても説得力皆無だぞ』

『うっせぇ。言われなくてもわかってんだよ』


 初対面の相手にそんなことを言われたって、信じられるわけがなかった。

 世界は背負いきれないほどの理不尽と不条理を与えてくる。優れていても劣っていても咎められ、弾き出される。そんな世界のどこに救いがあるのだ。あるのならいますぐ私に見せてみろ。

 無意識に拳を握り締め、爪が皮に食い込んでいく。ずぶりと音にはならない音が奏でられ、内側から赤い液体が流れ落ちてきた。

 床を汚すわけにもいかないので、着地点にブーツをずらす。


『……ならあなたは、私が世界の敵になったとしても味方でいてくれるのですか?』

『そんなわけねぇだろ』


 けど――と彼は口角を釣り上げ、


『お前の手を引いて、一緒に世界に抗ってやることくらいはしてやるよ』


 後に私は彼のことを知ることになる。

 冬道かしぎ。あだ名はかっしーさん。自分にしかできないことを求めている最中に異世界に召喚され、『勇者』となった男の子。

 所詮、私も単純な女の子だったということだ。

 優しい言葉を――世界を変える一言をかけてくれた彼に、心を惹かれてしまっていたのだから。


     ◇◆◇


「……そして私は雪音さんに言いました。『ゲヘヘ……おねえちゃん、今日のパンツは何色なんだい?』と」

「お前はいつも最後に締まらねぇなぁ」


 せっかくしんみりとした雰囲気だったのにぶち壊しだよ。にしても火鷹のマシンガン猥談はこうやって形成されたのか。そして俺のせいだったのか。


「……覚えていなかったでしょう? ですが、かっしーさんが覚えていなくとも私にとっては世界一転させる出会いでした。あのときかっしーさんに出会えていたから、いまの私がここにいます」

「言わなくてもわかってると思うけど、そのときの俺はお前を助けようとか考えてたわけじゃない。自分と似たような境遇の奴がいたから、ほっとけなかっただけだ」

「……そうでしょうね。けれどかっしーさんにいただいた一言は、私に与えてくれたんです」


 火鷹はぎゅっとプリクラを握りしめて俯く。

 静かに降り続ける雨の空気を肺一杯に吸い込んで吐き出して、俺は空を見上げた。

 お互いに顔を合わせようとしないのは、きっとお互いに結末がどこに辿り着くのかわかっているからだ。苦々しい感情が込み上がってきて、言葉を紡ぐにも錘をかせられているように鈍重だった。

 俺より、火鷹の方がそれは思いはずだ。けれど先伸ばしをするのは、もう限界ということだろう。


「……その一歩を踏み出す勇気を。おかげで私は大勢の仲間を得て、こうして誰かを助けたいと思えるようになりました」

「そっか」

「……だから、もう一度、私に勇気を下さい」


 曇天の空を掻き分けて光が射し込んでくる。もうじき雨も降りやむようだ。

 自分で撒いた種を摘むのは、本人である俺のやるべきことだ。


「なあ火鷹。世界には、救いなんてないか?」

「……いいえ。誰かが言ってくれました。世界には救いがあると」

「なら、もう大丈夫だろ? その誰かの背中を追いかけなくても、自分だけでも世界の絶望に抗っていけるよな?」


 誰かに後押しされなければ進むことのできなかった彼女はもういない。しっかりと自分の足で立って、しっかりと自分の意思で戦っていける。


「俺は、真宵と一緒に歩んでいく」

「……そうですか。かっしーさん――かしぎさん、今までありがとうございました」


 雨は降り止んだ。

 世界を救ってくれた影にすがることなく、これからは進んでいけるだろう。

 俺は最低だ。無責任な言葉を投げ掛けてその気にさせておきながら、結局は傷つける結果にしかならなかった。心地よい関係を崩してしまうのが怖かったなどという自分勝手な感情だけでうやむやにしていた罰なのだ。

 一陣の風が俺たちの間を駆け抜けていく。

 火鷹の手の中にあったプリクラを拐い、そのまま空の彼方へと連れ去っていく。

 境界線の向こう側。

 俺たちの思い出は、手の届かないところに――。



 雨の上がった空は茜色に染まっていた。思いのほか話し込んでいたらしい。どおりで濡れた衣服が渇いてるわけだ。ワンピースの下に隠された黒の楽園はすっかり身を潜め、純白の殻を被り直している。

 隣を歩く火鷹はプリクラを奪われてわかりやすく落ち込んでいる。思い出云々ではなく、人生初のプリクラで、しかも落書きが思いのほか上手くいって気に入っていたとのことだ。

 どんよりオーラを撒き散らす火鷹。引き摺ってないのは助かるけど、いつも通りすぎても無理して装ってるのではないかと心配になる。

 相変わらずの発言力は変わっていないから、無理してるわけではなさそうだけど。


「……そういえば言ってましたね」


 唐突に火鷹が話題を振ってくる。


「……昨日タコに襲われたときの記憶がかっしーさんの覚えているものと、私たちが覚えているものとで違っているだとか」

「そうなんだよ。わけわかんねぇ」


 たしかに更衣室に天剣を置いてきたはずった。錆びると悪いからと我ながら間抜けな発想をして、それをレンに話してそんなわけないと一蹴までされたのだ。忘れるわけがない。

 けれ誰もそのことを覚えていない。八雲さんと九重はもとより、異世界にいて属性石の認識が当然のこととなってるレンでさえもだ。

 深く考えないようにしていたが、抱える問題が少なくなって思考する余裕ができて改めて事態の大きさ許容量を越えているのに気づかされた。


「……私にしてみればかっしーさんが剣を持ってきていたのがたしかな記憶なのですが、かっしーさんにすれば持ってきていないのが正しいと」

「そういうことになるな」


 しかし俺と真宵以外の全員が属性石を持ってきていたと言い、実際にその手にそれが握られていた。明らかに記憶が食い違っているのだ。

 そして俺が正しいと認識している記憶は限りなく正しいと断言できる。

 誰がどんな目的でこんなことをしでかしたのかはさておくとしても、天剣を持ってきていないと誤認させることに意味はあっても、持ってきたと認識させることに意味はない。

 ないと思い込んでいても、武器が握られているのなら使わないわけがないからだ。

 つまりだ。そいつは属性石の所持の有無ではなく、ほかのなにかに意図を向けていた可能性が高い。


「……『組織』でも正確な情報を掴んでいるわけではないのですが、超能力のなかには四つの禁忌というものが存在しているらしいです」


 火鷹は指を一つずつ折って説明していく。


「……『時間漂流』『多次元干渉』『確率変動』。最後の四つ目ですが、これだけはなにもわかりません。ただあるということだけは確実のようですけど」

「それが関係してるって言いたいのか?」

「……可能性としてはゼロではないと思います。私たち――というよりかっしーさんになりますけど、原初の能力者である志乃さんや異世界召喚などが絡んでくるのですから、それらも関わってくることだって十分にあり得ることです」

「巻き込まれやすいってことかよ。否定できないけどさ」


 異世界に『勇者』として召喚されるというだけでも奇跡的なのに、還ってきたら実は超能力なんてものが存在していて、原初の能力者と世界の命運をかけて戦うくらいなのだ。

 火鷹が言うように、四つの禁忌とやらが絡んでくることだって可能性としては捨てきれない。


「そうなると一番ありそうなのは『時間漂流』だな。これってようは時間を好きに移動できるってことだろ? 人間タイムマシンってところか」


 時間を移動して俺が天剣を置いていかないように誘導すれば過去は変わり、『天剣を置いていった』という記憶は『天剣を持っていった』という記憶に変化する。

 ただ、そうなると記憶の変化が真っ先に起こらなくてはならないのは俺たちだ。そうでなければ辻褄が合わなくなるし、わざわざ過去を改変した意味がない。動機はあとで考えるとしても、改変される前の記憶があるのはおかしい。

 そもそもだ。俺には天剣を持ってきた・・・・・・・・記憶がないのだ・・・・・・・

 だからどう転ぼうとも、天剣が手元にあったことは絶対にあり得ないことになる。


「……いえ、それは絶対にありません」


 火鷹の言葉に積み重ねてきた考察が音を立てて崩れ落ちた。


「……かっしーさんも知っていますよね? 生徒会長さんに妹さんがいたこと」

「知らないわけないだろ。そのせいで襲われたって言っても過言じゃねぇし」


 私立桃園高校の生徒会長である黒兎大河には妹がいた。能力者ということから化物扱いを受けて、両親から捨てられた彼の唯一の家族だった。

『組織』とは別に捨てられた能力者を保護する人物に拾われ、決して短くない時間を共に過ごしてきた。

 だが保護された能力者のなかには、積極的に人を傷つける能力の使い方をする子供がいた。その標的に選ばれたのが黒兎先輩だった。当時はまだ好戦的ではなかった黒兎先輩は殺し合い対応できるわけがなく、死の一歩手前まで追い詰められた。

 しかし黒兎先輩は生きている。

 黒兎先輩の妹が、身を呈して助けたからだ。

 そのせいで能力者を恨むようになり、罪を犯した能力者を助けるような真似をした俺を処分しようとしてきたのだった。


「……これはほぼ確定なのですが、彼の妹さんが『時間漂流』だったと思われます。生徒会長さんも妹さんは時間移動の能力者だったと証言していますから」

「つうことは、『時間漂流』の線はなしってことか。またフリだしじゃねぇか」

「……ちなみに名前はフウさんらしいです」

「いまさら名前知ったってどうしようもねぇだろ」


 せっかく手掛かりを掴んだかと思えば、あっさりと手離すことになった。

 実害があっただけに無視したくはないのだが、おそらくいまどれだけ頭を捻ろうと正体を看破するのは難しい。圧倒的に情報量が少ない。せめて切れ端程度でもいいからわかれば、いくらでも思考できるものを。

 白紙から文字を読み取れないのと同じで、わからないことはわからないのだ。

 最低限は対処できるよう、なにかしらの準備をしておくしかないか。


「……やっと帰ってこれましたね。思ったより時間がかかりました」


 疲労を滲ませながら火鷹は言う。これであとは双弥が仕事を済ませて、夕食時まで来てくれるのを祈るばかりだ。

 このコンディションで気まずい食事を乗りきる自信はない。

 楽観的に考えていた――そのときだった。

 別荘の一部屋からとんでもない量の光が溢れ、眼球を焼き焦がした。

 何事だなどと考えている暇はなかった。俺自身も気づかないうちに疾走を始めていた。流れていく景色などに目もくれず、ただ一目散に向かう。

 玄関を潜って廊下を駆ける。同じように部屋に向かっていた連中を置き去りに、その部屋に踏み入った。


「――真宵!」


 焦燥感を隠せないまま、そこにいるであろう人物の名を叫ぶ。

 そこにあったのは、地杖を復元させ、波動を暴発させている元勇者の姿だった。


     ◇◆◇

 

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