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氷天の波導騎士  作者: 牡牛 ヤマメ
第八章〈夏休みの終わり〉編
107/132

8―(9)『ここは楽園ですか? イエス、エデンです⑦』

 

 逃走劇はすでに一時間近くも展開されていた。この暑さも去ることながら、どうやって嗅ぎ付けているのか疑問なほどの察知力から、俺と九重は死に物狂いで掻い潜り続けている。

 意外にも御神も捕まっていないばかりか、かなり追いかけ回されていたらしい。

 ついさっき合流して話を聞いてみたところ、与える命令を俺たちを捕まえることにしたかったようだ。

 たしかになにも知らない俺たちを油断させて捕まえるには、御神を使役するのが一番手っ取り早い。でもそれって反則ではなかろうか。

 あくまでも逃げるのは男性陣、捕まえるのが女性陣だ。

 もはや俺と九重が商品のゲームである。御神はお助けキャラか。

「そろそろ終わりにしてくれねぇかな。疲れてきた」

「そんなん俺だって同じだぜかっしー。もう海じゃねぇよ。ただの鬼ごっこだよ」

 さすがの九重も表情に疲労感を滲ませていた。

「なんか別のことに気をとられてくれたら、その流れでお開きにできそうなんだけどなぁ」

 まあ、そんなイベントがほいほい起こってくれても困るわけだけども。

 木陰に身を潜めて溜め息の乗ったちょっとした願望をこぼす。

 背中を木にもたげるとパーカーに染み込んだ汗の気持ち悪さがぞわりと走り、反射的に弓なりになってしまう。これだけ逃げ回ってたら海に浸かったみたいになってても不思議じゃないか。

「ありゃ? なあなあかっしー」

 九重が袖を引っ張ってくる。つか、かっしーって言うなっての

「なんだよ。また見つかったのか?」

 爪先からふくらはぎ、太股へと脚力を最大に高める準備を整えておく。

 もし柊や志乃に見つかったのだとしたら一瞬の遅れですら致命傷だ。波動で強化する俺と違い、あの二人は素の状態で天災を引き起こせるのだ。こんな準備でも足りないくらいだ。

 筋肉をトップギアに移行し、いつでも逃げられるようにしたが、しかし九重の返事はてんで検討違いのものだった。

「見つかったっちゃ見つかったけど、ありゃあ一葉ちゃんたちだな。なんかすげー慌ててこっちに向かってきてんぜ……っておいおいおい!? なんだありゃ!?」

 九重の異様な慌てぶりに俺もつられて木陰から顔を覗かせると――そのすぐ先に雷を纏い、一葉を担いだレンの姿があった。

 まさか避けるわけにもいかず、勢い抱えたレンを地面に二本の線を刻みながらなんとか受け止める。横で九重も赤と青の双子をキャッチしていた。

 腕に収まったレンは纏っていた雷を分散させると、溜め込んでいたらしい空気を一気に吐き出し、息を整えている。

「そんな急いでどうしたんだ? なにかあったのか?」

 などと訊くのは野暮というものだ。

 ほとんど波導を扱えないいまのレンが『雷鎧』を発動させ、なおかつ逃げるように飛び込んできたのだから、彼女の手に負えない事態が起こったということだ。

 とりあえず息を切らすレンと目を回す一葉を木にもたげさせ、落ち着くのを待つ。

「わ、悪いんだけど、ちょっと手ェ貸しなさい」

「それは別に構わねぇけどなにがあったかくらいは説明してくれよ」

「そんなのあれを見りゃわかるわよ!」

 焦ったような、事情を話すのも億劫そうに怒鳴ったレンが、たったいま辿ってきた道を指し示す。それを追い――すべてを理解した。

 九重が慌てていたのも、レンが逃げていたのもあれが原因だ。

 丸々と弧を描くフォルム。直接胴体に繋がった八本の触手には大縄のような筋肉が浮き彫りになっており、あれに締め付けられようものなら全身の骨が粉々になるだろうことは言うまでもない。

 ギョロギョロとする眼球は真っ直ぐにこちらを捉えており、その体躯からは想像できないほどのとんでもない速度で距離を縮めてくる。

 すぐさま踵を返し、レンと一葉を両脇に抱える。

「え、ちょ、あんたどこ行くの?」

「逃げる。勝てる気しない」

「魔王に勝ったあんたが言っても――」

 説得力ないって言いたいんだろ。そんな小言を聞いている間にも迫られつつあるのに、予想できる二の句を最後まで待ってられるか。

 先に逃走を開始していた九重の背中を跳ねるようにして追いかける。

 いかに万全ではないとはいえ、『雷天』であるレンの『雷鎧』にも劣らない巨体から逃げ切れるとは思えないが、ああも面倒そうなやつを相手にしていられない。

「それに武器もないし、素手じゃちょっとな」

 派手に腕が爆散したのだ。一度、波脈が喪失した状態から回復させたあとは決まって処理落ちが起こるのはもはや経験済みである。いくら真宵に再生してもらったとはいえ、時間を置かないことには同じことになるだろう。

 しかも天剣の補助もなしでぶっつけ本番というのは、心配が有り余って仕方ない。

「なに? どっかに置いてきたの?」

「海に浸かったら錆びるかと思って」

「んなわけないでしょ」

 半目でレンに一蹴される。やっぱり大丈夫だったのか。

 とにかく皆のところに逃げるのが先決だ。あそこには東雲さんや竜一氏、母さんといった魔獣に対抗できうるだけの戦力が整っている。一体くらいなら片手間でも充分すぎるほど充分だ。

 本来なら俺どころか、レンと遭遇した時点であれの命運は尽きていたのだろうけれど、病み上がりだったのが幸いしたようだ。……いや、これから起こることに比べたら俺たちに仕留められていた方がよかったかもしれん。

 ギリギリ追いつかれない距離を保ちつつ、砂浜を疾駆する。脇に抱えられる一葉は目を回すを通り越して顔が真っ青だった。

 ……おいちょっと待て! なんか嘔吐いてるんだけど!?

「もうちょい我慢してくれぇ!」

「え? ぎゃー!? あんたもゆっくり急ぎなさい!」

「無理言うんじゃねぇ!」

 背後からの威圧だけでなく、ゼロ距離で訪れるかもしれない恐怖に絶叫する俺たちだった。


 離せずとも縮められぬ距離を維持、そして一葉の嘔吐を遅らせながら疾走する俺にもようやくゴールが見えてきた。

 先行していた九重は都合よく集結していた女性陣に取り押さえられ、その背後では何故か司先生と揺火がどんぱちしており、東雲さんはダウン、ビーチパラソルの下では母さんが睡眠してガンマが呆け、近くでは八雲さんが首まで埋められていた。

 なんつうか……残飯みたいな状態だ。ひとつひとつは美味いのに、ごちゃ混ぜにして不味くなったみたいな。

 何人かいないことと八雲さんがなんで埋められたのかは気になるが、ひとまず脇に追いやる。

「お、やっと出てきた――あ? なにそれ?」

 目を血走らせる来夏先輩に口元を引き攣らせる。文字通り血眼になるくらい俺を捕まえたかったのかよ。真面目に逃げてて助かった。

「だから言ったろ来夏ちゃん! いまはゲームなんかしてる場合じゃねぇって!」

「……うっさい」

 気まずそうに視線を反らした来夏先輩は九重を蹴り飛ばすと、正面に立った俺を見据えてくる。

 この状況になってまで鬼ごっこなどするつもりがないのは全員同じらしく、躍起になっていた翔無先輩と火鷹も自重している――と思ったのだが、初めて生で見た魔獣に機能停止していただけだった。

 そのほかのメンバーは単体ではなく大群、しかも死闘を演出までしたのだ。いまさらあれだけで驚き、焦ることが馬鹿馬鹿しく映るのだろう。

「かしぎさん、あの……」

 真宵が俺の袖を掴み、上目遣いで見上げてくる。

「あれって……」

「あー、うん。言いたいことはわかる」

 周りも俺たちに同調するかのように頷く。

 腕の調子が悪くなかったら俺が相手をすると何度も言っているが、それは敵の強い弱いは関係ない。巻き込みたくなかったという気持ちもたしかにあった。

 だがこいつを皆会わせたくなかった理由は別のところにある。なにせあれは――、

「タコ、なんだよなぁ」

 もう見た目がタコなんだよ。でかいタコ。紛うことなきタコ。

 八本の足が触手にしか見えない俺は、きっと心が汚れているだけでなくそういう展開を望んでるからかもしれない。

「じゃない! ほら一葉ちゃん、ここでなら思う存分やっていいぞ!」

 レンを放り捨て一葉を水辺につれていく。遠くで文句を垂れる幼女の声が聞こえるが無視だ。エチケットなんてあったものではないが、膝をついてげえげえやるのをみる趣味もないので、さっさと離れる。

「かかかかかっしー!? なにあれ!? え? なにあれー!?」

「落ち着きなさい雪音。口調が乱れてんぞ」

 再起動した翔無先輩は混乱状態だ。あと口調の乱れは来夏先輩に言われたくない。

「来夏ちゃんがそんなこと言っても説得力……」

「陰部ちぎんぞ」

「ごめんなさい!」

 いつにも増してキツい来夏先輩だった。

「――で? なんであんなのつれてきたわけ?」

 いい加減この射殺しかねない視線にもなれてきた。眼球を彩るのは苛立ちの色。魔獣など始末するのはすでに難しいことではなくなっている。超能力者としては異質な体験をした彼ら彼女らにとって、タコなんて並の能力者以下だ。

 現に魔獣を確認している揺火たちはそれには目も暮れず、争いの真っ最中の相手だけに意識を向けている。

 同じく初見の司先生はわずかに動揺しているも、動きが鈍るほどではない。

 来夏先輩が言いたいのは、あんな面倒なものをつれてきて、話をうやむやにする気なのか――といったところだ。

 おそらく来夏先輩は俺が誤魔化そうとしているのだと勘違いしている。

 九重のいった通り、他人には敏感で、自分にはひどく鈍感な人だ。

 答えようと口を開こうとしたところで、意外な人物から横槍が入る。

「かしぎよ、もしや腕の調子が悪いのではないか?」

 志乃は俺の腕に優しく触れ、なにかしらの能力で調子を確かめてくる。

「そんなわけありません」

 しかしそんな気遣いを真宵がばっさりと切り捨てた。

「であればかしぎほどの男があのような雑魚に背を向けるはずがなかろう」

「……むぅ」

 頬を膨らませて拗ねる真宵。可愛いぜ。

「脱線してるところ悪いんだけど、志乃の言い分で正解だ。こっちの幼女と双子に助けてくれって言われたんだけど戦えないから、ちょっと頼ろうかと思ってな」

「あんたさりげなく喧嘩売ってんの!?」

「ふーん、そういう理由ね」

 どうにも納得いかなそうな来夏先輩を目尻に、迫り来る魔獣の位置を確認する。

 俺が稼いだ距離はもうほとんどない。他愛ない掛け合いもそろそろ頃合いか。

「それで助けてくれるのか?」

「もちろんです」

「かしぎに頼まれては断れんのう」

「レンのことは無視!?」

 一部はほっとくして、小数から賛同は得られたようだ。頼りになる二人の助力を得ることができた以上、もう騒ぎ立てる必要はなくなった。あとはなるようになるだけだ――と願いたい。

 タコ型魔獣との距離がゼロになる。

 瞬間、見た目にそぐわない咆哮が砂浜を蹂躙した。

 脳内でかちりとスイッチが切り替わる。一瞬にして肌を焼き焦がす空気が空間を満たし、それがどうしようもないほど戦争の始まりを告げていた。

 こっちの会話を聞き及んでいないはずの東雲さんと揺火が俺たちの両脇から風を纏って通過し、紅蓮を引き連れて魔獣へと襲いかかる。

「揺火ァ! 酒のつまみにちょうどええんがおるなァ!」

「丸焼きにして酌に付き合ってもらうとするか!」

 魔獣を食らおうとするあの二人はなんなのだろう。いくら大酒豪でもあそこまで食べるな危険を体現する魔獣を食おうとするなんて。まさか揺火まで血迷ったことするとは意外だ。

「ふぅむ……おかしいのう」

 隣で志乃が腕を組み、首を傾げている。

「妾はすべての蝿を滅したはずなのだがのう……」

「たぶん戦ったときに撒き散らした波動の影響を受けて、生態系に急速な変化を起こしたんじゃねぇかな」

 人間は高性能な知能や言語能力を有している。それゆえに波導を扱おうと、精霊に掛け合うようなことまでやってのけた。無駄に高度な技術を用いようとしてしまったのだ。

 けれど自然に生きる生物はそんなことしない――できない。ならば波導を使うための気管である波脈を完璧に形成しなくとも、体内の波動を全身に巡らせるだけのことができればいい。

 それだけでいい分、人間よりも早く異世界に染まる。このタコはそのうちの一体だと考えるべきだ。戦地となった無人島付近にはおそらくこれに似た生物が多くいるだろう。

 ……そのうち、魔獣掃除に行かないとだなぁ。

「んな御託はいいっつーの。タコ野郎が邪魔すんじゃねーよ!」

 回転軸を八本の触手に乱立させる。そして起動。一斉にそれらが捻られる様は壮絶すぎて、それだけ来夏先輩の怒りの大きさを伺い知れた。

「来夏先輩、荒れてんなぁ」

 柊は爪先で地面を叩いたあと屈伸し、準備運動を重ねている。

「お前はなんでかわかってるだろ?」

「まあな。そんじゃあ冬道に頼られたことだし、張り切っていこうか!」

 吹き荒れる獄炎、撒き散らされる回転軸の合間を一直線に突き抜け、柊は超越者としてもたらされた絶大な脚力を以て、魔獣を蹴り飛ばした。一軒家くらいはありそうな巨体が浮上し、水面を跳ねていく。

 柊は先回りすると、失われない勢いのまま飛んでくるタコを再び蹴り飛ばす。

 それを幾度なく繰り返すうちにタコは海面から体躯が浮き、空へと昇っていく。

 アムリアスの悲劇の再来を彷彿とさせる光景を前に俺は寒気を覚え、それと同時に自分ならあれをどうやって対処するかを思案していた。本当にうんざりする。

「私の出番がありません」

「というか私らまで追い出されてもうたわ。なぁ真宵ちゃん」

「知りません」

 東雲さんに対してはとこんぶれない真宵だった。

「改めて見るが……凄まじいな」

 凪の血の赤とは違う、透き通ったとでも言うべき赤色の髪をなびかせ揺火は言う。

「あれで素だっていうんだから私生活にも支障があるんじゃないですかねー?」

 柊の場合、もともと『吸血鬼』だったものの、今年の夏を迎えるまではほとんど一般人と変わらないスペックだった。期間限定でとんでもない怪力や感覚を伴うくらいである。

 だが夏を区切りに、柊の世界は一転した。意識して『吸血鬼』に頼らずとも、軍隊とも国とも単身で圧倒できるほどの力を手に入れたのだ。

 戦いに限っては困ることはないが、普段は学生として過ごす柊にとってはなにかと不便になってくることだろう。

 かくいう俺もそうだ。これまでは波動で強化して無理やり身体能力を向上させていたが、いまでは『勇者』だったころのハイパー状態が常となっている。だから逃げるときもさほど苦ではなかった。それでも魔獣と素手で戦えるほどには回復していないわけだけど。

「ボクや来夏先輩と違って日常じゃ使いどころのない能力だからねぇ。それについてはキョウちゃんや東雲義姉さんにも言えることじゃないかい?」

 驚きに驚きを重ね、翔無先輩が復活を遂げていた。

「……そうですね。というより、私の能力は案外使えません。無能です」

「おい、なんで俺の股間を見ながら言いやがる」

 こっちもこっちで再起動してすぐにエンジン全開フルスロットルだった。

「キョウ、かしぎさんのナニは無能ではありません。猛りに猛る猛獣です」

「……なんと」

「こっち見んな!」

  ツッコミどころが多すぎてどこから処理していいかわからないので、とりあえず流れをぶった切っておく。

「お前らは柊が戦ってんのになんでそんなのんびりなんだよ」

「そう言われましても、あれなら柊さんだけで片付いてしまうでしょう?」

 答えたのは激しい落下音だった。跳ね上がった水飛沫は離れている俺たちの頭上から降り注ぎ、全身をぐっしょりと濡らした。

 頭を降って髪に染み込んだ水分を飛ばす。それでも乾いていない髪は肌にへばりついてくる。掻き上げて真宵から受け取った紙ゴムで前髪を一本に結ぶ。夏はやっぱり前髪は上げとかないとだめだな。

「だな」

「なんやあんたら。キモいほど息ぴったりやで。ちょっと殴ってええか?」

「奇遇だな。私もそう思っていた」

 前方に東雲さん、後方に司先生が拳を握っている。やめてくれよ。

 二人の痛い視線を避けて柊の様子を伺う。タコを叩きつけた以降、動きがないみたいだけどどうなってるんだ。

 そんな思いで視線を傾けた俺の目に飛び込んできたのは、予想を裏切られる光景だった。

「おーい冬道ー。捕まっちまったー」

 タコの触手に辛めとられた柊の姿があった。しかものんきに手を振って現状報告をするだけの余裕があるというのに、まったく抵抗する気がないようだった。

 痒くもない後頭部を掻き、現状を噛み締める。

 そして俺は絶叫する。

「なんでお前捕まってんだよ!」

 手助けしなかった俺たちに原因の八割くらいはあるけど、余裕があるのに抵抗らしい抵抗をしない柊にも非はある。危害は加えられていないようだが、どっちにしろ助け出すことには変わらない。

 この際だ。本調子でないからなどと甘ったれたことを言うのは終わりだ。本音をぶちまけろ。本当は面倒なだけだったと。

 思考を切り替え、分析を開始する。

 柊が簡単に捕まったのは、魔獣になろうともタコという軟体生物の特性が失われなかったからだろう。斬撃は通じても打撃は通じない。後者しか攻撃手段を持たない柊では、ダメージを与えられないことになる。

 掌に水分を凝縮、そして剣の形に固定する。

 天剣はなくとも武器はいくらでも用意できる。俺のスタイルは基本的に剣のみだ。波導が使えないところで大した影響はない。

「――っ!?」

 八本のうち空いた七本の触手が伸長してくる。それは俺たちを取り囲むように蠢くと、別々に鞭のごときしなやかさで振り抜かれた。

 早い。人間の反応速度の限界をゆうに越えたそれらに対応の追いつかなかった火鷹の前にとっさに体を滑り込ませると、氷剣で弾き返す。それだけで剣は砕け、飛礫となって腕に切り傷を残した。

 見た目の間抜け具合にすっかり騙された。あのタコ、下手をすれば上級個体にも劣らない。

「真宵、援護を頼む」

「了解です」

 短く交わし、行き交う触手の隙間から外界へと足を駆動させ、素早く間合いに潜り込む。

 鞭を弾いて氷剣の強度が負ける。ただ剣で斬りつけたとしても同じ結果になるのは明らかだ。属性石なしではそれが関の山――ただし俺だけならの話だ。

『雷鎧』

 握りしめた氷剣の刀身から雷が迸る。上段から落とした剣は一瞬の反動の後、赤色の触手に食い込んでいく。それを皮切りに刃は深くへ沈み、柊を絡め取っていたそれを切断した。

 脱出した柊はウインクしてお礼を返し、手刀を繰り出して触手を切り落とす。

 静かに事を観察する形になりわかったことがある。柊には戦いの経験が極端に少ない。だというのに力を持ってしまったがゆえに、使いこなせていないのだ。

 いまだって志乃なら打撃を通じないとなれば手刀に切り替えていた。ただし第一手で判断し、同じ時間を要していればタコなんて塵さえも残っていなかっただろう。

「あ……冬道! なんか来る!」

「うおっ!?」

 体勢を立て直した柊がいきなり方向転換し、次撃を走らせようとしていた俺の手をとってタコから全速力で距離を広げていく。

「おいこら柊! なんかってなんだよ!」

「わかんねぇけど近くにいるのはヤバイ気ィすんだよ!」

 空を翔る柊につれられて地上がどんどん小さくなっていき、触手の鞭の対処に追われる真宵たちが米粒のようになった。

「ヤバイなら早いとこ終わらせるぞ!」

「あ、おい待てって!」

 柊の拘束を無理やり振りほどき、全身の筋肉を総動員させて落下の勢いを加速させる。新たに氷剣を形成して逆手に構え、迫ってきたタコの頭上に目掛けて刀身を思いきり突き刺した。

 耳をつんざく絶叫が体内から響き骨を軋ませる。空気を振動させて伝ってきた衝撃が腕の傷に負担を与える。

 球状に膨らんだ頭部からどろりとした体液が噴き出す。それは氷剣をあっさりと熔解させ、俺にまで牙を突き立ててきた。咄嗟に跳び跳ねて後退するも躱しきることは叶わず、体液を浴びた皮膚を爛れさせた。

 苦悶を洩らし次に備えて防御の姿勢を作る――が、タコは俺のことなど眼中に捉えていない。こちらに背を向け、回避に専念しているメンバーに視線を注いでいた。

 なにかやろうとしているのか、頭部が急激な肥大化を起こし、その規模は倍以上にもなる。

 そして次の瞬間――顔面に取り付けられた円柱から墨が吐き出された。

「……はい?」

 直前までの緊張感など忘れ、間抜けな声を出す。

 波動に侵食されて魔獣化して並外れた性能を発揮していたからてっきりそんな機能は排除されたとばかり思ってたけど、平凡なのも残ってるのか。

「みんな避けろ! そいつの墨は――」

 焦燥の表情を浮かべた柊の怒声にも近い叫びにはっとする。

 見かけは普通の墨でも実際は溶解液になっているかもしれない。体液でさえそうなのだから、ほぼ間違いなくそうだろう。

 属性石のない真宵は無詠唱の波導しか唱えられない。しかも無詠唱などほとんどが強化や一点にのみ作用するものばかりだ。避けることはできるだろうが、それだとほかの皆が巻き込まれてしまう。

 そうなると志乃が頼みの綱だが、すでに退避して動く様子がない。

 九重も来夏先輩も実のところ能力の使用はかなりの負担のはずだ。広範囲に渡る溶解液を防ぐまでには回復しきれていない。

 ――こうなりゃ俺の風系統で吹っ飛ばす!

『嵐声』なら粒子ごと破壊して液体でも被害を出さずに消し飛ばせるはずだ。

 漂う波動を呼吸に含め、放出しようとしたところで、思考の渦から強制的に引き上げられる。

「――服だけ溶かしちまうんだよ!」

「よっしゃぁあああああああ来夏ちゃん俺の盾になれぇええええええ!」

「ざっけんなコラァァァァッ!」

 来夏先輩のアッパーをもろに喰らった九重の肢体が宙を舞った。

 能力が使えなくても拳のキレは健在のようである。

「……ってそれこそのんきにしてる場合じゃねぇだろ!」

 ああクソ。冬道かしぎは天剣を手にしていなければこうも無力なのか。たかが上級個体に成り上がった程度の魔獣一体に手も足も出ないなんて、体調が万全ではないなどといい言い訳の利く範疇を越えている。

 握り締めた拳が皮膚を破り、雫となって海へと滴り落ちていく。

 俺は闘争の螺旋から脱することは不可能だ。これは予想でも予測でもなく断定。遠からず未来に必ず戦禍が勃発し、その中心へと誘われていく。

 慰安旅行と銘打っているが事情を知る人間にとって、これはなにも考えずにゆっくりしていられる最後の時間なのだ。

 けれど俺にはそんな暇はないと見える。

 どこまでも泥沼続きの道は、一歩を踏み出すごとに体を沈ませていく。

 ならばいっそのこと、いまここでその流れに身を委ねるのも一興か。

 ――ざざっ――と。

 不意に脳裏にノイズが駆ける。思わず頭を抑え踞り、なにかを握っていることに気づいた。

 金色の剣を模した首飾り。置いてきたはずの天剣だ。

「なんで……?」

 世界がブレ続けている。目の前にある光景とは別の光景が重なりあい、一致しない部分が違和感となって脳に負担を強いている。

 時間を重ねるごとに頭の痛みが増していく。薄まりつつある光景を否定するかのように、記憶からそれを抹消せんとするかのような激痛に、周りのことなどお構いなしにのたうち回りたかった。

 なんなんだこれは。深呼吸して落ち着こうとするも、それすら許すつもりはないのか、肺がほとんど活動を停止していた。

 日射しとは別に汗が噴き出してくる。体の芯から凍える恐怖に屈しそうになる。

 だがそれを防ぐものが遠くに見えた。

 地上にいる真宵も、同じように頭を抱えて痛みを堪えていたのだ。

 視界に捉えた瞬間――神経が焼き切れんばかりの加速力に包まれた。

「うぐぅぅぅおおおおおおおおおおおおおおッ!!」

 絶叫する。

 復元した黄金の剣を片手に、宙を漂い続けていた墨の射線上に介入する。

 そして一閃。

 全力を以て放たれた斬撃はいとも簡単に黒い水を凍結させる。連れ立った鎌鼬がそれを粉々に粉砕し、なおもって失われない波動の塊は魔獣を喰らう。

 世界から音が消えた。聴覚が喪失した。そんな錯覚を引き起こした絶叫から尾を引くように、魔獣は海辺から姿を消した。


 夕暮れ時。タコの魔獣が攻め込んでくるアクシデントの甲斐があってか鬼ごっこは決着がつくことなくうやむやになり、結局、各々が好きなように過ごすということに話が纏まった。

 もともと協調性とは無縁に近い生活をしてきた人間しかいなかったのだ。こうなるのはなんとなく予想できていた。

 とはいえあんなことがあって遊ぶ気分になるやつは多くない。用意してあったビーチパラソルの下で睡眠したり体を焼いたりと、休む方向にシフトした面々に対し、動く選択をしたのは支倉姉妹を含めた志乃一派くらいだ。

 来夏先輩率いる学生組の『組織』勢と一葉は一足先に別荘に帰投している。

 そんななか俺はさっきのことに思考を馳せていた。

 記憶の食い違い。いまは痛みは引いているものの、名残はあるのか天剣を持ってきていなかったときのことを思い出そうとすると、鈍い刺激が掠めていく。

「……ったく、なんだってんだ」

 柊や九重に確かめて疑問はさらに深まった。なんでも俺は天剣を置いていこうとはしたものの、危険があると悪いからと思い直したというのだ。

 それは見事に適中。しかし最後の最後まで復元させなかったらしい。

 何故かはわからない。なにせ俺自身が状況をまったく理解できていないのだ。そこからあるものを使わなかった理由を看破など不可能である。

 加えて言えば、真宵も同じ体験をしたようだ。真宵は俺よりも頭痛がひどくて、先に別荘に帰っていった。

 心配だから付き添うと言ったのだが大丈夫の一点張りで許可は貰えなかった。あの様子と真宵の性格から考えると、俺にも見られないほど弱っているのだろう。

 実はこっそり見に行ったところ、俺の気配にすら気づかないほど熟睡していた。

「冬道? なんか考え事でもしてんのか?」

 健康そうな肌から水滴を流しながら、柊は豪快に横に腰を降ろした。

「どうせさっきのことなんだろ? せっかくのお泊まり会なのに難しいこと考えてても仕方ねぇだろ」

「まあ、そうなんだけど……」

 そもそもどうして俺と真宵だけにこんな不可解な現象が起きているのか。疑問が疑問を招き、絡まりあってほどける兆しがない。

「あとで真宵に食えそうなもん持ってってやれよ? あれだと晩飯んとき、出てこれねぇだろうから」

「ああ。そうするよ」

 はっきり言って俺も食欲はない。空腹のはずなのに胃が食べ物を受け付けない。

 楽しいはずの二泊三日が呼び寄せた異変。一転して思考をフル回転させるだけの時間に早変わりだ。

「冬道」

 柊が後ろから抱きついてくる。弾力のある胸が惜しみ無く押し付けられ、形が変化していくのを直に感じることができた。

 いつもならなにかしら言ってやるところなのに、それすら億劫だった。反応のなさに寂しさを滲ませる柊には申し訳なかったが、俺にも余裕のないときもある。せめていまだけは勘弁してくれ。

「困ったことがあったらあたしになんでも言ってくれよ。お前があたしを助けてくれたみたいに、あたしもお前を助けるからさ」

「ありがと。じゃあ宛にさせてもらうよ」

「おう。じゃんじゃん宛にしてくれ!」

 しばらく脳を休ませておくか。どうせ帰ってからもやることは山積みだ。未定だけど厄介ごとはじゃんじゃん舞い込んでくるだろうさ。そういう運命のもとに生まれたんだろうからな。

 ああまったく大歓迎だよクソッタレ。いくらでもこぞって来やがれ。

「ところで冬道? あたしの胸の感想は?」

「自分の胸に聞いてくれ」

 目線も合わせない俺の答えに、柊はやや満足そうに鼻を鳴らした。


     ◇◆◇


 

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