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氷天の波導騎士  作者: 牡牛 ヤマメ
第八章〈夏休みの終わり〉編
106/132

8―(8)『ここは楽園ですか? イエス、エデンです⑥』

 

 遅れましたが、新年明けましておめでとうございます。

 年越し前に更新すると言いましたが、すっかり忘れてました。

 相変わらず更新は遅いですが、今年もよろしくお願いいたします。

 

 調理器具の擦れる音が演奏のように部屋に響く。一切の邪魔の入らないその空間には、まるで血を浴び続けて変色したような真っ赤な髪を揺らす少女がいた。

 背丈の関係から踏み台に乗り、黙々と料理を作り並べている。

 せいぜい十数年しか生きていない容姿からは想像できないほどの貫禄があり、近寄りがたい雰囲気を醸し出していた。

 威圧的とも言える。例えるのなら小さな竜。見れば恐怖する以前に跪いてしまう王の資質。

 少女――凪にはそれらがあった。

 凪は一通り料理を並べ終えると、疲れを表すようにに肺から空気を押し出す。

「ナギちゃん、お疲れなの~」

「ん? カノンでありましたか。うむ、労い感謝であります」

 集中していたのか、それとも激闘を終えて気が抜けていたのか。おそらくはどちらもだ。いつの間にか部屋の隅に置かれたソファに寝転がっていたジャージ姿の眠り姫――花音を横目で見やる。

 反発力抜群のソファで眠る彼女はとても幸せそうで、世界を監視できるほど強大な能力を保持しているとは誰も思わないだろう。

 人は見かけによらぬは、まさに花音のためにあるような言葉だ。

「でも、ナギちゃんは遊びにいかなくてよかったの~?」

「…………」

 答えにくい質問だ。本音を言えば凪も招待した人間だけであれば、こんな早々と夕食の支度などせずに海に足を運んでいただろう。遊びとまではいかずとも、休息の時を過ごしていたはずだ。

 しかし、あの場には不要な人間がいる。

 九十九一葉を筆頭とした『九十九』の連中だ。

 兄である双弥には手紙を送り招待したが、そのほかは天地が返ろうと誘うつもりなどなかった。仕事が重なり送った本人に手紙が届かず、その家の人間に内容を読まれたのが運の尽きだ。

 しかも双弥は仕事が終わっていないらしい。どの程度の時間を要するかまでは不明だが、それでもしばらくは訪れないだろう。

 なにせ仕事は護衛だ。期間は今日までだと言っていた気がするが、それなら来るのは明日のことになる。

 明日に来られるのなら一日くらいは我慢する。明日にさえ来てくれるなら、問題はないのだ。

「カノンのことが心配でありますからな。一人にするとまともに起きてこないでありましょう?」

「えへへ、そんなことないよ~。……すぴ~」

「言ってるそばからでありますか」

 エプロンを外してテーブルに置き、寝息を立てる花音に薄手の毛布をかける。

 真夏だとはいえクーラーをつけて冷えきった部屋では風邪を引いてしまうかもしれない。せめて腹は冷やさないようにするべきだ。

「つかまえた~」

「おわっ!?」

 仕上げにかかると花音に背を向けたところで、全身を包む温かさと共に浮遊感に襲われ、最後にわずかな衝撃を受けた。

 気づけば天井を見上げている。体がソファに引き込まれたのだと理解するのにそう時間はかからなかった。

「……カノン? 狸寝入りでありますか?」

「ふっふっふ~。眠かったのは本当だけど、隙だらけのナギちゃんを見たら抱き締めずにはいられないのです。髪の毛もふもふ~」

「こら。あまり乱すな。我輩が癖っ毛なのは知ってるでありましょう」

 言いながら拘束から逃げようとしないのは、この小さな体では抜けられないことがわかっているからだ。こうなってはしばらくこのままだ。

 あらかじめ決めておいた料理はあらかた作り終え、あとは適当に余った材料でなにかしようと思っていたところだがら、特に問題はない。強いて言うなら片付けくらいである。それも夕食後にまとめてやってしまえばいいだけのことだ。

「もふもふ~」

「仕方のないやつでありますなぁ、カノンは」

「これじゃどっちがお姉さんかわからないね~」

「……カノンは自分がお姉さんだという自覚などあったでありますか?」

 凪が言わなければ起きないどころか、身だしなみを整えることもないし、果てには湯船にも浸からない始末だ。もはや女の子としてではなく人間として堕落しきった花音に姉だどうだの言われるのは、いまさらというものだ。

 しかし、とうの花音はきょとんとしているのだから、思い込みとは恐ろしい。

「ないよ~? ツカサちゃんとかカエデちゃんの方がお姉さんだよね~」

「我輩にしてみればどちらも姉ではないなぁ」

 司はやることはしっかりやるが、それ以外のところでは花音といい勝負ができるほど大雑把だ。

 姫路はああ見えて面倒見もいいし言われずともやるべきことをやってはくれるが、気紛れなつむじ風のような性格で扱いに困る。

『組織』に属する能力者は上位になればなるほど性格に難が色濃く反映され、凪が知るなかでまともなのはほとんどいない。

「まあ、あやつらがいないと『組織』も成り立たないでありますからな。多少の性格の悪さは寛容してやるべきだろう。我輩とは他人のことを言えるほど良好な性格ではないでありますからな」

「そうだね~」

「お前が肯定するなであります」

 超能力が強力であるほど性格の難が大きくなる法則は絶対にある。

 花音の能力は世界を監視できるほど強大だ。能力者さえいるならばどんな場所であろうと見渡せる眼。攻撃性ではなく効果性だけなら『吸血鬼』にも並ぶ最高峰の代物だろう。

 ――もっとも、それらですら上回る四つの禁忌があるらしいが。

「いつまでそうしているつもりでありますか? さすがに暑いぞ……」

「ナギちゃんは暑がりなの~」

「違うだろ!」

 叫んでまた暑くなる。逆に花音が寒がりすぎなのだ。

「離すでありますよー。暑苦しいのは我輩の髪色だけで十分でありますよー」

 気の抜けた反抗は花音の拘束を緩めるには至らない。

 クーラーの効いた部屋なら我慢できると踏んでいたが甘かった。夏を完全に嘗めきっていた。

「ナギちゃんはわがままなの~」

「……もうなんでもいいでありますから離すであります」

 凪の目からハイライトが消えていた。もはや諦めの境地である。

「そんなに離れたいの?」

「いまに限っては迅速に離れたいであります。暑い」

 普段は色気より食い気より眠気が勝るくせに、こういうときだけは意地になるののか。いつも一緒なのだから、少しくらい物理的に距離を置いてもよさそうなものだが、きっとそういうことではないのだろう。

「もう仕方ないなぁ~」

「仕方ないでありますか。……ん?」

 ようやく拘束から解かれて一息ついたところで、誰かが帰ってきた気配を感じた。

 時刻はまだ午後三時を回ったばかり。海に出てから一時間と経っていないのにもう飽きたのだろうかと首を傾げていると、ドアを蹴破る勢いで人影が飛び込んできた。

 黒髪を鎖骨辺りで緩く縛り、どこかゆかりの面影のある女性。目の端には涙を浮かべており、誰かから逃げているように見える。

 しかしそいつは凪のことを視界に捉えるや否や、突進と言って差し支えないほど急に抱きついてきた。

「な、なにをするでありますか!」

 何故こうも突然、見知らぬ相手から抱きつかれねばならない。

 いつもならそう言って引き離すところなのだが、胸に顔をうずめられ、嗚咽を漏らす相手にできるほど薄情になった覚えはない。

 花音の次は見知らぬ相手。正直なところ勘弁してもらいたかったが。

「飴ちゃん、いるでありますか?」

「……ありがと」

 飴玉を口内で転がして気持ちが落ち着いたのか、女性は凪から離れる。

「見ない顔でありますが、誰の連れでありますか?」

「ゆかりさん、だにゃん。ミーは冬道ゆりだにゃん」

 女性――ゆりの独特な言葉遣いに自分と近いものを感じながら、彼女から受けたゆかりの面影の正体に納得する。

「それで何故泣いていたでありますか?」

 答えてくれるとは思っていない。抱きついてきたのは感情の爆発を抑えきれなかったからだろう。

 しかし泣きつかれたからには問わずにいられない。社交辞令と同じようなものだ。

「りゅーがバカタレなんだにゃ」

「うむ」

「…………」

「…………」

 沈黙が静寂を支配する。

 凪は腕を組んで続きを待つも、正面に座り直したゆりの口は一文字に結ばれ、ほどける兆しがない。

「終わりでありますか?」

「終わりであります、軍曹」

 さっきの泣きっ面はすっかり消え失せ、びしっと敬礼を決めるゆり。軍曹と呼ばれてちょっと嬉しかったのは心のうちに秘めておく。

「それだけで泣かれて抱きつかれてもどうしようもないでありましょうが。竜一がバカタレなのは、まあ、概ね同意するでありますけど」

「だよね!?」

 身を乗り出して大声を出したゆりに、ソファで眠っていた花音が驚きのあまりに転がり落ちていた。

 ゆりは慌てて花音を介抱してソファに寝かせ直すと、再び凪の正面に座す。

「りゅーは難しく考えすぎなんだにゃ。そのくせに自分からはなにできないヘタレだから始末に負えないよ。それでも見放せないんだから、ミーもどうかしてるにゃあ」

「どうかしてるでありますな。ほら。我輩は愚痴なんぞ聞くつもりはないでありますから、さっさとどっかに行くであります」

 手を打って会話を断ち切り、残りの仕上げにかかろうと腰を持ち上げる――が、それは目の前の猫耳によって遮られた。

「……おい、我輩は愚痴なんぞ聞くつもりはないと言ったぞ」

「愚痴じゃなくてただのお話だにゃあ」

 肩を掴んで立たせないようにするゆりから察するに、愚痴を聞くまで解放してくれなさそうだ。しかもたんまりと溜まっていることだろう。これはただの予想だが、嫌な予想ほど外れた例がない。

 そうなると聞かないの選択肢は存在せず、聞くか聞くかの二択――すなわち、黙って聞いているしかないことになる。愚痴をこぼしたいのはこっちも同じだ。

 右から左に聞き流すにはどうしたらいいだろう。

 凪は自他共に真面目が基本属性だと認めている。聞きたくなくともどうせ聞き入ってしまうのが目に見えている。すると最後まで愚痴に付き合うことになり、食後のデザートは用意できずじまいだ。やるべきことは最後まで仕上げたい。

 そんな凪の内心を察したのか、ゆりが提案してくる。

「ミーも作るの手伝うよ。お菓子作りには自信があるにゃあ」

「む。それなら話を聞いてやろう」

 そういうことなら断る理由はない。立ち上がり、凪はキッチンに向かう。

「なにを作ったらいいのかにゃ?」

「とりあえず材料は一通り揃えてあるでありますから、できそうなものをなるべく多めに頼むであります」

 大酒豪にして大食らいが何人も揃っているのだ。作りすぎて作りすぎることはまずはない。これでも足りないくらいだ。

 学生組は海で遊んで腹を空かせるだろうからがっつりとしたもの。大人組は酒を主にするだろうからつまみなどを。子供組にはなるべく食べられないものがないようびと配慮して並べている。

 足りなくなるとしたらつまみなどだろう。その辺りはすぐに用意できるように仕込みは終えてある。

「メイド喫茶で鍛えたミーの実力を魅せるときがきたぜい」

「食えるものにはしてもらえると後片付けが楽であります」

「初っぱなから戦力外通告!? 少しは信用してほしいにゃあ……」

 ぺたりと項垂れる猫耳の幻覚が凪の目に映った。

「冗談であります」

「君のは冗談に聞こえないよ……。それより聞いてほしいにゃあ。りゅーはヘタレすぎて手に負えないんだよ」

「さっきも言っていたでありますな。ヘタレと言っているでありますが、それはお前のことを考えての行動だと我輩は思うぞ」

 答えながらテキパキと手を動かす。隣に立つゆりも自ら手伝うと申し出ただけのことはあり、凪よりも手慣れているようだった。

「全然違うにゃあ。ミーのことを考えてくれてるなら別れたりなんてしない。りゅーがやったのはただの自己満足だよ」

「人間なんぞどれも自己満足の塊でありましょう。我輩に愚痴を聞かせているのだって自己を満足させるための行動でしかないでありますからな」

「うっ……なかなか痛いところを突いてくるにゃあ……」

「当然でありましょう。まあ、竜一が優柔不断なのは同意しよう」

 これでも竜一とはそれなりに長い付き合いだ。戦闘に関しては即断即決だが、日常においての優柔不断ぶりには呆れを通り越して尊敬の念すら覚えたほどである。

 よく言えばマイペースということになる。周りに興味がないというのもそれに拍車をかけている。

 竜一が優柔不断なのはなにに対しても無気力だから、その一点に収束された。

「しかし思いやりのあるやつだ。我輩に無償で協力してくれ、その末、身に宿っていた力を失いながらも我輩のせいにはしなかった。あくまで本来なら自分になかったものがなくなっただけだと笑い飛ばしてくれた。あの思いやりには、感謝してもしきれないであります」

 ゆかりなど四肢を失ったというのに相も変わらず接してくれる。

 どちらからも怨み言をぶつけられてもいいはずなのに、たった一言さえもない。それが心苦しいときもある。いっそのこと怒鳴り散らしてくれればどれだけ楽になったことか。

 竜一は優しい。けれど甘いわけではないのだ。

「言われるとたしかにそうだにゃあ。りゅーはいつだってミーたちに……ミーたちにうにゃあああああああああああああああああ!」

「いきなりどうした!?」

 数歩と離れない距離で遠吠えられ、凪の肩が大きく揺れる。

 黄身の入ったボールを片手にしたゆりが眼前に急接近してくる。

「りゅーは誰に対しても優しすぎるんだにゃあ! 司と東雲が色恋に興味なかったからよかったけど、あんなふうにされたら誰でもころっと落ちちゃうにゃあ!!」

 突然沸騰した怒りの大きさを示すように、ボールに入った黄身が高速でかき混ぜられていく。

 ケーキでも作ろうとしたのだろうか。だとしたらそれはもう使えないだろう。

「現に何人も落ちてたし! 無意識にフラグを建てすぎにゃ! 完全にギャルゲー状態になってるじゃん! 鈍感ハーレムじゃん! 正妻はミーにゃ!」

「いや、あの……」

 いきなりのハイテンションに全く反応できない。しかもちゃっかり自分を正妻に推している。

 手伝うと言いながら結局やっているのは愚痴をこぼすことだけだ。これならやはり一人でやった方がよかったし、出ていけと叫びたいところだが、いまのゆりに口出しすればどうなるかわかったものでない。

 触らぬ神に祟りなし。とりあえず自分だけは準備を進めようとせっせと働く。

「どうしたらまた振り向かせられると思う?」

「がんばればいい」

「やっても気づいてもらえないから相談してるんだにゃあ!」

 凪の額に青筋が浮かぶ。

「ならそのウザイ口調をどうにかしたらどうだ」

「それは君にだけは言われたくないんだけど」

 ごもっともな意見でと凪は肩をすくめる。その通りの指摘を受け、込み上げていたイライラが沈静した。

 ゆりもゆりで溜まったものをあらかた吐き出し終えたのだろう。若干言い足りなさそうにしているも、満足そうにし、ダメになった卵を破棄して新たに作業に取りかかる。

 これで黙々と進められるようになった――そう思ったのもつかの間、またもうひとつ、誰かが帰ってきた気配を感じた。

「あっちぃ……」

 汗で張り付いた銀髪を鬱陶しげに払いながら、姫路楓が入ってきた。

「おろ? なんか美味そうなモン作ってんじゃん。ちょうど冷たいのが食いたかったんだよ。食っていい?」

「ばかを言うなであります。これは皆の夕餉のデザートだ。貴様に食わそうものなら作ったそばからなくなっていくでありましょうが」

「大丈夫だって。たぶん……いてっ!?」

 摘まみ食いをしようとする姫路の手の甲をつねり上げる。

 凪は見かけによらず怪力だ。手加減はしているものの、能力者でなければ肉が根刮ぎ毟り取られていたことだろう。それがわかってやっているのだから、我ながら容赦もモラルもあったものでない。

「少しくれぇいいじゃねぇか。けちんぼだなぁ」

「夕餉まで待っていろ。それが嫌なら手伝うであります」

「ん? ああ別にいいぞー」

 まさか承諾されるとは思っていなかっただけに、凪は目を丸くする。

 風貌こそお嬢様を彷彿とさせるが、その実態は野蛮人である。どちらにしろ料理なんてできるとは思えなかった。

 凪は慌てて手を止めると、ウェーブのかかった銀髪を結う姫路の前に立つ。

「待て、冷蔵庫に我輩の三時のおやつであるフルーツ缶があるであります。それを食していていいでありますから、調理場に立つのはやめろ」

 ゆりで時間をとられ、姫路に邪魔をされてしまうとなると本格的に間に合わない。

 姫路の登場で口数の減ったゆりが隣で目にも止まらない早さで仕上げているが、それでも足りないだろう。

 いまは少しでも時間が惜しい。颯爽と退場してもらおうとする――のだが、姫路は嘗めるなとばかりに人差し指を左右に振る。

「フルーツは魅力的だけど、アタシがこういうのが苦手だって見た目で決めてもらっちゃあ困るなぁ。……まあ、得意じゃねぇんだけど」

「帰れ無能がっ!!」

「くだんねぇこと気にするもんじゃねぇぜ我らがトップさん。少し苦手なくれぇがちょうどいいって誰も言ってねぇけどさ」

「貴様はなにが言いたいのでありますか!」

 ようは暇だから一枚噛みたかったというところだろう。

 凪を素通りしてゆりの隣に位置取った姫路はソワソワとしている。明らかに料理をしたことのない人間の反応だ。

「時間は有限なんだぜ? 苦手なことだって挑戦してかにゃならねぇだろ」

「うーん、時と場合にもよるんじゃないかな?」

「くだんねぇこと気にすんなよ!」

 ゆりにそう言い、手首まで覆われた腕を包丁に伸ばす。

 レシピなどろくに知らない姫路のことだ。それがあればなんでもできると思っていることだろう。きっと脳味噌は砂糖で構成されているに違いない。

 隣でゆりも姫路を止めようとしているが、聞く耳を持っていない。知っている側から見ればなにをしたいか検討もつかない選択に戦慄を覚えた。

「お、お前は海に入らないのにどうして来る気になったでありますか?」

 少しでも意識を目の前から反らすため話題を振るのも致し方ない。

 すると姫路がぴたりと動作を停止し、

「ちょっち会いたいやつがいたんだよ」

 そう一言告げ、花音の眠るソファの空いたスペースに腰を降ろした。

「それは誰でありますか?」

 招待した張本人であるだけに誰を呼んだかは把握している。なかには来れなかったメンバーもいるが、だいたい全員が揃っていた。

 しかしこうして帰ってきたところを鑑みるに目的の人物は来ていなかったという解釈で間違いはあるまい。

「秘密。あっちからすりゃアタシが会いたがってんのもわかってるはずなんだけどねぇ……」

「ならばあっちは貴様に会いたくなかっただけのことだろう。どうせなにかやらかしたのでありましょう?」

 姫路は面倒見がよく、御神とガンマのいがみ合いの仲裁はよくやっている。周りで騒ぎがあれば鎮火する立場ではあるが、火種がなければ自ら炎となるのが彼女だ。

 まともな神経をしていれば、おそらく姫路に会いたいと思う人間は数えるほどだ。

 凪はそう鼻で笑ってやるも、ふと横目で見た姫路がただならぬ雰囲気を纏っていることに気づいた。

 眼光が鋭く虚空を貫き、凪をもってしても恐怖させる気迫が滲み出ている。

「……そうかもしんねぇな」

 絞り出した呟きはしんと静まった空間にひどく響いた。

 それはなぜか重くのし掛かってくる。まるで姫路はどこか別の視点から世界を覗いてきたような――そんな異質感が渦巻いていた。

「なーんてな! うそうそ、ほんとはどんちゃん騒ぎたがっただけだよ。アタシ肌弱ぇから海にはいかねぇけど泊まりは夜も楽しいだろ? そんだけでも来たかいがあるって」

 直前までの空気を吹き飛ばすかのよう姫路は言う。

「あ、そういや竜一がえれぇ慌てたけどなんかあったのか?」

「……ふん。りゅーなんて知らないもん」

 頬を膨らませてそっぽを向くゆりに姫路は首をかしげる。

「なんかあったのか?」

「ただの痴話喧嘩でありますよ。暇なら話を聞いてやったらどうでありますか?」

「いやー、アタシもそれは遠慮するわ。いくらなんでもそこまでの仲裁スキルは持ってねぇし。そういうんは他に適任がいんだろ」

 面倒くさいからそのスキルを身につけなかっただけだろうと思ったが凪も同じ心情である。 ゆりを相手にしたあとだと心底そう思えた。

「さてと。ちょうど暇も潰せて眠気もやってきたし、一眠りすっかなー」

 手で口元を覆い、あくびを噛み殺す。

「我輩たちはお前の暇潰しの相手ではないで……まあいい。眠るなら部屋を出て曲がり角を右に行くと寝室がある。そこを好きに使え」

「ういー……」

 覚束ない足取りで部屋をあとにする姫路の背中を見送り、嘆息する。

 気を取り直してデザートの準備に取りかかろうとした――そのとき、たったいま部屋を出ていった姫路が血相を変えて戻ってきた。

「ちょ、ちょっと来い!」

「は? 部屋がわからないならあとで案内……」

「いいから来いって!」

 有無を言わせない姫路は凪を担ぎ上げると、滑るようにして寝室に飛び込む。

 そして担いだ凪を窓の外を見せるように降ろす。

「いったいどうしたであります……か……?」

 訊くよりも己の眼で確かめたほうがよほど早かった。

 窓の外にはプライベートビーチが広がっており、招待しメンバーの姿があちらこちらに点々と散らばっている。

 だがその全員が同じ方向、同じ物体に視線を走らせていた。

 ああ――やはり異能に関した者たちは安息を得る暇さえないのか。

 目下に映る赤い魔物を見据え、凪はそう嘆いた。


     ◇◆◇

 

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