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氷天の波導騎士  作者: 牡牛 ヤマメ
第八章〈夏休みの終わり〉編
104/132

8―(6)『ここは楽園ですか? イエス、エデンです④』

 

「あんたまた胸大きくなったんやないか?」

 酒気を帯びた東雲の一言に揺火は眉間に皺を寄せた。

 東雲の視線は揺火の胸に注がれている。絡み付くように居心地の悪い視線はすでに酔っぱらいのそれだ。大人組で集まってから数分と経っていないにも関わらず、周りにはビールの空き缶が何本も転がっている。どうりで酔うはずだ。

 とりあえず拳骨を見舞って視線から逃れた揺火は、自身の胸に視線を落とす。

 自分では気にしたことはないが、周りから見ればそれなりのものらしい。

 東雲も司も姫路も同じようにしか見えないのは拘りがないからだろう。ゆりに関してはなにも言うまい。揺火にでもわかるほどの違いなのである。

「揺火くん胸が大きくなったのかい? どれ、おじさんに試させなさい」

 突然後ろから伸びてきた手に揺火はぎょっとして息を詰まらせた。げほげほと咳き込み、目尻に滴が溜まる。

「なにやってんですか八雲さん。ほぼ初対面のやつ相手にセクハラとか訴えられても知らねぇっすよ」

 呆れた面持ちで竜一はぼやき、咥えた煙草を砂に押し付ける。

「竜一くん、女の子の胸の成長を確認するのは僕たち紳士の使命であり、果たさなければならない義務なんだよ。だから胸が大きくなったと聞いたら、それがたとえほぼ初対面の女の子だとしても直接たしかめるべきなのさ!」

「いや、知らねぇっす」

「はぁ、やれやれ。九重くんだったら一も二もなく同意してくれるというのに、君は実に面白味がないねぇ。そう思わないかいガンマくん?」

「知らん」

 竜一とガンマに一蹴され、八雲にしては珍しく落ち込む。

 そっけないにしてももう少し返しやすい反応をしてくれる相手ばかりで、こう淡白なのには慣れていなかった。

「胸がそんなにいいのか? 私はよくわからんのだが」

 瞬間、八雲の両眼に閃光が迸った。

「おい莫迦……!」

「余計なことを……!」

 揺火の何気ない疑問に竜一だけでなく司までもが戦慄した。

 新しく取り出した煙草を放り出し、司も脱いでいたパーカー引っ付かんで逃げ出そうとする。二人の行動に揺火は首を傾げるが、彼女はわかっていなかったのだ。

 翔無八雲という男がいかに説明や解説が好きなことを。

 夜筱司が砂浜を素足逃げ出すほどには話が長いということを。

 しかもチョイスが胸ときた。女の子と胸がなによりも大好きな八雲にその話をさせてしまえば、おそらく比喩ではなく現実として日が暮れてしまう。二言を挟む暇もなく言の葉を紡ぎ続けるだろう。

 以前に被害を受けた身としてはもう二度とごめんだ。

「まあまあ待ちなよ二人とも。竜一くん司くんも胸の素晴らしさを全く理解していないようだし、ちょうどいい機会だから僕がたっぷり聞かせてあげようじゃないか」

「結構っす! いらねぇっす!」

 いつ立ち上がったのか。逃走経路に立ち塞がっていた八雲は首根っこを掴むと、ずるずると引きずってビニールシートという名の魔窟へと取り込んでいく。

 しめたと司は内心で叫ぶ。生け贄に選ばれたのは竜一だ。自分はこの間に逃げさlせてもらおう。元から海が好きなわけではないのだ。ほとぼりが冷めるまで別荘に避難する。

「逃がさねぇぞ夜筱! ゆけぇい九十九ぉ! あいつ逃がすな!」

「任せときぃ!」

「わ、私もか!?」

 戸惑いながらも飛び出した揺火は、東雲と共に取り押さえにかかる。

 アルコールおかげで箍の外れた東雲は元々備わる身体能力も相まって、冗談では済まされない速度で司の背後に迫る。

 だがそこは長年悪友を務めてきた司だ。そんなのはお見通しである。軸足を固定し、振り返ることなく、寸分の狂いもなく、一瞬の淀みもなく踵を持ち上げ、東雲の横顔へと躊躇なく叩き込んだ。

 遊びでは決して鳴らしてはならない音を顔面から奏でた東雲は弓なりの姿勢で飛び、揺火の脇を通過していく。

 二度三度と砂浜を跳ね、数メートルほど転がったところで停止した。

 ある意味信頼の成せる行動に呆けつつ、さしあたりのない走速で司を追いかける。

 必死な形相で逃げる司から察するに、八雲の話は相当に苦行なのだろう。揺火も追いかけるフリをしてこの場から逃げることにした。

 ふと背後で動く気配がする。

「つぅぅぅぅかぁぁぁぁぁさぁぁぁぁぁぁぁっ!!」

  東雲が爆誕した。

 アルコールで朱色がかっていた頬は怒りで赤に染まり、鬼のごとき形相で司を睨んでいる。腰ほどもある髪が蠢く様子は、彼女の怒りの大きさを示すようだった。

「四の五の言わんであの変態に胸でもなんでも揉ませたりぃやゴラァ! あと揺火ァ! しらっと逃げようとすんなや! あんたの胸の話やろォ!」

「知らん!」

「貴様の胸でも揉ませていろ!」

「ふざっけんなやぁぁぁぁぁぁぁぁぁ!」

 絶叫した東雲は義手を後方に向けると、掌から噴射させた炎の推進力で追いかけてきた。もう本気だ。血走った目がすべてを物語っている。

 この様子だとおそらく話だけでは済まない。あの東雲の必死さは被害を受けたことのある反応だ。たぶん胸を揉みしだかれたのだ。

 同じ屋根の下で暮らしているのだから、当然のこと気の緩んだ姿を見られることになる。八雲ほど胸が好きな男にそんな無防備な姿をさらそうものなら、気配もなく後ろから胸を鷲掴みにされるだろう。

 そのほかにも理由をつけて胸を揉まれ続けて来たのだろう。これもおっぱい談義と称して、隙あらば実物にタッチす布石でしかない。

 東雲にとって司と揺火は生け贄だ。自分を守る盾なのだ。

「ちっ。面倒なやつだ。揺火、だったな? 少し手伝え」

 いつの間にか平行して走っていた赤獅子に言う。

「手伝うのは構わないが、なにをすればいいんだ?」

「あいつを変態に献上する。だから気絶させる。簡単だろう?」

 表情ひとつ動かさずある意味での死刑宣告を発令する司に、さすがの揺火でさえ同情するほかなかった。

「東雲とは友人の間柄だと聞いたんだが」

「だからなんだ。自らの保身にために他人を蹴落とすのは人間として理性ある行動だと私は思っている。そして私はあいつが嫌いだ。あいつも私が嫌いだ。だから一切の問題はない」

 これは酷い。本当に高校時代からの友人で、先の戦で遠く離れた土地を繋いだのかと疑いたくなる。

「……まあ、背に腹は代えられないからな」

 だからといって東雲を八雲に献上する生け贄とするのは反対というわけではない。

 顔を合わせて頷くと、急停止をかける。

「いぃ!?」

 まさか止まるとは思っていなかったらしく、推進力で加速した東雲は慌ててブレーキを踏む。それが二人の狙いだ。

 体をくの字に曲げて停止しようとする東雲は足元に意識を注ぎ過ぎているため、前方に対して完全に無防備だ。そんな彼女に――ラリアットを叩き込んだ。

 人間が出してはならない声を漏らした東雲は、白目を剥いて崩れ落ちた。

「お、おい、やりすぎじゃないのか?」

「構わん。私も以前に同じことをやられたからな。一週間ほどまともに話せなかったのはいまでも忘れられん」

 つまりただの仕返しか。高校時代のことなのだろうけれど、それが数年越しに、しかもこんなときにやられては溜まったものではない。

 揺火もあまり東雲が好きではないが、今回は例外として、ここまでやったりはしない。

 時と場合の切り替えがスイッチのようできるからこそ共闘するべきときには私情を捨て、それ以外のときは全力で恨みをぶつけられる。誉められたものではないが、この隔絶の域に達するスイッチは見習うべきところ……なのかもしれない。少なくとも切り替えの早さだけはそうだ。

「――ところで夜筱と言ったか? 聞きたいことがあるんだが」

 両手を熊手にし、重ねるようにして構える。

「ほう、奇遇だな。私もだよ」

 パーカーから煙草を取り出すと、先端に火を点けることなく咥える。

 すでに臨戦態勢は整っている。まるで命懸けの戦闘を彷彿させる真剣さに周囲の空気が張り詰めていく。指で弾けば割れてしまいそうな剣呑な雰囲気を背景に、間合いを調整していく。

 照りつける日差しが、流れ落ちる汗が鬱陶しい。できることなら海に飛び込んでしまいたい。だが目の前の存在がそれを許さない。

 ここで決めなくてはならないからだ。

 どちらが生き残るか。どちらが贄となるのか。

 同時に叫ぶ。

『お前が供物を変態に届けろっ!!』

 供物とは東雲。変態とは八雲。届けるというのはすなわち、同じく贄となるの動議である。

 生け贄候補同士の醜い争いが幕を開ける。


 赤獅子が吠え、教師が往なす。二つの脅威が奏でるのは美しき舞だ。必死な様子がお互い以外の情報を遮断しているため、観客の視線になど気づいていない。

「いやはや眼福眼福。たわわな果実が無秩序に揺れるこの光景、まさにエデン。酒のつまみには打ってつけだねぇ」

 八雲は缶ビールを片手に口元を綻ばせる。

「あんた、わかってやっただろ?」

「うん? どうしてだい?」

 言葉通りだと竜一は内心で毒づく。どうしても最後まで言わせたいらしい八雲の余興に付き合うのは非効率だと思いながら、付き合うことにする。

「あんたは自分の話が長く、そして相手が聞きくないと知っていながら、聞かせたときの反応を楽しみたくて話している。性格悪いから」

「酷い言い方だねぇ」

 隙を見ては脱線させようとする八雲のセリフに惑わされず続きを綴る。

「あんたのことをよく知っている夜筱に、しかも直前までおっぱいおっぱい言ってたら、胸の話題になれば話が長引き、なおかつセクハラをせんとする気概が見え隠れしてるんだったら、女としては逃げたくなるのは当然でしょう」

「そうだね。けど竜一くん、そもそも胸の話題になったのは、東雲くんが揺火くんの胸について触れたからだぜ? でなきゃそう簡単におっぱい談義は開けないさ」

「でしょうね」

 八雲が脈絡もなく、たとえ脈絡があって胸の話を始めようと、このなかにいる誰かが必ず断ち切ってくる。その手の話題はよろしくないと知っているからだ。

「でも発信源が被害者予定の人物なら話は別だ。ここには俺と八雲さんとガンマ以外の男はいない。女同士でなら勝手に盛り上がってくれる」

「現にそうだったからねぇ。けれど東雲くんがその話題を出すとは限らないだろう? 先日まで殺し殺される状況にあったわけだし、むしろそっちの方が盛り上がりそうなじゃないか」

「ええ。俺もそこは悩みましたよ」

 そこで竜一は一呼吸挟み、気だるそうに再開する。

「よくよく見てみりゃあこの位置取りこそ、展開を広げるための布石だったんじゃないですか?」

「ほう」

 八雲の目が細まる。興味深いと言いたげな視線は、続けるには居心地が悪い。

「俺たちは自然と相手の全体を捉える癖がある。全貌を把握してないと死ぬことになるのはこっちだ。だけど位置が違えば集中する箇所も変わってくる。今回は胸に視線が行くよう仕組んでたんすよね?」

「仕組んでたって人聞きが悪いなぁ。そもそも僕がなにか仕掛けた証拠があるっていうのかい?」

「もちろんありますよ。このビーチパラソル一式が証拠です」

 そろそろ止めを刺しにかからないと話の終わりが遠ざかっていく。この辺で終止符を打っておくべきだろう。

「普通、他人が用意したものなら遠慮がちになるものだ。現に夜筱たちも控え目に入ってきてた。なのに八雲さんはいきなりどっかり、遠慮なんてなしに我が物顔で居座った。しかも物の配置をしっかり把握してる。つまりこれは八雲さんたちの私物でいいでしょう」

「わからないぜ? 僕たちは一番乗りしたんだ。僕の性格を考慮すれば他人の物だろうと我が物顔で使っちゃうぜ? 位置の把握だって時間があればできる」

「まあ、それは否めません。でもあんたの娘とその友達はどうだ? あんたは凪がこんな豪華な別荘を持ってると知ってたかもしんないすけど、あいつらは知らない。なら当然のこと、それなりの準備はしてくるはずだ」

「僕が事前に言ってるかもしれないだろう?」

「言ってたらかしぎたちがあんな驚かねぇっすよ」

「ん? なんでそこでかしぎくんが出てくるんだい?」

 八雲は予想外と言わんばかりに首を傾げる。この事件の関係者は大人組に加えて翔無関係者のみのはず。

 しかし竜一は証拠を掴んでいる。

「こっちに来る前に会ったんだよ。真宵ちゃんと鏡ちゃんにな」

 竜一が二人に会ったのは全くの偶然だ。水着を買った帰りに出くわしたのである。

 親しいわけではないが、二人はそれなりにお喋りだ。ほぼ初対面の竜一に対しても臆すことなくペラペラ喋りかけてきたくらいだ。

 そこで慰安旅行も話題に上ったのだが、海だのなんだの言うばかりで、別荘が豪華だとは一言も言っていなかったのを記憶している。

 その後、翔無家に遊びに行くと言っていた。冬道がいるかどうかまでは定かではなかったが、藍霧が聞いていればその情報は彼に流れていくはず。驚いたということは、両者にそういった会話はなかったということになる。

「秘密主義であるあんたは驚かせたかったというのと、この計画のために黙ってたんですよね?」

「んー。ご明察ってところだねぇ。それで?」

「まあ、別にビーチパラソル自体が誰のかはどうだっていいんだ。問題なのは、ブルーシートに置かれた物です。俺たちは当たり前のように座り、その正面にはそれぞれが望むものがあった。だけどそれはあったんじゃなくて、あったからそこに座ったんです。位置調整はそれで終わり」

「おいおい、僕がどうやって君たちの望む物を知ったっていうんだい?」

 たしかにそうだ。ここに誰が来るかはわからないのだから、事前に用意するにしてもその品物が不透明だ。

 しかも揺火は初対面。誘導するには無理がある。

「酒と煙草。二十歳未満はお断りのモンですよ。俺と夜筱は煙草を吸うが、俺は酒を飲まない。九十九……東雲の方は大酒豪だ。酒を多く用意しときゃあいい。ゆかりさんとガンマは含めないだろうから用意なし、そっちの冬道はさっさと察すだろうから対応なし――と」

 さすがに疲れてきたのか、竜一はため息をつく。

「そもそも狙いは夜筱と東雲、あわよくば揺火もってところだったんすよね? ものの見事はまりましたね」

「胸の話題を引き出したことについての詳しい推理を聞いてないんだけど?」

「簡単すよ。酔わせりゃ目の前にあるモンに食いつく。そういうわけです」

 これで手打ち。煙草に火を点け、竜一はやりきったとばかりに紫煙を発生させる。

「胸の話題にさえなりゃ簡単なんすよ。あの三人が逃げるように流れを作るだけっすから」

「――大正解だよ、竜一くん」

 愉快そうに八雲は拍手し、竜一を褒め称えるが、その本人にしてみれば嬉しくもなんともない称賛だ。

 わざわざわかってることを長々と推理させられた挙げ句、その結論が揺れる胸を堪能したかったというのだから、誉められてなにを喜べよう。

 こんな盛大に計画を練ってほしい結果がこれなのにも納得がいかない。

 ……いや。八雲がこういう性格だと知っていながら真意を問いただそうとしたのだから、これくらいの反動があってもおかしくはなかった。

「ところでどうだいガンマくん、司くんの乳揺れのほどは」

「師匠と呼んでもいいだろうか?」

「やめろや」

 血迷うガンマにすかさず突っ込みを放つ。司の揺れる胸に釘付けになるガンマの目はおかしな色に染まっている。

 このままでは八雲の変態色に侵食されるのは時間の問題だ。真面目と一途だけが取り柄の黒豆がそうなってしまっては、もうどうしようもない。

「何故だ? このように素晴らしい光景を引き出せる人物を師を呼んで不都合でもあるのか?」

 だめだこいつ。欠片ほど疑念さえ抱いてない。

 そういえば人を見る目は全然なかったなと思い出す。おかげでいろいろと苦労しているのだ。

「お前みてぇな堅物がそうやって不馴れなことしようとすっと爆発すんぞ」

「なんだと!?」

 馬鹿正直に驚いてくれるガンマにあり得ねぇよと内心で呟く。これでは八雲のようになるのは無理だろう。

 それでも弟子入りしようとする黒豆に竜一はため息を漏らす。すべては司に対しての行動なのだろうけれど、すでに毛嫌いされているうえに変態行為を真似しようとしているのだから救いようがない。

 生真面目で思いやりのあるいいやつなのだから報われてほしいと思う反面、あれではどう足掻いても不幸になるだろうと思う自分もいる。

 ガンマみたいなタイプは、どうやら頑張りが空回りするらしい。

 いつか彼の空回りをフォローしてくれる伴侶が現れるのを願うばかりだ。

 不意にぬるりと忍び寄る気配に竜一は煙草を揺らす。

「にゅふふ、りゅーは相変わらずだるそうだにゃー」

「……おい冬道。離れろ暑苦しい」

 どいつもこいつもなんでこう抱きついてくる。弾力の控えめな温かさにうんざりしつつ、表情に出さないまま拘束から逃げる。

「むむ。その冬道って呼び方好きじゃないにゃ。昔みたいにゆりって呼ぶにゃ」

「俺ぁ知り合いは名字でしか呼ばねぇんだ」

「でも弟くんとか東雲とか、八雲さんとかは名前だにゃ」

「いまはしゃあねぇだろ。名字だと被って誰のこと言ってるかわかりゃあしねぇ」

 そのほかにも名前で呼ぶ機会のほうが多くなってきているが、自ら首を締める発言をすることもない。余計なことを口走らないよう黙っておく。

「……りゅー、もういい加減いいんじゃないかにゃ?」

 切なそうに瞳を潤ませるゆりに思わず煙草を落としてしまいそうになる。

 機械音が聞こえそうな動作で竜一はゆりを見やる。

 メイド喫茶で培った演技ではなく、本心からの涙に目を伏せる。

「前にも言ったろ。無理なんだって」

「でもわたし・・・、今回は……!」

 立ち上がり、目の端に滴を浮かべて怒鳴るゆりに、八雲とガンマが驚愕の表情を作った。

 ガンマだけならばまだしも、ゆりの働くメイド喫茶に通い詰める八雲さえ驚くくらいなのだ。よほどのことなのだろう。

 しかしとうの竜一は眉ひとつ動かすことなく、

「無理だ」

 突き放すように告げるのだった。

 ゆりはついに頬に滴を流すと、悔しそうに唇を噛み締め、逃げるようにして走り去っていった。

 さすがの八雲も驚きを隠せなかった。二人の間になにかがあったのは間違いないのだろうけれど、それがなんなのかは知るところではない。

 ゆかりが平静を装っていることから事情は知っているらしい。そもそも六年前の闘争以前から竜一と冬道家に関わりがあるのは、ゆりが仲介の役目を担っていただろうからと推測できる。

 興味はさほどなかったが、先の推理のお返しとばかりに思考をフル回転させる。

 まずゆりは自分のことを『わたし』と言った。『ミー』という一人称は職務上のものである。その姿勢はオフのときも崩さず、戦乱の最中でさえ保っていたほどだ。

 それなのに『わたし』ということは、竜一とかなり親しい仲だということだ。

 そして、いい加減いいのではないかという発言。

 ……なんだかいろいろと繋がってきた。

「はっはーん。なるほどなるほど竜一くん、君も青いねぇ。これならかしぎくんのほうがよっぽど前向きだよ」

 すべてを見透かしたような八雲に、竜一の眼が一瞬だけ紅に染まる。

「あんたに言われたかねぇっすよ」

「なにが言いたいんだい?」

 すっと細まった八雲の瞳から殺気が迸った。

「おれは動けないまま。あんたは止まったままだろ。そんなやつに言われたかねぇって言ってんすよ」

「はっはー竜一くん――殺されたいのかい?」

 お互いが踏み込んだのは地雷や底無し沼などという規模ではない。例えるとすれば怪物同士による天災だ。生半可に踏み込むべきでないとわかっていながら踏み込んだ代償は、お互いの憤怒。

 自業自得と言えばそれまでだが、言わなければ進めない。

 そうしなければならないと理解しているが――やはり現実を突きつけられたときの怒りほど抑えられないものはない。

「お前ら、喧嘩ならよそでやれ。鬱陶しい」

 あくびを噛み殺し眠そうにするゆかりが煩わしげに言う。

「どっちもどっちなんだよ。現状維持にばっかり気を遣って前に進もうとしない。見ててイライラする」

 竜一と八雲は同時に恐怖した。

 ゆかりは基本的に無関心ではあるものの、せっかくの休息にこう近くで殺伐とされては誰だろうと口を挟みたくなる。ましてやうじうじされるのがなによりも嫌いだというのにこんな会話をされれば、どうしても苛立ってしまう。

 超能力も持たず志乃に挑むことからわかるように、ゆかりは霊長類最強の剣豪と称せるだけの実力がある。

 しかもゆかりは短気だ。沸点が低く被害が甚大となれば背筋も凍るというものだ。

 明らかにキレている・・・・・ゆかりの殺意の迸る眼光に恐怖しつつ、二の句を待つ。

「リュウはゆりを追いかけろ。八雲は……埋めるか」

「僕にだけ妙に風当たりが強いところだけれどそこはあえて言及しないでおくからそんなふうに睨むのはやめてくださいお願いします」

 八雲は素早く体制を整えると、ゆかりに向けて土下座する。誰に対しても上をいくことができても、この人にだけは優位に立てない。早々に言い訳を放棄した。

「リュウはさっさと追いかけろ!」

「は、はい!」

 ゆかりに逆らっては命がいくつあっても足りない。砂浜に足をつけ、すでに刻まれた足跡を辿るのだった。


 竜一を見送ることもなく視線を外したゆかりは言葉通り八雲を砂に埋めた。

 これで少しは静かになるだろう。

 海辺では学生組が鬼気迫る表情で走り回っていた。平和になったものだと微笑ましく思いながら、未だ疲労の抜けきらない体を横たえる。

「休息中申し訳ないのだがゆかり殿、お訊きしてもよいだろうか?」

 重低音が斜め上から降ってくる。

「別に構わないよ。どうせリュウとゆりのことだろ?」

「ああ。ずいぶん深い関係のようだが、竜一の態度を見る限りではあの猫娘を避けているようだが」

「……お前は六年前もリュウと一緒だったな」

 六年前。当時の竜一はまだ高校生。ちょうど今回の冬道のような立場だった。

 相違点があるとすれば『組織』と協力体制にあり、『九十九』とは敵対する立場にあったということだ。さらに『九十九』は内部決裂していたため、戦力が分散した状態にあった。

 二大勢力に加えて東雲派による三竦みの闘争。そこに志乃という個人で戦力を覆せる化物がいたのだ。

 しかもそのときの志乃は誰彼構わず皆殺しにしようとしていた。戦いの規模だけでいえば今回を遥かに凌いでいただろう。

 そんななか志乃討伐のために動いていたのが竜一とゆかり、『組織』からはガンマの三人だった。けれどガンマはゆかりとは別行動だった。

『組織』からすれば異能のないゆかりよりも波導を保持する竜一に重要視し、もしものときのための保険として共に動いていたのだ。

 竜一を逃がすためだけの――身代わり。

 志乃と直接戦ったときはちょうど合流してからだったため、ゆかりがそれを知ったのは両手足を失ってからになる。

「ゆりと竜一は恋人同士だったんだよ」

「む? ……む!?」

 薄々感づいていたが、改めて告げられると驚いてしまう。

 ガンマの褐色の肌に怪訝そうに皺が深まる。

「しかしだった、ということは、いまは違うと?」

「まあね。あのときは本当に死にかねなかった。だから別れたんだとさ」

 投げやりなのは睡魔が意識を侵食しているためだ。ゆっくりと落ちてくる瞼には逆らいがたい強制力がある。

「どっちにしろ死んだら同じだよ。恋人なんていう形式があるかないかで抱く感情に変化があるわけじゃないのにね」

「そう、ですね……」

 大切に思う人がいなくなる。ゆかりの言うように、恋人だろうとなかろうと抱く感情は同じだろう。

 歯切れ悪く相槌を打つガンマにゆかりは微笑む。

「けどわからなくはないかな。形式ばったものがあれば、距離が近くなったように感じられる。それだけ感情の揺れ幅は大きくなる。繋がりがわかりやすいからだろうね。リュウはそれを断ち切ってゆりが抱くかもしれない悲しみを小さくしたかったんじゃないかな」

「なるほど」

「でもオレたちは生き残った。ならよりを戻してもいいようなもんだけど、どうして戻さないかわかるか?」

 ガンマは無言で首を横に振る。それも当然だ。生まれてこのかた――そう言えるほど、いままでの人生は争いしかしてこなかったのだから。

「ただのヘタレだからだよ」

 だからガンマは難しい答えが返ってくると思っていたのだろう。

 ゆかりから受け取った解答に口をあんぐりと開けたまま呆然としていた。

 それがまた可笑しくて、ゆかりはくつくつと笑う。

「お前は真面目だね。これはそんな小難しい話じゃないよ。ただの痴話喧嘩。お前も司と付き合うようになったらわかるんじゃないかな」

「それができたらどれだけ嬉しいことか!」

 司と揺火は未だに醜い争いを繰り広げている。とっく元凶は滅せられたというのにそれに気がつかないとは、よほど必死なのだろう。軽い気持ちだった揺火は司に触発されてしまっている。

 二人がもう争う必要がないと気づくまで、まだまだ時間がかかるだろう。

「君たちにはまだ続きがある。せいぜい悩めよ、少年少女たち」

 ゆかりは呟き、ようやく眠りについた。

 それを見届けたガンマはやることもなく呆けていると、あることに気がついた。

「姫路?」

 容姿だけがお嬢様なお転婆がいなくなっていたのである。


     ◇◆◇


 

 

 つい先日、とあるユーザー様にメッセージをいただきました。

 起きたら普段は赤字のつかないマイページに赤字があるものだから、いったい何事だと焦りましたよ。

 内容を読んでみると、氷天の波導騎士のイラストがあるとのことでした。

 ええ。メッセージ以上にびっくりです。眠気がぶっ飛びました。

 なんでもなろうコンのイラスト部門(?)に投稿されたみたいです。

 あるユーザー様に言っていただかなければ気づけませんでしたよ。一言くらい欲しかったところです。いや、すげー嬉しいんですけどね!

 かしぎと真宵のツーショットのようです。

 ふむ。真宵が私のイメージとドンピシャなのですがどうしましょうかね。かしぎもかっけぇっすよ。

 興味のある方はなろうコンのページから見れると思いますので、ぜひとも拝見ください。


 さて。

 久しぶりにあとがきに参上したわけですから、これからの予定を軽く。

 いまのサブタイトルの物語は七話まで続きます。日常パートも挟んだほうがいいと思っていたのですが、どうも苦手です。バトルパートだとぱぱーっと書けるのですが。

 八章はたぶん二十話なるかならないかくらいで締められるはずです。

 次章である人物の物語を完結し、十章から最終章に向けてノンストップでいきたいと思います。

 最長で十四章くらいでまとまる……はずです。

 あとはですね、最終章をどれにしようか悩んでいます。

 考えてはこれじゃないとボツにし、いまでは四通りほど最終章の構成が出来上がっています。

 まあ確実にやらないのは死人がボンボン出る鬱ルートですね。やらないからこそぶっちゃけますが、東雲からつみれ、ゆかりにとわりと使いやすいキャラが脱落していきます。

 残りの三つはやる可能性があるので伏せておきます。

 まあ、こんなところですね。

 では次は年末に!


 

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